和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
ナマズさより、第九章にて出オチした蟹坊主です。因みに駆除された後、泥人形に美味しく頂かれました。
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素晴らしい作品、誠に有難う御座います!
御簾の奥、厚く重ねられた褥のただ中に、その幼き貴人は横たわり、そして悶え続けていた。
「はぁ……はぁ……」
褥の内に唯一人閉じ籠る幼子の吐息は、小鳥の心臓の鼓動よりも尚心細く、酷く疲弊していて弱弱しい。絶え間なく溢れる汗は綾織の着衣を肌に吸い付かせ、幼き身を重く縛り付けている。硝子細工を思わせる華奢な身は、己の熱が充満する御簾の内に蒸せられて水気を失い更に枯れ窶れているように思われた。
「あ、あぁ、ぁ……!?」
それは突如として突発的に。激痛に微睡という名の薄衣を容赦なく剥ぎ取られて、否応にも意識が常世へと引き摺り起こされる。それは目覚めというよりは、灼熱の泥濘に叩き落とされるような心地であった。
その子は思う。まただ、と。また苦しみ続ける事となる、と。
内側に燻る火は、延々と五臓六腑を焼き焦がさんばかりに猛っていた。呼吸を一つ吐き出すごとに、喉の奥に鋭い棘を呑み下したような痛みが走り、胸の内は絶え間なく鳴動を繰り返す。視界は霧に包まれたように朧げで、目蓋の裏には朱の火花が散るかのよう。
何が一番酷いかと言えば、それは苦しみと痛みが弱るその子の混濁した意識を幾度も幾度も絶え間なく覚醒させ続ける事だ。正気を失う事も、意識を失う事も出来ぬ。中途半端に覚醒し続ける意識故にその者に自らの臓が、四肢が、情け容赦なく責め立て続けられている事を分からされ続けるのだ。痛い。苦しい。熱い。
それは正しく、無間地獄……。
「御父様! 何を悠長になさっていますの! 薬師共に鞭を打ってでも!早くあの子を……私の宝を、救わせて下さいまし!」
「分かっておる!しかし……!信用出来る典医共がどれもこれも役に立たぬのだっ!!」
御簾のすぐ外、静寂を裂く男女の怒号が茹だるように熱い鼓膜を打つ。幼き貴人は、僅かに視線を巡らせた。薄絹の向こうに、二つの歪んだ人影が揺れている。
「どいつもこいつも、言い逃ればかり!!薬がない、そのための材料がない等と……!!」
「ならば、誰からでも奪ってくればよろしいでしょう!? 御父様の権勢を以てすれば、容易いことではありませんか!」
「それが叶わぬから、こうして業腹を噛んでおるのだ!」
一際大きな咆哮。
「ぅ……」
幼き主は、喉の奥で小さく、千切れるような悲鳴を漏らした。
今の身には、人の声さえも肌を抉る刃に等しい。だが、外の者たちがその苦痛に気づく様子はなかった。彼らが案じているのは、褥に横たわる「個」ではなく、その器が失われることで瓦解する「権勢」の行く末なのだ。
「……そもそも、薬師共の諌めを退け、無理を押してあれを執り行ったのはどなたですか!あのような、仏をも畏れぬ暴挙!その末路がこれですかっ!?」
「今更、聖人ぶるな! 最後は貴様も納得ずくで頷いたではないか!」
「こんな事になるなんて聞いておりませんでしたわ!」
「……ははっ」
冷笑だった。熱湯のように熱い吐息を漏らしての冷笑。身勝手な、と。熱に浮かされる頭で幼き者は自分でも驚く程に冷ややかに思った。
自分を心配しての憤怒ではない。これは、手に入れた玩具を壊したくない子供の我儘と同じだ。それがその子には分かったのだ。いや、ずっと前から分かり切っていたのだ。
己は傀儡だ。体の良い人形だ。用意された文面に沿って言の葉を紡ぎ、用意された証書に判子を押す事だけが望まれていた。それ以外の何物も選ぶ事も、何物を語る事も、何もかもが許されぬ。永遠に。永劫に。己を無理矢理に建てた皆にとって都合の良い権威。それだけの存在。自分という人物自体には何等も価値もない……。
(だったら……もう、いいかな?)
