和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 製作して頂いたイラスト紹介を致します。

 貫咲賢希さんより二点、卑しい従妹ちゃんと嫉妬(白目)するゴリラ様です。
https://www.pixiv.net/artworks/87368356
https://www.pixiv.net/artworks/87338409

 樹貴さんからはストーカーな碧鬼のイラストを頂きました。
https://www.pixiv.net/artworks/87413020

 御二方共、素晴らしいイラスト誠に有り難う御座います。


第四〇話● 全ては淑女の嗜み

 刻は既に戌の五ツ時……宵時となっていた。幾ら扶桑の国の都がこの国一の人口を有する眠らない街であるとは言え電気もない時代であり、都の敷地も広大だ。その領域全てが人で満ちているとは限らない。

 

 所謂繁華街や大通り、あるいは内裏や遊郭こそ篝火や提灯が軒を連ねて多くの人々が出入りをしているし、あるいは住宅街もそろそろとは言え未だに就寝していない者も少なくない。

 

 しかしながら蔵……即ち倉庫街なぞ日中ですら用がなければ人が足を踏み入れる理由なぞないし、夜ともなれば文字通り人気がある方が怪しく思える。本来ならば警羅の検非違使なり衛士、あるいは商家の用心棒なりが巡回している所ではあるのだが、それとて袖の下の金と人払いの結界が使われたともなればその姿を消す事となる。

 

 故に人っ子一人も見付けられない殺風景で何処か無機質的な倉庫街は夜中で月明かり程度しか光源がない事もあって見る者に言い様のない不安を与えた。

 

 そして、そんな蔵屋敷街に佇む人影が一人………。

 

「ちぃ、へまこいたな。鼻が利かねぇ………!!」

 

 周囲を用心深く警戒しながら入鹿は舌打ちする。下手人は事態が思うように進まぬ事実に苛立ちを感じていた。

 

 戦闘型の龍飛や汎用性が高い神威と違い、入鹿の持つ能力は本人のその攻撃的な性格に反して戦闘向けとは言い難かった。寧ろその力は探知型と称するべきものだ。しかし……今の入鹿はその自身の力を十全に活かせていなかった。

 

 夜目は利くが白煙の催涙効果のせいか未だに目元が潤む。嗅覚はもっと酷い、刺激臭のせいで完全に馬鹿になっていた。聴覚は問題ないが………恐らくは息を潜めているのだろう、これといった音は聴きとれない。

 

「となると水先案内人はこの血痕だけ、か……」

 

 入鹿は地面にぽつりぽつりと落ちている赤黒い血の跡を一瞥する。

 

「…………この先か」

 

 すぅ、と目を細めて血痕が続く先を見据える入鹿。地面にこびりついた赤い斑点は倉庫の一角、その影まで続いていた。

 

 入鹿は無言のままに刀を構えてそこへと向かう。足音も鳴らさずに、幽霊のように気配を消した足取りで倉庫の一角にまで辿り着く。そして最大限警戒しつつさっとその影に足を踏み入れた。

 

 ………そこにあったのは血濡れのままに地面に打ち捨てられた布地だけであった。

 

「罠っ………て事くれぇは分かりきってんだよ屑がっ!!!」

 

 次の瞬間に咆哮しつつ入鹿は事前に備えていたかのように首を上に上げて振り向く。そしてさっと蔵の屋根から飛び降りた影を斬り捨て………。

 

「っ……!?これも布地かっ!!?」 

 

 しかし、自身が斬り捨てたのがあの男ではなく血濡れの首巻きである事に直ぐに気付く入鹿。そして、首巻きの後ろから現れた人影をその視界に認める。

 

「っ………!?」

 

 杖のように振るい下ろされる角材を咄嗟に籠手を装着した右腕で防ぐ入鹿。同時に来る衝撃と痛み………。

 

「しゃらくせぇぇ………!!」

 

 刹那、入鹿は自身の左手に『妖力』を注ぎ込みこれを振るった。

 

「なっ!?まずっ………」

 

 空を切り裂く音とともに生じる不可視の爪の一閃を、襲撃者は身を翻す事で辛うじて回避した。しかし同時に彼の備えていた角材は積木のように切り落とされて四散する。そのまま襲撃者は……鬼月の下人は地面に不器用に転がって距離を取る。

 

「あからさまな痕跡だから罠は予想していたがよ。二重なのは流石に少しびびったぜ。てめぇが少しは頭回るって分かってなかったらヤバかったかもな?」

 

 冷笑するように宣う入鹿に対して、ぜいぜいと息切れする下人。止血用に巻かれたであろう布地が真っ赤に染まりポタリポタリと現在進行形で地面に赤い痕跡を刻み付けていた。

 

「お前、まさかとは思うが今のは………妖力、か?」

 

 傷口を押さえ、そして険しい顔つきで下人は尋ねた。その表情の重苦しさは怪我だけが原因ではなかろう。

 

「ほぅ、一目で気付いたのかよ?いや本職は餓鬼の子守りじゃなくて妖退治だったか?ならバレるわな」

 

