和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
第二四二話
物事は時を些か遡り、場所を北へと移す事となる。
……鬼月谷を本家の直轄として方々に所領・荘園を所持する鬼月家において、その地は大した価値の無き飛び地として認識されていた。
相続と売買により得た直接的間接的に権利を有する鬼月家の大小数十箇所の所領。それらの中でも其処は山間部の小村を中心とした猫の額程の土地であった。霊脈はあるものの貧相と言って良い代物で、これと言った特産品がある訳でもない。交通の便という意味では大きな街道から外れている程だ。何よりも鬼月家から見た場合其処は他領が間に挟まり鬼月谷からも比較して遠方の方にある地であった。
これだけの条件があれば鬼月家からは軽視もされようものだ。得られる税収、年貢も大したものではなく、正直な所鬼月家からすれば負債で無いだけマシ程度の土地であったのだ。
人口にして四百人余り。本村とは名ばかりの小村の他に更に小さな三つの分村からなる羽山村、そしてその一帯の山々からなる土地こそが、復興した羽山鬼月家に返還された領地であった。
そして……鬼月家本家四男が後妻の仮寓する地でもある。
「……」
羽山本村の山を背にした小さな田舎屋敷の一角、客人向けの一室にチョコンと座り込んだままに格子戸から遥か彼方を見つめる少女。鬼月小鼓は心ここにあって此処にあらずと言った風であった。
事実、半ば己から謹慎している彼女が想うのは鬼月家本家、其処に残る残毒の身の上にある夫の事だ。それで一杯であった。
七日七晩の苦悶の苦闘。状況が状況故に下手人として訝しがられて一時は屋敷の一室に目付を充てがわれて幽閉すらされた。漸く夫に再会出来たと思えばその有様に彼女は労りの言葉すら言えずに絶句してしまった。これがあの夫であるのかと目を疑う程の変貌であったのだ。
『弁明の言葉すらも吐けぬか。余りにも愚図な事よな。嘆かわしい』
冷淡に突き放す言葉と共に命じられたのは羽山鬼月家領への預り。表向きは避寒……建前である事は明らかであった。己が鬼月家において信を喪ったのだと小鼓は思った。羽山鬼月家に辿り着く前に殺される事すら覚悟した。
「……旦那、様」
沈痛に呟く小鼓姫。その綴る瞼の裏に思い浮かぶのは窶れ果てて目元の窪んだ夫の姿。頬骨すら浮かぶ程で酷い隈の出来ていた。今すぐにでも介助して支えねばと思い、しかし咳き込む夫に触れる事すら恐ろしかった。寄ろうとして怒鳴られるのが怖かった。拒絶されるのを恐れた。そして何も出来ずに其処に佇み不興を買って……。
……あぁ。何て情けない女なのだろう。
「うぅ……」
呻くように漏れる嗚咽。真珠のように零れ落ちる涙。それを拭いながら更に己を蔑む。何も身に苦しみの無い癖に嘆く己が尚更疎ましかった。どうしてこうなってしまうのだろうと自己嫌悪する。
「奥方様、宜しいでしょうか?」
「っ……!?少し、お待ちなさいっ!!」
障子越しに呼び掛け。慌てて涙の跡を拭う。情けない姿を晒さぬと心掛ける。
「お入りなさい」
「失礼致します。朝支度のために参りました」
やっとこさ許しを得て入室した屋敷の女中達は本家の者と違い垢抜けず、美貌という意味でも今一つではあった。そも、羽山鬼月家で雇う下男や女中に専属の者はほぼ居ない。村の者が手隙でやっている者が殆どであった。人も金も潤沢では無いから当然である。
「それでは……宜しいですね?」
「はい。頼みます」
中高年の女中達は些か荒っぽく、逞しく、華奢な小鼓の世話をする。髪を解き、着替えをさせ、化粧をして、身嗜みを整える。その手付きは決して洗練されたものでは無かったがこの地でそれをとやかく口にする者は居なかった。それは今の羽山鬼月家の立ち位置故である。
本家より離れた飛び地の猫の額程度の地である。捨扶持として面倒者、厄介者を一時的に預けて押し込めてしまう所として今の羽山鬼月家はその立場を固めつつあった。より正確に言えば自らがそれでもある今代当主がそのように誘導した嫌いがあった。
「それでしてねぇ。家の子ったら生意気で……」
「本当にねぇ。年頃になると口煩くなって。何でも口答えするでしょ?挙句こんな黴臭い村なんてって」
「そうそう。団蔵さんの所の話聞きました?婿選びに領主様の連れて来たのを選ぼうとして弟子達が文句を言って勝負する事になったとか?」
「あら。それでしたら薬師の所も……」
「あらあら。それはまた……」
小鼓姫の朝支度をしつつ、井戸端会議染みて噂話にかまける女中達。決して人の多くない領地である。何かあれば話はあっという間に広がっていくものだ。特に、新たな領主が据えられてからは彼女らに噂話の種は事欠かなくなっていた。
同時にそれは彼女達なりの配慮でもあったのだろう。立場上容易に外を出歩けぬ小鼓姫に対して退屈凌ぎという側面があった。
「さぁ、こんな所でどう御座いましょう?」