結局の所、二人共自分を見ているようでいて、結局の所自分を通り越した「椅子」しか見ていないのだ。この苦しみも、熱さも、すべてはこの者たちが望んだ結果。それなのに、蚊帳の外に自分を置いて、醜く責任を擦り付け合っている。
本当に滑稽であった。誰よりも尊いと、耳に胼胝が出来る程聞かされた「自分」の価値が、今この場では露ほども感じられない。それを嘯いていた連中が直ぐ外で自分を完全に放置していた。無力で、無価値……。
……虚空へと、細く白い指を伸ばして見る。
指先は、何かを掴もうとするかのように微かに震え、そして力なく褥へと落ちた。もう、何の力も残っていない。その意志すらも、残っていない……。
「そもそもお前が情けないからこのような……!!」
「何を言ってくれますかっ!?私は十分に務めを果たしましたわ!!後宮でどれだけ必死に!!?それを言うならばあの男が……」
「滅多な事を言うな!?言葉を慎め!」
「まぁ!このような事態を引き起こした御父様らしくもないお言葉な事……!」
次第に遠くに感じられて来た諍う声は、いよいよ罵り合うような様相を見せている。醜悪も行きつく所まで来ているように思われた。責任の押し付け合いだ。幼子にも分かる。散々に言い含められていたから分かる。到底世間で公言出来ぬような内容である。それを放言出来るのはこの部屋が邪気を祓うためという名目で結界が結ばれているからに他ならない。これが己に何も無ければ二人はある事無い事、人を謗る戯言を己に言い聞かせていた事だろう。自分達にとって邪魔な者達の陰口を。悪評を。そして己に口にするように仕向けるのだ。望ましい命を。
「は、ははぁ……あ、は、はぁ……」
笑ってしまう。泣きながら笑ってしまう。幼子はぐちゃぐちゃな笑い声を漏らすしかない。だって、こんなの笑うしかないじゃないか。こんな自分、根底から全てを否定されて仕立てられて道化にされて、肉親としての心配してもらえないなんて………!!
……どうして、自分はこんな身に生まれて来ちゃったんだろう?
あぁ。いっそ、死んでしまいたい。
(死んだら……御父様に会えるのかな?)
朦朧として記憶にない父の事を思う。己が生まれる前後に隠れてしまったという顔も知らぬ人を想う。一体どのような人だったのか、少なくとも周囲から心より尊崇されていたのは間違いなくて、きっと今醜く言い争っている二人よりもずっとマシではあると思いたかった。一人くらい、自分を大切にしてくれる家族が居ても良い筈だ。居て欲しい。
……あぁ。駄目だな。自分は小さいから浄土には行けないや。賽の河原だ。お父様には会えない。残念だ。悔しいな。無念だなぁ。口惜しい。
……はは。まぁ。それでも。ここよりはきっと。
きっと……。
「……失礼をば」
「……っ」
その一言は、決して高圧的ではなかった。しかし、氷の刃を突き立てたような冷ややかさと静謐さが、部屋を支配していた狂乱を瞬時に凍りつかせた。異様な存在感に、その場にいた全員の意識が向けられる。そしてそれは、その子もまた例外ではなかった。三者三様にその者を見やる。
「お、お前は……!?少納言か?一体、どうやって!!?」
「無礼者!ここを何処と心得ますか!!?」
驚愕、そして虚勢。だが、御簾の向こう側に現れた人影は、その怒声を柳に風と受け流しているのが気配で分かった。
「承知しております。ゆえに申し上げました。失礼をば、と」
「言葉の問題では御座いません! 万一、貴様のような者が持ち込んだ穢れによって、御上の御様態に障りがあれば……!」
「此れは異なことを。此度の厄病の元凶たる方々が、左様なことを宣うとは」
慇懃無礼とはこの事であった。余りにも涼やかに紡がれた糾弾の声に、二人が息を呑む。
「典薬寮の者共より、委細聞き及んでおります。……無理なる即位のみならず、あのような事まで。随分と、無茶をなさいましたな」
「……っ! あやつら、不忠の輩め! 少納言、よもや貴様、この儂を、儂らを逆賊とでも疑うか!?」
