和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
目の前で阿保毛が凪いでいた。
「誰が阿保毛ですか。……漸く起きましたか。全く酷い寝坊助ですね?」
「あ、ふぇ……?」
目が覚めた環が次に耳目に認めたのは此方を見下ろした紫の呆れ顔であり、そして同じく嘆息の言葉であった。
「え、あ……あ……?」
寝惚けながら辺りを見渡す。殺風景な寝床であり寝室であった。
「涎垂れてますよ。早く拭き取って下さい」
「え?ふ、ふぁい!?」
呆然として、指摘に反応してじゅるりと垂らしていた涎を啜り取る環。決して上品とは言えない振る舞いに紫は僅かに眉間に皺を寄せる。首を横に振って嘆くように何かを呟いていた。そして……環に聴こえる声音で続ける。
「……話は聞きました。御苦労でしたね」
「ご、くろー……?」
「孫六の捜索です。……立入禁止の区画に居たと聞きました。勝手に抜け出して、先入観というものですね。灯台下暗し、無知故に逆に畏れなく貴女は足を踏み入れる事が出来ましたか」
「あ、……う、……うん」
紫の言に、環は脳裏に濁流のようにここに至る事態と記憶を思い出す。その上で肯定した。決して間違ってはいない。そして無闇矢鱈と枝葉の話について語るべきではないと直感的に悟ったからだった。
「尤も、旧都の仕掛けにより気絶するとは本末転倒な話ではありますが。……貴女の捜索と回収に右大臣の手間を取らせるとは、情けない」
「あ、は、は……」
環は乾いた笑いを漏らすしかなかった。成程。公的にはそういう事になっているのか。否、それ自体は誤りではない。大筋では間違いない。問題があるとすれば触れられぬ地下での一連の出来事で……。
「……」
環は沈黙の内に追憶する。野辺と自称する獣達に一斉に纏わりつかれて、眩いばかりの光に満たされて、其処で記憶はバッタリと絶えていた。その後に何が起きていたのか、残念ながら環には何も分からない。あの肉塊となり果てた巫女はどうなったのか。孫六はどうなったのか。あの蜂鳥の行方は……?
「……等と、公的には扱われています。私を蚊帳の外に秘密等と、随分と良い度胸ですね?」
「えっ……あー、あははは……?」
そして咳払いと共に向けられる眼差しに環は目を泳がせるしか無かった。図星である。環は困り果てる。誤魔化しは藪蛇であったかと。蚊帳の外にされて不愉快を思わぬ者はいない。不満を抱かれたのは間違いなかった。
(怒ってる、かな?けど、だとしても……)
果たして目の前の姉弟子に何処まで知れているのか。あるいは何処まで語るべきなのか。環は分かりかねる。そしてそんな環の心中を察したかのように紫は嘯いた。
「貴女を背負い斎宮殿に帰還した右大臣召し抱えの者より話は聞いております。政に関わる故にこれ以上無用の詮索はせぬようにとも。確認だけはします。……貴女の力を借り受けた、そうですね?」
「……」
何に対して、あるいは誰に対してとは触れぬままの紫の言に対して、一先ず環は無言で頷いた。頷きながら、環は訝る。
(そうだ。右大臣……)
奉幣使としてこの地に来ている貴人の存在を思い浮かべて、環は考え込む。果たしてあの地下で行われた事を大臣殿は何処まで知られているのだろうかと。どのように認識しているのかと。
「大臣は……他に、何と?」
「忠君報国大義であるとの言付けです。貴女はその務めを見事に果たしたと」
「成程……」
環もまた此度の事情の多くを知らぬ。流れるがままであった側面は否めない。把握しているのは唯、嘗て孫六がこの旧都の神職であり巫女の子を連れて逃げ出した事、その巫女が祟りに侵されて聖なる地で悍ましき姿に成り果てていた事だけだ。危急であった事もあるがやはりあの野辺という存在をもっと追及するべきだったかも知れない。……のらりくらりと誤魔化されるような気もするが。
(信頼って意味なら寧ろあの蜂鳥の式の方がずっと……あぁ、また何処に行っちゃったんだろう)
当然ながらここに件の蜂鳥はいない。探しようもない。彼方から接触してくれなければどうにもなるまい。
……そして環は同時に安堵した。このような返答が為されたからには、恐らくは意識の途切れる直前に執り行った儀式は悪くない結末であったのだろうと予感出来たから。
「尚、褒美は独断専行と相殺との事です。義信からとは言え、手ずから誅するとは軽挙であると」
「誅する?……あぁ。そういう事か」
即ちそういう事であった。孫六の扱いについてである。死せる者はそれ以上捜索しようもない。それが褒美なのだろう。ここまでの物言いからすれば酷い扱いはされない筈ではあるが……何にせよ朝廷らしい采配ではある。環はこれまでの経験から朝廷がそういうものであると分かり始めていた。
まぁいい。それで孫六の身が守られるのならば十分だ。今は……あの巫女殿の元なのであろうか?そうであったら良いと思った。紫は悪い主君ではあるまいが、彼が居ない今、孫六が仕えるべきはその人であろうと環は自然に感じていた。
問題があるとすれば孫六の妹の事であろうか……。
「環さん」
其処まで思考が及んでいた所に、紫が改まって畏まるように環を見た。呼ばれてその意識を今に引き戻す環。そしてそんな環の視線を確認した上で、おかっぱ頭の女刀士は背筋を伸ばして姿勢を整え……厳粛に厳然に、その頭を深く垂れ下げた。
「えっ?えっ……!?紫さんっ!!?一体何をっ!?」
余りにも突然な土下座に、環は思わず慌てふためいた。立場を思えば紫が易易とこのような行為をするのは許されぬ筈であったからだ。
「礼を言います。蛍夜環殿。貴女のお陰で私は、赤穂家は面目が立ちました。心から……感謝致します」
それは大袈裟ではなかった。少なくとも赤穂紫の立場からすれば当然の礼節であった。
赤穂家の名誉、赤穂紫の監督責任、そして陽菜の粗相に孫六の出所に至るまで、その全てを蛍夜環の行為は救済したといって良かった。右大臣の言葉はまさにその証明である。