粗方整えて、鏡を差し出して確認を求める女中達。一通り己の身嗜みを見て、小鼓姫は出来栄えを承諾した。所々に雑味はあるがどうせこの屋敷は片意地張るような気風では無い。領民へのけじめとしてはこれでも十分であろう。そも、小鼓姫の実家は小身である。羽山鬼月家と比べても台所事情や空気は変わらない。鬼月本家の後ろ盾と助力を思えば幾分か此方の生活の方が良いくらいであった。
……尤も、表向きには手厳し気に振る舞うけども。
「……まぁ客人が来る予定も無いので良いでしょう。御領主方からは何か?」
「特段普段と違う事は……。何時もの通り、半刻程後に主殿で朝餉をと。此方に持って来させても構わないとも仰せで御座いますが」
その言に内心で小鼓姫は苦笑する。鬼月本家では有り得ぬ提案であったからだ。可能な限り一族の者は朝昼夕を共にというものは決して仲が良いからではなく毒殺を含む暗殺の牽制のためであった。皆が同じ釜の飯、同じ鍋の汁を飲む事で己の潔白を証明するのだ。食事一つ取っても重苦しい空気が満たしていたものであった。
(そう。だから…。)
もう鬼月に嫁いで何年も経ているというのに、そんな基本を忘れて軽率に甘味を夫に差し入れた故に小鼓姫への嫌疑は尚更のものだった。その意味では責められても仕方ない事であった。
「……」
「奥方様?」
「いえ。……問題ありません。心遣い有り難くも、出席すると伝えて下さい」
悠然と装い、小鼓姫は宣う。背筋を無理にでも伸ばし堂々と振る舞う。
「では、そのように」
果たして何処まで物事を理解しているのか、やはり少し精彩の欠く所作で女中達は頭を垂れて退出した。一人部屋に残される小鼓姫。人気が去ったのを認めて吐息を漏らす。吐息漏らして、立てられた手鏡を当てもなく見つめる。其処に映り込むのは物憂う自らの姿。
名門鬼月の本家筋に嫁いだ身としては、余りにも未熟で頼り無き、世間に疎き小娘の風貌……。
「……」
名状し難き嫌悪感から、幼妻は気付いた時には己の映す鏡を伏せていた……。
ーーーーーーーーーー
屋敷の裏手の庭先にて、鍔迫り合う音が鳴り響く。二人の影が重なり押し合う。
一人は若い青年であった。後ろにて纏められた黒髪が機敏な動きに揺れ動く。空の切る音と共に振るわれる槍は目にも留まらぬ程だ。
今一人は面をしていた。飾り気のない男面であった。面が見えずとも青年よりは二回り以上歳を重ねているのは分かる。動きは何処か歪でぎこちなさがあった。五体満足とは到底言えぬ振る舞いであった。
にも関わらず、その槍捌きと立ち合いは決して青年の一方的ではなかったのは青年が愚図で未熟であった訳ではない。その逆であった。男面の者がそれだけの業前であったからだ。
「ほらほら、御領主様よ!俺みたいな雑魚に手間取ってちゃあ様ぁありませんぜぇ!?女子方が見てるんですからもっと良い所魅せませんとねぇ!?」
「くっ……!?」
そんな事を宣いながら男面が槍を振るう。変則的で鋭い足捌きは、寧ろ片足が不自由である事を取り入れた体術的な工夫の上にあった。身に負担をかけず、重心移動と遠心力を重点に置いた動きは実の所一流が見れば一定の法則を見出し得たが相手をする青年相手ならば小手先の欺瞞も織り交ぜて十分に欺瞞出来た。
即ち、男面の者が武の経験豊富である事を意味していた。
「っ!?ぐっ!!?こ、のっ……!!?」
薙ぐ、払う、叩く、突く、振るう。多種多様な槍の攻勢を捌いていく。紙一重に。
単純に力負けしていた。遠心力、梃の原理、それらを経験則的に身につけての槍の攻勢は実際の膂力以上のものがあった。其処に技巧が加われば劣勢に陥るのも仕方ない。
「っ……!ならっ!!」
青年も無能では無かった。僅かな隙を見て体勢を立て直す。気配を薄めて独特の足捌きで以て立ち位置を変える。男面の死角に即座に忍び込む。だが……。
「何故っ!?」
「何故ってぇ!!視界にいねぇなら死角にいるって事でしょうが!?」
槍の一撃を咄嗟に柄で凌がれて、其処に体重を乗せられて青年は姿勢を崩した。其処に肘で胸を小突かれて、咳き込む青年。距離が出来るのは却って槍を振るう空間を生み出す事となった。豪快に振るわれる槍による足払い。転げる青年。振り向いて青年に槍の穂先を突きつける。
……その先に青年は居ない。
「ありゃ。負けましたか」
地面に倒れ伏した状態で、それでも身を翻して位置取りする事で相手の槍から逃れつつ逆に喉元に鍛錬用に布を巻いた槍先を突きつけていた青年。その姿を視界に収めて、当の男面は得物を捨てて降参した。青年も、吐息を漏らして立ち上がる。
……不意打ちの殴打を身を曲げて空振らせる。
「流石元隠行衆ですねぇ」
「実用的ではあるけど、余り気分が良いものじゃないね、梔子」
口笛を吹いて最後の卑劣な一撃を悠然と凌いだ領主に向けた元下人の賛辞であり、肩を竦める領主である青年であった。
日課たる朝早くからの半刻近く続く鍛錬。その仕上げである梔子と鬼月黒羽……羽山鬼月家の唯一の相続人であり、元隠行衆葉山であり、最近になって漸く家の相続を認められた青年の手合わせの終いであった。