「違うと?」
「当たり前であろう!たかが薬師共と儂ら、何方がより尊いか言うまでもない!」
「少納言ともあろう御方が卑しき者共の言を信じなさるのかしら!?」
「うむうむ!左様だ。少納言よ。軽挙な言葉は慎め。貴君の母君が我らが縁戚でなければこのような無礼許されぬぞ!?」
「母君に御迷惑をお掛けしたいのですか?立場を弁えなさい!」
身内二人の焦燥。そして糾弾と嘲り。一瞬で反論して見せる様は一周回って惚れ惚れとすらしてしまう。自分にこの者らの血が流れている事を思って、改めて諦念の熱い溜息が漏れる。
「……では、薬師共の言は全て出鱈目である、と?」
「当然でありましょう!少納言、貴方への沙汰、覚悟致しなさい!!」
「承知。申し訳御座いませぬ。これは勇み足の取り越し苦労で御座いましたね。それでは……このような物、用意する必要はなかったようですな」
御簾の向こうで、布が擦れる音がした。
そして次の瞬間、場を満たしたのは圧倒的な「生命」の息吹であった。
「……! お、おぉ!?こ、これは、何だ。この芳香、そして……命の輝きは!?し、少納言っ!?……こ、これ、は?」
「伝を使い方々よりて取り寄せました。此等はその一部。残りは手の者が盗人共を警戒して某所にて保管しております。……尤も、今となっては無用の長物でありますが」
沈黙。そして辛うじて我に返ったような明らかな動揺の声音に、少納言という若い声音から平然として返答が返される。
「中々苦労致しましたが……致し方なし。我が家にて使うとしましょう。幸い、使い道は幾らでも……」
「待て!待て待て!待たれよっ……!!?少納言っ!?私が勘違いしていたっ!貴公の忠君の志は真に立派なものだっ!!」
若い声音に、祖父の声が重なる。必死に呼び止めて宥めようとするそれは大層上ずっていた。幼子は微かに嘲笑の情を覚えた。同時に思う。何が起きているのかと。
「そ、そうでありますわ!少納言?何て素敵な御方でありましょうっ!私、感動致しましたわ!」
母の媚びるような歓喜の声が続いた。二人して闖入者を何処までも賛辞てその関心を得んとする。何処までも卑屈に捲くし立てる。先程までの罵倒の嵐と同じくらいの勢いで。
「……全ては忠君報国のため当然の事。そのような賛辞は過分で御座います」
「はははは、謙遜は良くない。少納言、貴公の行いはまっこと立派。……取り繕うのは止めよう。何が、望みなのだ?」
「……誓約を。朝廷の未来のために」
「朝廷の、未来……」
「左様」
そして御簾の向こうで何かが交わされた。影達が集まりて何やら囁き合う。己を蚊帳の外して行われる勝手。何時もの事だ。果たして何が取り交わされたのだろうか?祖父と母の機嫌は次第に有頂天となる。
……気付けば、御簾の直ぐ傍にその影が立っていた。手を結んで頭を垂れている。
「今少し、お待ち下さいませ。煎薬の用意を急がせます。直ぐに、良くなる筈で御座います」
それはやはり、淡々とした抑揚のない怜悧な声音。ここまで来たという事は、無事に約束は結ばれたという事であった。自分だけ置いてきぼりにした約束だが。確か……少納言、だったか?
「……だ、れ?」
「臣で御座います」
「……嘘つき」
紡がれた呟きは嫌味だった。前後の話から朧気に理解出来た。その上での糾弾だった。このまま死なせてくれたら良かったのに。どうして臣だなんて嘘を言うのだろう?どうせ、こいつも同じだろうに。どうせ自分自身の事なんてどうでも良い癖に。祖父達に恩を売れたらそれでいい癖に……。
「嘘つき……本当は、どうでもいい……癖に」
「……申し訳御座いません。御父君よりて見守るように仰せつかっておりましたが、立場故に力及ばず」
「……御父様?」
卑屈に煽てて媚びを売られると思っていたから、出て来た言葉に幼子は呆然とする。予想もしてなかった返答だった。父が?父から命じられた?この者は、一体……?