欠片でも此方に非があれば、その追及があれば、召し抱えの者が……何故か全身粘液で滑っていたが……彼処までの言葉を使わぬ筈であった。全てを不問とする。全ての事後処理を受け持つ。責任を受け持つと。その宣言といって良い。今は何よりも奉幣使としての務めを優先しているというために大臣からの具体的な沙汰は後程伝えられるであろうが……少なくとも、そう過酷なものでは無かろう。
己が腹を切るべきか等と逸る気持ちすらあった紫にとってそれがどれだけの救いであったか言うまでもない。己の命は構わなかったのだ、しかし赤穂の家と此度の事案に関わった者達の救いという上でそれは正に天啓であった。そして大臣よりその言葉を引き出した環の何等かの行いは紫にとって返し切れぬ程の恩であったのだ。
「本当に、本当に……感謝致します」
「紫さん……いえ、分かりました。その言葉、有り難く受け取ります」
深々と謝意を示す紫の振る舞いを、環は汲み取り受け入れた。紫にとってそれが大事なけじめである事を尊重したのだ。その上で、仕切り直す。
「それで……その?」
「はい。……勝手に無茶や危険を冒さないで下さいっ!此方は面倒を見る立場なのですからっ!!」
「ひゃい!!」
謝罪の後は叱責であった。決して荒々しくなく、しかし鋭い糾弾に環は思わず腰を起こしてピンと背筋を伸ばしていた。先程の恭しい感謝とは正反対の態度。
「だ、だけど……紫さんは謹慎で……」
「はいそうです!貴女がどのように自身の押し込められた部屋から出た知りません!それに貴女が此方に来ても私は勝手にそのような不義を行う事は無かったでしょう!貴女を叱責して戻るように言ったでしょう!貴女が私に接触せず、認可も求めなかったのは正解ですっ!ですがそれはそれ、これはこれです!!」
紫の説教は理不尽であるが道理でもあった。仕方ない、他に選択肢がないといって危険を冒して規律を破る事を許せる訳でも無かった。謝意を示し、礼を述べるのと同じくらいの手厳しい叱責であった。
「う、うぅ……」
「何ですか!捨てられた仔犬みたいなその視線は!!そんな憐れみを求める目つきで手加減はしませんよっ!!?」
環の懇願はバッサリと斬り捨てられる。残念ながら泣き落としは通用しない。
「わ、分かったよぉ……」
諦めて紫の叱責を受け入れるしかない環であった。その様に、紫は眉間に皺を寄せて悩ましげに溜息を吐く。
「……私も鬼じゃありません。今回の所はこれで終わらせましょう」
些か言い足りない風ながらも、疲れ果てた者に鞭を打っても意味がないのを紫も知っていた。そして彼女は気を切り替えて言葉を続ける。
「鬼月の御当主様にも、左大臣殿にも此度の事は口にせぬ事です。良いですね?」
「御当主様はまだ分かるけど……左大臣にも?」
鬼月家と環の関係は主従ではあるが絶対の上下関係ではない。家人とは言え、環自身も郷主の娘という立場の上での預りである。入鹿の事が弱みではあるが、それでも右大臣からの要請ならば名目が立とう。しかし相手が左大臣となると……。
「良いの……かなぁ?」
名分的に問題無いのかと、環は紫を見る。紫は態とらしく咳払いをしてから大仰に宣う。
「左右の大臣は、共に忠義深き朝臣です。そして我々の忠を捧げるのは大臣ではなく帝、そして朝廷です。此度奉幣使として任じられた右大臣の決定は、即ち帝の意志と言っても過言では無いでしょう。さすれば何を優先するべきかは明瞭となろうものです!」
「な、成程……?」
環の歯切れの悪い同意の言葉。紫の口にする論法は誤りでは無いが納得出来るのかは別問題である。環は平然と嘘を口にするのを得意としていなかった。
「私とてそれは同様ですよ。……要は口にせねば良いのです。祭儀自体は恙無く終えたとだけ報告したら良いのです。実際今頃は奉幣使たる大臣殿が予定通りに詣でている所でしょう。問題ありません。詰まらぬ細事如き、態々左大臣に伝える必要があるでしょうか?」
「……物は言いようだね?」
「さて、何の事やら」
そして再び咳払いする紫。環を見据える。
「何でしたら、話題を変えてしまいなさい。元々、随身に選ばれたのは左大臣の差配、厚意故でしょう?確か書庫の開放でしたからそちらを思い切り触れてしまいなさい。さすれば何事か旧都で起きたか等と気取られる事は無い筈ですよ?」
「……誤魔化せる、かな?」
「出来るかではありません。やるのです。左大臣は仁愛の人ですが道理も忠義も深き方。時に手厳しくもあります。此度のような朝廷と旧都に泥を塗るような事態では、逆に濁を呑み込める右大臣よりも沙汰を厳しく求めるやも知れませんよ?」
「それは……分かったよ」
最後の言葉が環の背中を押した。折角孫六の無事が確約されたのをここで露見して事態が混乱するのは避けたかった。
「幸い、出立までは二日はあるでしょう。その間話の種でも作っておく事ですね」
「誤魔化すために書庫を許された訳じゃないんだけどね!?っ……!?それに、今日は流石に無理かなぁ?」
突っ込みと、どっと押し寄せて来た倦怠感に今一度環は横になる。横になって呻く。項垂れる。
書庫を開放して貰う認可を左大臣から頂いたのは己の力を制御する方策を見出すためであったが……地下での一連の事態でその力を使った故か、環の疲弊は一際であった。
(ううん。前よりもずっと……)
簒奪の力は他者のそれを己のものとする筈である。故に疲弊はありつつも充足感ともいえる感覚もあった。満ち足りたというべきものがあった。しかし、今回は……野辺と名乗っていたあの獣に制御を託したからであろうか?奪えてない?いや、それ以前にあの獣に今一度巡り会えばこの力を御しえる方策も得られる?しかし、どうしたら会える?まさか他言無用とまで言われているのにもう一度地下に等とは言えまい……。
「うーん……」
「急かしてはいませんよ。……動くのは明日にして、今日はゆっくりと休む事ですね。何でしたら帰りは最後尾として貰っても良いでしょう。さすれば半日は伸びる筈。私が掛け合いましょう」
悩ましく唸る環。その様を見てどう解釈したのか、紫は話しかけるのはここまでにした方が良いだろうとばかりに立ち上がる。
「行って、しまうの?」