以前は梔子が黒星を挙げる事の方が多かったのだが今では半々、その内に梔子が勝ち得る機会も無くなるだろう。少なくとも梔子自身はそのように自覚していた。いや、そもそも……。
「俺の足下攻めれば勝つのは容易でしょうに。貴方も物好きなこった」
「鍛錬ですから。相手の弱点を突いてばかりでは成長出来ないでしょう?」
黒羽の言は鍛錬の目的、本質を突いていた。
元下人衆の班長であり、その足が満足に動かぬ有様となり果てた後には永安院に流されていた梔子を嵌め倒すのは実の所、黒羽でも難しくなかった。しかしそれは何ら鍛錬に寄与する事はない。
実戦の死戦ならば相手の弱点を徹底的に突けば良い。卑怯卑劣も上等だろう。しかし鍛錬で見え透いた弱点を狙い澄まして容易に勝てたとしてもそれは自己満足というものだ。その弱点さえ無ければ黒羽が招き寄せた梔子という男の腕は到底油断出来るものでなければ確実に勝利を確信出来るものでもなかった。そしねそれに打ち勝ててこそ鍛錬を重ねる意味があるのだ。
「自分としたら手加減されてる気分になって何とも言えませんがねぇ?」
「それも仕事の内でしょう?それとも、今の待遇に不満が?」
「……まぁ永安院よりはマシですかい。やれやれ、仕え仕事ってのは自己都合でやれないのが辛いもんだ」
げんなりとそう嘯いて、梔子はその場に座り込む。余り長く立つのは彼にとって負担であった。それ故の速攻・短期決戦が今の彼の戦法であった。そしてこれでも梔子という男の腕は領の男衆共では先ず勝てぬ程であった。自警団の武の指導役という立場は御飾りではない。
「葉山……」
「ん?あぁ、有難う」
梔子と言葉を交えていた所にかつての仮名と共に差し出される濡れた手拭い。冷たい井戸水に浸して絞ったそれを受け取りながら黒羽は差出人に謝意を述べる。即ち己の胸元程の背丈もない少女に向けて。
羽山鬼月家預りとなり、そして秘密裏にこの羽山鬼月家に下る事になった蓮華家の本家筋唯一の生き残りに向けて。
「んっ……」
「桔梗姫様、因みに自分には?」
「……」
「流石に慣れて欲しいもんですがねぇ?」
梔子が呼び掛ければ無口な少女はさっと黒羽の背後に隠れてしまう。そして非難がましく梔子を睨むのだ。この流れは今回初めてという訳でもなく、実の所もう恒例だった。
「葉山……虐めた」
「虐めてませんよ。鍛錬ですって。ねぇ?」
「ははは。……そうですよ。桔梗姫。同意の上での事ですから、そのように見ないでやって下さい」
「むぅ……」
この説明も何回もしているのだが、やはり桔梗姫は納得出来ていないようであった。鍛錬というには余りにも鬼気迫る荒々しい槍捌きであった事も理由だろう。蓮華家は武具を使う家柄では無かったそうだから尚更そう見えるのかも知れない。
「僕の事を心配してくれるのは嬉しいんですけどね。小身の分家となれば屋敷でふんぞり返っているだけとは行きませんよ。……いざとなったら陣頭に立たなければ」
無論、そんな事が無ければ一番ではあるが……近頃は扶桑の各地で妖に纏わる騒動が頻発しているとなれば何時この地も巻き込まれるか知れたものではない。常在戦場の心構えが必要だった。
「大丈夫。私が頑張る……」
深刻に、そして静かに覚悟を決める黒羽を見上げての桔梗の宣言であった。ポツリとした口調ながら力強く、黒羽の装束を握り締めての言葉は硬い意志の発露であった。
尤も、黒羽としてはそんな桔梗姫の言葉を受け入れる訳には行かなかった。人として、そしてより冷徹な理由故に。
「桔梗姫、御気持ちは嬉しいですが……それは駄目です。貴女は、ここには居ない事になってるのですから」
相続人未定で宙ぶらりんの蓮華家の資産を巡る争いは未だに終わりが見えていないのは定期的な知らせで把握している。鬼月家が確保した桔梗姫はその鍵であり、その身は鬼月の内からも外からも危険に晒されている。鬼月の者すら信用出来ない。
女中の振りで屋敷を出して田舎故に、そして島流し先故に関心を向けられぬ羽山鬼月家にひっそりと保護されているのが今の桔梗姫の立場だ。彼女が此処に居るのを知っているのは鬼月家でも一部だけ。鬼月の大多数と他家の大半は今でも鬼月家本家屋敷の何処かに桔梗姫が匿われていると認識している筈であった。世話をする村の者達も世間知らず故に桔梗姫の身元を詮索するという考えすら埒外のようであった。村の者達は桔梗姫を貴人とは認識しつつも深い事情なぞ探る素振りもない。桔梗姫自身が家の名こそ言わずとも貴人である事を隠してないのも理由だろう。
現状、保護のための作戦は上手くいっている。桔梗姫が目立つ真似さえしなければ今日明日に気取られる事はないだろう。そう、目立つ真似さえしなければ。
「陣頭立って化物共焼いていけば嫌でも目立てるだろうぜ。そんで少し調べれば身バレって訳だな」
「……葉山。婚姻しよう?それで万事解決。相続問題、消える」