「あなたは……だぁ、れ?」
再度の問い。男は静かに、そして恭しく、禁じられた御簾の内へと足を踏み入れて……。
「……ん、んぅ……」
ガタゴトという律動。現実の衝撃が、幼き貴人を過去の夢から引き剥がした。
「ゆ、め……? ふあぁ……」
半身をけだるげ起こし、睡魔の名残を払うように眼を擦る。ふと気づけば、手の甲に伝わる湿り気。口元を拭えば、そこには情けなくも溢れた涎の跡……。
「うぇ……」
不快な揺れに眉を潜めつつも、小さな口を開けて再度、盛大に欠伸をした。飾らない素の己を晒し出す。
「お目覚めになられましたか」
「う、うん……」
そして呼び掛けに唖然として見上げた。見上げた先にいたのは、あの夢の男。一層凛々しく背丈を伸ばした臣下の、鋭くも僅かに柔らかさも感じる眼差し。あるいは、それは思い込みの幻想かも知れないが……少なくとも見上げる側はそれを信じていたから一切の警戒なく応じていた。
「……あぅ?」
……遅れての認識。それを目の当たりにして事態に気付いてしまった幼き貴人は途端に顔を青くする。
視線の先に映るのは自分の頭が乗っていた、男の装束の膝の部分。そこには、見るも無惨な涎の染みが広がっている。犯人は、余りにも明らかであった。
「あ、うぁ……」
どうしようもない程に汚れてしまった装束に言葉も出ない。窺うように今一度視線を上向かせる。淡々と、普段通りの臣……。
「この車には防音の結界を結んでおりますが、振動は消せませぬ故余り動くと疑念を向けられます。何卒お控え下さいませ」
臣下は、装束の汚れなど気にする素振りも見せず、竹筒から茶を湯呑へと注いでいく。
「眠気覚ましで御座います。苦味にはお気をつけを」
「……うん」
差し出された茶を、両手で包むようにして受け取る。
啜れば、言われた通り、顔を顰めたくなるほどの苦味。だがその苦さが、かつて全身を焼いたあの熱に比べれば、どれほど愛おしいものか……けどやはり苦い。
「うぇ。……うん?」
飲み終えると同時に、今度は小さな巾着が差し出された。中から覗くのはまるで琥珀のような輝き。思わず見惚れる……。
「……これは?」
「金柑と蜂蜜の飴玉です。どうぞお口直しに」
「……ふぅん」
そしてじっと、貴人はその顔を見上げる。
冷徹で、何を考えているか悟らせぬ面。世の者は彼を何と呼び畏れるかは知っている。同時に自分だけは知っている。この男が差し出すものに、毒など混じっているはずがないことを。
実の親ですら信じられぬ宮中で、この膝の上だけが、唯一の安息所で……。
「……うん、甘い」
躊躇なく手を伸ばして、飴を頬張れば金柑の爽やかな香りが鼻に抜ける。苦みが溶けていき、安心感が口一杯に広がっていく。
「御負担をお掛け致します。もう間もなくです」
「……このまま、運ばれていけば、よいの?」
「御意。不敬極まる振る舞い、平にご容赦を」
男が頭を垂れる。かつて、あの病床で誓った時と同じように。
「ふぅん……」
無礼な申し出に、しかし幼き貴人は、屈託なく微笑んだ。
自分は傀儡だ。誰かの望むままに、言の葉を紡ぎ、印を捺すだけの木偶でしかない。今もあの時と変わらない。皆の傀儡だ。
だが、もしその糸を引くのがこの男であるならば、悪くない。そして今この場にて、この旅にて、己を傀儡に出来るのは唯一この男だけであった。それは……とても嬉しい事にも思えた。
「よきにはからえ。……ねえ、もう一度、膝を。……よいな?」
「……御意のままに」
少しだけ幼さを残した、甘えるような口調。膝の上に再び頭を預け、子猫のように丸くなる。
「ん。……苦しゅうない」
大仰に宣って、その貴人は満足げに瞳を閉じた。その口元は何処までも安心し切ったが浮かんでいた。
ガタゴトと揺される車の内は、しかし奥の御簾の内よりはよっぽど良くて……。
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扶桑が央土・威瀬邦のその東端。海に突き出した半島の険しき一角を、扶桑の人々は畏敬を込めて『旧都』と呼ぶ。
東は逆巻く怒濤、西は峻険な嶺々と幾筋もの急流に遮られたその地は、天より俯瞰すれば、現世から切り離された孤島の如くにも見えよう。古き伝承によれば、この閉ざされた地形こそが数多の魑魅魍魎の目を欺き、最古の民を慈しむ揺り籠となった。神格たる大妖らが天を焼き地を穿ち、相争う地獄のごとき央土にあって、ここは人が辛うじて命を繋ぎ、世を営むことの叶う数少ない聖域であったという。