 質問に対して悠々と、そして自慢気な表情を浮かべる入鹿。一方、その態度に不快感を覚えてか下人は顔をしかめる。

 

「いいぜ。冥土の土産って奴だ。良く見な、これが………北の民の秘技さね」

 

 そして入鹿はもったいぶりながら自身のその左腕の袖を捲った。

 

「っ………!!」

 

 思わず息を呑む下人。下人の視線の先、入鹿のその左腕はその肘から先が巨大な狼のそれが縫い付けられるように生えていたのだった………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 下人と下手人が相対していた頃、粉塵と轟音が鳴る中でその戦闘は続いていた。

 

「あらあらあら、この程度で終わりなのかしら?」

 

 一方は身構える事もせず、扇を振るう度に周囲に破壊の旋風を巻き起こす。

 

「くっ………流石朝廷の退魔士だなっ……!!」

 

 今一人の男はその破壊の嵐を必死に避けながらその刃先に猛毒を塗り込んだ苦内や針を投擲する。何処に隠しているのかも分からぬ程多くの飛び道具は真っ直ぐに目標に向けて飛び立つ……しかしその全てが目の前の少女に届く事はなかった。

 

「ふふふ、さぁさぁ踊りなさいな!」

「全く、ふざけた量の霊力だっ……!!」

 

 霊力は端的に言えば事象をねじ曲げ騙る力だ。そして霊力を術に変換しようにも燃費がある。基本的には身体の強化のように自らの内側を改変するよりも霊力を変換して炎や水を発生させる方が遥かに霊力を消費するものだ。ましてやあの規模の風撃をあれだけ連発するとなると……莫大な霊力を惜しげもなく浪費して、その癖汗一つかかず、全く余裕そうな葵の姿に悪態をつきたくなるのはその筋の事情を知る者からすれば寧ろ当然であった。

 

 激しい戦闘は一旦小休止する。ぜいぜいと息切れする龍飛に対して、しかし葵は喜悦の笑みを浮かべ続けるのみだ。その姿は子供が足を千切って苦しむ虫を興味深げに観察している仕草のようにも思えた。

 

 ……つまりは、見る者に不快感と恐怖を与える笑みという事だ。

 

(ぐっ……甘く見ていた訳ではないがこれ程とは。このままでは此方が先に消耗するな………。やむを得ん、あれを使うか)

 

 漸く息を整えた龍飛は、しかしその身構えた体勢を一旦解いた。それは先程の戦闘を目の当たりにした者からすれば余りに無謀な行いに思える。しかし………。

 

「あら?もう諦めるのかしら?もう少し遊ばせなさいな。根性がないわねぇ?」

 

 何処か小馬鹿にするような姫の言葉。それに対して北夷の男は相手に合わせるように不敵な表情を見せる。

 

「無論だ。これからが本番だよ。しかし……そこまで楽しみたいのならばこれから起こる事は少し見逃して欲しいものだな」

 

 何せこの変化には時間がかかるから……そう嘯いた龍飛は自身の身体に焼き付けていた封印を解いた。

 

「ゔ!?ゔぐぐぐぐグググ………!!!?」

 

 解呪とともに一旦龍飛は悶え苦しみ、身体を伏せる。しかしそれも一瞬の事であった。蝦夷の男はその身体を再構築していく。

 

「グググゥゥ………グオ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ!!!!」

 

 鳴り響く咆哮は獣のそれよりも獰猛で狂暴だった。身体の筋肉が盛り上がるように肥大化し、ブチブチと筋繊維が千切れる音が、あるいはゴキゴキと骨格が変質していくおぞましい音が木霊する。そして龍飛はその肉体を人外のそれへと変質させていく。

 

「へぇ、これはまた随分と…………」

 

 そのおぞましい変化を観察していた葵は扇で口元を隠し、その美貌を嫌悪感に歪めてしかめる。それは目の前の男に施された仕掛けとそれにより生じた変化双方に対してであった。

 

 変化は、あるいは変態にかかった時間は五十数える間に終息した。そして、その後に残っていたのは到底人間とは呼べぬ風貌の存在であった。

 

 その出で立ちはさながら葵には山椒魚を思わせた。でっぷりとした裂けた口に曲線を描く輪郭、ギョロリとする離れた一対の目玉、直立した大山椒魚……しかし何よりも大きな変化は男の身体から流れる邪悪な力の気配である。

 

「妖怪変化………とでも言うべきかしらね?朝廷では禁術扱いの高度な代物を……良くもまぁたかが蛮族風情が編み出せたものね」

 

 退魔士を始めとした霊力持ち達にとって生まれは絶対だ。それは霊力の特性による。

 

 葵がこよなく慕う下人の知識に沿うならば、霊力は車の燃料である。体内で生成される生命力を原泉とした事象を改変する力の原動力……そしてエンジンとボディはそれぞれ退魔士達の霊力を力に変換する機構と技術、強靭な肉体に相当する。

 

 この世界においては「心技体」と表するべきそれら三要素の内、特に心と体……燃料とボディはかなり血統の影響による所が大きいものだ。いや技、霊力の変換機構も文字通りの技術だけでなく霊力の燃焼を行う内臓の強靭さがかなり重要だ。