「誘拐から暗殺に手段が変わりそうな気がしますけど?」
梔子の補足に対しての桔梗姫の返答であり、黒羽の反論であった。尚、桔梗姫だけでなく黒羽も殺害対象となろう事は確定である。
「……信じてる」
「信じられても困りますよ」
切実で期待と憧憬を込めた眼差しに黒羽は困り果てて苦笑いを浮かべるばかりであった。実力は当然ながら、何よりもそんな眼差しを向けられるような人間ではないという自己認識からのものだった。
(それこそ、あの人だったら違うんでしょうけどね……)
脳裏に思い描くは幼い頃に頼りにして兄貴分として見てきた男の在り方であった。己が恥知らずにも恩を仇で返して、それでも尚救ってくれた人であった。彼ならば桔梗姫のような期待を向けられても乗り越えられるのかも知れないが……残念ながら黒羽は己が小さく纏ってしまっている事も、己の芯が彼処まで太くないのも自覚していた。
「葉山……?」
纏う雰囲気の機微に感じたか、陰気気味な気配を感じ取ってか、桔梗姫は彼の名を呼ぶ。黒羽は少し淋しげに微笑むのみだった。
場を、何処か居心地悪い空気が満たして……。
「あ、黒羽!やっぱりここにいたっ!!」
重苦しさを打ち破ったのは庭先に足を踏み入れた弓手であった。田舎の小村に似合わなぬ立派な狩衣を着込んで弓を背負う少女の姿。鬼月綾香である。彼女は満面の笑みを浮かべてそれを掲げて見せる。仕留めた野鳥を首を掴み吊るすように見せつける。
「見て見て!今日は大漁だったんだ!」
「綾香、見回り御苦労様。だけど……妖駆除より猟が目的になってないよね?」
「まさかっ!川辺に群れが居たから……多分、渡りに備えて腹に蓄えてたんだと思うんだけど……」
自慢するように獲物を見せつけた事に対する黒羽の勘繰りを、誤魔化すように空笑いする綾香。笑って、笑って、笑って……そして観念する。
「あはは……御免。最後の方少し逆転してたかも」
「素直で宜しい。……有難う。血抜きさせて、夕餉に食べようか」
そして互いに朗らかに苦笑し合う幼馴染同士であった。
「……」
「罪なお人だねぇ」
そしてそれを何処か不機嫌そうに睨む桔梗姫であり、離れた所で小声でぼやく梔子であった。羽山村の領主邸での、それが近頃の日常であった……。
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羽山鬼月家屋敷の主殿、その一室にて人が集まる。朝餉の刻である。
床の間を背にして、一番の上座に座るのは桔梗姫であった。そして次席、三席の座敷を其々小鼓姫と綾香が優雅に座る。桔梗姫は自家ではなく他家の者なればこれは礼儀として当然の事であった。
小鼓姫と綾香の対面に座るのは若い羽山鬼月家当主である。その傍らを梔子が占めた。当主の護衛であり、乱入者が現れれば賓客達の盾になれる位置であった。その更に隣には久賀猿次郎が居る。
明確に家老は居ない。執務を補佐する勘定人の老人が実質兼ねていた。百姓の代表として名主の男は壮年で農作業で鍛えられている。この二人が実務の面で黒羽を支えていた。
「整いまして御座います」
給仕の女中頭が頭を垂れて伝える。其々の前に供えられた配膳。湯気の浮かぶ一汁三菜。即ち飯に山菜の味噌汁、鮎の塩焼、山芋の甘辛煮、通草の味噌和である。漬物が其処に添えられる。
御膳を見下ろして黒羽が頷き、桔梗姫の方を向く。
「冷めぬ内に、どうぞ召し上がりを」
「……それでは、頂戴、致します」
恭しく桔梗姫が箸を取る。それが何時もの始まりの合図であった。詰まらぬ形式であるが礼節は大事だ。この屋敷で良くても下手に慣れてしまえば他所でも不躾な真似を仕掛けなかったから。これでも大分緩く甘いくらいであった。
「あれ?これは……出汁を変えた、かな?」
賓客たる姫君三人の膳は漆塗に朱塗の雅な碗である。味噌汁の碗を取りて口を当てた綾香が賞味してふとした感想と疑問を呟く。
「先日、橘商会の行商が来られたもので。茸ばかりと思いまして海の物をと鰹の節を。お口に合いましたでしょうか?」
黒羽が視線を向ければ隅に控える女中頭が綾香の疑問に応える。普段は山で採れる様々な茸の出汁を使っていたが今回は変えて見たらしい。
「あぁ、やっぱり。本家の屋敷に似た味だって思ったから。……えぇ、とても美味しいです」
笑みを浮かべて綾香が褒めれば女中頭も恭しく頭を垂れる。
「食後には同じく橘商会より仕入れました菓子と茶を用意して御座います。どうぞお楽しみ下さいませ」
「本当ですかっ!?」
その言葉に、女性陣は今度こそ歓声を上げる。此方の村での甘味と言えば果物や蜂蜜、甘藷を使ったもので、決してそれが悪い訳では無かったが鬼月本家程の屋敷に住んでいた彼女らの舌は流石に肥えていた。素朴な甘味だけでは流石にマンネリ気味であったのだ。
「やれやれ、姫様方ってのは甘いものに目が無いものだ」
「いや全く。……して、今日はどうです?また札か囲碁でも?」