奉幣使の一団が都を立ちてより、早や五日が経た。五つの宿場を通り抜け、穢れを落とすべく六つの界川を渡り行く。平穏な今世なればこその五日の旅路であるが、上古の時代なれば、これこそ命を賭した果てなき道であったに違いない。何を隠そう、当時行商にて各地を渡り歩いていた初代の帝その人が若き日にその苦難については束になる程に日々の日記に書き記している。
その一行が登り詰めた小高い丘もまた、かつては人を拒む要害であった。今は踏み固められた道も、往時は巨木が鬱蒼と茂り、妖鬼すら登頂を厭うたであろう。その険しさこそが、先に広がる「人の大地」を隠し通した死角、大地の恩恵であった。
「よいっ、しょっと!」
神宮への先触れの大役を担う蛍夜の姫……蛍夜環は、難所を登り切った安堵とともに、眼下に広がる情景を目の当たりにして、思わず馬上から嘆息した。
「これが……」
強く鼻孔を突くのは、山育ちの環には馴染みのない、だがどこか懐かしさも思わせる潮と磯の香り。威瀬の地に足を踏み入れた時から微かに漂っていたその匂いに、今は一層強く、しかし驚くほど身が馴染んでいくのを感じる。だが、嗅覚以上に圧倒されたのは、その視界であった。
環は、生まれて初めて「海」を見た。
書物にて、池や湖にも似た、地平の先まで続く水の世界であるとは聞き及んでいた。それこそ橘商会が舶来の貿易を営んでいる事も知っていたからその広さについても認識していた。山の真水とは異なり、辛く塩味のする水。それが延々に……頭では理解していたつもりであったが、実感を伴わぬ知識は、目の前の圧倒的な蒼を前にして霧散してしまった。
海より吹く風が、その群青色の短髪を弄ぶように揺らす。眼前の陽光を跳ね返す水面は、幾千の金更紗を敷き詰めたごとく煌めいていた。
「全く、何を呆けているのですやら……」
「だって……海なんだよ?僕、初めて見た……紫さんは、驚かないんだね?」
「地元は海にも近いですから。少し遠出すれば港町にも行きつきます。正直この程度なら幼い頃に見慣れていますよ」
背後から追いついた姉弟子、赤穂紫は、感動に身を浸す環とは対照的に、酷く退屈そうに果てなき海原を一瞥した。
「確か……旧都に参るには先ずは海辺の社に向かう必要があるんだっけ?」
「左様。この地全体を縛る巨大な呪……一種の結界術によるものです。全方位を鉄壁に守るのではなく、敢えて入り口を限定し、訪れる者に定められた手順を強いる……。伝え聞くところによれば、かの海社を経ねば、如何なる術を以てしても神宮へは辿り着けぬとか」
「そしてその誘導した手順・道程に沿うようにして、とっておきの罠を仕掛けている……って訳なんだね?」
「正解です」
環の指摘に、紫は不敵な笑みを浮かべて海辺を見据えた。
異様にも静かな波間に突き出した一対の「岩戸」。注連縄で結ばれたその巨岩が放つ気配は……唯人ならばいざ知らず、気に聡い者であれば分かろう。決して歓迎を意味するものではない。環は魂を引きずり込まれるような寒気を覚えた。
「ここから更に浅隈社、それに申卑鼓社に至る必要があります。有象無象が外宮に参拝するだけならば必要ありませんが斎宮に内宮に至るならばこの二つの道程は欠かせません」
それは世に広く知られる事のない、朝廷が仕掛けた悪辣なる迷宮であった。
多くの参拝者を受け入れる外宮は、しかし神宮全体から見た場合所詮は銭と信仰を集めるための上物であり、大事な中身を守るための卵の殻のようなものだ。大半の参拝者にとって浅隈社や申卑鼓社を巡る道程は殆ど知られていない。朝廷も喧伝していない。そして結界術の結果として仮に海社の罠を突破しても深く調べなければその道程を知る事は叶わず、外宮を荒らしてそれきり先には進めぬという訳である。狼藉者は再び海社からその道程を始めねばならぬ。そして当然他の道程に罠が無く、その道程の手順は季節や節位ごとに変化する。
……朝廷の遣いの規模が時代と共に膨らんだ一因でもある。追跡者を惑わすべく、一行は道中で次々と分岐し、其々が異なる道程を辿る。環たちの他にも「先触れ」は放たれており、誰が真の役目を持っているのか、本人たちすら神宮に辿り着くまでは分からぬ仕組みであった。
