和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
静謐に満ちた斎宮寮の一室にて、唯一人で寝かしつけられていた女中は天井を見上げたままに愕然としていた。天井というよりも、何もない虚空の虚無を見上げて放心していた。心此処にあらずとばかりだった。
「私は……」
譫言のように紡いだ言葉の、その先が続かなかった。何を口にするべきなのか、己が何を抱き、何を想っているのか、本人すらも計りかねていた。唯唯ポッカリと穴が空いたような喪失感だけが心を満たす。
彼女はある意味で完全に置いてきぼりとされていた。一度意識を喪い、目覚めた時には頭には酷い鈍痛が、包帯を巻かれて水袋で冷やされて、そして神職共に全方位囲い込まれていたかと思えば何かを尋問される前にそれも退出を命じられて、今では却って一人きりだった。一人きりで、安静という名目で部屋に閉じ込められている。……何らの説明もなく。
それは実質的な軟禁を意味しており、奉幣使の随身に仕える女中をそのように扱う事態もまた、平常では有り得ない事で、即ち状況は通常のそれでは無い事を明瞭に示していた。
「姫、様……」
頭を抱えて起き上がり、未だ続く痛みに顔を微かに歪めて、やはり何よりも優先して案ずるのは己の主君であった。己の主君の所在、安全、そして体面である。
赤穂家に使える身の上として、小さい頃から世話してきた女中の一人として、何よりも此度同行を許された身の上として、彼女は心の底から主の事を心配していた。
それこそ、本当ならば今直ぐにでもその身許に馳せ参じたい衝動に駆られる程であった。端なくも走り出して、その無事を確かめたかった、しかし……それは許されない。それこそが主君の迷惑となりかねないから。だから己は此処にいるしかない。所詮は赤穂の威光ありきの、そして赤穂の不利益となる行為は出来ぬ女中の身の上であるのだ。それが現実だ。
そして……あぁ。不愉快な記憶はまだ脳裏にこびりついている。
「夢、幻……じゃない、ですよね?」
口にする言葉を陽菜は自分自身でその真偽を判断しかねていた。あるいは曖昧にしておきたかった。忘れようとしても反射的に思い出してしまうのは己の意識を途絶える寸前に生じた光景の数々だ。
あの男の会話。あの男への詰問。あの男の真実。あの男の不義理な偽り。そして、それに何よりも己の断じて許されない失態で……。
「いや、まさかそんな……」
振り返ってから、深く疑うのはやはり今の状況故である。確かに今も異常事態である。しかし……否、だからこそあの光景、あの事態の後に自分がここで療養の身にある事が奇妙だった。己の記憶が確かであればこうはなっていない筈だ。安静になぞ有り得ない。牢屋である方が自然だ。だからこそ疑う。己の妄想、空想と本来の記憶が混ざっているのではないかと訝しむ。
そうでなければあんな……。
「…………どうしてですか」
どうして?どうして貴方が?貴方なんかが?そんな事。有り得ない。馬鹿げてる。夢幻に違いない。そうでなければならない。そうだろう?そうじゃないと。だから。だから。だから……!!
「っ……!?誰ですっ!!?」
襖の向こう側に感じ取った気配。物の怪の類ではない。明確に人のそれであった。それを理解してから遅れて呼び掛けて軽率では無かったかと今更に後悔する。己が気取った事を知らしめてしまったからだ。
「……」
「……何者、ですか?」
躊躇したかのように向こう側の沈黙。丸腰のまま、布団の内で身構える。果たして向こう側に居るのは何者なのか……。
もしかして……貴方ですか?