一人になるのが淋しいとばかりに環が見上げると、紫は困ったように苦笑する。
「そちらの下人二人も既に開放されています。心細いというのならばそちらに世話でもして貰って下さい。……私はまだ話をせねばならぬ相手もいます。悪いですが何時迄もここには居られませんよ」
「それって……もしかして、陽菜?」
紫は答えなかった。何とも言えぬ微笑みだけを浮かべた。背を向けて立ち去る。障子を開く。外の縁側で控えていたのだろう、矢矧と矢島が入り違うように部屋に上がる。
「姫様……」
「ご無事で、何よりです」
心配げに部屋に上がって環を見やるお付きの下人二人。矢島と矢萩がその姿を見せる。面越しにも分かる。此方を心配していた。
「やぁ二人共。……そっちは大丈夫、かい?」
安心させるように微笑みながら応答して、同時に環は内心で酷く自虐した。何が大丈夫かだ。最悪自分の行方不明の責を咎められて酷い尋問されていた可能性すらあるだろうに。
「はい。部屋にて詰められていただけでしたので。申し訳御座いません。お付きでありながら何も出来ず……」
「良いんだよ。此方こそ御免ね?心配かけちゃったよね?」
そして環は改めて己の軽挙を恥じるのだ。
「……では。私は此れにて。御二人共、環さんは疲れ果てている様子、傍にて良く世話をするように。良いですね?」
紫はそれだけ言うと部屋から退出した。障子を閉める。部屋を閉ざす。沈黙。環は脱力したように横たわる。深く深く吐息を漏らす。寝転がり、手を額に乗せて天井を唯見つめる。溢れんばかりの出来事と懸念が頭の中で渦巻いて気が遠く思えて来る。
「姫様……何事があったのかは、聞かぬ方が良いでしょうか?」
そのように口にしたのは矢島であった。環は項垂れながら頷く。
「他言無用ってね。誰とは言えないけど貴き方々の決定だよ。だから何も言えない。何も知らない方が良いだろうね。……大丈夫、鬼月に不利益が出る案件では無かったよ。寧ろ教える方が不義理になるからね。分かってくれるよね?」
嘘ではないが、その事は強調しておく。二人は己と違ってより鬼月に束縛された立場だ。知らぬ存ぜぬとはいくまい。秘密は吐かされる。ならば元から知らぬ方が良かろう。そしてそれを見過ごす事への言い訳を用意してやらねばならなかった。
「……承知致しました。感謝致します」
より聡い矢島からの返答。その謝意の真の意味を察しながらも環は口にしない。相互の無言の内の同意であった。こういう小賢しさは今は亡き彼の影響か。あるいは屋島自身の気質か。矢萩の何か口にしそうになってから押し黙った所を見るに、恐らくその両方であった。
(そうだ。蜂鳥の……)
そして彼の事が脳裏に過って、環は気付かれぬように横目に二人を覗き見る。二人は生前の彼から何処までを伝えられていたのだろうか?あの正体不明の蜂鳥について何か聞いてはいないのだろうか。思わず問い掛けそうになる誘惑を呑み込んで環は沈黙する。
……知らぬ方が良い事もある。責を負わずに済む事もある。己の私情に人を巻き揉むものではない。既に一度巻き込んだばかりではないか。
(今度会えたら、その時は……会えるの、かな?会いたいな……)
どうしてあの場に居たのかも不可解極まりないけども、それでも蛍夜環は再びあの式と巡り会える事を心より願うのだった。
それが余りにも儚く、そして楽観的な期待も綯い交ぜにしたものなのか知りつつも……。
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掛けまくも畏き 旧都の鎮まり坐す大御神の広前に、扶桑国右大臣辰園堅康、謹み敬い恐み恐みも申し下さく。
清麗の帝の御世十四年、長月十七日、今歳もまた扶桑の地に豊かなる栄えを繋ぎ留むべく、深く深く静まり給う大御神の御力を仰ぎ尊び奉る神嘗の大祭の刻至れり。
右大臣堅康、大御命を奉じて直ちに旧都の深き神域に詣で、古き約のままに、錦・五色の綾・平絹の幣帛、ならびに新穀の御贄を謹みて奉り、その御威光をここに留め置かむと拝礼み奉る。
顧み奉れば今歳、國中に妖の災異湧き起こり、暗雲は山河を覆ひ、民草の生業を脅かし、我が扶桑の平穏を侵す兆しあり。
伏して仰ぎ願はくは、大御神の底無き神力を以て、この諸諸の妖の邪気を漏れなく引き受け給ひ、その御力の中に鎮め滅つくし給はむことを。奉る御贄を受け取り給ひて、扶桑の国土を支える不滅の柱として、あるべきそのままに静まり給ひ、国の内を安けく保ち給へと、勅を宣ふ…………。
内宮へ至る道の参進と祓所での修祓。内に入りては祭儀の正殿への進御と着座。奉幣の奉奠。御祭文の奏上が仰々しく紡がれて、最後には八度拝と八開手、そして退出……一連の進行は実に滞りなく、恭しく、そして厳かに執り行われた。厳かに、そして実に空虚な祭儀であった。
「何等の術的意味も無き形式ばかりの祭儀でありますれば、些か滑稽ではありますな」
祭儀の後の別室における人払いした神饌下賜の席での、右大臣辰園堅康の何等飾る所の無き密談の発言であった。公の場においてならば決して口にせぬだろう言葉を、しかし今聞き入れるは唯一人のみである。
否、正確には一人と一体というべきか。
「……此度は朝廷を謀るが如き所業、誠に申し訳なく存じまする」
「頭をお上げ下さいませ。元はと言えば我ら朝廷の無理難題を押し付けたのが諸悪が根源……というのが貴方様の見解で御座いますな、祟神殿?否、野辺殿でありましたか」
旧都が神職が頂点たる白髪白髭の大宮司に対して右大臣はそのように受け答える。受け答えた上で、傍らにて床に凭れる獣を見下ろした。
『そうだね。この地の上級神職共は僕の存在を承知している。極論、彼らの役割は雑務と私の意志の代弁に過ぎないんだ。だから責めるならば私にするべきだね』
飄々と嘯く獣、野辺。分身して加工された魂は不敬な事実を平然と口にした。
……尤も、右大臣からすれば今更の話ではあるが。
「さしもの私も初めて目にした時には驚きました。先祖の日記には記されておりましたがよもや本当に旧都を統べる者が設定されているとは」
