和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 ファンアートの紹介をさせて頂きます。

 此方ナマズさんより蜃(第一四章版)です。生態についての考察がかなり興味深いですのでどうぞ一読を。
https://www.pixiv.net/artworks/143338058

 素晴らしい作品、誠に有難うございます。


第二二九話●

 都を遠く離れ、今や辰巳の方角へ四十里余。果てなく続く街道を、大仰な威容を誇る一団が列を成して進んでいた。

 

 重厚な馬車や牛車が軋みを上げる。長槍を担ぐ官軍、険しい面持ちで鞍に跨り辺りを見渡す武士、更には烏帽子を戴く白丁や市女笠に身を隠した女房たちの群れが犇めき続く。その隊列の外縁を、異能の力を秘めた退魔士らとその下僕共が静かな威圧感を放ちながら固めている……。

 

 それは誠に緩慢な行進であった。央土の街道は十全に舗装されているとはいえ、五百余名の行進に、それと同数の牛馬。特に武士共は常在戦場とばかりに全身に大鎧やら当世具足を纏っているとなれば、その歩みが遅々として進まぬのは動かし難い道理であった。

 

「それでも、盗賊共は兎も角、妖共に鉢合わせしないで済むのは大分助かりますが」

 

 騎乗する環の前で背を見せて歩む人影が嘯いた。蛍夜の姫が騎乗する、橘商会より寄付された偉丈夫な青毛大陸馬の手綱を引き立てながら先導するは背丈をキリッと伸ばした細身の黒装束だ。その声音からして若い女である事が分かる。怜悧で生真面目さを感じさせる凛々しい声音だった。

 

 鬼月家下人衆・班長級の仮名を矢萩と呼ばれる彼女を、環が随行人として望んだ最大の理由は、何よりも彼女が女であるという一点に尽きた。身の回りの世話、とりわけ肌着の着替えや肌を晒す場面においては同性の助けが不可欠である。下人としては熟練の業を持ち、なまはげと山姥の騒動を通じて少なからず見知った彼女をこの道中の供に選んだのは、環にとって必然の選択であった。

 

「驚いたな。ここまで危なげないとは。北土とは大違いだ。……僭越ながら、本当に自分如きが無骨者が必要であったので?」

 

 矢萩の言葉を引き継いだのは、野太く逞しい男の声だった。環は視線を右隣へと遣る。

 

 声の主は、その響きに見合う堂々たる体躯をしていたが女同様、素顔は面に隠されていた。個を殺し、辺りを油断なく窺うその所作には、しかし一切の隙がない。

 

 屋島と仮名されるこの男が、鬼月家の下人衆の中でも異質な出自であることを環は知っていた。

 

 調査のために足を踏み入れ、刻の流れが歪んだ『宝落山の迷い家』に囚われ続けていた古の下人。かつて朝熊の家に仕えていた彼が、今こうして環の傍らに控えているのは、その残酷な時の悪戯故である。

 

 唯でさえ百年以上……その上に朝熊という退魔士家は最早存在しなかった。数年前に北土において発生した河童の事変によるものであるとか。本人の体感時間は数ヵ月。しかしその間に屋島という男は己を取り巻くあらゆる要素から永遠に取り残されてしまっていたのだ。天涯孤独の当ての無き漂泊の身の上……。

 

「まあ。かの名門、鬼月家に拾い上げられたのはこの上なき果報であったのでしょうがね」

 

 尤も、残酷過ぎる運命に翻弄された当の屋島の物言いはそんなものであった。

 

「食い扶持も住む所も失せてしまった所で允職……いえ、故家人扱殿に声を掛けられましてね。人手不足で大変だが、どうかと。とんでもない事ですよ。朝熊に仕えていた頃より衣食住全て良い。本当、有難いものでした」

「此方としても有難いものでした。柏木がくたばってくれてしまいましたし。その穴埋めを如何にという時に屋島殿が来てくれましたのは、本当に助かりました」

 

 元より下人衆の中では言葉遣い、上下に厳しい矢萩が屋島に対してそのように格別の敬意を見せるのはそれだけの故あっての事である。出自故に班長級への昇格は見送られたものの教練の指導者として迷い家で生き残り積み重ねた経験は確かに衆全体の練度向上の一助となった。

 

「いやいや、流石鬼月ですよ。あれもこれも、必要な装備を示せば一月せずに皆に行き渡るのは仰天物です。朝熊の時は酷かった。刀を研いで、矢玉を御手製で、服を縫い合わせて使い回しと……ははは。酷い時にはくたばった仲間の物を剥いで洗って仕立て直してなんて事もしましたよ」

 

 屋島は凄惨な経験をさらりと宣うが、その眼光は一瞬たりとも周囲の警戒を解かない。森から鳥が羽ばたいたその刹那、退魔士らを除いて誰よりも早く異変を察知したのは彼であった。その弛まぬ精進がなければ、『迷い家』から生還することなど叶わなかったのだろう。

 

「剥いで、洗って……」

 

 一方で馬上にて屋島の言葉を聞き取って唖然とするのは環だ。額から汗が流れて顔を苦く痙攣するように引き攣らせる。その光景が想像すら出来なかった。骸から剥ぎ取った血濡れの衣服を仕立て直す?そのような罰当たりがあって良いものか……?