 

 故に下人の前世の表現において退魔士の身体は車のそれとして表現された。幾ら燃料が多くてもエンジンの効率が悪ければ意味がなく、幾ら大量の燃料と高性能エンジンがあろうともボディが脆弱では走行と同時に四散する。燃料が少なければボディとエンジンが良かろうと短距離しか走行出来ない………それらと同様に退魔士達は表現出来る。

 

 霊力が乏しければ戦闘そのものが出来ぬし、あろうともその変換が非効率的ならば無駄飯食らい、何よりその二つの要件を満たそうが肉体が脆弱では耐えきれぬ。

 

 無論、霊力だけであれば薬物の類いを使う事で寿命と引き換えにある程度は強化は出来る。霊力の変換効率はそれこそ技術を鍛練する事である程度は高効率化は図れる。しかし、肉体の強靭化は一筋縄では行かず、大乱時代にその課題の解決方法の一つとして、そして唯人を効果的にかつ短期間で戦力化するために立案されて実験されて生産されたのが人の妖化だった。

 

 半妖であった前任の陰陽寮頭我妻雲雀を始め、今の朝廷にそれらの存在がいない訳ではないが……妖の力を取り込んだ退魔士のその大半はかつての大乱の生き残りであり、その数は今では両の手で数えられる程度でしかない。そしてその研究と実践は今では禁止されていた。

 

 故に一部例外の事例を残して新規に妖怪変化の生産を、少なくとも公式には朝廷は否定している。その一部例外も自由に妖化出来るというよりかは各種の事故で妖力や妖の体液を取り込んでしまい半妖化しただけと言うべきものであった。そして、恐らく目の前の存在は………。

 

「見た所……身体の一部を妖のものに取り替えているのかしら?無茶苦茶ね。成功なんて五回に一回程度でしょうに」

 

 蛮人の拙い技術で手術しても出血死するか感染症で死ぬかが関の山だ。そうでなくても人体が妖の部位に拒絶反応を起こす可能性もある。今の朝廷ならばまず奴卑や死刑囚相手でも認めぬおぞましき所業だろう。

 

「御託は良い。掛かって来るが良い」

「ではそうさせてもらいましょうか」

 

 龍飛の挑発に淡々と、そして容赦の欠片もなく葵は扇を振るった。鉄兜すら切り裂こう鋭い風の刃は真っ直ぐに龍飛に向けて飛び、しかし彼はそれを回避する事はしなかった。

 

 直撃………本来ならば次の瞬間には人体を真っ二つにした蝦夷の死骸が残るだけになるだろう。しかし………粉塵が止んだ後にそこにいたのは傷一つ負っていない直立の大山椒魚であった。

 

「……斬れない?」

 

 それ自体が呪具である扇に自身の馬鹿げた霊力を注いで繰り出した風撃が呪術の一つも繰り出さなかった下手人に何らの効果も与えなかった事に葵は怪訝な表情を浮かべる。浮かべながら更に数撃斬風を叩きつける。

 

 周囲に凄まじい量の土煙が立ち込める程の衝撃の強風………しかし化け物と化した男の前にそれらは次々と擦り付けるようにして通り過ぎるばかりであった。ククク……と嘲るように喉を鳴らす龍飛。

 

「残念だが無駄だ。最早そのようなものは私には効かぬ」

「………別に高速で避けているという訳でもなさそうね」

 

 目を僅かに細めて、口元を扇で隠しながら葵は分析する。

 

「かといってたかが蛮族が概念的な能力を使えるでもなし。見る限り、受け流している……といった所かしらね?」

「………ほぅ、もう分かったか?御名答だ。鬼月の二の姫よ」

 

 鬼月の姫は僅か数回の観察によって眼前の敵が自身の攻撃をどのようにして無力化したのかをほぼ完璧に言い当てた。

 

「この身体は中々に便利でな。全身から分泌される粘液が潤滑剤と緩衝材となって刃の切れ味を著しく劣化させてくれるのだ」

 

 そこに更に相手の力を受け流すように編み出した独自の体術を加えれば、彼に対して刀や槍等の刃物は文字通り殆んど形無しの鉄の塊に成り果てる。少なくとも赤穂紫程度の剣技ではかなり体力を消耗して隙を晒け出すような大技を使わねば傷一つつけられまい。そして当然ながらそんな事をすれば龍飛を相手取るには致命的だ。

 

 無論、斬る事が出来ずとも鉄の塊というだけで単純に鈍器としても使えようが………それすらも妖怪変化して、しかも脂肪の厚い山椒魚の姿に変貌した今の龍飛にとっては余程の質量のものを高速で叩きつけなければ無力だ。

 

「そして今一つ、この身体の便利な点はこれよ」

 

 その言葉とともに龍飛はその腕を振るった。同時に飛び散るその複数の影の危険性を、葵は第六感で察知して跳躍して回避する。

 

 刹那、先程葵がいた場所に飛び散ったどす黒い液体は地面に落ちるとともに白煙を出して土石を液状に融解させていく。周囲に硫黄のような臭いが立ち込める。

 