「致し方なし。失礼致す」
「!?………っ!!?」
文面に対して尊大にも思える口調に、返答も待たずに引かれる襖。声音で期待していた相手で無い事に失望し、現れた姿に陽菜は糾弾するよりも先に飛び上がって平伏していた。平伏しながら、どうしてこのような人物がこんな所に現れたのかと驚愕する。否、それよりも……。
「も、申し訳御座いませんっ!!ご、御無礼を……っ!!?先程の言葉は、そのっ……!!?」
頭の鈍痛に堪えて、震えた声音での必死の謝罪の言葉。己の先程の問い掛けを取消す。ひたすらひたすら謝罪する。
だってそうだろう?奉幣使の代表がこの場に足を運んでいるのだから。
「良い。それよりも……そちらの怪我は大事無いか?」
「は、ははぁ……!!それは……!!そのっ!?」
怜悧な声音での怪我の具合の問い掛けに、陽菜はやはり迅速に応えんとして、言葉に詰まる。闖入者たるその貴人の問い掛けの意味を考えて即答に戸惑う。
その貴公子が宮中にて如何なる役職にあるか、どのような異名を持つかを思えば大事無いと答えるのが正しいのか分からなかった。果たしてこの御方は何処まで事態を把握しているのか、何を目論見態々己が如きの身の元に赴き問い掛けているのか、思考を必死に巡らせてその思惑を測らんとする。
……如何せん、余りにも彼女には判断材料が少な過ぎた。測りようもない。
「えっと……。その……」
「ふむ。主家の事を配慮して如何に言うべきか迷っている、といった所か。言葉に詰まるのは立場上どうしようも無し。下手に口走り言質を取られぬだけ上々といった所。……誠に思慮深く、忠義に厚き臣に恵まれましたな、姫よ」
「姫……?」
そして陽菜はその貴公子の背後から現れた背丈の低いおかっぱ頭の存在に意識が向かう。その風貌を認識して、その表情を認めて、最悪の状況では無い事を先ずは理解する。
「姫様……!」
「陽菜。良かったです。……大事はありませんか?」
「それは……」
己から駆け寄るのを躊躇する陽菜に対して、紫は自ら赴いた。平伏す身体を起こさせて、包帯の巻かれた頭に手を触れてその怪我の具合を慮る。心からの心配と安堵の言葉。それに対して陽菜はやはり、貴公子たる男の存在を思い素直に発言するべきなのか戸惑うが……紫はそんな陽菜に優しく呼び掛ける。
「大丈夫です、陽菜。案ずる気持ちは分かりますが……訝る必要はありません。素直に、事実だけを口にして下さい。大臣もそれをこそ望んでいます」
「ですが、姫様……」
「悪いようにはしません。……そも、赤穂家に二心無し。忠君報国こそが誉。何があろうとも、嘘偽だけは決してあり得ません。分かりますね?」
「……はい」
尚も迷い続けていた陽菜は、しかし主のその宣言にこれ以上抗う術が無かった。此処に至り尚貴人の前で渋るはそれこそが主君を蔑ろにして家の恥を晒すようなものだ。
……どのような沙汰があろうとも一蓮托生。主君に着いて行くのみである。女中は覚悟を決めた。そして貴公子を、奉幣使たる右大臣に向き直り改めて頭を垂れる。
「御足労お掛けし、恐縮の至りで御座います。鈍痛こそあれど……怪我の具合は大事はありません」
「それは良し。……いや、此方こそ疑心暗鬼にさせる事態を招いたな。許せ」
「……滅相も御座いませぬ」
尊大ながらも雲の上の殿上人からの謝意に、陽菜は内心で驚愕する。そしてそれが単なる善意の類ではない事を既に察していた。係る事態全てにおいて、既に大臣は何等かの始末を予定しているのを女中は勘づいていた。最初取り囲んでいた神職共が直ぐに退出させられたのも、恐らくは。
なれば、これは単なる確認なのだろう。即ち、何等誤魔化しは効かぬ。誠心誠意込めて、己の知り得る限りを答えて行くしかなかった。
「早速ではあるが……そなたのその怪我の顛末について、知れる所の全て答えてくれるな?」
陽菜の思ったように、目の前の貴人は睥睨しつつ要請する。実質的な命令であった。逃げ場はない。言い逃れのしようはない。傍らの主君を一瞥する。此方に寄りかかり、強く手を握ってくれた。気丈に頷く年下の主様。覚悟を決めている面持ち。
「……承知、致しました」
恭しく、恭しく再度頭を垂れて、そして陽菜は自白するかのように洗いざらい語り始めた。己の無様な失態を。そして、あの恩知らずで薄汚い咎人の事を。
(謝罪は、しませんよ……?)