「さぁ。早く行きますよ。神宮は目先でも道程はまだまだあります。早く巡り切り神宮に辿り着かねば」
「待ってよ。お互い、徒の連れがいるんだからさ。……孫六も、無理そうなら申し出た方が良いよ?」
先へ急ごうとする紫を宥め、環は傍らの下人二人を一瞥する。そしてそのまま紫の傍らに控えるその者に呼び掛けた。
普段見知ってるよりも幾分上等な、しかし下僕としての分を弁えた装束だった。しかしながら猫背気味な姿勢は変わらず、頭巾を被る男は若干卑屈げに微笑む。
「貴女が言えた義理ですか?全く……馬の躾はちゃんとして下さい。馬の名手でしょう?」
「だから違うってぇ……」
紫の棘のある物言いに、環は弁明しようにも弁明のしようがなかった。一行で一部で囁かれる名手の噂は嘘八百であるが、躾はちゃんとしろという文句は本当にその通りだった。
「孫六。本当に御免ね?後で賠償するからさ?」
「い、いえ……ははは。これくらいは。へへ、お気になさらず」
環は誠心誠意孫六に謝罪する。故あっての事だ。孫六が頭巾を被る理由であった。
事の起こりは先日の夜。厩にて馬共に馬草を与えていた孫六の頭を、あろう事か環の青毛馬が嚙みついたのだ。
バクリ、と髪を噛み千切られた孫六の悲鳴が夜の闇を裂いた。手当ての際、あまりに見栄えが悪くなった髪を孫六は思い切り良く自ら残りを伐採し、今は見事な坊主頭となってしまっている。環は惨劇を引き起こした目の前の青毛の鬣を睨みつけるが、当の馬は何処吹く風で、鼻先を鳴らしてそっぽを向くばかり……所詮畜生と分かっていても、悪びれる素振りも見えないと腹も立つ。
「こいつ……」
「環様、いえいえ……良いのです。幸い、綺麗に噛み千切ってくれましたので其処までは。頭皮が捲れるなんて事もありませんでしたし」
「……流石にその時はこれを馬刺にしてるよ」
ペシっと馬の首を叩く。矢萩が馬が暴れる事を恐れたが、当の馬は環を一瞥するのみだった。あるいは軽く見られているのか……。
「馬に当って八つ当たりは止めた方が良いですよ。……それにお前も、良くも勝手に剃ってくれましたね?正面の髪を抉られただけならばまだ幾らでもやり様はあったものを。そんな見栄えの悪い鶴禿ではもう頭巾被せて誤魔化すしかなくなったではないですか。軽率な事を」
「でしたら他の者に任せて下されば……」
「二度もそんな恥を晒せますか!!」
孫六の口答えに紫は叱責する。一度自分が粗相で旅籠町の先触を解任されたのだ。其処に本命の神宮の、外宮とは言え再びの先触の御役目である。望外の配慮といって良い。赤穂の家の名誉のために、ここに己ではないとは言えまた問題があったから付き人を入れ替える等と言うのは気不味いなんてものじゃない。それならば禿に頭巾を被せた方が幾分マシであった。
「も、申し訳ございませぬ……」
「姫様、お気持ちは分かりますが、どうかお鎮まりを……」
へこへこと腰を折る孫六を不憫に思ったのか、お付きの陽菜が主君を宥める。宥めてから孫六を横目に見て笠の陰から小さく首を振った。
「分かっています。分かっています……そうです。深呼吸、深呼吸。気を落ち着かせるための呼吸法です。ひっ、ひっ、ふぅー。ひっ、ひっ、ふぅー……」
「何か違う気もするけど……」
紫の呼吸法が微妙に違ってる気がしなくもないが、環は大声で指摘はしない。それこそ恥の上塗りだ。この年下の姉弟子はこういう場合指摘すると失敗するし拗れる事を流石に環も理解していた。要は結果である。紫が落ち着く事が出来れば多少方法が違って様が問題はないのだ。
「よし、これで良いっ!さぁ、皆の者共、早く行きますよ!だらだらとしていたら後ろに追いつかれますからね!」
「ひ、姫様……!お待ちを!疾走ると、汗が……!?」
「ちゃんと入界する前に一度休ませてあげます!今は刻が最優先です!」
紫が馬の足を速める。徒歩の陽菜に配慮した速足未満の速度ではあるが、それでも歩いて追う者にはなかなかの重労働であった。
「……環様、紫様の言う通り。幾分か足を速めた方が良いかと。神宮側に出迎えの用意をさせる必要もありましょう」
「……分かったよ。二人は、大丈夫?」
「霊力による脚力強化がありますので。無くとも多少走る程度で疲れ果てる程我々は柔に鍛えてはおりません」