堅康の先祖には、辰園家の歴代当主の中には当然右大臣を務めた者もいる。そして歴代辰園家当主の記せし日記は数多の機密がある関係から口外不出にして当代当主しか閲覧も許されぬ呪いの刻まれた呪物でもあった。逆説的に言えば過去の右大臣位でしか知らぬ最高機密を堅康は知る事が出来た。
凡そ十八代前の辰園家当主にして、やはり当代の右大臣にまで上り詰め、旧都に同じく奉幣使として赴いた者の記録を堅康は出立前に読み返していた。その文中に暗号化した上で旧都に蠢く管轄者の存在を仄めかしている事もまた事前に把握していた。
恥ずべきはそれ以前に斎王の代理を立てる騒動の際には読み返しても気付けなかった事か。当時知る事が出来れば此度の事案は無かったやも知れぬ……。
『いや。其処は恥じる事はない。今回初めて知れるように調整していたからね。御先祖様にはそれを考慮した上での暗号化を要請しておいたんだ。気付けないのは寧ろ当然さ』
「ですがこの結末は想定外、と?」
『……正直戸惑っている。やはり神格が関与すると未来を既定し切れないね。完全に想定外だった』
それは野辺と自称する旧都の管理者にとって偽らざる本音であった。
『右大臣位は理性を重んじる者が任じられる事になっている。露悪ではないが必要ならば冷酷にも残酷にもなる事が出来、汚名を被る選択肢も厭わない。そのような人物こそが相応しいとされている。そして君は……及第点として評価していた』
斎王の宣託に関わる身代わりについては当時の堅康に選択の余地はなかったので評価の対象にはならない。しかしその後の事態収拾とそれに便乗した栄達、そして大臣位を得た後の政については情報収集していたし、野辺はそれを高く評価していた。典型的かつ理想的な右大臣である。
『だからこそ君との接触と提案……当初の予定を承諾してくれると私は考えていたのだけどね?』
「失望致しましたか?」
『驚愕はしたよ』
蛍夜環という人物を新たな贄巫女として、前任は廃棄して要として挿げ替えて、そして最期には最低限一邦の安全を確保して扶桑国の存続を確立する……その運命を選択する提案、その認可、そのための協力要請をしかし、右大臣は拒絶した。拒絶されてしまった。
『……今更仕方ない。私は与えられた権限の逸脱は出来ない存在だ。右大臣殿が直接提案を拒否すると言うならばそれに従うしか他ないのが私の立場だ。受け入れるしかないね』
嘆息してげんなりとする旧都の管理運営機能。その端末。提案を持ち掛けて、即座に事態の確認のためにより踏み込んだ仔細を問われた問われた端末は、洗いざらい真宮の状況を、知り得る情報を報告するしか無かった。
「それを容れた上での結論がこれですか。……自分も、正直意外に感じております。このような下賤の身を其処まで配慮して頂けるとは」
そして部屋に響くは第四者目の声音。この中ではある意味一番の部外者にして異分子……即ち元下人で妖母因子持ちな俺である。勾玉を離して姿を現した此方に向けて大臣と大宮司と、そして何より野辺の何処か不満のある視線で以て一斉に射貫いて来る。
さてさてこの反応は招かれざる……というよりは招かざる得ぬ客人というべきかな?何にせよ、心から歓迎はされていまい。少なくとも大宮司と野辺からは。
「……堕神殿が反対しているとなれば致し方ありません。僅かな会話でしたが貴方様の性分は良く理解しました。神格らしい、頑固者ですね?強硬しようとすればどれだけ妨害される事か……。それこそが魑魅魍魎の思う壺というものです」
右大臣は諦念の混じった物言いで呟く。その上で更に続ける。
「野辺より聞きました。堕神殿に対して、連中共より随分と不埒で背徳な自治区の提案があるようですね?」
「……」
『私は彼に問われたら嘘は言えないよ』
右大臣の指摘に俺は非難の眼差しを向ける。大臣の傍らにて欠伸の真似事をしながら野辺は悪びれる事なく認める。
「……お伝えし忘れた事、謝罪致します」
「いや。構いませぬ。疑念を抱かれる可能性を思えばまだ伝えるは早計と考えたのも無理はありませぬ。それに……都合も良い」
最初の接触時に鵺から伝えられた提案を共有しなかった事への謝罪に対して右大臣は納得すると共に僅かに口許を釣り上げる。
「野辺の推測ですが……自治区の範囲は円状に三、四里と言った所でしょうか?」
「半径三里の円状に、だそうですよ」
「芳醇な央土の地から切り抜いてですね?なれば十万……詰めれば十五万は養えそうですね?」
ふむふむ、と口元に手をやって考えに耽る右大臣。
「……誓約です。凡そ二万人分、此方が選ばせて貰っても?」
「やはりそう来ますか」
牡丹の以前提案した案件を思い返して気が合いそうだと思った。民草の選別である。畜生な事だ。
「どの道、野辺殿の選び取る道筋の場合、威瀬邦以外は全て失われる事になります。九割方の民草は見捨てる訳です。ならば……かなり保守的に思考を設定されていると見ました。危険回避を最優先した判断基準を設けていますね?」
俺の内心のドン引きを読んだように大臣は語り、そして野辺に向けても問い掛ける。
『そんな私の設定を彼の日神に逆手に取られている……というのが右大臣から見た評価かな?』
「……実の所、私も相当迷いました。ほんの釦の掛け違いで何方にも転び得たでしょう。今でも正しい選択肢であったのか悩んでおります」
ですが、と。野辺と語る大臣は再度俺に視線を向ける。
「……私は意外と勝負師であるようです。最低限自治区の保証があるのならば、威瀬一邦を賭金にしても他の可能性を追求するのも悪くないと考えました」
『此方としては余り冒険はして欲しくないのだけどねぇ……』
愚痴るようにぼやく野辺。尻尾をやはり不満げに揺らす。
「其処は何卒御容赦を。……堕神殿。気に掛けている案件は認識しております。お座り下さい。此度のために弄ばれた神職と巫女子について、此方から処遇の提案をしても?」
「……元よりそのために来たものでしてね?」
そして俺は数歩歩み寄りて輪の中に参入する。胡座をして視線を合わせる。信用を見せるように腰を据える。
……罠が仕掛けてたら逃げられるかなぁ?