悪しからず思っていた者を売り渡すような、己の不徳に捩じ切れるように胸を痛めながら……。
……結局最後の最後まで、陽菜は己を陥れた元凶が大臣の足下に纏わりついている事を認識する事は無かった。
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『さて。早速鎮魂儀の用意を始めないとね!』
自らを野辺と称する獣は堂々として、そして飄々として宣言した。宣言すると共に「それら」は四方八方から駆け出して儀式の準備に駆け回る。
果たして何処に潜んでいたのやら、野辺達……白毛だけでなく中には黒毛や灰毛、斑毛もいる……が次々と「鼠浄土」内に配された随所の家屋やその間の通りから現れては祓串や真榊、金鈴、あるいは神饌としての米と清酒、清塩を供えつけるための器ごと咥えて、あるいは背負い、彼方此方に駆け廻りては瞬く間にその用意を整えていく。四方に巡らされた注連縄と青竹により仕切られた空間が生まれていく。斎場に生じる神籬。地の霊気が霧散するのを堰き止めて、なだらかに奔流が溜まりいく。儀式の準備……。
『随分と手際の良い事で』
『備えあれば憂い無してね。褒めて貰えて嬉しいよ』
監視するように作業を観測する蜂鳥からの少女の剣呑な感想、あるいは嫌味への橙色の鉄兜を被った監督個体の笑顔の返答。荒い舌打ちが漏れて、直後にざわめく声が漏れる。次に蜂鳥から紡がれる声音は皺枯れていた。
『磐座はあの肉塊を?』
『呪いを通じて彼の神格と繋がっているからね。逆説的に依代として相応しい』
斎場に鎮座する躍動する肉塊を淡々と見つめての質問に、作業を止めた獣の一つが誠実に丁寧に答える。
『この地に描かれる図式。八角の方陣……そして太極陣ですな?成程、霊脈から溢れる気を磐座に濃縮される呪いと対消滅させると』
『正解。まぁ、実際の所そう簡単な話ではないけどね』
器用に前のめりの二足歩行で白線車を押して清塩を混ぜた石灰で図式を描いていく別の個体の返答。更に続ける。
『彼方も中和されているとなれば調整して来るだろう。それに、幾ら中和しても純度の高い神格の呪いは無毒化するにも限界がある』
『なればこそ、要たるはあの者……そうですな?』
『その通り』
そして獣と蜂鳥は、同時にその方向を向いた。形成されていく斎場の外にて控える人影を。俯き項垂れる一人の男と、それに寄り添う今一人。その後者の少女をじっと見つめる……。
「孫六……大丈夫かい?」
当の見つめられる少女。蛍夜家の環姫は己に向けられる視線を朧気に感じつつもただ眼前の見知ってる男を慰める事に集中していた。誰が何を思おうと、何を企て、何事の裏事情がかるか知れぬとも、環にとってはそれが何よりも重要であったのだから。
「……環様。俺は、俺は」
「分かってる。だけど今は僕に任せて。僕を信じて欲しい」
茫然自失とする孫六を、旧都で不祥事を引き起こしたとされて手配される事になった下男を、禁域にまで足を踏み入れる事になった男を、しかし環は捕らえる事もなく優しく諭して、宥める。
それは果たして愚かしい事か?否、環にとってはそれは道理であった。だってそうであろう?己が慕い敬っていた者が無残な有様に成り果て悲嘆に暮れているのを詰るなんて有り得ない。そしてそもそも、手配される謂れ自体が彼には無いのだ。
……少なくとも、此度の騒動に関して言えば。
「陽菜が酷く心配している筈だ。紫さんも。帰って事情を説明しないと。……君が悪い訳じゃないんだから」
そしてチラリと環は彼方此方と行き交い作業する獣達を見やる。そうだ。少なくとも刃傷沙汰に孫六は無実だ。彼は誰一人として斬っていない。斬らせたのは野辺達であり、謀られて斬らされたのは陽菜であるのだから。
「違います。俺が悪いんです。俺が……陽菜殿は何も、あぁなるのは……当然で!だからっ!!だから、俺は……!!」
孫六は環の言に顔を青くして必死に否定する。環はそんな孫六に、やはり優しく語りかけるのだ。