 

「其処まで驚く事ではありません。隠行衆に配布されるものや退魔士方の特注の逸品物には劣るとは言え、我らの装束も対妖用に特殊な仕立てではありますので早々使い捨てには出来ません。以前は鬼月家でもある程度使い回しは常習で珍しくはありませんでした」

「以前は?」

「橘商会の懇意で大分物資に余裕が生まれましたので。ここ最近は加えて、予備の装束の支給もあります」

 

 武具に防具、兵糧、呪具、その他道具。現物、あるいは素材がより上質に、より安く豊富に供給されれば当然黒装束もまた嘗てのように貧乏臭く使い回す事はない。流用出来ぬ事もないがやはり傷めば各種付与された効果は落ちるものであるのだから、新品を新調出来るに越した事はない。何なら、洗濯や損壊を思えば予備にもう一枚支給されるのは有難い。

 

「橘商会……御令嬢の事は聞いているよ。確か、以前の上洛で誼が生まれたのだったかな?」

 

 脳裏に過るのは恩人の姿。彼が語り説明する光景。環が鬼月の複雑な関係を学ぶ上で今は亡き恩人から教えられた内容は少なくない割合を占めている。特に橘商会に関しては友の事もあり一際詳しく知る必要があったから猶更だ。

 

 鬼月の二の姫が妖狐の群れより一家を救い出して生まれた誼。邪な仕事を勤めていた頃の狼の友が橘の令嬢に向けた某事件に関与していたらしい事も伝え聞いている。其処で恩人と友が不本意な見知り方をしたとも……大恩と利益から橘商会は鬼月と接近した。そして件の令嬢による働きで大商会は更なる躍進を果たし続けている……。

 

(そう言えば……伴部君との距離も近かったかな?)

 

 彼自身は仕事だったと嘯くが、御令嬢が恩義を深く感じ入っているのだろう事は決して多くはない二人の姿からも察する事が出来た。彼らしいとも思った。自分もそうなのだ。よもや彼が自分にだけ特別扱いという事もあるまい。ならばきっとあの蜂蜜色の髪の御令嬢にもそうなのだろう。商会が鬼月に物資面での支援をしている理由の一つには令嬢の私的な意向もあるのではないか?そして彼はそれを……。

 

「分かってても……乗るんだろうな」

 

 彼の恩人の性格と導かれる行動を想定して思わず口角を上げていた。ある意味入鹿と似た者同士な所がある彼の事だ。ちゃっかりと恩義による人の好意を利益に還元していそうだった。恩義を実利としてがめつく変換して、しかしそれは私利私欲ではなく皆のために。仲間のために。部下のために。きっと矢萩達の語るそれは彼の目論見の成果なのだろうと環は根拠なく思った。

 

(部下思い……いや、仲間思いって所かな?彼らしい)

 

 尤も、下心だけで令嬢に近付いた訳でもないだろう。寧ろ、最初の切っ掛けは欠片もそんな裏なんて無かった筈だ。彼の令嬢と少し言葉を交えただけでも分かる。商人らしく微かな機微に聡く、僅かの仕草から深く気取る性分の娘だ。打算で迫る者には相応の態度で迎えて決して易く騙せるような女ではない。同じ女としてはそれを察する事は出来た。

 

 ……二度と会えなくなってから知る事となった彼の一側面である。果たして自分は彼を如何程まで知っていたのだろうか?

 

「……」

「環様?」

「ん?……いや、ね?」

 

 環の逡巡、その沈黙に気づいた矢萩が怪訝そうに呼びかける。覆面の隙間から射るような視線を感じ、環は取り繕うように愛想笑いを浮かべ、逃げるように景色へと目を転じた。

 

「魅事な景観だね」

「?、はぁ。それは……確かに」

 

 環の言い訳めいた話題逸らしに、しかし矢萩達も肯定するしかない。それは事実であるのだから。

 

 街道から望む絶景は、絵師が目にすればそのまま浮世絵に描き留めたい程に趣深かった。季節は夏を脱ぎ捨て、秋へと移ろっている。青々としていた嶺々は次第に鮮やかな朱や黄金へと衣替えを始めていた。それは命が熟し、実りゆく気配。人の物差しなど矮小に思えるほど、大いなる生命の躍動がそこにはあった。

 

「秋……だね」

「何を当然の事を言っているのやら。だからこその此度の新嘗祭の先触。その随身でしょうに……それとも、食欲の秋とでも語りますか?」

 

 ふと零れた溜息混じりの感想に心底呆れ果てたように応じたのは背後から近寄る騎馬であった。聞き覚えある声に振り返る。女中に御者。護衛の下人を一人ずつ連れた立派な武者姿の姉弟子である。身に纏う、何時ぞやのなまはげの一件の時にも着込んでいた上物の霊防具一式はちょっとした小城並みの価値があるとか……。

 

「どちらかと言うと風流を感じているんだけどね?」

「さて、どうだか……。そろそろ此度の宿となります。足を落として列を整えて下さい。旗や槍は真っ直ぐと立てて、お喋りは止めて下さい。民草の前です。見栄え良くお願いします」

 

 そうして更に隊列の前方に向かう紫の一行……思い出したように振り向いて環に警告する。

 

「馬を驚かせて落馬なんて馬鹿な真似は断じてしないように!帝の使者の護衛がそのような醜態を宿の者共の前で晒すなぞ、大恥なんてものではありませんからね!!」

 

 返答も聞かず、そのままそそくさと逃げるように紫が去り行くのはバツが悪いからだろうか?

