和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 製作して頂けたファンアートの紹介をさせて頂きます。

 此方ナマズさんよりべとべとさん……ではなく、爬戸蜚屠蚕です。因みにこの子らは育成次第で割と人に懐く設定だったり。
https://www.pixiv.net/artworks/146410860

 素晴らしい作品、誠に有難う御座います!




第二三五話●

 それはこの上なく甘い甘い、正しく甘美といえる音色であった。聴き入る者を魅了する管弦音であった。其処に彼女の澄み切った低く柔らかい声音の唄が合わされば、琵琶楽は音の至福、耳の法悦へと昇華する。慈味のような、音の甘露……。

 

千秋楽に民を撫で、万歳楽には命延ぶ、悪鬼退散諸縁吉祥、家内安全大吉利とぞ……いと祈りけり……

 

 鈴の音のように諳んじ終えて、そして最期には締め括りの御約束に従い琵琶の弦を強く掻き鳴らし、盲目の彼女は……毬はそれを歌い切る。奏で終えると共に額に一筋の汗が垂れる

 

 一瞬の沈黙、一拍置いてから彼女は四方からの拍手に包まれた。息を整えて、淑やかに毬は聴衆らに向けて恭しく頭を垂れて謝意を示す。

 

 都における赤穂家別邸。その庭先の縁側にての盲目の少女の演奏はこれで続けて四曲目である。『荒炎経』は火事の厄災を退け竈祓いをして、家の安寧と繁栄を乞い願う歌であった。琵琶法師達の持ち歌としては定番中の定番である。故に、聴衆からも聴き慣れておりその技量の良し悪しが如実に現れる類の歌でもあった。万雷の拍手が彼ら彼女らの毬の腕前への評価をそのまま示していた。

 

 見事……唯唯魅事という他あるまい。

 

「いやはや、やっぱり良い詠い方だねぇ。何度聴いても魅入ってしまうよ」

「本職並み……いや、それ以上じゃないか?少なくとも俺はお前さんの方が好みだな」

「ははは、そりゃあ剥げた爺さんよりも年頃の娘さんの方が見栄えが良いからだろう?」

「冗談は止してくれよ。……この嬢ちゃんの声音が甘いのは否定しないがな!」

 

 そして囲む者らの内で男衆らが、隠し切れぬ熱を帯びた眼差しを毬に向ける。穢れを知らぬ幼い面立ちと、不思議そうに首を傾げる無垢な仕草。それらが男達の情動を際限なく擽る。だが、彼らの視線をより深く捕らえて離さないのは、幼い顔立ちに不釣り合いなほど豊かな実りであった。無警戒に揺れるその柔らかな肉感は、彼女の無知故に尚更倒錯的な毒となって、男達の理性をどうしようもなくじわりと蝕んでいく……。

 

「うわ、きもい。最低ね」

「しっ、下品な視線を送るんじゃありません!」

「毬ちゃん、ほらお茶ですよ。喉を潤しましょう?」

 

 掣肘するかのようにあからさまに女中達が蔑みの声を男衆へ投げつけ、楯となるように毬を庇う。ジロリと睨んで警告する。それはある意味で特異な光景であった。

 

 ……盲目で、病弱で、無力。本来であれば周囲の身勝手と悪意に潰されていても可笑しくない、脆き弱者である。家に長年仕える身でもない余所者であれば尚更である。

 

 元より赤穂家がおおらかであるのも理由だろう。其処に彼女の放つ甘い砂糖菓子のような調べと、誰をも拒まぬ小動物じみた素直さ、そして何よりも紫から彼女とその兄を預けられた陽菜によるそれとない手回し、それが相互に作用して今がある。彼女は何時しかこの屋敷中の庇護欲を無自覚に掌握していた。

 

 今や彼女は、誰からも愛され、守られるべき「屋敷の華」としてそこに在る。男たちの視線に潜む濁りも、女衆の鉄壁の守りによって、良識の一線を越えさせぬよう厳重に管理されている。そして男達もまたそれを受け入れつつ愛でていた

 

「は、はい。有難う御座いますっ!」

 

 そんな事情を知ってた知らずか、毬は健気に喜び、虚空をさ迷う手で湯呑を探り当てる。両手でそれを抱え、ゴクゴクと飲み干す様は、何処か背徳的なまでの艶を帯びていた。口元からこぼれ落ちた雫が、華奢な喉元を伝って衣を濡らす。

 

「ぷ、ふはぁ……。ふぅ。ご馳走でした!美味しい御茶でした!」

 

 小さく吐息を漏らし、彼女は琵琶を微かに爪弾いて調弦を始める。見えぬ瞳を周囲の気配へ向け、愛らしい声音で問いかけた。

 

「……お待たせ致しました。皆様、次はどのような歌を歌いましょう?」

 

 毬の宣言に、しかし皆から返って来たのは歌の要望ではなかった。

 

 「ちょっとちょっと。毬ちゃん、待ちなさいって!」

「さっきので四曲目になるでしょう?もう今日はこれくらいにしておきなさいな?」

「そうそう。朝昼に練習もしてるでしょう?喉を酷使していたら駄目よ?」

「それにもう夜分だものねぇ……明日のお仕事があるからそろそろ寝床に入らないといけないわねぇ」

 