「分かってる。孫六から見ての事情は。その上で言ってるんだ。何も悪く無い。孫六は……ううん。陽菜だって、何が何でも弁護するさ。僕の身命に変えてもね」
そのように語る環の脳裏に過るのは蜂鳥の闖入と、そして「鼠浄土」のこの贄の祭壇に足を踏み入れるまでの一幕であった……。
ーーーーーーーーーー
『そうだね。確かに私は限定的ながら未来を視れる。運命を観測出来る。だからこの場面に辿り着く事は予め予見していたよ。そして此処に辿り着くために必要な節目節目の事象への介入も同じくね』
悪びれる事もなく、平然として野辺は爆弾発言を投下する。
『一介の神職が旧都の追手を撒いて逃げ出せるか。それも重荷を背負って?……確かに不可能ではないさ。限りなく困難ではあるだろうけどね。其処に何等かの意志が介在していなかったと一体誰が断言出来る?』
首を傾げて、まるで問い返すかのように。相手自身に答えを導かせるように。野辺は嘯く。それは自白に等しい。
『彼が「妹」共々に野に放たれて、そしてこの局面を打開する姫君を連れ帰って来る事は視えていた。だから見逃してあげたんだ。……そうだ。君が此処に至るまで小細工を幾重にも弄したよ』
そして獣は見上げる。
『神聖なる旧都で私が突然現れて此処に来るように願った所で、当然警戒されるだろうね。君はそんなに愚かじゃない。しかし前提条件と周辺環境が違えば話が違う』
獣はその罪を白状する。悪びれる訳でもなく、謝罪するでもなく、唯唯説明を連ねていく。
『彼の身元が見抜かれた時の赤穂の女中の態度は中々のものだったよ。勝手に神聖なる地よりて逃げ出した、つまり罪ある者を主家が召し上げていたんだ。しかもそれが公然として知れた。彼女からしたら混乱しただろうね。護身の短刀を抜いて彼に突きつけていた。酷く慌てふためいて詰り喚いていたよ。主家が良からぬ嫌疑を掛けられぬように必死だったよ』
ウンウンと、女中の態度を思い出して頷く獣。忠臣だったよと己の行為を棚に上げたように宣う。
『私の未来視は点としての観測、摘み食いだからね。暫し観察していたんだが……困ったものだよ。彼の正体を見抜いた神職は彼を擁護して見て見ぬ振りせんとしたんだから。女中の方はといえば疑心暗鬼になってしまったけどね。引掛けか、後から告げ口するのか、主家の忠誠を試しているのかと大分混乱していた。それでも現職と元の神職二人合わせて宥めに宥めて、落ち着かせようとしていたね。怯えつつも短刀を下ろそうとしていた。……私は即座に理解したよ。己がここで動く事で観測の未来が実現するのだと』
故の干渉。脛擦の権能とは擦る事。ズラす事。なれば極度に緊張する女子を滑らせて手元を狂わせるなぞ訳もない。斬り伏せる形で神職の腕を深々と斜め様に斬り裂かせた。
『いや、見事なまでにグッサリザックリといったものだ。彼女は茫然としてたよ。唯でさえ職務を捨てて抜け出した男を召し上げていたんだ。その上己まで刃傷沙汰御法度な旧都で、斎宮殿で正式な神職を斬ったんだ。遅れての狼狽ぶりは中々のものだった』
まるで他人事かのように淡々と獣は嘯く。実際の情景はそんなものでは無かったろう。陽菜という女はお喋り者で軽薄な所が見受けられるが、その実事の重大さを十全に理解出来る程に機微に聡い女だった。
『咄嗟に彼が彼女を打ちのめして気絶させたのは驚いたけどね。口裏を合わせて自分を下手人として逃げ出した時にはあぁ成程そういう流れになる訳かと思ったよ。……私は大きな流れとして、面として未来視してる訳じゃないからね』
嘗ての神職であった男の内にあったのは彼なりの計算であった。赤穂家というのは決して薄情ではない。例え己がお尋ね者となろうと無力で罪なぞ犯せないだろう『妹』を突き出す事はしない筈だという計算が其処にあった。寧ろ長年仕えていた陽菜が下手人となる事の方が赤穂家にとっては問題であり、彼女が『兄妹』の兄の身元を暴露する事もまた赤穂家の名誉としては望まれない事であった。恥の上塗である。