 

 ……つい先日の話である。隊列の先陣で御旗を掲げて旅篭町に赴かんとしたその瞬間、蜂に刺された姉弟子の栗毛馬が飛び跳ねたのだ。

 

 文字通りに紫を吹き飛ばしそうな程に暴れ回る栗毛馬。誰もが後ろ脚で蹴り殺されそうで二の足踏み、手も足も出せぬ所に、環の今まさに乗っている青毛馬が狂騒する栗毛馬の傍らに寄り添ってこれを呆気なく宥め賺して見せたのだ。見事な宥め澄まし様であるとその場に居た者らは感服して喝采した程だ。

 

 因みに間一髪助かった紫であるが茫然自失な状態な上で粗相を漏らしてしまった故に、大臣からの命でその時の旅籠町への先駆けの御役目は他に譲る事になった……。

 

「……当て付けですかね?根に持っているのでは?」

「素直じゃないだけさ。心配してくれてるんだよ。同じように油断するなって」

「はぁ」

  

 屋島は釈然としないようであるが環はそれを良く心得ていた。こればかりは普段から共に鍛錬してなければ早々確信出来ぬかも知れない。赤穂紫という姉弟子は公正だし恩義は裏切らぬ人柄だ。含む所あれども悪意あってのものではあるまい。

 

 寧ろ、環はあの一件で一部の者らに馬の名手と見られて些か困り果てている程だ。自分は馬に何ら指示していない。馬が勝手に走ってしまい勝手に場を収めてしまっただけなのだが……。

 

「お前のせいだぞ?反省しなよ?」

『ブルルル……』

 

 青毛馬の鬣を撫でながら囁けば、馬は呑気な鼻鳴らしで応えた。御者を務める矢萩と顔を見合わせる。彼女はただ静かに肩を竦めた。どうやら、馬に反省の色はないらしい。

 

 ……いやまぁ。馬が人の言葉を理解しているなどとは、環も微塵も思ってはいないのだが。

 

「全く、良い性格しているよ」

 

 首筋を撫でながら諦めたように馬に降参する。言い合いしようにも馬相手に口喧嘩なんてやる方が負けである。

 

(そう言えば、この子も元は伴部君のを頂戴したものだったな……)

 

 持主が喪われてしまった所を財産処分の過程で環が賜ったのだ。世話をしていて呑気で気紛れで図太い性格であるように思われたが、案外同じ馬達相手には面倒見は良いのだろうか?元の主とも性格が似通っているのかも知れない……そんな場にそぐわぬ考えが浮かんでしまう。

 

 ……いけないいけない。気が抜け過ぎているのではないか?また失敗するつもりか?環は深く自戒する。

 

「堅牢な砦も蟻の一穴から、というからね」

 

 背後を見る。目を細めて遠目に見れば映る隊列の中頃を進む一際豪奢な車。この一団の代表が乗り入れる大車には幾重もの護衛が侍っている。

 

 ……己はたかがその一角を務めるに過ぎぬにしても、だからといって無責任は許されぬ。幾ら数がいようと誰もやる気がなければ案山子同然だ。一人一人の意識こそが大事なのだ。少なくとも環はそのように思う。

 

「……警戒は我々にお任せを。そのように常に気負いしていては、身体が保ちませんよ?」

「……分かっちゃう?」

「常在戦場とは申しますが、寝床で厠でと四六時中気を抜かぬのは不可能というものです。先ずは必要な場面で全力で力を振るえるようにメリハリを付けるのが先決かと。幸い、この街道はとても治安が良い。あのように護衛も潤沢なれば大臣様がいきなり討たれる事もない。それと赤穂の姫君があのように申しましたが旅籠町は……あのように漸く見えて来た所です」

 

 屋島が指し示す方向を見やる。遠目にやっと浮かび上がる大きな旅籠町。まだこの行進の歩み具合では四分の一刻は掛かるだろう。

 

「我々が辺りを警戒します。……奇襲からは身を以てしても環様を御守り致します。そして下手人を斬り伏せて、我らの骸を越えて大臣の元に駆け着けるが宜しい。それが貴女様の務め。今暫し、緩りと肩の力をお抜き下さいませ」

 

 矢萩と目配せして同意しながら屋島は勧める。それは真っ当に正論だった。何一つとして間違っていない道理に沿った言説であった。冷徹である事を除けば。

 

「……そう、かもね」

 

 そうではない……とは言えない。彼ら彼女らは下人だ。それは仕事の内だろう。死ぬ事もまた務めだ。彼もきっと、それを覚悟して今まで戦って来たのだろう。自分への接し方もまたそれが反映されているのだろう。だが、しかし、だけど……!!