「して……色良い返事は頂けますでしょうかね?」
「堕神殿が何処までを望んでいるのか知れませぬが……刃傷沙汰それ自体は斎宮殿に広く知られてしまっているとなればお咎め無しとするのも怪しまれましょう。行方不明となれば尚更です。なればそれを利用せんと思います」
「と言いますと?」
「蛍夜殿は一時御姿を消された。それについての咎もありますればそちらに抱き合わせようと言う事です」
ここで旧都の大宮司が発言する。恭しく一礼した後、続ける。
「鬼月、及び赤穂両家に恥を塗った下僕の某を、忠信よりて追い立てて手ずから誅した。そのように通達致しましょう。骸については信のおける者に口裏を合わさせまする」
つまり公的には処断済という事である。環の行方不明もまた尻拭いの自力救済、面子のためとして処理する訳だ。
「……朝廷としては良いので?臣が勝手したる事に変わりはないでしょう?」
「それが狙いです。勝手したるを理由に咎めて巫女子を差し出すように命じます」
「……成程。処罰と理由をつけて保護をするという訳ですか」
右大臣の狙いを俺は直ぐに見抜いた。大宮司が補足するように口を開く。
「そちらに付きましては神宮に対する大臣からの誠意として、荘園の婢として譲り受けるとします。……無論、形式的なものなので御安心下さいますよう。我らとしても巫女殿の御子にそのような仕打ちをするつもりはありませぬ」
厳のように険しい面持ちの大宮司は頭を垂れて俺に向けて伝える。実に重々しい声音であった。
「……承知しました。それで、実際の身柄は何処に?」
「我々が安全な場所に……といっても安心しないでしょうね?いや、それ以前に散々に利用された阿孫家の六男は気が気で無いでしょう。不信から下手な事をされてはそれこそ表沙汰になりかねません。なれば、安心出来る者の所に置くのが一番でしょう。つまり……」
そして右大臣は笏を此方に向けた。成程成程。中々にこの大臣は人の心を狙い撃つのが得意なようだ。
「可能ですね?堕神殿にも支援者が居るようですし、二人程手元に置くのは容易でしょう?」
「……謹んで承りましょう」
断る理由は無かった。そもそもが俺からの求めでもある。俺自身が受け入れる事になるのは予想外だったし、孫六の意思は分からないが……ここで話の腰を折っても仕方ない。
「……ある程度話は伺っております。アレは以前に仕えさせていたとか」
問い掛けたのは大宮司の老人だった。鋭い眼差しが眉の隙間から此方を射抜く。その問い掛けの意図を掴まんとして、しかし今一つ読み取れず、仕方なく俺は素直に応じる。
「……えぇ。良く働いてくれていましたよ。俺がまだ幾分か人間寄りだった時に生きていられた理由の一つだと思いますよ」
「成程。……つかぬ事をお尋ね致しますが、我らに向けた恨み言を零す事はありましたかな?」
「あれが人の悪口や呪詛を漏らしていた記憶は無いですよ」
野辺という上司の命のために、運命の生贄に使い潰すつもりだった部下への後ろめたさでもあったのだろうか?しかし、老宮司の物言いはまた別の感情が読み取れた。これは……いや、俺には関係の無き事だ。
「それは誠に良き事で。……本来ならば、まだまだ教える事数多ある身の上で御座います。隅まで手の回らぬ所はあるかと存じますが、何卒遠慮なく使って下さいますよう……」
そして大宮司は頭を垂れた。老人は俺を確かに神格として扱っていた。ははっ、洒落にならんな。
「……右大臣殿。他に私の必要な事は?」
「鬼月、赤穂両家に対しては此方で手を回して置きますので御安心を。誓約についてはまた次の機会に色良い返事を待っております。……蛍夜環殿について、此方でも目を配っておきましょう」
即ちこの地で見聞きした要らぬ事が左大臣に伝わらぬように手を打っておく、という意味であった。
「手荒な方法は控えられますよう。左大臣の動きが読めなくなります」
「それ以前に彼女の内の力がどう反応するか知れませんしね。穏当に穏便に、対応しましょう。……さすれば左大臣も無茶な事はしないのですね?」
「今の所は、でしょうがね」
「今の所は、ですか」
その意味を互いに重々理解し合い、俺は一礼と共に背後に下がる。
『案内しよう。私が導かないと延々と敷地を彷徨う事になるだろうからね』
何処から現れたのか、新たな野辺の個体が足下にて語り掛ける。胡乱な視線で見下してから、俺は不承不承にそれと共に部屋を退出した……。
『……もう大丈夫だ。彼は此処から去ったよ。しかし……君は右大臣としては中々に甘いね?』
堕落神の眷属の退出。暫しの室内の静寂。それを破ったのは野辺であった。同伴させた別端末からの情報で堕神にして眷属たる男がもう身を隠してここにいない事を明確に伝える。伝えた上で右大臣に向けて端末は問いを投げ掛ける。此度の一連の事案に対する右大臣の判断に対して……。
「やはり、私は右大臣として不適格と思われますか?」
『先程も言ったように其処までではないね。そも、私には任命権は無い。出来る事と言えば教育をする事だね。しかし……君は頭が回らない訳では無いらしいからねぇ』
右大臣を見上げながら困ったように溜息を吐く野辺。単純に短慮で愚鈍であれば教えればどうにでもなろう。問題は能力は基準を満たしているが判断基準が異なる場合だ。
『私の権限では強要は出来ないけど助言は出来る。私から言わせて貰えば君はもっと理詰めで容赦というものを捨てるべきだ。それこそ、主君に対してもね?』
「それは朝臣の口にするべき言葉ではありませんね』
『建前としてはね。今に始まった事でもない。……君があの幼帝を護り敬うのは傀儡化のためと認識していたのだがね?』
野辺は探るように大臣を覗く。この管理運営機能はその観察眼で以て幼きこの国の君主がどれだけの信と情を若き大臣に抱いているのかを見透かしていた。理想的なまでの傀儡の下拵であると野辺は評価していた。
「傀儡化等と……恐れ多い事です。私は唯、勤王報国のために尽くすのみであります。今でこそ帝に強いる事もありますが、それも帝自身の身と御立場を守るための致し方無き事。一刻の専横に過ぎませぬ。刻が来れば、帝の権威のためにこの身の断罪すらも受け入れましょう」
それは美辞麗句ではなく、心からの本音であった。右大臣は決して私利のみで動く事はなく、また己の行いを弁明しようとも思っていなかった。仕方なき事でも罪は罪。己の罪は尚の事厳しく感じていた。己の立場を断罪させる事で帝の権威を高める事すらも計画の内に含む程であった。
『忠君報国、ね。それは果たしてどの君に対してなのだろうね?』
「……?」