なれば陽菜が気絶している間に事態の流れを予め決めてしまえば良い。女中は単なる被害者。斬った男は単なる賤しい身の上の召し上げられたばかりの男……それは赤穂家にとって一番傷の浅い落とし所であり、目覚めた彼女もまた、口を噤み決して秘密を明かす事はない。後は『兄』が旧都の複雑な術式の罠を掻い潜り身を隠してしまえばそれきりという事だ。
……刀を押収されて拘禁される赤穂の姫が軽挙に切腹する可能性は流石に彼は考えていなかったらしい。尤も、荒事に無知な者が赤穂の秘技を以てすれば素手で、それも血を流さずに切腹出来るという事を想定するのは流石に困難だったろう。釦の掛け違い次第ではあり得た展開である。赤穂の姫君の人となりを思えば緊張から手元が狂い、裂き斬れた白い腹から物が溢れて散々に苦しみ抜く事になっていただろうが。
『まぁ、憤慨する気持ちは分かるよ。しかしながらそれはそれ、これはこれだ。彼のためにも……蛍夜環、君はこの先に赴かねばならない。彼が待っている。君の救いを求める存在が待っている。誓って言おう。私は嘘をつけるようには作られてきない』
『……はっ!!その癖事実を伏せる機能はあるのですねっ!?』
横槍を入れた蜂鳥の嘴より紡がれる少女の言。直ぐ様何か騒がしい音がして、皺枯れた声音にとって変わる。
『さて。赴いて、誰をどのように救い出すのですかな?』
『巫女だよ。この地に封じられた神々の恨み辛みの蓋だ。……呪いに蝕まれていてね。今では酷い有様だ。声にならぬ苦しみに悶えている。悶え叫ぶ口すら今や無い。本当に本当に惨い様さ。一刻も早く救ってあげたいよ』
打って鳴るような返答は、しかし咀嚼すれば悍ましい光景が思い浮かぼう。神々の祟りを個人が貰いて如何なる事になる事か。蛍夜環の脳裏に過るのは今は亡き恩人たる青年の、獣染みて変じた姿……あれも、広義で言えばある種の祟りであったか?
『だからね、蛍夜環。君の力が必要なんだ。今も地獄の苦しみに苛まれる巫女を解放してやるにはその内に眠る暴食の力が不可欠なんだよ。……本当だ。嘘じゃないよ?』
敢えて付け足したように口にした言葉が何処か奇妙な気もするが……環は逡巡した。迷い、悩みて、考えに耽る。
『……何?ふぅん。仕方ないか』
「……」
『あぁ。大丈夫。此方の話だよ』
一瞬気を失ったかのように首を落として、目覚めたように上げると呟いた野辺。環の怪訝な視線に即座に反応して応じる。
『……此方の姫君の力が必要と仰るが、果たして上手く制御出来ますのかな?これなる姫君も、其処について案じておりましょう』
そして蜂鳥からの老人の声音。流し目で環を見やる。環は些か狼狽えつつも首を縦に振るい同意する。
……蜂鳥に対して一定の信頼を環が置いていた事を逆手にとって、それ以上疑念と疑惑を抱かせぬように発した横槍の言葉であるとは環は気付く事はなかった。
『そうか。……その点ならば安心して欲しい。私はここの管理運営だからね。君が存分に活躍出来るように、前々から準備はしていた。その内なる力の奔流が荒れぬようにちゃんと備えはしてあるよ』
そして獣は背を向ける。
『私の答えられる言葉はここまでだ。後は君に任せるよ。この中に来てくれるか、それとも引き返すか。君が決めると良い。決して引き返した所で何も害は与えない。約束するよ』
「……」
獣はテクテクと四足で歩み始める。環はその背を尚も怪しげに見つめて、そして直ぐ傍に着地した蜂鳥を見下ろした。何か、助言を求めるように。蜂鳥は環を見上げる。
『儂らは先に中に失礼をば』
それだけ口にして、蜂鳥は羽ばたいた。野辺を抜いて『鼠浄土』の立派な御殿街へと消えていく。
「…………」
尚もその場に佇み、足下を見やるように俯き……ぱっと首を上げた環はそのまま大股に歩み始める。直ぐに野辺と肩を並べる。
「勘違いしないで欲しいけど、許してはないから」