女性陣の喧しさを抱き始める会話に猿次郎がぼやいて飯を食らい、鮎をほぐしながら隣の梔子が囁く。
「商会には助けられますな。以前の行商よりも品揃えも良く、値も良心的ですからな」
「いや、全くです。これも鬼月の威光、殿のお陰ですな」
そのように呟くのは勘定人と名主であった。二人は黒羽が此処に来てからの領地の変わり様、その精力的な政務の努力を知っていた。故に主と鬼月家に対して一際強く畏敬を抱いていた。
「……隠行衆頭殿の便宜のお陰だよ」
苦笑しながら黒羽は汁を啜った。家来というべき遥か歳上の者達からの賛辞がむず痒くて居心地悪い故の言葉であったが嘘ではなかった。黒羽の政務は、その殆どは究極的には隠行衆頭にして金庫番であり、そして対面に座る小柄な奥方の夫の助けを得たものであったから。しかし、事実を口にしてから少し後悔する。当の奥方が黒羽を見て何とも言えぬ淋しげな顔を浮かべたからだった。
「……旦那様への謝意。誠に嬉しく思います。あの方は手下への面倒見が良いと聞いております。きっと黒羽殿の資質を見抜き期待しているのでしょう。今後とも、夫を支えてくれましたなら……」
「え、えぇ。……隠行衆頭の期待に応えるべく、精進を重ねて行きます」
些かぎこちない会話であった。黒羽は小鼓姫の己に向ける眼差しにある種の憧憬を感じ取っていた。元隠行衆として培った感覚である。淡い嫉妬が其処にあるのを察していた。その理由は恐らく……。
「奥方様。……後程、音曲の手解きを。……いい、ですか?」
助け舟をいち早く出したのは桔梗姫であった。この場で一番の賓客として小鼓姫にして、姉妹にも近い歳柄として頼む。
「っ!?そ、そう……ですね。因みに何が良いですか?前回は琴でしたけど?」
小鼓姫のその返答が彼女の芸道の豊かさに通じていた。彼女の家柄として歌と舞を一通り嗜んでいた。名手で無くとも人に教えるには恥ずかしくない業前である。それは彼女の数少ない自慢であり、夫の役に立つためにも他者からの求めには何時だって喜んで応じていた。
「うん。……そうだね。葉山、何がいい?」
「桔梗さん?どうして黒羽に聞くのかな?」
少し悩んで黒羽に尋ねる桔梗姫と、少し顔を引き攣らせて横槍の質問をする綾香であった。
「だって……旦那様の好みのものが良い、でしょう?」
「桔梗さんに夫婦は居ないよね!?婚儀なんてしてないよね!?」
「事実婚……」
「黒羽ぁ!?」
朝餉の席が騒がしくなる。主に綾香と桔梗と黒羽の間で。オロオロと困惑するのは小鼓姫と勘定人と名主である。梔子と猿次郎は分かりきっていたかのように飯を食いながらぼやき合う。
「まただな」
「ですな。因みにそちらとしては何方を応援を?」
猿次郎が呆れて茶を啜り、梔子が漬物を噛りながら尋ねる。猿次郎は梔子を暫し睨み答える。
「……綾香だな。年季が違うよ年季が。此方はずっと後ろで腕組して見守ってたんだ。そちらは?何か拘りはある訳?」
「此処で骨埋めるつもりの身としてはねぇ。綾香様は弓の技能は中々ですが、結界やら呪いはそうでも無いでしょう?となりますとねぇ」
下人衆が人手に余裕がある訳でもないために送り込まれた身としては、羽山鬼月家領でこのまま指導役として妖共に会わず、騒動に巻き込まれず、平和に老後を迎えられるならば何でも良かった。となると結界や呪いへの防衛という意味で何方かと言えば鬼月綾香よりは桔梗姫に傾くのが梔子の本音だった。
「そりゃあまた……気持ちは察するぜ。俺も楽に稼いで暮らしたいもんさ」
「招きに応じた職人がそれをいいますか」
「だからこそさ。こんな村に来るなんざ出世競争逃げて来たようなもんだぜ?」
鬼月家呪師衆よりこの地に赴任した猿次郎の務めは地元の職人への部分的な技術指導に当座必要な呪具の製作、結界再構築のための要造りであった。そして羽山鬼月家の要請に従い、鬼月家本家が派遣したのが猿次郎である。しかしながら所詮猫の額の土地の領での実績なぞ本家工房では評価しまい。寧ろ今後は外に出しても良い程度の存在として扱われる事を意味していた。職人としては脱落である。
「志願したんでしょう?」
「へへへっ、娑婆の空気が吸いたくてな。死ぬまで屋敷詰めなんざ勘弁だぜ」
「弁職なのに、勿体ない」
秘伝の技術流出を防ぐため、退魔士家お抱えの呪具師衆は生涯屋敷に軟禁とは珍しい話ではない。此度のような身内のために要員派遣はあり得る話であるがそれでも経歴に傷がつく。屋敷の工房に戻ってももうこれ以上高度な知識や技能は学べないだろう。黒羽は古い悪餓鬼の兄貴分が来た時に仰天したものだが……猿次郎は覚悟の上であった。
「なぁに。自分で独自に研鑽するのは問題ないからな。……それに、最近は益々本家も剣呑としてるしな。息苦しいったらありゃあしねぇ」
「奥方と綾香様が此方に来られたのも」
「鶏と卵、何方が何方なのだかな」
他の者達には聞こえぬように囁き合う二人。元々陰謀渦巻く鬼月の本家であるが、長年寝込んでいた当主が復帰して、次期当主候補の娘二人を連れて上洛した事で一層混迷を深めていた。