 

『ブルルル……』

「っ!?もう、こいつめ……」

 

 馬は騎手の心象を読み取ると聞いた事がある。不安を抱けば馬も不安になると。しかしこの青毛馬は此方を鞍ごと揺らして来て巫山戯てくれる。生意気で、しかし今の己にとってはそれは救いであった。

 

「屋島。矢萩。少し気を抜くから……頼むよ?」

 

 黙礼による応答を、環は信頼して頼る事にした。捨て駒にするつもりはない。ただ信頼するのだ。彼に対してそう思ったように。頼り、そして鉄火場では己が陣頭に立ち、守るのだ。この力で。

 

「そう。この、力で……」

 

 ふと掌を見る。何の変哲も代わり映えもしない掌に。しかし力を抱けば微かに感じる不穏な感覚。簒奪の権能の気配……だが、毒も容量によれば薬となる筈だ。……御する事さえ出来るのならば。

 

 そして仁徳の御人は語ってくれた。禁忌の知が旧都にあると。あるいは己が力と向き合うための知見が得られるかも知れぬと。その一端を学ぶ機会であるかも知れぬと。

 

 鬼月の誰にも明かしていない、この任を与えられた己の密かな目的……。

 

「……」

 

 きっと隊列のための用意をしているのだろう。遠くからでも匂って来る夕餉の香りが、妙に環には現実離れしているように思われた……。

 

 

 

 

 

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 奉幣使の一団が旧都に至るまでに予定されていた四箇所目の旅籠町。旧都までの行程を残り半分を切った鈴嘉旅籠町はそれ自体が一千もの人口を抱えており、そして平時ですら同じ数の旅人を万全にかつ潤沢に労い受け入れる事が出来た。有事には要害の砦として、更に倍の兵を詰め込む想定すらされている。

 

 鈴嘉旅籠町が幾つもの地方道と合流する要所である事もある。しかしこれに限らずとも旧都にまで向かう街道の旅篭町はどれも街道同様に良く整備されていた。施多旅籠町、甲蛾旅篭町、蛇瑠彌旅籠町……これらは元々は勅使派遣の度に設けられていた臨時の假屋や駅であったもの、あるいは斎宮の頓宮跡地が何時しか常設の街と化したものである。

 

 怠惰とは言えぬだろう。勅使派遣の度に臨時の宿を拵えるのも金が掛かるものだ。時代が進むに連れて規模が肥大化した勅使団を受け入れるには急拵えでは限界がある。そも、上古の昔ならいざ知らず、今や勅使団のみを泊めれば良い訳でもない。特に央土においてはお蔭参りの慣習がある故に身分問わずに参拝に向かう人が途切れる事はない。

 

 お蔭参り。上は貴人から下は路傍の貧民に至るまで。こぞって其処に足を運ぶのはその社が鎮護国を司る故の事である。扶桑の安寧、朝廷の治世、天の恵みを司るのだからそれを敬い参拝するのは道理であるという訳だ。それこそ、荘園の小作人に貴人に仕える奉公人の抜け参りすらも咎められてはならぬ。それどころか積極的に路銀を施す事こそが功徳なり……これを批判し反発し阻害するならば、それは扶桑の朝廷の安寧への不満であり、叛意すら疑われかねぬ不徳の所業とすら見なされた。

 

「尤も、ここまで参拝が蔓延るようになったのは人妖大乱以降の話とも聞きます。余り大きな口では言えませんが……」

 

 湯煙が満ちる中、陽菜は一度広い浴場を見渡して、聞き耳を立てる不届き者がいないか慎重に確認すると湯濡れする己の髪を梳きつつ更に語って見せる。

 

 五百年前、国力を枯渇寸前まで追い込んだ大乱は、人心を徹底的に荒廃させた。戦後も各所にて妖軍の残党が跋扈し、飢饉と疫病が蔓延する末法の世。朝廷は国家統治の支柱を求め、同時に復興のための新たな財政基盤も欲していた。租税という形での民の反発を避け、信仰という名の献金によって。

 

 旧都の神宮は、本来は私幣禁断、すなわち朝廷以外の奉幣を許さぬ厳格な場であった。その規則が緩められたのは、当時の朝廷による実利的な計算によるものだ。戦勝と人界救済に貢献した、鎮護国の社。扶桑人ならばこれに感謝を捧げぬことは不忠不遜である……。

 

 果たして誰が掲げた建前かは知れぬ。あるいは意図的に記録に残さなかったのかも知れぬ。しかしながら結果としてはこの言説が散り散りになった民を掻き集め、道徳の崩壊を堰き止めて、そして扶桑の財政を幾分かでも救い上げたのは事実だ

結果として神宮参拝の伝統を「拵えた」のは、確かに一定の理があったとのだと言わざるを得まい。

 