歩みながら見上げる野辺への環の敵意を込めた声音。陽菜への仕打ち、あるいは孫六への仕打ち、あるいはその双方について、環は忘れない。
「だけど、僕の力で救えるんなら、行くよ。それに……孫六、多分この先に居るんだよね?」
『……えたくさっ!』
南蛮方言と思われるドヤ顔での返答に、環は蹴りを食らわせていた。尚、スルリと摩擦を流されたために手応えはなかった……。
ーーーーーーーーー
「……思い出したらまたムカついて来た」
「はい……?」
「……此方の話」
独り言ちて、困惑する孫六に対して応答して更にムスッとしたのは獣の返答と己のそれが似てしまったためであろうか。溜息を吐いて環は周囲を見渡す。
『鼠浄土』の奥の奥。一際甘い空気に満たされた一帯。神宮を模した内なる世界の恐らく中心部にてそれは鎮座している。巨大な肉塊。牛車か、それ以上はあろう巨躯だ。際限なく脈打つそれは滲出すらしていて絶えず何かが表面より滴り落ちている。異臭も仄かに。悍ましい。呪いに冒された人の果て。
「生かさず殺さず、か。……嫌らしいね」
このような様にする呪いを、環は気に食わなかった。一体どれ程の憎悪から来るものなのかも分からない。唯唯惨たらしい。
『それだけの憎悪という事さ。いや、寧ろこれだけで良く済ませてくれたと言うべきなのだけどね?』
「……っ!?」
いつの間にか傍らに来ていた野辺の一個体が環に向けて宣う。孫六はビクリと怖じけて、環は顔を顰めて口を開く。
「彼女……で良いんだよね?彼女に染み込んだ呪い、僕が全て喰らえば元に戻ると考えて良いのかな?」
『それは少し楽観的かな。所詮は対処療法だよ。一時的に毒を吸い出しても毒自体は常に彼女に流れ込んで来る。持ち堪えて……一年程度でまた同じ様かな?』
「そう。……根本的な解決は出来ないのかい?」
『蓋の下に封じられた神格共との繋がりを断ち切ればね。それはそれで厄災が四方八方にばら撒かれる事になるから止めた方が良い』
「厄災……」
呟いて足元を見下ろす蛍夜の姫刀士。地の下の、地獄の底に渦巻くそれの気配に……直後激しくさ身震いする。
「っ!?」
意識を集中させて深く深く探るようにしていた感触を、しかし環は咄嗟に振り払っていた。振り払って、安堵する。背筋が震える。気の所為であろうか?いや、間違いなく環はそれを肌で感じ取っていた。
『さて、と。用意が出来たみたいだね。……それでは姫巫女殿、お願いをしても?』
納屋や蔵よりやって来た脛擦共が純白の千早に神楽鈴、そして榊の花簪を運んで来るのに合わせて、傍らに控えた個体は要請をした。気負いも気不味さもなく、実に淡々とした物言いである。
「……」
野辺の問いに対して、環は無言で千早を踏んだくった。霊絹で出来たそれに袖を通すと、自らの短な髪をさっと纏めて結い簪で飾った。そして神楽鈴。ズッシリとした重みがあった。手にして見てその違和感に気付く。
「これ……錫じゃ、ない?」
違和感ある重み、そして奏でられる響音の差異から、環は即座にそれを看破した。表面こそ金箔を貼られているのだろうか?見事に金色に輝いているがこれは……。
「……翡翠?」
『以前奉幣された、北土から採取された翡翠塊だよ』
環の疑問に、野辺は応じる。そして語る。
『このような時のために用意させておいたんだ。籠彫の要領でね。中身を透ける程に薄く薄く削り取って、その中には同じく翡翠の振り子が重ねるように仕込まれているんだ。振り子の中に更に振り子をってね。何と三重構造だ。……ほら、鳴らしてみてよ』
「……」
その言に従い訝りつつも腕を振るえば、合わせて十五もある翡翠の鈴は驚く程に良く反響して見せた。眉間に皺を寄せていた環も思わずその目を見開く。
「綺麗……」
漏れたのは心からの感嘆の言葉。本来、石の鈴は金物のそれと違い乾いた音がする筈であるのだが、この神楽鈴はあり得ぬ程の透き通りつつも明瞭で清涼な音色であった。恐らくは緻密を究めた匠の技であった。実際、目を凝らせば鈴の表面の細密な彫刻にも気づき得た。