 女中たちの慈しむような制止に、毬は戸惑い、肩を竦めるように小さくなる。その仕草の儚さといったら、まるで折れそうな小枝のようであった。

 

「そうですが……いえ、申し訳ありません。皆様お忙しい中で、歌ってばかりな私が御都合も考えずに、お恥ずかしい限りです」

 

 思い至らなかった己の未熟と無知を悔いるように、毬は俯いて肩を震わせる。その無力さに老若男女問わず愛しさと嗜虐心を擽られる。同時に愛して慰めたくもなる。

 

「もう!……別に其処まで気にする事じゃありませんよ。ねぇ?」

「そうそう。心が洗われるような歌だったじゃないですか。無料で聴けて寧ろお得なくらい」

「本当にねぇ。……ほらっ、アンタ達もそう思うでしょう?」

 

 女中達がそんな毬を擁護しつつ、男衆達に嫌味に呼び掛ける。愛すべき琵琶師を慰めるようにという要請であり、相手の目が見えぬ事を良い事にまた胸元に視線を向けていた猿共への糾弾だった。苦笑いして彼らは誤魔化す。

 

「ははは……。まぁキリ良く終えねぇと何時迄も聴いちゃうからなぁ?」

「辞め時が分からなくなるってのはこの事さ。人食いの妖や悪神だって何日も聴き惚れてしまうんじゃねぇかな?」

「そりゃあ大変だ。屋敷の防音結界を点検しねぇとな。我らが琵琶姫様が攫われちまう!」

 

 冗談半分に、女衆の非難を流すように、しかし確かに本心から彼らは嘯く。技芸に秀でた娘子を邪神や妖が攫い囲むというのはある種定番のお話であるし、そうでなくても阿呆な公家の貴公子が歌に引き寄せられて垣間見て無謀にも夜這いに来るなんて事も有り得なくもないのだ。勿論、その時には見つけ次第野盗という事にして棒で叩く事になる。容赦なく。それはもう容赦なく。奇麗な御尊顔をぶっ飛ばしてやる。 

 

 ……その統一された明白な方針は我らが屋敷の誇る健気で愛らしい目の前の歌姫のためであるし、その兄貴である愚直で卑屈な男のためでもあった。普段の妹への甲斐甲斐しい姿を思えば、務めで不在な時くらい人肌脱いでやるのも吝かではない。

 

「……そう言えば、そろそろかしらね?姫様、大丈夫かしら?」

「お兄さんの事、淋しいと思うけど我慢して頂戴な。旧都への参拝なんて機会、そうあるものでは無いんですから。光栄な事なのですよ?」

「確か向こうで御土産に御守くらいは貰える筈だから、ね?」 

 

 女中達が皆で毬を慰めるのは正に普段世話している彼女の兄が今は遠出して不在であるからだ。

 

 屋敷の主たる赤穂本家の末娘からの直々の下知。それに従いこの盲女の肉親という似ても似つかない兄は下男として随身に同行する事となった。それ自体は立場故に仕方無い事であるし、名誉な事ではあるだろう。しかし、残される毬の立場が不憫でもあるのもまた確かであった。闇しか見えぬというのに長年連れ添った頼れる肉親と引き離されるのは如何程の辛さか……。

 

「……お勤めは承知しております。仕方無き事です。私達兄妹なぞを引き受けて頂けただけでもこの身に余る光栄だと存じております。御側にお仕え出来る事、喜びお受けするは当然の事だと思います」

 

 穏やかに、しかし諦念を微かに滲ませる儚い微笑みと共に毬は語る。決して何も計算していないだろう、しかし酷く見る者の胸の内を抉る表情だった。

 

「……困ったことがあったら、すぐに呼ぶのですよ。部屋の呪符は鍵代わりですから、絶対に外してはいけません!」

「障子の隙間も作っちゃ駄目ですよ。影が漏れて、覗き見られてしまいますから!」

「……はい?」

 

 女衆の熱を帯びた指導に、毬は首を傾げる。盲目の彼女には、その裏にある「男達の邪な視線」を物理的に排除しようとする女達の義侠心は見えて来ない。想像すら出来ないだろう。己を覗くなんて何の意味があるのかと思っていよう。男達も流石に心外だと女衆を見るが女共は油断はしない。男なんて野獣である。下半身で考えているに違いないと根拠はないが確信していた。

 

「あの、その……有難う御座います。何も仕事の出来ない私なんかのために……」

「良いの良いの。毎度の演奏だけで十分、役に立ってるんですから!」

「毎日これを聞くために働いてるくらいよねぇ?」

「全くだ。お嬢ちゃんの歌を摘まみに一杯やるのは中々粋だぜ?」

「男衆にとっての摘まみは本当に歌?」

「だから勘弁してくれよぉ」

「……?」

 

 思い出したかのような女衆の釘を刺す言葉に男衆は泣き言をぼやき、やはり毬は何も分からず首を捻るばかりであった。その動きに揺れて男達はちらりと横目に覗く。残念ながらそれが性というものであった。

 

「……お兄様、壮健だと良いのですが」

 