「……旧都の神聖な印象が一気に台無しになった気がするね?」

「背に腹は代えられぬと言う事でしょう。食わねど爪楊枝というのは御武家の論理です。四方央土を司る朝廷にそんな瘦せ我慢は出来なかったのでしょう」

「無情な……」

 

 あんまりにも実利優先な裏事情を伝えられて、何とも言えぬ表情を浮かべる環。そこへ追い打ちをかけるように背後から矢萩が手桶で温かな湯を環の頭から流した。

 

「んっ……」

 

 濁流のように注がれる湯を浴び、環はそっと目を閉じる。熱を孕んだ滴が、項から肩のなだらかな曲線を描き、豊かさを主張し始めた胸元の丘線をたらたらと伝い、四肢の先から滴り落ちる。肌にへばりついていた旅の埃が、温もりと共に流れ落ちていく……。

 

「はぁ……っ」

 

 思わず零れた吐息を、環は自分でも湿り気を帯びて艶めかしいと思った。同時に感じる容赦ない心地良さ。身体が芯から解れ、微睡みすら覚える感覚。肩の力を抜けば、重心が心持ち前のめりに傾き、湯水に濡れた実りが白く揺れた。

 

「櫛を入れます。動かないで下さい」

 

 矢萩が、洗髪を終えた環の短い髪を丁寧に梳き始める。今宵の旅籠屋は、この貴人の姫君らのために備えられた湯殿を勅使に随行する者らのために貸し切りとしていた。そして今ここにいるのは退魔士として赴いている環と紫、その手の者達だけ。身内ばかり、旅の疲れを解す気の抜ける入浴時。だからこそこうした「ぶっちゃけた話」も口を突いて出てしまう訳である。

 

「垢取りを行います。痛みがあればご指摘を」

「うん。お願い」

 

 心地好さに緩んでいれば、身体を湿らせ終えた矢萩が次の作業を始める。漕豆、惇灰、石鹸を体に塗り糠袋に呉絽で汚れを擦り落していく。環は文字通りに身を委ねた。按摩を兼ねるような巧みな手捌きであった。足を伸ばせば踵の垢は軽石で削っていく。

 

 それらは目上の者に対する当然の世話であった。鈴音も己に仕えて初めの頃は、友にして友誼を育んだ後も公の際にはこのように湯女としての働きはしてくれる。故にこのように至れり尽くせりされる事自体は可笑しくない。驚くとすればそれは……。

 

「上手だね?絶妙な揉み解しだ」

 

 洗体、垢取りと共に行われる巧みな按摩の、その気持ち良さに嘆息しながら環は問うた。最早それで食べていけるのではないかとすら蛍夜の姫は思う程だ。

 

「皆で互いに良く解しあっていますので」

「下人衆内でって事?」

「背中を任せる仲間同士、身体を揉み解して疲れを癒せばそれだけ生き残る芽はありますので」

 

 環の足を己の膝に乗せ、裏まで丁寧に垢を溶かして削りながら、矢萩は淡々と語る。

 

 黒装束を脱ぎ去った彼女の姿は、その鋭い声音とは裏腹にしなやかな女の線を誇っていた。細身ながら、柔らかな肉の下には戦士に相応しい絞り抜かれた筋肉が潜んでいる。普段は馬の尾のように結んでいる黒髪は、今は濡れそぼって白い肩に張り付き、その肌には彼女のこれまでを物語る小さな傷跡が点々と刻まれていた。そして、頬には一際大きな横一文字の痣があって……。

 

「……何か?」

 

 爪鋏で手足の爪を綺麗に整えながらの矢萩の問い掛けだった。首を微かに傾かせながら己をじっと見る上司の意図を訝っているようだった。

 

「いや、ね。……終わったら今度は僕が洗ってあげようか?」

「たかが下人相手に、無用の気遣いで御座います。……脚を広げて貰っても?」

 

 爪を削り終えて、今度は毛切石を手に取っての矢萩の要請に応じて身を任せる。環の内股に躊躇なく身体を潜らせて丁寧に丁寧に仕事に励む矢萩。その様は鈴音を思わせる。真剣そのものだ。

 

 実際、それは死活問題だった。妖は匂いに敏感で、女子供の匂いには尚更敏感だ。故に貴人の姫君は無駄に身を雌臭で匂わせるような代物は可能な限り排する事が古来より奨励されていた。

 

 四凶が都を跋扈した時代苦渋の内に眉すら剃り落とした姫、命懸けで髪を伸ばし続けた皇后すらいる程だ。流石に今では髪や眉を剃る行為は廃れてるがそれ以外の部位については寧ろ今では男女問わずに近い。自分達は整えておいて周りの雑人女中共はそのままにさせるのはいざという時に囮とするためであり、下人衆もまた同様。逆に潜入任務を務める隠行衆や上に気に入られた女中は同じように整える事を許されもする。

 

 環の周囲の事例であれば垢擦りしている陽菜は見るからに真っ更であるし友である女中も認可を貰い整えている側である。逆に言えば同じく友の半狼人は身分もあるがそれ以上に面倒臭いのか自分のそれを好き放題に放置している有様だった。