鈴の音孔が、それに中の振り子も独特の形状なのだろう。それは打ち鳴らすというよりも、寧ろこれは腕を振る事で以て空気を中に含み吹き鳴らす類の代物だった。鈴を吹く。そんな文句が思わず環の脳裏に浮かび上がる。鈴同士の配置も、相互に放つ音色を更に受け入れて増幅させるように角度を調整されていると見た。表面の彫刻も振り回して空気を取り込む際に気流を調整する効果があるのやも知れぬ。
『翡翠は気の器の筆頭たる石だ。それも、この鈴の素材は底中でも特に最上質の代物だよ。これは儀式に際して君に祟りが直接降りかからないようにするためでもある』
「神楽舞を舞えば良いんだろう?」
『正確には舞いで祟り神の意識を惹いて欲しい。その間に私が君の力を運用する事になる』
野辺によれば、千早には直接呪われぬように認識阻害の効果があるらしい。頭に飾った榊の花簪は環の持つ力を野辺と結び付けるための要であるのだとか。
『巫女殿と神格の縁に介入する。千早で直接祟られぬように護りつつ、君が舞って気を惹くんだ。そして別系統で私が君の力を遠隔で行使する。巫女殿の内に溜まる呪いの膿を簒奪するんだ。君が全幅の信頼を寄せて、決まりを守ってくれれば、間違いなく私は君の力を使いこなして誰も傷つけずに事を成す事が出来る。約束しよう』
そして俯きながら一拍置いて……獣は続ける。
『手元の神楽鈴を決して手を離さないでくれ。霧散する呪いを吸収させるための触媒としての役目がある。……よし。準備が整ったね』
最後の最後に、数十もの端末により丁重に運び込まれる鏡台を見据えてそれを口にする。環はお出しされて己の正面に鎮座するそれと相対して、息を呑む。余りにも古めかしいそれが、しかし単なる鏡でない事を本能的に察していたからだ。引き寄せられるような、それでいて今直ぐに離れたくなる程に悍ましいような……。
『それでは、後は君の心の用意が済み次第となるが……始めるとしようか?』
そうして旧都の管理運営を担う式は、環にその始動を委ねた……。
ーーーーーーーーー
御神酒に口をつけてから、チリンと。それは風鈴のような鈴の音であった。そして続けて笛のように音が奏でられる。くるりと。千早を揺らして、縫われた五色布と共に可憐に舞う。鏡の前で蛍夜環は余興を舞った。
鏡面に映り込む己の背後には己の背丈よりもずっと大きな肉塊が打ち震えていた。腐臭が鼻を擽るが環は欠片も表情を崩さずに舞を続行した。実に手馴れた舞踊だった。
伴奏はない。神楽鈴のみでそれは完結していた。楽人なぞ要らぬ。余計な物は不要であった。彼女一人で以て全ては奏でられる。
「……」
余興を終える。鏡の前にて畏まる。一礼。そして環は述べる。野辺により用意された心なき祝の言の葉を奏上する。
「……天地開闢。朝を代わりて、道の底。鎮まり給へ、御柱よ」
まるで真水のように何処までも澄み切った声音で以て、蛍夜の姫は音を諳んじていく。
「その御霊、いとも気高く、絢爛な、御力をこそを讃え満ち
光無き、暗き闇夜に抱えたる、荒ぶる気をも尊ばん……」
その文面に。その意味に。僅かに環は奥歯を噛み締めた。僅かな、本当に僅かな沈黙。そして……環は続ける。
「深緑。聖なる玉に、黄金差す。清き響きを重ねつつ。この舞の、音に満たされ、御心を。しばし遊ばせ、和し給え……
いと清く、愉しみ給えと、畏みも畏みも白す……」
そして再び鈴を鳴らした。まるで此方を見ろと。此方に気付けと。此方を振り向けとばかりに。神楽鈴を打ち鳴らす。打ち鳴らして、吹き鳴らす。
沈黙……。そして彼女は舞を再開した。
「……っ!!……っ!!」
神歌と共に環は舞い踊る。冷涼に、ゆらりとゆらりと踊り舞う。囃子言葉に畳句を交えて、神歌を紡ぎ唄っていく。その性質から幾度も幾度も繰り返す。歌い。舞いて。鈴を打ち鳴らす。その繰り返しだ。際限なく、終わりなく、延々と繰り返していく。それこそが重要であったから。
(痛いっ!……喉が、涸れるっ!!?)