 周囲の皆の会話に今一つ分からぬ毬は、唯深く嘆息して兄

に思いを馳せる。今何処で何をしているのか。怪我や病気はないだろうか。息災であろうかと深く祈る。心から乞い願う。

 

「本当、貴女ってお兄さん思いよねぇ?」

「冴えない顔だし、腰も曲がってるし、お洒落でもないのにぇ?」

「兄妹で全く似てないのよねー」

 

 見るだけで分かる。盲目の少女がどれだけ悩み案じているのかを。そして男兄弟なぞ粗野で荒っぽく馬鹿らしく思っている女中らの中にはそんな毬の態度に関心すしつつも呆れる者も少なくなかった。毬という娘の素材の良さを思えば尚更だ。兄妹というがその有り様は月と鼈であるように皆が思っていた。

 

「確かに、私なんかが兄に似つかわしくはありませんね。目が見えませんし、足も、身体も悪くて、足を引っ張ってばかりで……」

「えっ、いやいやいや!御免っ!今のはそういう意味じゃなくて……!」

「ふふっ。はい。分かっております。冗談です」

「……ふぇ?」

 

 慌てて弁明せんとした女中に対して、クスリと毬は苦笑した。皆が思わず呆ける。そして盲目の娘は続ける。

 

「兄の事は……余り悪しくは語らないで欲しいです。私を養うために自分の事は何でも後回しにしていますから。以前、陽菜さんが仰ってました。身嗜みを整えたら悪くない出で立ちだろう、と。……きっと、私のせいでしょうね」

 

 毬は淡い苦笑を零した。陰のある憂いを湛えたその美貌が、見る者の心を深く引き込む。彼女がどれ程に兄を純粋に、そして大切に想っているのか、その一途さが周囲を狂わせる程に魅了していく。

 

「……その、御免ね?其処まであげつらうつもりじゃ無かったのよ?」

「そうそう。貴女も可愛いわよ、ね?」

「何も気負う必要なんてないんだから。お兄さんだって、貴女の事悪く言った事なんて無いでしょう?」

「珍しい事。毬さんがそんな人を食うような冗談なんて……そんなにお兄さんが大切なのね?」

 

 特に女中達が毬に向けて謝り、そして宥める。

 

「はい。……兄は、物心着いた時から知る唯一の家族ですから。ですので、余り御兄様の事は冗談でも……出過ぎた真似をすみません」

「分かってますとも。……御免なさいね?御家族、一人だけなのね?だったら仕方ないわ。余り良い気分では無いわよね?」

 

 それ以上は明言しなくても何を言いたいのかは誰にでも分かる。毬の済まなそうな、しかし確かな訴えに反発しようという者はいなかった。常日頃は我儘を言わず人を立てる虚弱な妹分が訴えた数少ない要望である。それに一々目くじらを立てるのは大人気ない。皆が彼女に夢中だった。

 

「御配慮、有難う御座います……」

 

 心からの謝意を込めて毬は今一度頭を垂れる。そして焦点の合わぬ瞳孔の開き切った瞳出向き直るのだ。兄の居るだろう方角を。遥か向こう、地平線の向こうに思いを馳せるように。遠くを見据えるように。

 

「御兄様。どうかご無事に……。どうか、無事なお帰りを……」

 

 まるでもう何も失いたくないとでも言うように、手元の琵琶を強く抱いて盲目の娘は弱々しくと必死に願うのだ。兄の無事の帰宅を。 

 

 己が兄として認識して慕う男が無事に帰って来てくれる事を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

「うえっ……ぷっ。おぇぇ。かっ、ぺぇ!」

 

 生い茂る芒野の一角で俺はひたすらに前屈みになって吐き出していた。吐瀉する水音が夜の静寂を穢す。ズブズブと引き摺り出す濁音が漏れ響く。傍らでは退魔な狸殿が眉を顰めていた。

 

「……大丈夫か?手伝おうか?」

「ら、らいひょう、ぶ…ぅ…お"う"ぇ"ぇ"ぇ"っ"!!!?」

 

 言い切る前に更に込み上げる感覚に俺はぶち撒ける。ぶち撒けながら俺は喉奥から垂れ伸びる胃液まみれのそれを両手で掴んで強引に引き摺り出し続ける。何処までも何処までも終わりなく。まるで手品染みて。

 

 ……はは。手品であれば何処まで良かった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……うおっ、げぇ!!う"げぇ"ぇ"ぇ"っ"!!!!」

 

 伸びる。伸びる。何処までも。腹の中で此方の霊力を啜り重厚長大に成長していた縄は、しかし気が抜けたかのようにだらんと垂れていた。呪術的な思考能力が完全にヤられた訳ではないのか時偶に痙攣しているが、この場においては寧ろ最低だった。大縄に胃の中で容赦なく打震われる側の気持ちも分かって欲しい。顎が外れるんじゃないかという位に口を開いている側としては呼吸すらも一苦労だ。

 

「……漸く終わりが見えて来そうだな。もう少しだ、頑張れ」

「んっ、!?ぐぅっ、……お、ぼごぉぉぉ!!!?」

『(⁠*⁠´⁠ω⁠`⁠*⁠)ウマレタァ!』

 