 

 ……尤も、いざとなれば自分を友達の囮とする意図もあるのかも知れないが。

 

「……常々気になってましたが、鬼月では下人共すら整えるので?」

 

 問うたのは己の女中に洗体して貰い皆よりも一足先に湯槽に身を沈めていた赤穂の武者姫であった。環の処理に注力する矢萩を見て……その後にチラリと環と陽菜も見て一瞬打ちひしがれて……矢萩の下方を見る。それはもう奇麗さっぱりとしていた。允職ならばいざ知らず、たかが班長如きと思えばその様は不自然だった。

 

「それは私も同意見です。……よもや、此度の任のために?」

「いえ。これは以前よりの方針で御座います。衆は常に人手不足ですので、囮・陽動よりも隠密性と生存性をと……その、前任の允職殿が掛け合いまして。皆そのように処置するように認可を受けた次第です」

 

 続く陽菜の言の直ぐ後に答えた矢萩の、しかし最後の方は視線を逸らし渋い表情で言いにくそうになったのは場の空気を予見してのものだったのだろう。実際環は、幾分マシであるが紫も表情を強張らせる。赤穂の女中のみは微かに鼻を鳴らしていた。允職如きの立場で随分と分不相応の上奏をしたものだという風であった。

 

「そう。伴部君が……」

「あれらしいと言えばらしいですね。本当にせせこましい事ばかり思いつく男です」

 

 慈湯の癒しも相まってかしんみりとした表情で環が、紫は悪意のない悪態をついた。恐縮しつつ矢萩は環の処理を終える。

 

「有難う。……矢萩も早く洗って入りなよ」

「……承知」

 

 礼を述べて、足から湯に浸りながらの誘いの言に立場に厳しい矢萩が答えたのはこれが最初の勧めではないからであった。下人如きが分を弁えぬ事とは言え、上の誘いを拒絶し続けるのもまた宜しくない。これは役得というものだ。少なくとも同じく陽菜は付き添いの湯女の名目で主君と共に毎夜湯を楽しんでいた。

 

 何よりも矢萩もまた生真面目な下人である前に乙女ではあったのだ。汗や砂埃を洗い流して旅籠町一の宿の霊効ある霊脈湯(此度は美容・疲労回復・育毛効果有り)をゆるりと味わいたかった。

 

「……ん?けどその話は少し可笑しくないかい?」

「……何がでしょうか?」

 

 己の垢擦りを始めた矢萩に、ふと環は気付いたように問い掛ける。矢萩は少しだけ不安げに応答する。何か誤りを口にしたのではといった口調であった。

 

「いや、大した事じゃないんだ。……ただ、皆剃ってるんだろう?けど伴部君はそのままだったよ?」

「あぁ。その事ですか。允……家人扱殿は自分だけは、と。囮役になれる者が誰もいないのも問題だと。階級的にも上役の側に控える事も多いだろうからとの事でした」

「そういう事か……」

 

 二重の意味で納得した。合理性だけでなく、彼らしさも含めて。上司への言い訳と部下の代わりにという意味合いがあったのだろう。本当に本当に彼らしい……。

 

「コホン! そうでした、姫様方。この旅籠町の名物をご存知ですか? 私が聞き回った所によると……」

 

 重くなりかけた空気を払うように、陽菜が快活に語り出した。彼女は四人の中で最も耳聡く、話し好きであった。環たちは陽菜のこの手の語りが、これまでの旅路でいかに「当たり」であったかを知っていた。陽菜は連弩の如く耳にした話題を語り紡いで行く……。

 

「我が家の者ながら、本当に全く抜け目のない女中ですねぇ……」

「ははは……まぁ、それで僕達も楽しめてるから良いじゃないか。先日の宿場では土産に良い真珠が手に入ったし、その前は勧められた天魚の塩焼が絶品だったしね。三つ前の宿場でも、陽菜の御蔭で芝居を見逃さずに済んだだろう?」

「馬鈴草氏の戯作を原典にした、あの一座ですね。確か題名は……」

 

 環の賛辞に紫が続く。三日前に見た演目の、その題名を思い出そうとする。しかしながら斬新過ぎる題名は直ぐには出て来ない。環も記憶を振り返り思い出そうとして……。

 

「『爺鬼桃鬼死合戦之馬浚・勝手争い候』ではないかと」

「それそれ! いやぁ……あれは凄かったねぇ」

 

 矢萩の言葉に環が深く頷く。どんでん返しの連続。終盤の展開は完全に予測不能で、食い入るように見てしまった。あの一座は環達とは入り違いで都へ赴くというから、帰ったらまた是非見たいものだ。笑いあり涙ありの名作に、環が思いを馳せていると、陽菜がさらに声を弾ませた。

 

「因みに芝居と言えば!聞く所によれば先日此方の街には辻咄の名人が滞在していたとか。旅籠の隅で一語りしてから名物の温泉饅頭を買い食いしている所を見たと聞いています。橘商会が後援する魅雁亭一門の者だそうですよ?あるいは探せばまだ残っているかも……せめて何処かで去り際前に一つ噺でもしていて欲しいのですけれど」