……いや、長老衆が機能していればそれでも秩序は保たれただろう。長老衆の中で一際計略に秀でた御意見番が当主と姫君達の目付を兼ねて屋敷を離れてしまい、しかも其処に隠行衆頭が倒れた事でそろそろ統制が利かなくなりつつあるように二人には見えた。猿次郎は上洛の一件から直ぐ様羽山鬼月家に避難したが、恐らく目覚めた隠行衆頭や衣笠鬼月家もこのままでは危ういと考えたのだろう。
(自作自演、って訳じゃあ流石に無いだろうが……)
隠行衆頭が幼妻を逃がすために自ら毒を呷った可能性も僅かに考える猿次郎。流石に考え過ぎであろう。しかし、だとすれば誰が毒を仕込んだのか……。
(二の姫派か?軽率に動きそうな分家って言やぁ視月か、小操か……)
汁を啜って猿次郎は考えに耽る。耽って、途中で気付いて首を振るう。
(あー嫌だ嫌だ。折角に逃げて来たのにまだ悩まさせるなんてな。……俺等に流れ弾だけは飛んで来て欲しくないもんだぜ)
鬼月の本家でどれだけ争おうが構わない。勝手にしたら良い。此方に被害が来てくれなければ良かった。好きに争え。
(後は都行きのあの野郎と……薬子の奴か)
一方か家人扱として、今一人は御意見番に指名されて、上洛に付き合う事となった。当主と二人の姫、そして権謀渦巻く都という場所……猿次郎は目の届かぬ場所に居る馴染みの二人の行く末を心配していた。
……この時点で猿次郎は知らない。知らされていない。弟分の一人として扱っていた元雑人の家人扱が都の鬼月家にて死亡扱いされている事を。ましてやその男が今どのような状況にあるのかも、何も知らない。
「良い歳なんだ。今度は上手く立ち回って欲しいものだ」
「うん?」
「此方の話だよ」
ふと漏れた心の声。梔子が首を傾げれば流すように汁を最後まで飲み干した。何はともあれ、自分には都までどうにかする力は無い。出来る事は目の前の物事をどうにかケツ持ちをしてやる事だけだった。即ち……。
「旦那様よ。年貢の納時ってのは大事ですぜ。何卒甲斐性を見せて下さいや!」
「何の甲斐性ですかっ!?」
綾香と桔梗姫のやり取りと、その間に挟まれる黒羽を見ての猿次郎の言葉は、実に実に無責任この上なかった……。
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朝餉を終えて、各々が務めに入る。綾香は小鼓姫と、彼女に手習いを受ける桔梗姫の守護であり、彼女自身もまた競うように芸事を習う。
猿次郎は村の鍛冶場に工房にて、職人共に指導を行う。そして簡易な呪具を製作していく。大規模に貼り直す結界のための測量と要の選定もまた、彼の務めであった。
梔子は共に来た他の元下人共と共に村の男衆に武術の手解きを行う。そして各々で出来る限りの村の務めもこなしていた。最初の内は警戒されていた元下人達は、しかし幼妖や小妖の駆除を共にしてからは次第にその壁も和らいで来たように見えた。
そして領主たる黒羽は屋敷で館詰となっていた。鬼月の代官から黒羽に移譲された所領は荒れ果ててはいなかったが旧態以前として惰性で運営されていた。それらを刷新して盛り立てる途上故に、領内は恩恵と共に問題も山積であったのだ。
「本日の訴状はこれで終わりかな?」
昨日の内に奏上された領民からの訴えの沙汰を慣例と過去の判決から下し終え、印を終えた黒羽。勘定人に沙汰状を与えて通達を命じる。とは言え決して大袈裟な内容のものは無い。皆顔馴染みになる程の手狭な土地である。大事件等早々あるものではない。寧ろ、拍子抜けするような案件が大抵のものであった。
尤も、その内の幾らかは己の政務故に生じたものでもあるのだが……。
「少し性急過ぎたかな?新規の者との諍いが多いね」
黒羽は領主として任じられて、先ず人をやって所領を確認させた。そして当地で必要であろう者を連れ向かい、更に実際に現地に着任してから更に必要と思われた者を招き寄せた。
例えば老僧一人のみしか居らず何時冠婚葬祭が出来ぬようになるか知れぬ古寺院には存続のために林玄僧侶より紹介して貰った若く仁徳ある僧を呼び寄せた。薬師が居ない故に白奥から医書と薬草、家を保証するのと引き換えに高名な薬師の弟子を一人召し上げた。技術育成と後継者育成のために若い職人も橘商会経由で紹介して貰い地元に弟子入りさせた。
隠行衆の口添もあり、村には橘商会の小さな店が一つ建てられ、商会の者が常駐するようになった。月二回、行商が品を卸して来る。梔子以下、二十余人の元下人が屋敷に詰める。結界の貼り直し、蔵や家屋の増築、用水路の点検等のために土木の職人も呼び寄せた。
後に来た小鼓姫の連れた者達も含めれば、黒羽が来てから人口は五十以上増えたであろう。素行は考慮して連れて来たが余所者が増えれば問題が起きるのもやむ無しである。
「必要な事で御座いますれば、致し方無き事でありましょう。皆、殿の事を悪しくは口に致しませぬ。御安心下さいませ」
「はは、だと良いんだけどね」