「酸……いえ、毒かしら?」

「今の私は必要に応じて十数種類の強毒を体内で生成出来る。いかな高名な退魔士でも毒に耐性のある者はそうおるまい?精々惨めに踊るが良い……!!」

 

 その嗜虐的な言葉とともにその特徴的な口を裂くように開く龍飛。そのほの暗い口内より吐き出されたのは苦内だった。多種多様な毒を染みこませた苦内……それとは別に鉄砲魚のように液体の毒を弾丸のようにして吐き出す。しかも、その威力たるや突風で軌道を変えられない程に鋭かった。故に葵もまたそれを避けるために動く。

 

 龍飛の叫んだように葵は踊る。踊るように優美な所作で攻撃を回避していく。彼女の風の刃は最早使い物にならない以上それは一方的な攻撃であった。

 

「貰ったっ!」

「っ……!?」

 

 次の瞬間、龍飛のその口から複数本の舌が伸びた。成人の男の腕くらいの太さがあろう蛞蝓のような舌が計三本、それらは鞭のようにしなりつつも確かな意思をもって葵の扇に巻き付く。そしてそのまま龍飛の下に引き寄せる。

 

「……!!」

 

 即座に扇を捨てたのは賢明な判断だった。このまま扇を掴んだままであったら引き寄せられると同時に機動力を失った所を猛毒の一撃を食らっていただろうから。しかし………。

 

「ふふふ、貴様の武器は貰ったぞ?これで丸腰だな?」

 

 豪華な扇を舌に絡めたままその質を吟味して龍飛は嘯く。事前に受け取った情報でこの娘の備える武器がこの扇程度しかない事を把握していた。無論、下人の力量を見誤る程度の情報元なので油断はしないが、それでも主要武器を奪い取った意義は大きい!!

 

(やれる。やれるぞ……!!くくく、此度の仕事は中々思うようにいかなんだが……漸く運気が向いて来たようだな……!!)

 

 大山椒魚の怪人は舌舐めずりしながらその口元を歪める。じゅるりと涎が口の隙間から垂れる。

 

(っ……!?いかんな。呑まれる所だったか)

 

 妖怪変化した事によって自身の性格が変質しつつある事を彼は自覚していた。その思考回路が妖寄りに向かっている。龍飛は冷静に努めようとするがどうしても脳裏に目の前の霊力の塊のような娘を貪り食う欲求ばかりが思い浮かぶ。さてさてあの若い小娘の肉は実に柔らかそうだ。一体如何様な味か…………。

 

(ちっ、だから落ち着け……この姿とて万能ではあるまいに)

 

 刀剣類等の刃物、あるいは体術であればほぼ完全に無力化出来るように出来てはいるが、発火を始めとした霊術なり呪いの類いは流石に耐性が高い訳ではない。そして目の前の娘の手札がまさかたかが扇一つな訳あるまい。油断は禁物だ。さっさと戦いを終わらせて人に戻らなければ精神が汚染され、恐らく二度とは………。

 

(構わん、その前に決着をつけてやる)

 

 そうやって改めて油断を消して身構える蝦夷。一方、葵の方は先程まで扇を手にしていた右手を見つめる。そしてその白すぎる程に白い掌を握っては広げ、握っては広げという動作を繰り返す。そして………。

 

「………まぁ、こんなものかしらね」

 

 そう気楽そうに嘯いた刹那………激しい爆風とともに葵は龍飛の目の前にまで迫っていた。

 

「っ………!?」

 

 殆んど瞬間移動と勘違いしそうになるそれは、恐らくは地面を蹴り上げての跳躍だった。音速と同等の速力で一気に距離を詰めて来た少女に驚く龍飛は、しかし決して伊達に死線を潜り抜けて来た訳ではない。彼は僅かな時間で直感的に最適解に辿り着く。

 

「甘いわっ!!」

 

 龍飛は次の瞬間、全身の汗線から体内で生成した麻痺毒を染み出させる。愚かな、肉弾戦なぞ………!!

 

(先程の話を聞いていなかったか?私の身体は毒を作れるというのに……!!?)

 

 そこまで考えて咄嗟に龍飛は葵の自身に向けて振るう拳が囮である可能性に思い至る。もしや、打撃に見せかけて何か術式を使う可能性もあるのでは?下手人は直ぐ様に術式への対応に意識を向けて……次の瞬間腹に余りにも重過ぎる一撃を貰った。

 

「あ゙、がっ゙………!?」

 

 内臓を揺さぶられるような……いや文字通りに内臓を掻き回された事で生じた激痛に龍飛は苦悶の声を上げて、何なら一瞬白目を剥いて失神した。そして直後に激痛で無理矢理に覚醒する。馬鹿な、本当に殴った?馬鹿な、毒は!?直接身体に触れれば………!!