屋島の助言に頷いての環の確認の言葉に矢萩は淡々と応じた。事実をただ語るような様は、しかしだからこそ安心出来た。矢萩はその場の体面のために無理を騙る人物ではなかった。
「分かった。じゃあ……行こうか?」
気まぐれで不遜な青毛馬は、騎手の決意を察したのか、今度は驚くほど素直に地を蹴り、一行を旧都の深淵へと誘っていった。
本当に食えない馬であった……。
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「見て見て、あれあれ。あの行列!魅事なものよねぇ」
「相変わらずの豪奢な事。都の方々の装いは、いつ見ても絢爛よねぇ」
旧都を構成する数多の社のうち、最果ての外縁に位置する一社。その門前で箒を手に語り合うのは、地元の名家より出仕する仮巫女達であった。
瀧肚社。かつて帝統の巫女が、樹蟆神を欺き封じたと伝わる辺鄙な古社である。見晴らしの良い山上に鎮座し、格式こそ旧都百二十五社に名を連ねる伝統ある場所だが、彼女らにとっては、活気も出会いもない、退屈の極致に他ならなかった。
仮巫女……最早それは巫女とは名ばかりである。何らも力もなく、所詮は経歴に箔を付けるためだけの代替品。神職を継ぐ意志など端からなく、ただ家格を飾る肩書きに過ぎない。彼女らからすれば、せめて外宮にでも配されていれば、日々押し寄せる名門の公家や武家、退魔士ら、あるいは豪商に地主でも良い。良き出会いの一つや二つあり得たろうに……。
「聞いて?此度の奉幣使は……」
「勿論ですとも。彼の右大臣様がお越し下さるのでしょう?はぁ、素敵よねぇ……」
右大臣の名は、この旧都の隅々にまで届いている。
若くして朝廷の頂に手をかけ、風流を解し、詩歌にも秀でた美丈夫。その上、政の才も敏腕と聞けば、女人らが憧れを抱かぬはずもない。側室、いや、端女でも構わない。だが、そもそも相える機会すらなければ、見初められる夢すら見られぬのだ。二人は深い嘆息を漏らし、内宮や斎宮に仕える同僚たちへの嫉妬を募らせる……。
「……?」
「あら?どうしたの?」
ふと一人が背後を振り返り、何度も首を傾げた。
「いえ、何か……気のせいかしら。誰かに、見つめられていたような」
「まあ、何それ。冗談はやめて」
「違うの、本当に……。……あら?」
感じた違和感はあまりに曖昧で、巫女は所在なげに辺りを見渡しては、やはり首を捻る。
「幽霊の類ではないでしょうね?」
「そんな、まさか……。まさか、ね?御守があるでしょう?」
あるいは、妖か。
「……」
「……」
二人して沈黙。重苦しい沈黙……。
ざわざわと社を囲む林が鳴り、雲が陽を遮って、境内が急速に翳り始める。奇妙で重苦しい気配が、彼女たちの背筋に薄寒い粟を立たせた。
……同時にむず痒く疼くような感触にも苛まれる。
「……ねえ。外はもういいわ、奥の掃除にしましょう?」
「さ、賛成っ!」
二人は互いに目配せし、逃げるようにその場を退散した。結界に守られた「内」へと、そそくさと駆け込んでいく……。
「……」
寺社の門前の人影も、人の気配も消え去った。
「そして誰も居なくなった。……なんてな?」
失せるまでひたすらに不可視の這竜に跨り潜んでいた俺は、漸く先程まで仮巫女共の屯していたその場に辿り着く。葵から借り受けた式が一つは、己自身が不可視であり、触れる物にもその恩恵を与える。因みに第三者から見れば纏めて消えてるが騎乗する者から見たら自分だけが空中にて間抜けにガニ股で浮いてるように見えて少し気恥ずかしくなるものだった。
『無用な発言は御法度ですよ。……流石に油断し過ぎでは?ここは外縁とは言え旧都、神々共の埋葬地ですよ?』
肩に乗る蜂鳥が指摘する。口調だけで分かる、あからさまな苦言だった。
「……分かってる、と言いたいが流石にこれだけやったら早々気付けんだろ?」
俺は肩に乗る助言者に向けて首に下げた勾玉に羽織る外套を見せ付けて宣って見せる。
騎乗する避役の権能、首に下げる勾玉による盲点への雲隠れ。そして認識阻害の外套、そして隠行術。加えるならばアレやコレやと押し付けられたその他有象無象の呪具に掛けられた呪いの数々、積み重なり積み重なったそれは俺という存在を徹底的に秘匿していた。今なら目の前で……。
「目の前で吠えながら裸踊りしても気付かれまい、そんな所かな?」
「……すみません。調子乗ってました」