果たして如何程繰り返したか。如何程に打ち鳴らしたか。額に汗の粒が浮かび、喉が疲れを感じる程に環は歌い舞い続ける。
(何回……歌ってる?)
御神酒の酒精が身体に回って来たのか。火照る感覚に思考がぼやけて来たのを環は感じていた。それでも終わらない。終わりはない。野辺からも、そして蜂鳥から紡がれる老人の言葉を彼女は思い出す。
(ひたすら、踊り続ける事……!!)
野辺は兎も角、蜂鳥には信を置いていた。だからこそ環は信じて踊り続ける。朦朧としてもひたすらひたすらに踊り続ける。鏡台には映り込む疲労困憊な己の表情を見つめて、無理矢理にも笑みを浮かべた。
踊る。踊る。ひたすらに。狂ったように。
「……っ!!……っ!!はぁ、はぁ……!!?」
じんわりと滲み出していた汗は、何時しか全身から。舞う度に撒き散らされているのではないかと環が錯覚する程であった。それでも何も言われない。言われないから踊り続ける。踊るだけの機械のように舞続ける環。それこそが存在意義であるかのように。最早意識すらも薄れていた。
唯唯ぼんやりと、踊り続けながら鏡に映り込む己を見つめ続ける……。
『……』
「……?」
ふと抱いた違和感に、疲れ果てて鈍っていた意識が惹きつけられる。しかし、それが何なのか分からなかった。義務感に突き動かされて踊り続けながら、疲労困憊の自身の暗い面持ちを映し出す鏡を見つめる。
可笑しい。可笑しい。何かが違う。何かが。
(何かが……何が、何が?)
脳裏にグルグルと、言い知れぬ疑念と疑問が渦巻き続ける。踊りながら環は訝る。次第に鏡に映る己もまた不安げに表情を崩していて……。
『やぁ。初めまして。そして暫くぶり』
「えっ……?」
声音は何処からか分からなかった。唯一つだけ言えたのはそれが己の声音であった事だ。舞の振り付けは止めぬまま、しかし環は間抜けに唖然と口を開いていた。鏡に映る己もまた同じように……。
『するのは無様な顔になるから遠慮するね?』
己と一寸違わず同じように舞いながら、鏡の向こうの己は勝手に口ずさんだ。そして明白に映り込む己は己を見た。鏡の向こうの己が此方を凝視していた。
『素敵な奉納の舞を有難う。私を惹き寄せるための餌だよね?……あぁ。忌まわしい。皆して皆して、肉たる私を貶める。そんなに疎ましいのかな?』
鏡の向こうの己が語り掛ける。鏡の向こうの己が言葉を紡ぐ。鏡の向こうの存在が此方を認識していた。
……環はいつの間にか舞うのを止めていた。止めて、それを見ていた。
鏡面に掌を翳して押し当てて。
その身を押し付けて、頭を押し付けて。
グリグリと、まるで向こう側からのめり込んで乗り込まんばかりに額を擦り付けて……。
『哀れな御人形さん。哀れな人柱。何て可哀想な子なんだろうね?何も知らずに知らされず、そして誰も貴女を貴女として求めていない……』
「何、を……?」
『ふふふっ』
鏡の向こうで、己の顔が己の知らぬ仄暗い笑みを浮かべているのを環は目の当たりにした……。