「魅雁亭、昨今話題の新感覚小噺の一門ですか。南蛮風味の演出で好き嫌いが別れるとも聞きますが……陽菜、貴女は本当に耳聡いですね?隠行衆にでも転職したらどうですか?」

「ふふふ。お褒めに預かり光栄で御座います。ですが、私としては姫様の御側仕えが一番ですっ!」 

「面の皮が厚そうですね……」

 

 皮肉が若干込められる主人の言もサラリと受け入れて謝意を示して見せる陽菜。彼女の語りは終わらない。良くも悪くもこの女中の言に皆は否応なく意識を惹きつけられていく。

 

 そして、次々と忙しなく語られて行く話題は、遂にそれの順番がやって来た……。

 

「そうそう……。そうでした。皆様、このような噂話はお聴きでしょうか?」

「噂話……?」

「はい。此度の奉幣使について、隊の者らの間で興味深い話が囁かれているようです。……誰も知らぬ随行の女子が居るとか」

 

  曰く、此度の奉幣使に行進中には姿が見えぬのに行く先々の旅籠町でその姿が目につく謎の女子がいるのだとか。最初に気付いたのは牛車の御者で、市女笠で顔を隠した娘が一団の泊まる宿を彷徨っていたという。迷っているようで声を掛けようとしたらいつの間にかその姿が失せてしまったのだとか。

  

 それだけならばまだ良い。その御者が寝惚けていただけだ。しかしそれが官軍の兵。武士。女中、白丁と目撃談が増えれば話は変わる。行進中には姿は見えぬ。そもそも外行きの出で立ちながら一団で御役目を果たすような服装ではない。それが一団のために仕切られ貸し切られた宿で姿が見えて、しかも本来ならば末端の者が足を踏み入れてはならぬ奥でまで姿を見たという者もいる。そして気付けばあっという間に消えている。まるで狐か狸にでも謀れたかのように……。

 

「……その話、本当ですか?ならばそれは警備に対する一大事なのでは?」

  

 訝る紫の指摘。陽菜は不敵に微笑む。

 

「あくまで噂で御座います。目撃談以外に証拠もなく。……しかし皆の囁く所によればこれはあるいは怨霊の仕業ではないかとか」

「怨霊……」

「はい。出立前に御大臣様は陵墓を幾つか参りましたでしょう?」

「斎宮の……旧都に向かう前にお隠れになった皇女方の、だよね?」

 

 環は思い出す。道中で鬼に食われた。土砂崩れで亡くなった。あるいは流行病で無念にも宮中にて没した旧都に辿り着く前に隠れた斎宮達。一団は道中の安全祈願を乞い願うために旧都に赴く最中に其処に参ったのだ。まさか、それが……?

 

「……はい。無念に亡くなられた皇女方が怨霊となってこの一団に取り憑いているのだとか。そして取り憑かれた一団はまた同じような悲運な運命を……」

「な、なななな、ははっ!そんな馬鹿な!祟りなぞ!?そんな斎宮様の方々があり得ません!そんな不謹慎で罰当たりな噂っ!?」

 

 激しく動揺する紫。冷たさを感じる顔を湯に浸すが、頭の上の阿呆毛は怯えたように萎れている。

 

「……私も噂は聴いています。此方は皇女の方々ではなく御蔭参りの途上で遭難した民草というものでしたが。病に喘ぐ歩き巫女か白拍子か、奇跡を求めて赴いて途上で果てた無念が霊もなったのだとか……」

「ひぃ!!?」

 

 紫が身体を洗う矢萩の言に再度反応したのは心覚え故のものであった。途上で建てられた行き倒れた旅人を弔い塚に黙祷を捧げた覚えがあるのだ。いや、まさか。そんな……?紫は背後を見る。広い浴室は湯気で奥までは良く見えぬ。しかし気配を感じた気がした。果たして気の所為だろうか?

 

「……まぁ、怨霊等と馬鹿馬鹿しい噂ではあります。仮にそうであるとして、護符に御守を携帯しておけば何ら恐ろしき事はないものです」

 

 矢萩は湯を被りながら語る。これは退魔の業界では常識だ。肉を持たぬ魂だけの存在なぞ防具を着込んでいないに等しい。祟ろうにも取り憑こうにも御守の守りに触れればひとたまりもないだろう。霊は怖くない。血肉あり牙に爪に権能ある妖こそが恐ろしいのだ。紫も同意したように首をブンブン縦に振る。阿呆毛も頷く。

 

「……あれ?けど今僕達、御守なんて持ってないよね?」

「…………入浴中くらいは大丈夫かと思います」

 

 環の気付きに、三拍くらい置いての矢萩の返答だった。大丈夫そうでない返答だった。紫はあわわわ……と打ち震える。

 

「ふふふふ。姫様、御安心下さいまし。あくまでも噂でありますから。例年陵墓に祈願してますから此度に限ってよもやそんな事あり得ませんよ」

 