 

「ご、ごれ゙は……!?衝撃波、が!!?じがじ………!?」

 

 内臓を揺さぶられ続ける激痛に失神しそうになりながら龍飛は分析する。人体を貫通された訳ではない。しかし……この激痛は今の一撃により生じた衝撃波によるものであると見て間違いなかろう。成る程確かにこれならば直接触れる必要はなかろう。しかし……この身体全身に纏う粘液と脂肪は打撃に対しても効果を有する筈で………。

 

「あら汚い。これじゃあもう捨てるしかないわねぇ」

 

 龍飛の疑念なぞ知らぬように葵は地面に落ちた扇子を一瞥して宣う。先程の葵の一撃で龍飛の舌が取り落とした粘液まみれのそれは、確かに出来れば触れたく無かろう。

 

「っ………!!」

 

 三本の舌が射出されるように目の前の葵に対して伸びた。予備動作なく、頭部を狙いすまして打ち出されたそれは直撃すれば人間の首なぞ容易に引き千切れた事であろう。……葵は淡々と、驚きもしなければ危なげもなくその三本を紙一重に回避して纏めて手刀で切り落としたが。

 

「あ゙ががっ゙……!!?まだだ!!」

 

 動揺と驚愕は一秒もかからず、即座に龍飛は両の手を振り回して毒の飛沫を撒き散らす。数十、あるいは百を越えよう毒々しい水飛沫を至近で受ければ回避は不可能だ。………目の前の人外にとっては無意味だったが。

 

「はっ……?あぎゃっ!?」

 

 目の前の光景に目を見開き絶句、同時に彼の両の腕はその肘から先を切り落とされていた。血飛沫すら噴き出さずに切断されたのは手刀に対して熱変換した霊力を纏わせていたからだ。

 

 触れると同時にその箇所の粘液を瞬間的に蒸発させ、そのまま傷口を焼き切る事で出血を最小限に抑えた。その理由は慈悲の類いではなくて舞い散った下賤な血で自身の衣装を汚したくなかったからに過ぎない。

 

 だが、そんな事はどうでも良い。龍飛にとってはそんな事はどうでも良い事だ。そんな事よりも先程目の前で生じたおぞましい事実の方が彼には重要だった。

 

「ぐぅ゙……ま、まさか……嘘だ、有り得ぬ。貴様全身を霊力で覆って……いや、それ以前になんだ!?今の体術は…………!?」

 

 あの眼前での毒飛沫が何らの効果がなかった事、その仕掛けに龍飛は混乱する。彼には目の前で生じた事実が信じられなかった。

 

 全身を薄い霊力の膜で覆っているのはそれだけでも効率が悪過ぎる馬鹿馬鹿しい所業ではあるが、それはまだこの娘の莫大な霊力の量からして否定出来ぬ事実であるからまだ理解出来る。

 

 しかし、先程彼の振りかけた毒はその程度では到底防ぎ切れるものではない。文字通り寿命を十年以上消費して練り出して、濃縮して、圧縮した猛毒は薄い霊力の膜程度では一秒かそこらしか持たぬ。真におぞましい事実は………。

 

「まさか……受け流したというのか?あれら全てを?それにあの動き方はまるで私の………!?」

 

 そう、毒の飛沫を受け流したあの動きはまるでこの肉体の特性を最大限に活かすために作り上げた受け流しに特化した体術そのもので……いや、自身が作り上げたそれよりも目の前の小娘のそれは遥かに洗練されて、効率化されていて………!!

 

「貴様、もしやこの短期間で………!?」

 

 効く筈もない自身の内臓に衝撃を与えたあの拳の件も含めて、龍飛はその答えに辿り着き、戦慄し、恐怖する。そして、葵は前髪でその目元の見えぬ、しかし間違いなく美しい事が分かる美貌で残虐に口元を吊り上げた。

 

「あら。だって……もう何度も見たのだもの」

 

 美少女の気紛れな、そして無慈悲なるその言葉は、龍飛にとって、そしてこの世全ての道を目指す者にとって悪魔のような宣告であった……。

 

 

 

 

 

 まず一つ前提条件として伝えねばならぬ事がある。それは鬼月葵は姉である鬼月雛のような異能と呼べるものがない、という厳然たる事実だ。

 

 鬼月雛の持つ固有の異能、「滅却」は限り無く無敵に近い能力だ。攻略や対策方法がない訳ではないが決して簡単ではない事も事実である厄介極まりない力だ。

 

 繰り返すが鬼月葵は固有の異能を持たない。そして、彼女が受け継いだのは名家の血筋と莫大な霊力だけだ。それらは確かに重要な要素ではあるが………退魔士の家は女が当主になれる程度には個人の実力を軽視していない世界である事もまた事実だ。それだけでなく年齢の差もあろう。八つの年の差は血筋と霊力を含んでも尚も大きな次期当主を決める上での要因だ。

 

 何よりも姉妹に対しての当主の寵愛の差……にもかかわらず鬼月葵は雛と同等か、それ以上に次の当主として有望視されていた事実をどう解釈するべきか?鬼月葵に雛の「滅却」の異能を凌ぐものがあるとでも言うのか?