 胃袋に詰まっていた縄を最後まで引き摺り出したのと馬鹿蜘蛛の馬鹿声が頭の中に響いたのは同時であった。より正確には胃の深淵から酸に濡れた姿を晒して宣う。縄から脱げて、地面に着地するや否や、身体を震わせて胃液を撒き散らし、ドヤっとした顔で此方をを見上げる。

 

『(;⁠^⁠ω⁠^⁠)ワタシハカエッテキタッ!!』

「こほっ、げほっ……さ、さいですか」

 

 噎せ咳き込みながら俺は馬鹿蜘蛛の宣言を受け流す。野郎め。此方が悪戦苦闘しながら出し切ったってのに呑気な事を……。

 

「ふむ。これは……天狗共の使う荒縄だな?胃袋の中に仕舞い込むとはまた考えたものだ。今回に限っては裏目だったがな?……いや、すまんな。もっと詳しく説明しておけば良かったやも知れん。許してくれ」

 

 ぐたりと倒れ萎れた状態で小山を形作る胃液唾液でドロドロの呪縄を掴み見ての我妻の感想。痙攣する縄を何処か懐かしげに検分している。

 

「畜生めぇ……うぇっ、げぇっ!?」

『(⁠>⁠0⁠<⁠;⁠)ハンダンリヨクタランカッタァ!』

  

 一方で俺はひたすらその場で項垂れて二度三度と空っけな腹の中の物を吐き出す。酸えた臭いが鼻腔を不快に刺激する。頭の中を満たすのは後悔、ひたすらの後悔だった。認めたくないが、馬鹿蜘蛛の言う通りであった。

 

 戦闘は終わった。周囲を見渡せばその一角に山積みにされている半壊の案山子人形共が見えるだろう。小山になって投棄されてるのは辺り一面に仕掛けられている各種の罠を発動させぬようにである。

 

 俺が今の惨状に陥っているのはその代償である。より正確にいえば、俺はこの旧都の防衛機構の狡猾な仕掛けに裏を掻かれて、見事に藻搔き苦しむ羽目に陥ってしまったのだ。

 

『かなり独特な仕掛けですね。式の稼働に使用される内部霊力に霊毒が混入されているとは。……成程、霊気が混在した途端、相手の霊気脈の流れを狂わせる訳ですか。ある意味趣深いですね』

 

 耳内にて、式越しに淡々と分析して嘯く松重の孫娘様であった。この野郎、安全地帯から悠々と分析してくれやがって!

 

「けほっ、けほぉ……古き良き卑劣戦法てかぁ?」

『(⁠ ⁠;⁠∀⁠;⁠)ジブンノカラダデケイケンスルノハハジメテェ?』

 

 案山子の傀儡式共相手に、その場から動かずの迎撃は困難を極めた。それは下手に傀儡式共をぶち壊す事が出来ない事も含まれていた。派手にぶっ壊しとして散らばった残骸のせいで辺りに仕込まれている対凶妖、あるいは対神格級の呪罠術の発動なんて笑えない。だから俺は我妻の前で手札の一枚を切った。

 

 耳の内に式を仕込んでいたのだから喉奥にも仕込んでいても何ら可笑しい事ではない。既に十薬家での一件でも既に実演していた事だ。あの時同様に鯛之福玉染みて喉を切開して仕込んだ蜘蛛・荒縄・釘の三点セット。特に開口と共に荒縄を何処ぞの異邦人の隠し舌染みて射出するのはアンブッシュにて最適だ。自意識を持ち、相手の霊力・妖力を収奪して己の長さと太さ、剛刃性を最適に変化させる機構もまた融通が効く。

 

 俺が喉奥から放った荒縄は傀儡式を次々と捕らえて締め上げて、その霊力を根刮ぎ搾り取った。俺の霊力、そして案山子の霊力を栄養として口内より際限なく伸び続けた荒縄による無双と自動迎撃。途上まで優勢であった状況は、途上で急変して暗転した。

 

 丁度迫って来ていた粗方を無力化し終えた所であったろう。傀儡式の霊力に混入していた霊毒が回り切ったのか、それを摂取した荒縄を暴走させて狂騒させた。いきなり此方の胃袋の中で引き裂けそうな程に膨張してくれた上に豪快にのた打ち回ってくれやがった時の悶絶具合と言ったら……地獄としか言いようがない。

 

「はぁ……はぁ……はぁ。おうぇっ!!?げほっ、げほっ!!?おい、しっかりしやがれ!頼むぜ、駄目になってくれるなよ……?」

『(;⁠∀⁠;⁠)オオケンゾクヨ!シンデシマウトハナサケナイ!』

『……………』

 

 噎せ込みながら、咳き込みながら、俺はとぐろを巻いて萎れる呪縄向けて呼び掛ける。人間ならば失禁白目アへ顔ダブルピース状態辺りなのだろうか?そう思える程に鈍い反応だった。完全に脱力状態の放心状態だった。普段は頼んでなくても馬鹿蜘蛛と一緒に反省を促す馬鹿みてぇなダンスをするような奴だったのだが……嘆く馬鹿蜘蛛の反応がネタなのかガチなのか今一つ判断に迷う。

 

「安心すると良い。天狗共の使う呪具はそんな軟なものではない。……ほれ見ろ。お前さんの霊力を求めとる。毒気を発散しながらお前さんので補填すればどうにかなろう」

 