『さてさて。彼も去った事だしこれについて連絡しないとね?』
野辺は大臣が問う前に議題を変える。議題を、より優先かつ重要な案件に変更する。追加で部屋に足を踏み入れる数体の野辺達。口に咥える、あるいは背に背負う風呂敷……。
『クパッ。よしよし、これを広げて……』
器用にその場で風呂敷を床に広げて行く野辺達。現れるのは幾重に封印された木箱である。飾り気のない質素で封符の仕込まれた木箱。その封印を幾重にも剥がしていく。箱が姿を現して、そして蓋が広げられる。
緩衝材に護られた神楽鈴の鈴玉が合わせて十四個。嘗て北土において引き起こされた河童騒動、地下にて見つけ出され朝廷に献上された翡翠の石柱。その中でも特に密度の高い一部を砕き、削り、掘り起こされて形成された逸品である。
……そして、濃厚で禍々しい瘴気と神気が封じ込められた出来立ての特級呪具でもある。
『検分するかい?』
「私には呪具への見識はありません。ですが……よもやここまでとは」
大臣は思わず見下ろして息を呑む。霊術の欠片も知らぬ身の上の貴人から見てもその尋常ではない気配を察する事が出来た。
即ち、それ程までに危険な代物という事である。
『君の提案の通り、製作したよ。仮巫女に蓄積された日神の呪詛と、それを貪った蛍夜の姫の力を封じ込んだ代物だ。……神格封じのための神楽鈴をよもやこんな使い方をするとはね』
「謙遜を。付け焼き刃の素人意見を実際に実現して見せたのはそちらでしょうに。随分と手慣れている様子でしたね?」
『類似の事例が無くもない。……上手く成功したのは条件が良かったのもあるけどね』
そして双方共改めてそれを見下ろす。その内に禍々しさを封じ込めた鈴玉を。鈴玉の形をした呪詛爆弾というべき代物を。
「効果の程は?」
『此方の巻物を後で見るといい。視覚的記録を封じている。試しに一つ、試験場で起爆させて見たけれど、中々の代物だ。一つだけでも戦術的に相当な効果を期待出来るよ』
それは右大臣が蛍夜環の贄巫女への選定認可を却下した際に共に提案した意見。その結実であり実現物であった。
「日神の呪詛を蛍夜の姫の力で純粋な神気へと還元、翡翠鈴を携帯可能な器として保存して、破壊と共に放出する……といった所ですか?」
『正確には違うね。彼の水子神の力と日神の力の対消滅によって放出される力を着火するんだ』
「私は専門家では無いので理解し切れませんが……運用上の問題はありませんか?」
『松重の翁殿とも理論については相談した。起爆後の調査もね。元霊脈を傷つけずに済む点と事前準備や場所の制約が無い点も含めて霊欠起爆よりも使い勝手も良いと言える。成功の類だよこれは』
端末は満足といった表情をあからさまに浮かべる。実際それ程までの評価であったと言える。
『これを作るためという意味では確かに蛍夜の姫を贄巫女にしない方が良いんだろうね。彼女を巫女にしては呪詛を濃縮出来ずに貪られ続けるだろうからね』
あくまでも溜まりに溜まり、濃縮に濃縮を重ねた呪詛を一気に流し込むからこその衝撃である。仮に蛍夜環を仮巫女として地下にて祀っていてはこうは出来なかったであろう。その意味では……確かに右大臣の選択は一定の利があった。そう。蛍夜環の力を巫女を祟る呪いの煮凝で融合させて翡翠に封じ込めて兵器化するという意味で。
「生産効率は如何程と?」
『二年……いや、一年もすれば仮巫女は肉塊に元通りさ。其処で収穫する事になるだろう。年一五発という事になるね。威力を思えば悪くない。凶妖とて直撃すれば唯では済まないだろうね。各地の禁地に居座る手出し出来ぬ連中の駆除として有効と見ているよ』
そして、野辺は気箱に手を触れて続ける。
『ふぅ……。七珠、そちらで持って行くといい。此方で七珠、預かる事にしよう。君達のせいでこの旧都の護りも万全と断言出来なくなった。此れくらいの保証は必要だろう?』
「良いでしょう。此方としても目下としては七珠あれば十分でょう。それだけあれば、最悪でも対応出来ると思われます」
恐らくはそれ自体も呪具であるのだろう、巾着袋に一珠ずつ細心の注意を払いながら納めていく野辺達を一瞥して、右大臣は応じる。
『……そうである事を願いたいものだね』
「貴方の権能ならば新たに敷かれた未来の道程も観測出来るのでは?」
『不可能では無いけどね。今となっては何処まで信用出来る事やら。干渉を受けて刻一刻と変質しつつあるのが分かるよ。彼の日神は合意を反故にされて大分御立腹なようだね』
悠然と紡がれる深刻な事実。その黒い真珠の眼球は揺れ動く結末を確かに映し出していた。余りにも不確定で不明瞭な未来を……。
「重ね重ね、御心労お掛けする事申し訳御座いませぬ」
『私に心と言えるものがあるのかは怪しい所だが、気持ちは受け取っておくよ。……それに、直接的では無いけれど対策も既に立てている』
「……?」
鈴珠を納めた巾着袋を差し出して、野辺は宣う。右大臣が困惑の眼差しを向ける。野辺は無表情な面構えのまま声だけほくそ笑むような音調で、大宮司を向いた。
『奉幣の寄進物に丁度良いものがあったからね。悪足掻きに使ってみようと思う。あるいは嫌がらせかな?大宮司殿、後程地下に運び出して貰うよ?』
「御意に」
大臣は野辺と大宮司の会話に首を傾げる。はて、献上品の中にこの嘗ての陰陽寮頭殿が唸る程のものがあっただろうかと訝る。
『勉強不足……というには酷かな?専門外の知識は家臣で補うといい。あの狸殿ならば、寄進した一覧を見せて問えば気付けると思うよ?』
「我妻殿ですか。……地下では大分可愛がられたとか?」
『相性がトコトン悪かったね。だけど中々の手練れだ。手元に置いておくと良い。得難き人材だ』
「その評価、彼女への慰めになりましょう」
正確には機嫌取りかも知れぬが、とも堅康は思ったが口にはしなかった。堕神たる元下人に同行させた方が幻術の効かぬ触手に散々に追い回られたのもあってかあからさまにドロッとしていた。粛々としていたが付き合いのある彼には分かった。目茶苦茶不機嫌であった。入浴を命じて、自ら茶を煎じ、甘味も用意して労った。しかし、今少し埋め合わせが必要であろう。
『此度の事案を企てた私が言えた義理では無いけれど、女子の扱いは丁寧に丁重に敬意を以てだよ。女というのは表裏が反転する時が一番怖くて容赦無いからね』
「実体験で?」
『ある意味では、ね?』
些かお道化るように野辺は宣った。大臣が釣られるように小さく笑う。大宮司は相変わらず厳粛に沈黙を守る。当の野辺は大臣よりも大きく笑う。そして……思う。此度の廻り合わせを。
(余りにも出来過ぎているね?)