 

 ………ある。鬼月葵は「異能」は持たぬがその「才能」は人外の領域にあった。

 

 それが生来かつ固有のものではなく、誰もが時間こそかければ習得出来る「技術」であれば、葵は文字通りそれを身につける事が出来た。それも………一度それを見れば八割方、二度見れば確実に、三度見れば元のそれを更に洗練する事すらも。

 

 故に葵にとって、龍飛の体術を見て、それを基に毒飛沫の一滴一滴を受け流して、あまつさえそれを発展させる事で「相手の脂肪や粘液すら逆用して衝撃波を相手の内臓に受け流す」技術を構築する事も片手間に出来る程度の事であったのだ。そう、彼女にとっては………。

 

「有り得ぬ……有り得ん………あり得てたまるものかっ!!?そんな馬鹿な事がっ……!?」

 

 両腕を失った龍飛は恐怖におののき後退り、足を震わせてすくみ上がる。当然だろう。そんなふざけた事があって堪るものか。あの体術を編み出し洗練させるのにどれだけの時間をかけたと思っている?どれだけの血と汗を流したと思っている?それを僅か数回見ただけで………?

 

 その龍飛の恐怖は彼だけでなく努力をしたものであれば誰でも思った事であろう。血と汗と長い時間をかけて、文字通りに人生を捧げる程の年月を経て、時として何世代もかけて生み出して、編み出して、洗練させた誇り、技術……それを目の前の少女は何となしに自らのものとして、それどころかより高みのものへと磨き上げてしまう………。

 

 それは理不尽であった。冒涜であった。絶望であった。彼女の存在そのものが、万物の「道」を歩む者達にとっておぞましき魔物であり、自分達の存在意義そのものを否定する悪魔であったのだ。

 

「そんな話聞いておらんっ!!何故、なら何故これまで扇ばかりを……!?そんな、どうして……!?」

 

 おどおどと一歩二歩と後退しながら龍飛は叫ぶ。目の前のこの女について記された密書にはそのような内容に一切触れてなかった。あの商人の手の者達が集めた限りの情報ではこの女はもう何年も扇による風撃以外には殆んど技を使った事がない筈、そんな……そんなふざけた力があるならば何故これまで使わなかった!?

 

「あら、そんなの簡単じゃないの。……使う程の相手がいなかっただけよ?」

 

 実に当たり前のように葵は答えた。そしてそれが事実であると、龍飛は直感的に理解してしまう。

 

 そう、鬼月葵がこれまで「見ただけで」習得してきた多彩な才能を殆んど使わなかったのはただ単に使う必要がなかっただけの事である。

 

 何せ、大妖程度であれば適当に扇を振るうだけでどうにでも出来てしまうのだ。どうして態態労力を使ってまで他の戦い方をする必要がある?葵にとってこれまで扇を好んで使ったのは単にそれが一番楽であったからというのと、遠くからであるが故に妖に触れずに、返り血等も浴びずに済むからに過ぎない。

 

 更に言えば、葵にとってそんな何でも見ただけで万の技術を極められる才能も単なる付属品に過ぎなかった。何せ、そんな小細工をするよりも………。

 

「直接殴り殺すのが一番早く終わるのだもの」

 

 故に別にこんなつまらない芸、態態ひけらかす事でもなければ誇るものでもないのよ……そう平然に、当然に宣った。

 

「ば、…化け、物が…………!!」

「………」

 

 葵のその物言いに心底怯え、震えた声で罵倒した龍飛。それに対して葵はただ冷酷な笑みと沈黙でもって返した。

 

 ……何処までも相手を嘲笑う酷薄で冷淡な微笑みだった。

 

「ひぃぃ………!!?」

 

 その背筋も凍る笑みの前に、思わず龍飛は悲鳴を上げて後退る。そしてそのまま足を絡ませてその場に倒れてしまった。起き上がれない。両腕は最早ないのだから。もう逃げられない。自身が逃げ切れる姿を想像も出来ない。龍飛の心は既に半ばへし折れてしまっていた。

 

「く、糞がぁ………!!」

 

 龍飛は思わず最後の手札を切った。次の瞬間に彼は胃袋に収めていた短槍を彼女目掛けて高速で吐き出していた。

 

 至近からの奇襲、熟練の達人でも意表を突かれる完璧な襲撃、しかし……ひょいと、紙一重で、余裕を持って、悠々とその悪足掻きの一撃は葵に避けられる。そして………。

 

「あがっ!!?」

 

 葵は自身の真横を通り抜ける槍の柄を掴むとくるりとそれを回転させる。そしてそのまま当たり前のように槍の穂先を、それが放たれた場所へと返品してやるとばかりに即座に叩き込んでいた。

 

 投擲された猛毒を帯びた槍の穂先は彼の口内を貫き、そのまま地面に突き刺さり彼を地面に固定する。

 

 あるいはそれだけであれば妖怪変化した彼の生命力であれば助かったかも知れぬが……傷口から体内に、そして脳内にまで流れた猛毒は彼に筆舌し難い激痛とともにその命を蝕み、刈り取っていく。

 

「あ゙ぐっ……!?かばっ…!!!?お゙ぐっ゙……ぐぐぐっ゙……………」

 