 そう言って、我妻が胃液ドロドロの縄の端を差し出して来る。向けられた縄端は此方の存在を認識したのかウネウネと、弱々しくも伸びて来た。手を伸ばしてそっと触れてやれば食虫植物のように一気に巻き付き絡み付き、そして霊力を簒奪し始める。いや、痛てぇよ。……仕方ねぇ。

 

「本当はここで霊力を無駄に消費したくないんですけどね。……どういう事ですかね、この事態は?」

『щ⁠(⁠゜⁠ロ⁠゜⁠щ⁠)ハカッタナシャー!』

 

 非難めいて俺の言わんとする事は、つまりどうして警備状況に精通している筈の我妻に従ったにも関わらずあれだけの数の傀儡式に襲われたのかという事だ。よもやウッカリという訳ではあるまい。それならば偶然装って俺を嵌め殺そうとしたと言われた方がまだ理解出来た。

 

「そんな目で見てくれるな。此方とて困惑しているのだぞ?……ふむ。やはり知らぬ内に行動倫理が修正されておるな」

 

 此方の疑念の眼差しに弁明しながら狸殿は重ね積まれた案山子共に手を伸ばす。その内の一つから力尽くで面を剥がし取ってその裏面を覗く。そして怪訝に眉を顰める。

 

「基本的に傀儡式……簡易式全般とも言えるが、式妖と違い意志と言えるものはない。あるように見せかける事は出来てもな?」

 

 我妻野語るそれは所謂人工知能、プログラミングのようなものだと考えれば良いだろう。設定した条件に対して反射運動する。その繰り返し。緻密に設計すればするだけ滑らかに、まるで生きているかのように振る舞い活動させる事も出来るが所詮見せかけだ。冗長性では妖本道式には到底敵わない。何処まで行っても事前設定した枠を出ない。

 

「問題は設定変更の手間だ。旧都の防衛機構は頑強ながら根底の術的基盤は古臭くてな。扶桑の霊術、呪術の体系は建国以来理論の発展と共に変遷していて今では最初期のそれとは別物だ。……これ、お前さんには読めるか?」

 

 彼女が見せつけるのは案山子より剥ぎ取った面。今更ながら相当年季物だと分かるそれの裏側だ。

 

 彫刻刀で彫られたのだろう、システムエンジニアの造るソースコードを連想させる面裏側全体にみっちりと刻まれた膨大な文字列。それも旧字体とでも言おうか、日頃目にする扶桑文字とは逸脱している上に崩れた文字の羅列の意味を俺では読み取れない。最早模様に近かった。良く見ればその所々が削られて字が修正されてもいた。

 

「いえ、さっぱり」

「素直で宜しい。……大乱よりも更に昔の書体書式さ。今更読める者、作り直せる者が幾人いるか、そんな古臭い代物だ。藁の躰は定期交換出来ても脳に当る面はどうにもならんでな。大乱まではそれでもどうにかなったそうだが……唯一、中身の修正出来る者が消えてしまってからは長らく古くなった躰を入れ替えだけしていたそうだ。……その筈であったのだがな?」

 

 ジロリと、面の裏側を凝視する我妻。最早理解して内容を修正出来る者は限られている式の行動倫理を規定する咒印が確かに修正されている。それも決して昔ではない。極最近に。それは明らかに可笑しい話であった。

 

(いや、可笑しいのはそれではない。それは不可能ではない。寧ろ、可笑しいのは……)

「……我妻殿?」

「……」

「……我妻殿?」

「……松重の孫殿よ。怒らぬから出て参れ。これを見よ」

『(⁠・⁠∀⁠・⁠)ジマンノイモートヨデテマイレ!』

 

 退魔狸様は俺の問い掛けを無視して呼び掛けた。俺を見て命じた。沈黙……そして小さな小さなミニチュア蜂鳥式が耳穴からひょっこりと頭だけ突き出す。円な瞳を我妻に向ける。

 

『誰が妹ですか。……一体、何事でしょうか?』

「惚けるでない。お前さんならばもう予感は感じておろう?これを見よ。筆跡に見覚えはあるか?」

 

 俺の耳に向けて面を翳す。面の裏を蜂鳥に見せつける。蜂鳥の沈黙。静かなる衝動の気配……。

 

『……元のものと修正跡、共に同じ筆跡ですね。まるで同一人物が訂正したみたいです』

「それだけでは無かろう?誤魔化してくれるな」

『……アイツの筆跡です。間違いありません。あの男のものです』

『(⁠≧⁠▽⁠≦⁠)ソレハマチガイナクヤツサ!』

 

 蜂鳥から滲み出た声音は凄まじく複雑な情念が入り混じっているように思われた。牡丹があからさまに敵意を発して口にする人物は唯一人しかいない。

 

「……裏切者の製造した傀儡式を使い続けるってのは中々情報リテラシーが無い気がしますが?」

「リテラシーが何かは知らんが……この地の防衛機構の大半が元を辿れば彼の御仁の作成したものでな。機構全体の入れ替えは非現実的だし、部分的に入れ替えて行くにしても個々の機能が相互に補うように出来とるから弄るのも一苦労でな」