背後から回り込んで来た狸様に喉元に苦無を突き付けられた俺は速攻で謝罪した。というか言おうとした事を完全に読まれていた。恥ずかしい。
『……流石前任陰陽寮頭にして歴代帝の耳目、魅事な探知で御座います』
肩に乗る蜂鳥は淡々としつつも惜しみなき賞賛。それは敢えてのベタ褒めであるように思われた。褒めながら身内に嫌がらせをしているようにも聴こえた。
「松重の孫娘殿は実に素直な事だな。祖父とは大違いだ」
『そうでしょうとも。御祖父様はもう歳ですので。痴呆が進み日々意固地が強まっております。本当に困ったものです』
「小僧の頃から頑固だったからな。歳を取ればそれは酷いものであろうさ。婆の私が言えた義理ではないがな!」
「お話中すみませんがそろそろ苦無を退かせて貰っても……?」
ははは、と快活に笑いながら、苦無が喉から離れていく。
狸殿は数歩下がり、俺が振り向く余地を作った。気配が瞬時に遠のいたように感じたのは、彼女の隠密技術による錯覚だろう。俺は振り返ってそれを目の当たりにする。
色々ギリギリでパツパツで娼婦堕ちしそうな所を除けば機能美そのものな忍者地味た装束に身を包むその人を俺は知っている。目の前にて視認しているが妙に存在感が薄かった。距離感も、輪郭も、声も認識し難い。分かるようで分からぬ実に奇妙な感触だった。
人外染みて来た鋭敏な五感故に分かるのか、あるいは相手が俺が認識出来るまで隠行を落としてるのか……恐らくその両方だった。
「では、約束通りにご案内下さるので?」
面会を許諾した右大臣が提案したのが、この社であった。ここには、旧都を守護する迷宮の結界の順序を飛び越え、内奥へと至る「裏の道」が隠されている。
「うむ。とは言え正確な順序を晒す訳には行かないからな。目隠しをして貰う事になる。その……乗っているのは式妖かな?それは置いていくように」
「承知。……此方は見えないので?」
前任陰陽寮頭の反応に俺は思わず尋ねていた。奇妙な話に思えたのだ。己自身の権能のみで隠密している葵の式妖と違い、俺は其処に数多の呪具、数多の呪いの加護を受けていた筈である。それが、当の狸様は俺を認識してその背後に這い寄る事が出来たのに、逆に避役の認識に手間取っている等と……。
「いや。実を言うとな。薄っすらとしか分からんし、こうして会話してるのも相当耳を澄ましているんだ。連れて行く立場としては、その過剰な隠形を幾らかでも緩和してくれたら嬉しいんだがな?」
「……連行される身で致し方ありませんね」
そして俺は式妖……澄影の背から降りて、首に下げていた勾玉もひた隠す。此方を目を細めて疲れたように凝視していた我妻は漸く眉間の皺を和らげる。
「これで幾分見やすくなったな。老眼だと中々、な?」
「老眼ですか。その老眼に見抜かれたとは……それこそ形無しですね」
「いや、実の所、私がお前さんを捉えたのは『目』ではないのだ」
「目じゃ、ない……?」
「うーむ……」
意外な返答に愕然としていると、当の我妻殿は、腕を組んで深く唸り、俺を上から下まで執拗に眺め始めた。いや、上・下・下くらいな割合で視線を泳がせる。何だ……?
「……そうだ、な。うん。それが良い。お前さんに一つ、老婆心から忠告してやろう」
狸は覚悟を決めたような顔で、俺をじっと睨み据えた。
「……忠告、ですか?一体何を?」
これから面会しにいく相手に対する態度であろうか?それともこの因子の危険性に向けたものだろうか?あるいは……旧都そのものの仕掛けの類に対してか?ううむ、分からぬ……。
「いや、そういうものでは無くてな。……あぁ、うん。そうだな。先程の仮巫女共があのまま何処に行ったか分かるか?」
「はぁ?何ですか、その質問は……」
「恐らく厠だ」
「えっ?」
その発言の意図を測りかねて俺は曖昧に首を傾げる。狸は、元陰陽寮頭は頭を抱えて呆れ果てる。
「分かった。言い換えよう。何故私が徹底的に隠形されているお前様を見抜けたと思う?」
「……経験、ですかね?」
「……よし、分かった。迂遠な私が悪かった。少々失礼だがここははっきり教えてやった方が良いな」
そして心底呆れ果てた狸は此方を見据えた。そして、端的にかつ明確にそれを指摘したのだ。即ち……。
「お前さん。雄種臭いし雌汁臭いぞ」
「……」
それは、本当に本当に酷い愚弄だった。
こんな事が許されて良いのか……?