「いやいや、これは阿りの類ではありませんぞ?」
部屋に詰めて共に沙汰のための相談をしていた名主が恭しく答える。嘘ではない。黒羽の行為は確かに皆に評価されていた。
無軌道に無計画に人を連れた訳では無い。人となりを見た上で必要な人材を連れて来たのだ。変化は些か急ではあるが、確かに生活への恩恵があった。それだけでなく、黒羽は着任に際して実用書に農具、工具、布や鉄、幾つかの作物の品種等も車に詰めて運びこんだ。殆ど外界と遮断されて自給を強いられていた村ではそれがどれだけ有難い事であったか。安定的に橘商会が商品を運び込み、特に目新しさのない作物や木材を買ってくれたのも助かった。
これまでの代官は圧政は無かったが雑に年貢を取るだけで民政に殆ど無関心だった。その前の羽山鬼月家当主は過酷だった。再び羽山鬼月家の名が出た時村人達は不安がったが……目に見える形で恵みを授け、筋の通らぬ沙汰を下さぬ若い領主を、今では所領の皆が認めていた。
……一つだけ、尾鰭手鰭の付いた厄介な噂はある事に名主は知っているが。
「それはそうと……。殿、この前の申し出は如何でしょうか?」
「この前の……あぁ、あれか」
名主の言葉に一瞬首を傾げて、思い出して頷く黒羽。屋敷への新たな女中の雇入の話であった。それも常在の。
「屋敷に詰める人も……まぁ、自分のせいなんだけど増えたからね。確かに常在で働いてくれる人は嬉しいけど、いいのかな?そちらの娘さんだろう?」
「三女で御座いまする。中々に跳ねっ返りな者故、嫁ぐ前に礼儀作法をと。……姫君方を御側で見て学んで欲しいと思いまして」
嘘ではない。嘘ではないがそれが全てでは無い。しかし其処までは語らない。
「歳は確か?」
「今年で十三となります」
「……桔梗姫には丁度良いかな?」
あるいは小鼓の奥方か……黒羽は頷く。肯定的な首肯であった。
「出来るだけ早く答えられるように努力するよ」
「有り難く存じます」
名主は深々と頭を垂れる。
「其処までしなくてもいいよ。貴方には助けられている。それに比べれば、ね?」
百姓共の纏め役の信任を得るのは村の領主としての務めを果たす上で必須であった。黒羽の政務が上手く進んでいる一因は間違いなくこの名主のお陰であり、それに対する当然の誠意であった。
「いえ。それ程では……。では私は此れにて」
「西の分村の開墾の視察かな?」
「ははっ。進捗の程をと。お貸し頂けた人手と牛鍬のお陰にて年初には予定の土地は整う事でしょう。娘婿も喜びましょう」
「二年間は年貢は取り立てない。それまでに安定するかな?」
「何が何でも、安定させまする」
十石程の土地であるがそれでも分村からすれば一大事業だ。人も金も無く長らく放置するしか無かった土地であるが……黒羽の投資の一環であった。
「頼むよ。これも羽山村を盛り立てるためなのだからね。……それじゃあ、気をつけて」
「はっ。失礼仕りまする」
そして恭しく主君に一礼して退出する名主。屋敷の縁側に出る。慌てたように聞き耳をしていた若い村娘の女中らが数人、蜘蛛の子を散らして逃げ出していた。
「……やれやれ」
気付かぬ主君には何も言わず障子を閉ざして肩を竦める名主。言わぬのは軽視しているのではなく気の毒であり、都合が良かったからでもあった。
かつての羽山鬼月家は、残念ながら村人に人気は無かった。当主は本家での政治のための金蔓であり菜種のように搾る対象としか見てなかった。そして欲望の発散先として……珍しく村に戻ったと思えば娘や妻が手付きとされたものである。そして今の主君は枝木とは言えその男の実の子であった。
当初は不審の理由となったが、精力的な勤め故に主君が信望を得てからは、父の悪行は逆に捉えられる事になった。血は水より濃いのだ。二重の意味で。
父があれであったなら息子も女好きであろう。この場合はその方が好ましかった。腐っても鬼月の血筋である。分けられる資産は庶子でも同じ村の男に嫁ぐより間違いなく良いに決まっていた。
いきなり桔梗姫を連れて来たのがその考えに拍車を掛けた嫌いがあった。事情を知らぬ者からは良家の庶子生まれの妾か、妾候補として見られたようであった。それは鬼月小鼓や鬼月綾香が来た事で一層信憑性を得てしまったように思われた。名主はある程度事情を伝えられているが、小鼓姫なぞ姦通したのが気取られて本家から追放されたのでは無いかと噂している者すら居たのだ。黒羽も小鼓姫も知れば憤慨するか、あるいは卒倒したであろう。井の中の蛙とは言え顔に自信のある村娘が幾人か、親に許しを得て女中として屋敷に詰めているのはちゃんと理由がある。
「まぁ、人の事は言えぬが……」
名主も末娘を女中に押し込むのは似たような理由故に非難は出来なかった。娘には良い生活をさせたいし、家の繁栄に活用したい。主君には期待して嘱望していた。本妻とは言わぬ。妾の一人としてでも引っ掛かれば……尤も、主君が望み通りに動いてくれるか分からないし何よりも娘がこの場合問題であったが。