『金が掛かる癖に改修するには凄まじく手を焼くから後回しにお放置していたら、いよいよ精通者が居なくなる程に基礎の基盤が時代遅れの代物になり手を付けられなくなった訳ですね』

『┐⁠(⁠´⁠д⁠`⁠)⁠┌ワンオペノスパゲッティコードォ……』

 

 朝廷の代弁者としての我妻の言い訳に対しての牡丹の辛辣な総括であった。非難するような物言いに我妻は言い訳しなかった。天を仰ぎ沈黙するばかり。本人も宮仕えの頃に散々辛酸を舐めた口であるように思われた。

 

「……朝廷は成立以来退魔士を活用しつつも完全に信頼はして来なかった。拠点の防衛機構構築を依頼する際には悪用されぬように制作者に誓約を結ばせるのが慣習だ。初代寮頭殿もその例外ではなかった」

『あの男なら誓約にどんな罠を仕込んでいても可笑しくはありませんけどね』

『(⁠ ⁠;⁠∀⁠;⁠)クーリングオフゥ?』

「当時の朝廷の官吏共が馬鹿だったとは思いたくないのだがな……」

 

 我妻はそこまで語りかけて、しかし断言出来ぬのが彼女の本音を物語っていた。

 

「……仮にあの野郎がここに忍び込んでるとしたら、何が目的ですかね?」

「狙うに値する物は幾らでもあるから困るな」

『ですがここで私達を足止めしたというのならば、その先に目標があるという事では?』

「内宮か、あるいは……いや、待て?」

 

 言葉を詰まらせて、口元を手で覆い、我妻は俺を見た。俺の耳から頭だけ出す蜂鳥を見た。思案した。そして眉を顰めて呟いた。

 

「……斎宮殿で起こったという刃傷沙汰は偶然と思うか?」

「……」

『……』

『(⁠・⁠o⁠・⁠)?』

 

 直後、我妻の口にした悍ましき可能性の提示に馬鹿蜘蛛以外の全員が沈黙した。沈黙して、息を呑んで、そして確信した。釣られたと。

 

 俺達が捜索に出た事、この場で足を止めている事が奴の掌の上であったとしたら……?

 

「引き返しっ……!!糞っ!!用意がいいなっ!?」

 

 俺と我妻は背中合わせとなって迫り来るそれを迎え撃つ。間を置かずそれらは現れた。

 

『グルルルル…………』 

 

 前方の芒野より姿もなくそれは現れた。唸り声。荒々しい足音。芒をざわめかせる。巨躯の影。獣の殺気。不可視の虎。見えぬのではない。虎の概念のみが其処にあった。

 

 同時に地面が地鳴る。妖の、あるいは人の骸が地面を突き破って次々と起き上がる。そして先程破壊した案山子の傀儡式共が崩れながらも起き上がる。核たる面を失っているにも関わらず復活する物まで。

 

『虎鬼』。虎に食い殺された者共の成れ果ての亡者。その再現。前門の虎たる本道神。旧都の防衛機構の一つ。

 

『ハッハッハッハッッ!!!!』

 

 背後には顎の八ツ裂けた巨狼がいた。乱暴に縫われ綴じられた両眼。激しい呼吸音。絶え間なく涎を垂らしていた。美しい毛皮は土埃で薄汚れている。耳をピクピクと痙攣させるように震わせる。微かに滲む神気……。

 

 顎を閉じると共に白蜘蛛の直ぐ目の前の地面が食われたように抉れた。慌てて白蜘蛛は俺の身体に飛びついてよじ登る。巨狼を見やる。再び開かれた顎の隙間からボロボロと土と草が零れ落ちる。

 

『大口神』。狼の下級神。それを調教し隷属させた加工品。守護地を守り、侵入した異物をその牙で「空間」ごと食い潰す後門の狼。旧都の防衛機構の一つ。

 

 ……そして恐らくは、本来こんな場所で出会す筈のない怪物共であった。

 

(見事に、嵌められたなぁ……!!?)

 

 殺到する亡者共と此方を向いて大口を閉じんとする狼を交互に見やり、俺は内心で吐き捨てた。吐き捨てて、遥か地平線の向こう、斎宮殿の方角を睨む。

 

 奴の、あの百貌の糞野郎の目的は………!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 斎宮寮殿外院、官吏共の喧騒が絶えぬ廊下。その冷ややかな石畳を、蛍夜の少女・環はあてもなく歩み渡っていた。

 

 先導する獣は、着かず離れずの絶妙な距離感を保ちながら、時折、振り返る。その仕草振る舞いは、まるで捕食者をからかい誘っているかのようにも見える。

 

(……導かれている)

 

 環は悟る。目の前を通り過ぎる人々は、まるで蜃気楼のように環の身体をすり抜けていく。比喩ではない。彼らの意識の海から環という存在は完全に欠落しており、この世の理から切り離された幽霊のように扱われている。

 

 当然ながら環に死の覚えはない。あり得ない。ならばこれは何者かの権能であろう。目の前で尻尾を揺らすこの獣以外に、その犯人の心当たりなどある筈もなかった。

 

『ナァ!』

 

 歩みを緩めて距離が離れた故にか、曲がり角に来たからか、それは欠伸でもするかのように鳴いてから右手に曲がり姿を消す。

 