 下手に妖化した事が仇になっていた。無駄に生命力があるがために即死も出来ずにもがき苦しむ下手人。半ば白目を剥いた目元から血の涙をぼたぼたと流し、胃液と血液と泡の混合物が口から漏れる。身体全身が痙攣し、全身からは汗が吹き出る。失禁していた。それでも死ねない。まだ死ぬ事が出来ない。

 

「あらあら、惨めな姿ね。まるで殺虫剤で苦しむ虫けらみたいだわ」

 

 闇夜の中でくつくつくつ、と残酷で、酷薄で、冷酷な笑い声が鳴り響いたのを苦しみに狂いそうになる意識の中で龍飛は確かに聞いた。

 

「これじゃあ助からないわね。けれどこの分だと息絶えるまでにどれだけ長く苦しむ事かしら?本当に哀れな事………」

 

 心にもない言葉だと、龍飛は本能的に察知していた。しかしながらその鈴の音のような言葉はこの筆舌し難い無間地獄の中で不気味な程に頭に染み込んで来て、刻み付けられる。

 

「ねぇ、今回のこの騒ぎの裏にいるのは誰なのかしら?冥土の土産に教えなさいな。そうすれば……お前をその地獄から解放して上げるわよ?」

「ゔっ゙……ぐっ゙…がぁ゙っ………っ゙………!!?」

 

 その気紛れで底意地悪そうで、何よりも甘い言葉は龍飛にとって余りにも魅力的に思えた。これまで拷問に耐える訓練はしてきた。人体の改造や修行のために肉体の酷使もしてきた。

 

 しかしそれでも……それでも尚この苦痛には及ばない。発狂しそうで、妖化したがためにそれも出来ぬ終わりなき苦しみを直ぐにでも終わらせてくれるのならば、それは慈悲にすら思えた。それは抗いがたい言霊の誘惑。

 

「あっ……ぐっ、あ…あ…………」

 

 故に、だからこそ龍飛はその甘言に口元を震わせて、その声音を響かせて、何かを口にするような素振りを浮かべて……………。

 

「がっ゙!!」

 

 直後に耳を立てるように近付いて来た所を狙って龍飛が吐き捨てた血液が混ざった強酸の毒を、葵は当然のように首を曲げて避けた。最小限の動きであった。

 

 ……葵は下手人を一瞥する。その瞳は塵を見るように冷たい。

 

「………あらそう。それが答えなの。良いわよ。だったら精々苦しみ抜いて惨めにくたばりなさいな。………あぁ、自決用かしら?奥歯に仕込んでいた毒針だけど、危なそうだから回収しといたわよ?」

 

 ふと、何処か態とらしく葵が指と指の間に挟んでそれを見せつけた。それは槍を投げ返した時に掠め取った毒針だった。人間には殆んど無害でありながらも妖に対して特効のある強毒であるそれが奥歯に仕込まれていた理由は今更考えるまでもない。

 

「ゔぐぐぐ………ぐぐっ゙……あ゙がががががっ゙…………!!!?」

 

 葵の言葉に対して、龍飛は最早反応しなかった。ただただ地面に串刺しになったままのたうち回り、苦悶の奇声を上げるのみだった。

 

「ぐゔ……がっ゙……あ゙…あ゙………っ゙………」

 

 そしてその獣のような壮絶な唸り声はこの後おおよそ百数える頃まで続くのであった。しかし、結局その最後の最後まで下手人は命乞いをせず、ましてや嘆願の言葉も吐く事はなかった………。

 

 

 

 

 

 

「………人にあんな視線向けるだなんて、失礼な事よね」

 

 淡々と、少しずつ弱くなっていく苦悶の声を遠くに聞きながら葵は一人呟いていた。

 

 月下の夜を歩む彼女は予備の扇子を広げて剣呑な目付きを浮かべる。その脳裏に浮かぶのは自身に向けられた恐怖と侮蔑と怒りに満ちた化物を見るような下手人の視線で、それは幼き頃からこれ迄彼女が幾度となく向けられて来たそれと同様のものであった。

 

 武芸全般……法術や結界術、瞳術に言霊術といった霊術全般に剣術や弓術、槍術に馬術、棒術、薙刀術、小太刀術、柔術、鉄扇術……これら武に関する技芸は無論の事、茶道に華道、書道に歌道、香道、煎茶道、盆庭に邦楽といった教養に至るまで、彼女の師となった者達はその日の内に教えるべきものがなくなり青ざめて、ある者は彼女を崇拝し、ある者は怒り狂い、ある者は嘆き悲しみ、ある者は自殺を図った。その全員が全員、その瞳の内に映す彼女は、到底同じ人間に向けるものではなかった。

 

 そしてそれは身内もまた同様で、彼女を次の当主にしようと推す者達も、それに反発する者達も、所詮はその才能のみを見ていて、挙げ句にはいつか愛してくれて、頭を撫でてくれて、甘えさせてくれると信じていた父にはその才能を疎まれて、その命を害する決定打にしかなり得なくて………。

 

「………本当、不愉快な目だわ」

 