そうだ。余りにも機会が良すぎた。それは此度の寄進物だけではない。前年の神楽鈴の翡翠もまた同様であった。余りにも余りにも、それは都合が良すぎるように思われた。まるで見えざる運命に導かれたように思われた。日神か?それとも他の力を残した魑魅魍魎共の演出か?
いや、協力を取り付けた松重の翁と交えた情報交換での内容を念頭に置くと、この覗く未来の一筋から逆算すると、あるいは……あるいは?
『……成程。そういう物語な訳か』
そして結論を導き出した野辺の漏らした呟きを、しかし誰も耳にする事は無かった……。
ーーーーーーーーーー
『目隠はっと。それに位相も……よし。此れで擦り合わせは完了だ』
足下であざとく脛に頬擦りし終えての野辺の発言であった。
ここは旧都外縁部。迷宮のように入り組んだ結界の秘密の出口。野辺により目隠されて、位相をズラされた上で複雑な要の手順を踏んで、漸くは俺は旧都圏と言える範囲から退出する事になった。
……いや、退出というよりは追い出されたというべきか。目隠しを剥がした眼に映り込んだ野辺は何処か安堵しているように見えた。まぁ、本来俺のような存在を何時迄も旧都の敷地に置いておくのはこの機能の存在意義からすれば不本意でしかないだろう。ましてや本来招いた理由すら果たせなかったのだから尚更だ。
『其処の鳥居を抜けたら出られるよ。……あぁ、巫山戯て横からは抜けてくれないでくれ。またややこしい道順を辿らなければならなくなる』
「餓鬼じゃあるまいに……。安心しろよ。此方だって足がヘトヘトだ」
誂うように宣って、そして一拍置いて俺は続ける。
「んじゃあな。……二度と会わずに済みたいものだ」
嫌味無しの本音であった。恐らく次会うとしたらバッドエンドな状況の時である。そんな状況に陥りたくはない。
『……いや。断言しよう。君はここにやって来るよ』
野辺の言葉は明白な確信が籠もっていた。その意味を俺は即座に察する。
「……覗き見か?」
位相をズラしてまた未来をカンニングしたか?だとすればその意味は……。
「糾弾か?それとも、俺への命令か?」
新たに観測した最悪を未来を変えろという暗に要請していると考えるべきか。神格擬き故に、我儘を押し通した故に、その分血反吐を吐けという事か。
『其処までは言ってないよ。それに、君が思う程悪い意味はない。……今の所はね?』
「今の所は、ね」
一々不安になる言い回しである。発言する奴の信用が出来ないから尚更だ。やれやれ、果たして何を観測したのやら……。
「内容は教えて貰っても?」
『君は頑固者だからね。少しでも気に入らないならまた彼是動くだろう?』
一度言葉を区切り、幾分か考え込んだように振舞って野辺は続ける。
『……私の基準から見ると新たに設定された先々の流れは悪くはない。君に下手に教えてこの流れを台無しにしたくない』
「だから言わないと?」
『どうしても、というのならば土壇場で頑張る事だ。尤も、それすらも私の観測した流れの内かも知れないけどね?』
「カンニング……」
カンニングしないと逸脱したのか分からないからな?そう口にしようとして俺は其処から先を口にするのを留まった。そして気が付く。乗せられかけた事を。
だってそうだろう?俺は断片的であれ未来が見れる事になっているのだから。俺がこいつに先々について翻弄されて機先を制されるという事態はあり得ない筈なのだから。
「……まぁ。頑張って先々を覗き見るさ」
苦笑して宣う。嘘は言っていない。神格擬きの身の上である。滅茶苦茶頑張ったら実際未来を観測出来るかも知れない。頑張ったら。……大丈夫だよな?