「ま、待ってよ……!」

 

 そして環はそれを見て見ぬ振りも出来なかった。足を早めて慌てて追い縋る。

 

 ……自分が何かの術中に嵌っている気がしないでもない。だが、そうであるとしてどうしろと言うのか?というのが環の意見であった。

 

 己は誰にも干渉出来ず、そして誰も己を認識出来ぬ。既に皆が己が失せてしまったと騒ぎ立てている。身の潔白を証明しようにもその場に留まり何をどうしろというのか?永遠と認識されぬままに終わるのではないか?何もせぬ怠惰に甘んじる訳には行かなかった。

 

 同時に獣を捕らえてしまうという話の単純化も出来なかった。捕らえた所であの抜けたような面構えは、何処まで痛めつけても意味があるか知れなかった。己の身に起きている事態が獣の権能によるものである保証もなかった。あくまでも獣は導き手であり己を認識出来ぬように、そして干渉出来ぬようにしたのはまた別の存在かも知れなかったのだ。

 

 ……何はともあれ、環は己を明らかに誘っている敵とも味方とも知れぬ存在を追い掛ける以外の何も出来なかった。出来る筈もなかった。結果として環は斎宮寮の寮殿内を何らの静止もされずに駆け抜ける事となった。それこそ、いつの間にか官吏共の詰める外院を過ぎてしまい、一家人如きでは足を踏み入れる事を拒絶されそうな程に奥の奥にまで……。

 

「見つけたか!?」

「いや、まだだ。……謹慎させている他の先触については?」

「怪しい動きはないが……下男に続いて家人まで行方知れずか。流石に怪しいな」

「尋問せねばなるまいよ。……一体何が起きている?」

「それが分かれば苦労せんよ」

「どうしてこうも厄介事が度重なるか……!!」

 

 忙しく行き交う官吏に神職に仮巫女、衛士らの会話が環の耳に入って来た。その内容に姉弟子の、そして連れて来ていた下人二人と、何よりも怪我をした陽菜の身の案ずる。会いに行きたい誘惑に駆られるが……それに堪えて獣を追い掛ける。紫は兎も角、下人らや陽菜と会っても今の己を認識して貰えるかは怪しい。

 

 廊の角を右に曲がる。角を左に曲がる。突き当たりでまた左に曲がる。戸を引く。蔵を往き、炊事場を往き、酒蔵を往き、厩を抜ける。百薬実り温室すらも備えられた見事な薬園の側を通り、迷路のような寮殿を巡り行く。

 

 何時しか棟の並びと様式は変わっていた。獣を追って立派な門を抜けていた事に振り返って遅れて気付いた。

 

「ここは……」

 

 姉弟子に事前に教えられていた知識を思い返す。確か斎宮寮殿は三つの区画に分かれている。その内、斎宮寮の官吏共の縄張りが外院である。そして先にあるのは中殿であった筈だ。神宮の縄張り。宮司を頂点として神職共の領域。祭事とそれに関わる各種の準備のための区画……環は己が其処に紛れこんでしまっている事を認める。

 

『ナッ!』

「あ、待って……本当、恐れ知らずだね……」

 

 思わず足を止めていると引き返していた獣が上目遣いに環を見つめていた。円らな黒真珠のような瞳には、月の光を閉じ込めたような妖しい輝きが宿っている。環の意識が向いたと認識した途端跳ねるように宮の奥へと駆ける。追いかけんとして二の足を止めたのは視界の端に横切る人影とぶつかってしまいそうだと咄嗟に思ったからであった。

 

「おい、聞いたか……」

「あぁ。何時になったら引っ捕らえるのだかな。衛士の連中もぞんざい不甲斐ない……」

 

 神職共が環と獣の間に生じた空間を通り抜けて行き、そのまま通り過ぎて行く。……やはり、此方に気付いているようには見えない。欠片も視線が合わない。環の存在はここまで誰にも認識されていない。獣以外には。

 

「全く……本当、何が何なのだか」

 

 嘆息。観念して環は歩みを再会するしかなかった。誰にも何にも干渉出来ぬし認識されぬ以上、獣の呼び掛けに応じる他ないではないか。

 

(それに……)

 

 付け加えるならば、その迷いなき歩み様に環は眼前の獣が外部から忍んだ狼藉者ではないのではないかと勘繰り始めてもいた。余所者にしては余りにも手慣れているように見えたのだ。寮殿内の家屋や棟、廊の配置を事前に把握していなければ出来ぬような実にスンナリとした足取に思われた。少なくとも昨日今日にやって来た代物ではない気がする。

 

(けどそうなると牡丹さんって人の式じゃない……?)

 

 そもそも『迷い家』の内で直接出会したその人が何処の誰であり、彼と如何なる関係であったのかも環には明瞭ではなかった。そう思えば端から己の思い違いであった気もしないでもない。いや、それでも……あの牡丹という人物がこの旧都の人物である、という可能性はあるのか?

 

(神宮は神格のおわす所……か。伴部君も昔居たりしてね?)

 

 白い子蜘蛛に、彼の変貌した光景。あの大恩あった男の出自を環はやはり知らぬ。昔あの牡丹という者とこの地に居た可能性は……有るのだろうか?