「……む?」
前途多難で皮算用な考えを一旦脇に置いて、分村の視察に向かわんと縁側を歩み始めた刹那、名主は足を止めてそれに気が付いた。空を見て、その影を認めた。そして叫ぶ前に既に皆が動いていた。
「何者っ!!?」
屋敷の一室から飛び出した綾香が弓を構えていた。梔子を含めた元下人共があちらこちらから得物を手にして姿を現す。殺気立つ。それは妖気を無思慮に撒き散らしながら気勢を上げる。
「う、おおっ!!?」
名主は縁側で腰を抜かして尻餅を突いていた。それ程までに醜悪で悍ましく忌まわしかったのだ。
真昼の陽光が降り注ぐ扶桑庭園に、突如としてその禍々しい影が舞い降りた。それは無理矢理に一言で言い表すならば『鳥』ではあった。
広がれば牛車三台、いや四台に及ぶだろうか?濡れた皮膜の翼を持つ怪鳥であった。吹き下ろす生温かな熱風と共に、鼻を突く屍の腐臭が立ち込める。場の幾人かは思わず鼻を覆い、あるいは顔を顰めた。庭石の上にドサリとそれは降り立ち君臨する。
太い蛇の尾を蠢かせ、猛禽の如き鉤爪で砂利を削った。何より異様なのは、その首の先にある落ち窪んだ血走った眼を持つ「人面」だった。
鬼女というべき壮絶な容貌だった。美女の面影があるのが尚更悍ましかった。裂けた口には鋸状の歯が並ぶが、そこには呪符を狂ったように貼り付けた太い鉄の轡が嵌められていて、何よりも太い縄で縫われていた。ダラリと泡立つ涎が垂れ落ちる。
「これって……以津真天?まさかっ!?」
村の結界を破り舞い降りたそれを即座に射ろうとしなかったのは違和感故に。そして綾香は数瞬してそれに気付くのだ。それが単なる野良妖ではなく、確かに鬼月の家が屈服させて使役する『資産』だと。
「おうおう。駄目だなぁ。唯の一撫でで破れちまったじゃないかよ?余りにも緩過ぎるんじゃないの?ガバガバじゃないの?」
穢れた怪鳥の頭を踏みつけて、騎乗していたその者が宣った。三十には達してはいないだろう。顔立ちは悪くない。しかし凶暴な気配が滲み出ていた。そしてそれ以上に陰険な容貌だった。
「どうして、貴方が……!?」
綾香は顔を顰める。どうしてこいつが、とでも言うべき表情だった。
「……貴方を招いた予定も、ましてや訪問の先触も聞いていませんが?流石に非礼でしょう。申し開きはありますか?」
唖然としていた名主はその声にはっと振り向いた。背筋を伸ばしてこれまで見た事なく剣呑な面持ちで主君が佇んでいた。名主を一顧だにせず唯闖入者を睨みつける。闖入者もまた顔を嗜虐的に歪めて笑みを浮かべる。名主は即座に解する。邪悪な笑みだった。
「悪い悪い、羽山鬼月家当主殿。……いやなぁ?刀弥君が伺えないようになっちまったからさ?代わりに急ぎ、ね?これも本家の計らいというものさ、なぁ?ほら、この足で貫通出来ちまうような緩い結界なんだ。急いで作り直さないとさぁ?」
その結界を文字通りに破壊した張本人が悪びれる事もなく宣う。綾香はあからさまに侮蔑の表情を向けた。元下人らも面の下で眉を顰める。そして何よりも……その発言の意味する事に思い至り息を呑む。
「……成程。では、本家に改めて問いましょう。それまでは身柄を預かる事になりますが、良いですね?」
「ははっ。勘弁してくれ。まるで罪人扱いじゃないの?本家からの遣いよ、俺?流石に無礼じゃないの?まさかお山の大将になって天狗になってる?頂けないなぁ?自分の立場を思い出した方が良いんじゃないかな?」
「領主としての判断です。確証が持てるまであらゆる可能性を考慮するのは鬼月の地を預かる分家としての義務なれば」
嘲るような物言いに淡々と冷淡に黒羽は言い返す。底冷えする眼差し。名主は主君のそのような姿を初めて見た。
「梔子」
「はい」
黒羽が命じる。梔子は冷徹に応じると部下を二人連れて闖入者の背後に立つ。連行するように左右を固める。最大限の警戒を込めて身構える。
「此方に」
「しゃあないなぁ?……飯は三食、用意してくれる訳?」
「口に合うかは知りませんが、伝えましょう」
そしてそれ以上口にする事はないとばかりに黒羽は踵を返す。
「……はっ、可愛げのない奴」
闖入者は肩を竦めて毒づくように嘯くと、目の前で殺気立つ梔子を鼻で笑いながらその先導に従う。左右の元下人達は緊張するように男を連行していく。
……そのつもりなれば、自分達が瞬く間に殺される事を知りつつ。
「……忌まわしい奴。どうして、刀弥じゃなくて?」
「あ、綾香様……あの者は、一体?」
尚も庭先で唸る怪鳥に怯えつつ、名主は去り行く主君を除けばこの場で尤も事情を知っているように見える衣笠鬼月家の姫に尋ねた。綾香は名主を向くと少しだけ不快な態度を隠そうとして、しかし隠し切れずに顔立ちを歪める。
「鬼月の恥よ。……兄共々ね」
そう呟きながら、綾香は改めてその男の後ろ姿をキッと睨みつけた。剥き出しの敵意を込めて。
亡き前下人衆頭・鬼月純修郎匠玄の弟にして沙浄鬼月家当主。悪名高き鬼月祐嗣郎嘗玄の事を……。