『……はぁ。じゃあ、そういう事にしておこうか』
俺を口撃する口実を失った事に対してか、あからさまに溜息を吐く野辺であった。御生憎様である。
『一々刺々しいね。……君、私の事が嫌いなのかな?』
「好意を持てる要素が初接触して以来ここまでにあったか?」
『酷いなぁ。一応間接的に私は君の父親な筈だよ?』
「……冗談はよせ」
未来を観測した結果か、あるいは俺の状況等から予測したのか、野辺は自身の大本が俺の生まれる過程に干渉していた事に勘づいているようだった。いやはや……勘弁してくれ。
『じゃあ、母?』
「冗談ではないっ!」
『凄い否定ぶりだね』
「当然だわっ!」
速攻の否定と愚弄。思わず鳥肌が立った。あり得た可能性故であった。あの亡霊ならば人体改造で自ら背孕み実験なんて考えても可笑しくなかった。想像する。アレを母親と?何も知らずにアレに母と呼び掛ける幼い己を思い浮かべる。……吐き気がして来た。うえっ。
『傷つくなぁ』
「はっ。どの面下げての言葉だよ」
これ以上の会話は無用であった。襤褸が出かねない。俺は踵を返す。そして其処に纏めた荷物を背負う一人の男……俺と共に野辺に此処に導かれた孫六の姿を見出す。
「悪いな。無駄話して。……幾らか代わろうか?」
「い、いぇ……!!雑用は、俺の仕事ですからっ!」
荷物を幾つか預かろうかと提案すれば屈托ない笑顔で以て孫六はそのように応えた。遠慮でも恐縮でもない。心からの本音に見えた。
「そうか。……無理はしなくて良いぞ?どうせ迎えが来る。そうだよな?」
『えぇ。そうね』
『いぇーい聴こえてるー?』
鳥居に向かって歩みながら俺が誰にとも言わずに問い掛ければ耳の内からの返答。耳内に巣食う救声音は桃色な姫君のものである。
『厄を送っておくねぇ?』
『澄影をそちらに向かわせているわ。共々背負われて……下僕の回収のための寄り道もあるのかしらね?無事に終えて帰って来て頂戴。皆で待ってるわ』
「あぁ。帰るよ」
『因みに兎と牛と猫、どれで迎えて欲しいのかしら?』
「……」
『あら、牛が良いのね?ふふふ。私の勝ちね。期待して頂戴。愉しみにしておくわ』
「勘弁してくれよ」
『兎なら年増で猫なら被虐娘だったよぉ』
此方の微かな機微を察しての葵の応答に俺はぼやくしか無かった。ぼやきつつも脳裏に桃色な……というか牛柄な光景を既に思い浮かべてしまってる時点で自分自身色々と手遅れな気がしないでもない。
『いひひ。視てるねぇ?』
「旦那?」
「あー、帰宅先についてだが、正直色々と突っ込み所やら見てられない所はあるだろうが……その辺りは我慢してくれよ?」
『焦れてるねぇ?』
孫六の訝りも孕んだ不安げな眼差しに俺は軽口を装って事前に予告する。みっともなさ過ぎて見ていられない、程度で済めば良いのだが。毬を連れて来る場所としては中々教育に悪い気もする。実態を理解したらどう思われるかな……?
『早く出てこいって』
「……妹共々、謹んで承ります。旦那の元で仕えられるのならば何処でだって向かいますぜ?どの道、他に行ける所も無いんでしょう?」
『手ぐすね引いてるねぇ』
孫六は一瞬だけ考え込んで、しかし不敵に笑みを浮かべて応じて見せた。今度は俺が刹那に呆気に取られた。
『このまま一件落着って』
「……忘れるなよこの野郎?絶対後悔するからな?」
「させてやる、じゃない所に旦那の苦労が伺えます」
「止めろ。その言葉は俺に効く。……良かったんだな?俺の所で。やろうと思えば、他の道もあった筈だぞ?」
『そんな訳ないよね?』
鳥居の前で立ち止まり、俺は最後の確認を問うた。それは俺の元に着いていくという選択肢の提示だった。
『お前も過去に向き合え』
左大臣が俺に貸しを作る目的で孫六達を押し付けたのは分かっている。逆に言えば大臣からすればその逆の選択もあった筈であった。保護してやると上から目線で兄妹共々手元に置いておく事も出来ただろう。
『思い出せば良い』
「巫女様に尽くしてたんだな?傍に居たくなかったのか?」
『目にすれば良い』
公的には斬られたとしても、地下に閉じ籠もり巫女に仕える道もあった筈だ。孫六が逃げ出したのは毬を守るためで、その毬の安全も約束されているのならばそれも一つの手である筈だった。
『己の選択の末路を』
「……巫女様とは既に話しました。それで十分です。それに毬が寂しがっておりましたので。旦那にまた会えるとなれば喜びましょう」
「健気な奴め。自分の幸せを優先しても良いんだぜ?」
『己が呪った結実を』
巫女のために、毬のために、あるいは朝廷の都合で、神宮の都合で、野辺の都合で、その人生を翻弄されて流浪で下賤の立場に甘んじている孫六への助言であったが……当の孫六は苦笑した。
『その成れの果てを』
「旦那が言えた口ですかい?」
「前言撤回だ。生意気な奴め」
『貴方が始めた物語だから』
それで十分だった。孫六の覚悟を汲み取って、理解を示してそれ以上問うのは取り止める。侮辱というものだろう。鳥居を向き直る。
『全てを受け入れようね?』
「んじゃ。おさらばどすえってな?」
『そして後悔しよう?』
そして俺は一歩を踏み出した。踏み出して鳥居を潜った。
『逃げ出しちゃえ』
「うぉ……」
『今度こそ』
直後に全身で感じ取る結界を抜けた感触。漏れる声音は思わずに。それだけの変化であったのだ。
『背負わずに』
正確には変化と言うよりも普段のそれに戻ったというべきなのかも知れない。何にせよ明らかに場の空気が変わっていた。空気の甘味が薄まった感覚。土地全体から感じる圧迫感が緩まった気がした。目に見えぬ存在感の喪失。野辺の影響下から、その管理監督する範囲から脱した故であろう。そして…………いや何だ、この重苦しい気配は?
『そして私の元に』
「……っ!!?」
『今度こそ』
俺は冷や汗と共に振り返る。鳥居の向こうにて俺達を導いた野辺は居た。唯一個体佇んだまま、それは此方を黒真珠の眼球で見つめていた。
『貴方を迎える』
『まるで生贄を捧げるような行為なのは悪いけど、存在目的故に私には優先せねばならぬ事があるからね。……どうか上手く切り抜けられる事を祈っているよ』
「は……?」
『貴方に選ばせる』
野辺の淡々とした予告。あるいは手向けであった。無感動に無感情に切に願う憐憫の言葉を紡いでいた。俺は呆然とする。そして足音と気配に正面を。
『私を選ばせる』
先程まで居なかった人影が其処にいた。先程まで居なかった女が其処に佇んでいた。そして……此処に居る筈の無い彼女が此処にいた。
『他の誰でもない』
烏の濡羽色の髪をはためかせて、白と緋の装束を身に纏って、仄暗い紅色の瞳が真っ直ぐに俺だけを射抜いていた。口元を吊り上げて、恍惚としたように微笑んだ。
『私を選ばせる』
初めて見る幼馴染の顔が其処にあった。
『だから、ね?』
「何、で……」
『精々楽しんでね?』
俺は、唯それだけしか言えなくて。
『忌家の忌子を』
「やぁ。■■。……迎えに来たよ。さぁ、家に帰ろうか?」
『宿痾の子を』
唯唯その華奢な手の差し伸べて、鬼月の雛は俺を何処かへと迎え出た……。
『鬼の如き狂気を』
『鬼憑のように』
夫を迎えに来てくれる良妻賢母
因みに次章は舞台・視点が少し変わります