 噂を語った最初の女中は、主君の怯えように噴き出しつつも宥め慰める。実際、話題の種ではあっても陽菜は噂を娯楽以上のものとして見なしてはなかった。

 

「見間違い……だと?」

「はて。どうなのやら……ただ私が直接聞いた者にも見たと語る者もおりますし。あるいは別の可能性もあり得るかと」

「別の可能性?」

 

 環の反芻に小気味良く女中は肯定して推測を語る。

 

「御大臣様もお若い。お盛んな年頃の御方の筈。長旅では溜まるものもあるのでしょう。とは言え神聖な旧都の宮に赴くとなれば公然とはやれぬもの。隠し妻でも連れているのではないでしょうか?だとすれば合点も……」

 

 パシャッ、と。直後に水飛沫の音がした。あるいはそのような気がした。ビクリ、と。陽菜は肩を震わせた。ひぃぇっ!?と間抜けに赤穂の姫は悲鳴を上げて浴槽の中で転んで派手に飛沫を上げる。環も幾分怖じけて、矢萩は身構えて臨戦体制。重々しい静寂……。

 

「……気配は、しませんね」

「……幽霊だから?」

「いえ。流石に霊体でも気の気配はしますが……全くそれらしいものは感じませんね」

 

 身体の彼方此方をまだ泡立てたままに物音の方向に向かう矢萩。何度も何度も見渡して……そして釈然とせぬまま首を傾げる。

 

「天井の水滴でも落ちましたか……?覗きの類ではないでしょうね?」

「いや。まさか……少し過敏になっちゃったかな?その手の話をすると普段気にならない事も気になってしまうものだしさ?もう少し明るい話にしないかい?」

「……姫様、そうですね。これは失礼をば。軽率でした」

 

 環の申し出に反省するように頭を垂れる陽菜。

 

「ま、全く……ははは。お、臆病者が多いですねっ!まぁ、しかかたないでしょう!他に話題を変えてやりましょう、陽菜!何か他に話題ををぉ!?」

 

 パシャン、と湯から起き上がった紫が動揺隠し切れぬ表情で虚勢を張って命じる。巻いていた布は乱れてしまい、顔は真っ青で……何よりも、何か下半身がガクガクして何かに耐えていた。 

 

「……そ、その前に。陽菜?厠に、行きたくありませんか?」

「……是非にお供させて頂きましょう」

 

 潤んだ瞳で頼むように誘う紫の言に、陽菜は恭しく応じた。内心呆れつつも慈しみながら主人より先に湯から立ち上がる。湯水がこの中で一番肉付き良く豊かな身体から流れ落ちていく。紫に手を差し出して外に誘う。

 

「そういう訳で、申し訳ありません。環様、一旦我々は場を」

「分かってるよ。のぼせる前には戻って来て欲しいけどね」

「善処致します。姫様、さぁ……共にお願い致します」

「う"う"う"……仕方ないですね"ぇ""……」

 

 涙目で悔しそうに紫は応じる。皆での芝居打ち。赤穂の名誉、紫の名誉のために女中が恥を受け入れる。陽菜の手を取って共に浴室から退出する……。

 

「矢萩、もう良いよ。身体洗って入りなよ」

「はぁ。……分かりました」

 

 尚も気になるのか、後ろ髪が惹かれるようにその場に暫しまごつくように、幾度か振り向きつつ環の元に戻る。身体の泡を桶の湯で洗い流して、湯手を身体を隠しながら環に会釈しつつ浸っていく。

 

「良い湯だね」

「……はい。全くです」

「暫くは二人きりだから、片意地張らずに気を抜いていてよ。道中では代わりに腑抜けさせて貰うからさ。……ここ、温泉饅頭が名物らしいから後で食べようか?」

「ふふふ。……はい。有り難く」

 

 環の性格ならば矢萩ももう知っている。何ら警戒も陰謀も、裏も気にする必要はないのは立場の弱い下人からすれば気楽ではあった。長らく矢面に立ってくれた允の先達はもういないのだから、尚更だ。

 

 まぁ、裏や狡猾さが無さ過ぎるのはそれはそれで頼れるのか不安にはなるのだけれど……。

 

「……そう言えば何ですが、環様。質問宜しいでしょうか?」

「うん?何かな?」

「いえ、大したものでは無いのですが……」

 

 矢萩は顎に手を触れて首を捻り、一旦逡巡して環にその疑問を口にする。

 

「先程の御言葉。何故環様が故家人扱殿の事について知っているので?」

「…………」

 

 矢萩が本当に不思議そうに尋ねる質問に、環は答える事は出来ずにひたすら沈黙しながら紫達の帰って来るのを願い続ける事になった……。

 

 

 

 

 

「……不用心で御座いますよ。あのような動揺、随身の者らに気付かれたら如何にする積もりで御座いましたか?」 

「え、えっと……。ごめんなさい……」 

「怒ってはおりません。御気持ちは良く分かります故。さぁ今の内に、早くここから退出致しましょう」 

「これ以上目につくと大臣にも迷惑がかかる。もう散歩はお控え下さいませ。宜しいですね?」   

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