 

「……ははっ、流石にそれは飛躍し過ぎた話だよね?」

  

 首を横に振って流石に妄想気味に傾いた考えを振り払う。そんな人物が下人なんて立場にあった事との整合性が取れない。設定破綻というものだ。考え過ぎというものだろう。寧ろ……。

 

「……」

『ナァ?』

「分かってるよ。……そんなに急がないでくれよ?」

 

 催促の呼びかけに、環は逡巡を打ち切った。歩む。歩み続ける。獣に導かれるままに。

 

「……ここ、は?」

 

 そして環が辿り着いたのは中院殿本殿の一角を占めるとある棟であった。周囲を見渡す。奇妙にも辺りには人気がなかった。少し離れた場所に人気を感じるのと対照的であった。まるで人払いでもされているかのようだった。

 

「何か……余り良くない気がするね?」

 

 環がそう呟いたのは人気だけが理由ではない。その戸口は幾重にも錠と鎖で封鎖されている。建物自体にも何らかの結界が貼られているように思えた。何のための建物なのか、看板は無い。

 

『ナッ!』

「鍵が掛かってるんだ。中には入れないんじゃないかな?」

 

 躊躇なく獣が向かう。環の呼び掛けに獣は、何かを訴えるように獣は振り向いた。そして扉に触れる。その小さな体は陽炎のように境界を通り抜けた。

 

「まさか……」

 

 その光景に環が抱いた可能性。同じく扉に触れる。頑丈そうな厚い扉の表面を撫でる。冷たい鉄の感触はなく……そして、次の瞬間には手首までが霧の中のように扉を透過していた。何の感触もない……。

 

「……人を通り抜けられるんだから可笑しくないのか、な?」

 

 結界ごと抜けるのはどうなのかと思いもしたが……環はそのまま意を決すると身を投げるようにして扉を抜けた。通り過ぎて、室内に足を踏み入れる。

 

「……書庫?」

 

 環がそう建物の用途を見抜けたのは眼前の光景故である。人気が無い筈なのに、燭台の淡い蛍灯が室内を照らしていた。幾列にも渡って続く書架。其処にミッチリと詰め込まれるようにして納められた書籍に竹簡。あるいは木簡。

 

「誰が……消し忘れ?それに、これって……」

 

 一体誰が着けたのか分からぬ蛍灯への困惑。まるで自分を待ち構えていたかのようにも思えて気味の悪さを覚える……。

 

『ナッ!』

 

 ふいに、足元で柔らかい感触がした。環の脛に、ぬるりとした温もりが擦り付けられる。

 

「ひゃぁんっ!!?」

 

 不意を突かれた環は間抜けな声を上げ、飛び退くようにして後ろへ下がった。足下で悠々として見上げて来る正体不明の獣。薄暗い室内故に触れられるまで存在に気付けなかったか。何にせよ中々に滑稽な仰天具合だった。弄ばれてると環は思った。こみ上げてくる気恥ずかしさと、自分を翻弄する相手への苛立ちが混ざり合う。

 

「も、もう!驚かせないでよ!さっきから何なのさ!?一体、何が目的で僕を……」

『許して欲しい。君の身を元の位相に擦り合わせるのに必要だったんだ』

 

 頬を染め、拳を握り、少し語気を強めて睨みつけんとした環は豆鉄砲を食らった鳩のように唖然と硬直した。己の鼓膜を震わせた声音を疑った。愛らしい子供染みた声音。それを発した相手を凝視する。

  

「え……喋っ、た……?」

 

 獣は環の反応など意に介さぬ様子で、すとんとその場に座り込むと、ひょいと軽やかな身のこなしで隣の書架へと飛び乗った。

 

『うんしょっと。よいしょっと。ふぅ!』』

 

 一段、また一段と高い場所へ登り、環の目線よりもずっと高い位置に陣取ると、獣は尻尾を優雅に揺らした。

 

『本当に本当に、許して欲しい。けど、これで君の身体は元通りだよ?触れる事も認識される事も出来る。ここに導くためには位相をズラさないと難しかったんだ。仕方ないよね?』

 

 円な瞳が獣は環をじっと見下ろす。尚も理解し切れずに口を開けた環の顔が獣の黒真珠のような奥底まで見えぬ黒々しい瞳の表面に反射したように映し見える。

 

『初めまして、僕は「野辺」。この旧都の守護獣さ。宜しくね?……蛍夜環君、で良かったよね?』

「え、あ、……うん、野辺、君?初めまして……?」

 

 環は唖然としつつも挨拶を返す。挨拶は大事だ。

 

『野辺で良いよ?……実は僕、君にどうしてもっていうお願いがあって来たんだ』

 

 ニコニコと愛くるしい笑顔で応じて、そして機械的に一拍置いて、己を「野辺」と称した存在は嘯く。

 

『正直事は一刻を争う。是非君のその力を皆のために、この扶桑のために貸して欲しいんだ。……僕と誓約して、真宮に来てよ!』

 

 何処までも愛嬌に溢れた声音で以て、何処までも愛らしい仕草で以て、照れたような笑顔で以て、もふもふふわふわの獣は蛍夜環に取引を持ち掛けた……。

 

 

 

 

 

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