 葵は自嘲する。結局実の父親にすら自分は親子として見られていなかったのだ。ただその才能と血統により自身の最愛の「娘」の立場を脅かす目障りな「化け物」でしかなかった。結局、私の事を本当に見てくれたのは、一人の人間として心配してくれたのは彼しかいなかった。

 

 そしてそんな彼の手を汚させて、奈落の底に落ちるように絶望させて、泣き崩れさせたのは自分のせいで、その記憶すら最早忘却の彼方に消えてしまって、自分はそんな彼に今も傷つくような試練を与えている。

 

「………仕方のない事だけれどもね」

 

 仕方無い事だ。どの道そうしなければ生きていけないのだ。何時までも無理に自分が彼を傍らに置く事は出来ない。彼が自分が傍らにいるに相応しい存在にならなければならない。彼のためにも、そして自分のためにも………。

 

「ひ、姫……様…………?」

 

 ふと鬼月の次女は呼び掛けられた。すぅ、とそのびくびくとした声の方向へと葵は視線を向ける。彼女が連れて、そして事が済むまで隠れているように命じていた半妖の白狐が不安げな表情を浮かべて彼女を見つめていた。

 

「………あら、そんなに怯えなくても良いじゃないの。別に捕って食おうって訳じゃないわ。ここは安全よ?」

 

 淡々と、事実をそのまま伝えるように葵は嘯く。しかしその流し目と吊り上げるような口元は何処か肉食獣を思わせるような底意地の悪さが垣間見える。

 

「す、すみませんっ……!!」

 

 ぷるぷると狐耳と狐尾を萎れさせて謝罪する半妖。その姿に対して常人ならば愛らしさを感じるだろうが、人によっては嗜虐心を踊らせるかもしれない。そして、葵は恐らくは後者であった。一つからかってやろうかと心の片隅で考えてしまい、そして内心で舌打ちする。

 

(余り虐めるのは駄目ね。彼に嫌われちゃうわ)

 

 正直葵は、自身と彼以外は何がどうなろうとも構わないのだ。彼と自分、それだけがいれば良い。

 

「…………そうよ。そうだわ」

 

 だって、彼以外誰も自分の事を大切にしてくれなかったのだから………。

 

「……何かしら、突然?」

 

 その事実を思い出して暫し沈黙していた葵は、漸くそれに気付いた。目の前には心底不安げに此方を見上げる白狐。その手元に差し出すように持つのは手拭いだった。貴人の側に控える従者が携える世話用の手拭い………。

 

「あ、えっと……その………少し悲しそうにしていましたので……その、もしかしたら必要じゃないかと……ご、御迷惑でした、か………?」

 

 怖がりながらも、しかし此方を慮るように白狐は囁いた。

 

「…………」

 

 僅かに……ほんの僅かに呆気に取られた表情を浮かべた葵はそんな白狐の様子を観察しながらふと思い出す。そう言えばこの狐も怯えてはいるが自分に対して化物を見るような忌々しげな視線は向けた事はまだなかったか、と。

 

 そして、小さな笑みを浮かべて葵は考える。頭撫で撫では万死に値する悪行ではあるが、今回はちょっとした意地悪で許してやっても良かろう、と。

 

「……あらあら、小狡い事。隙あらばご機嫌取りかしら?流石は狐よね?」

「ふ、ふぇぇ………!?ち、違いますっ!!わ、私は別に……っ!!?」

 

 主君の言葉に、慌てて目の前の少女は弁明する。あたふたと他意がない事を必死に口にするその姿を一瞥して、葵はくすくすくすと笑った。これまでの嗤い声とは違い、陰がなく、女の子らしい屈託のない笑みだった。無論、言われた方は命の危険を感じる程の圧力を感じるので洒落にならないのだが………それでも鬼月葵という人間の本質を思えば相当に寛大ではあったろう。

 

「ふふふ、流石に暴れたから少し汚れてしまったわね。良いわよ、一応貰っておくわ」

 

 子供らしく必死な形相の白に向けて、そう宣ってから葵はちょんと手拭いを受け取る。そして土埃がついた手を軽く拭き取ると、そのまま手拭いを預かったまま彼女はくるりと踵を返した。

 

「……さて、流石に彼も終わったかしら?あの程度の雑魚なら大した怪我なく倒せそうなのだけれど……この前のような事もあるし、念のためにお迎えした方が良さそうね?」

 

 私はとっても優しいのだから、と最後に締め括る姫君。

 

 そう宣って歩み始める葵。あたふたと弁明していた白はそんな気紛れな主人の行動を理解すると、てくてくといった足取りで慌てて付いていく。半妖の少女も主人には不満はあれど、少なくともその言葉には賛成であったから……。

 

 

 

 

 

「……………」

 

 ………鬼月葵の戦いの一部始終を、彼は遠方から観察していた。

 

「…………」

 

 一言も発する事なく、無言の内に彼は頭が粉砕された自身の身体を溶かすように影に還元する。そしてそのまま彼は沈黙の内に周囲の闇に溶け込んで誰にも気付かれぬように静かにその場を去って行くのだった…………。




 

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