和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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第五三話 生きかけの駄賃

 陣内における戦闘は最早乱戦、あるいは泥沼の様相を呈していた。

 

「くっ!!弓が効かない……!!」

 

 綾香は苦虫を噛む。彼女が呪いを幾重にもかけた特注の矢弾を神木を削って作った弓で、膨大な霊力を込めて引けばそれは大妖は当然ながら凶妖すらも本来ならば無傷では済まない筈であった。つまり、彼女にとってその相手は相性が悪かった。

 

 とある疫病の具現化ともいうべき凶妖……虎狼狸は河童対策の装備を重点的に装備していた討伐隊にとってその元来の格以上の脅威であった。

 

 より正確にはこの妖が操るのは水であった。自らを中心とした範囲内の水を操る力。相手の体内の水を腐らせ、吐き出させ、脱水させて殺す………それはこの妖の由来となった疫病の症状そのものであり、周囲で項垂れ倒れる各家の下人衆らの姿でもあった。

 

 しかも厄介な事にこの妖の力は無機物にも及ぶようであった。鉄を錆びさせて、木は枯れさせる。河童対策に実体の武器のみを重視し、どうせ河童共相手に霊術が効かぬ故にその手の道具もまた討伐隊に不足していたのだ。その上………。

 

「おい綾香!脇がお留守だぞ!!」

「っ!?」

 

 横合いから襲いかかって来るのはいつの間にか肉薄してきていた数体の河童であった。牙を剥き、爪を立てて少女に向けて駆ける醜い緑色の人外共……その首が次の瞬間纏めて空へと飛んだ。

 

「それ後ろも!!」

「えっ!?きゃっ!?」

 

 疾走しながら一振りで河童共を纏めて断頭して見せた若い退魔士はそのまま小刀を投擲した。綾香の頭のほんの少し先を掠めて過ぎる小刀はそのまま土に潜って奇襲を仕掛けようとしていた地蜘蛛の頭を、その突貫と同時に突き刺した。そのまま綾香を通り過ぎて地面に突っ込む大蜘蛛。

 

「凶妖だけでも厄介なのに、やってくれるな………!!」

 

 頭部の脳を潰されても尚、身体の各所に神経細胞が広がる蜘蛛はびくりびくりと身体を震わせる。鬼月刀弥は手にした刀でそんな蜘蛛の腹を突き刺し、そのまま身体を縦に引き裂いてこの妖を完全に無力化した。

 

「醜悪な事だな。こんな奴ら相手にこれだけの乱戦になるとはな」

「いえ、それでも此方はまだマシな方ですよ。彼方の戦いに比べれば………!」

 

 親族である旧友の言葉に対して、目につく妖共を射殺して行きながら、若干荒く息をして綾香は答える。答えながらその方向に視線を向ける。

 

 そこに吹き荒れるのは破壊の嵐だった。

 

グオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!!!!!

シャ゙ア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァォァァァァッ!!!!

 

 轟音のような咆哮と、金切音のような唸り声が辺り一面に響き渡った。二つの巨大な影、その激突の前に大地が裂け、その衝撃が周囲の妖や下人らを吹き飛ばし、あるいは命すらも奪う。

 

 それは突然現れた。無数の蜘蛛と河童と応戦していた退魔士達の前にそれはその巨躯を地中より晒し出したのだ。

 

 まず丁度真上にいた一人の退魔士が丸呑みにされて、次いで慌てて応戦しようとした退魔士二人がその腕の一振りの前に上半身が消し飛んだ。

 

 神格の残滓を残す巨大な蜘蛛の怪物……恐らくは陣を襲っている無数の蜘蛛の妖共の親玉であろう漆黒の大蜘蛛………しかしながらそれは退魔士達にとって最悪の事態を引き起こす事はなかった。何故なら………。

 

ヴォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!!!!

 

 大蜘蛛の怪物はその拳の一撃に仰け反る。並の大妖であればそれだけで頭が粉砕されていたであろう。しかしながら直ぐ様に人を数人纏めて呑み込めるような巨大な顎を四つに裂く。打ち出されるのは毒液であった。しかもそれは高圧で吐き出されそれだけで岩を破断せしめるだけの威力がある。事実、それは相対する相手の腕を切り落とす。

 

 しかし………それは何事もなかったかのように新たな腕を生やすのみであった。泥で出来た腕を。醜い泥人形は無言で、しかしその所作はまるで嗤っているようにも思えた。

 

「無駄じゃて。地の上におる限り、どれだけそやつを壊そうが意味はない。材料は幾らでも補充出来るからの」

 

 それの背後にて悠然と構える宮鷹の老退魔士は宣う。蜘蛛を蔑み、見下すように嘯く。

 

 宮鷹の老退魔士が使役し、巨大な蜘蛛の怪物と組み合うのは泥人形であった。全身が溶けながら暴れる巨大な泥人形………もしとある下人がその姿を見れば「火の七日間で世界を燃やし尽くしそう」とでも意味の分からぬ感想を述べていただろう、ギラギラとした瞳をした奇怪な泥人形。

 

「『人形神』………噂には聞いていたが本当にあんなものを使っているのか。イカれているな」

 

 刀弥が信じがたいと言うような口調で呟く。事実それを使役するのはそれの特性を知る者からすれば正気を疑うだろう。

 

 人形神……ヒンナガミとも呼ぶそれはある種の憑き物であり、式神であり、文字通りの神である。但し仮初めの。

 

 幾千もの人々の浅ましい欲望を練り込み仕上げられた人工的に製造された神……紛い物の偽物、即席の安物ではあるものの、それが神である事は変わらない。故にその力は、権能は本物の神格にも比類しうるものではあるのだが………そんなものが気軽に作れる筈もなし。そしてその恩恵の代償は余りにも恐ろしい。

 

「製造者の魂まで拘束されて死後は悠久の時間苦しみ抜くんだったか?良くもまぁあの爺さんも悠々としていられるものだな。いつポックリいっても可笑しくなかろうによ」

「宮鷹の秘術の噂は聞いています。人ならざる者共との契約を改竄する術式があるらしいですよ。それを以て代償ある契約に際して一族の別の者をその贄にするとか」

 

 一族の別の者……それが大概の場合奴卑やら小作人の娘やら、身分の低い妾に適当に産ませた子供である事くらい、想像に難しくない。愛情もなくただただ義務的に「製造」した子供を贄とする………尤も、その程度の事は退魔士の家系であれば珍しくはなかった。鬼月ですらかつては似たような事をしていて、その成果の一つが「迷い家」であるのだから。

 

ぢぃ゙!!そのような汚らわしい紛い物で、私を殺せるものかあぁぁぁぁぁ!!!

 

 一方、泥人形と激突する蜘蛛は怒り狂ったように絶叫する。三人の退魔士を立て続けに瞬殺した蜘蛛は、しかしこの人形神と相対する事になってその快進撃を呆気なく止められる事になった。ましてやそれが人間が欲望で作られた紛い物の神格によるものとなっては蜘蛛にとって余りにも屈辱的過ぎたのだ。

 

 八本の巨大で長大な腕でもって蜘蛛は泥人形に組み合う。否、その腕の多さをもって攻め立てる。しかし……直ぐ様に人形神はその背中より新たに六本の腕を生やしてこれに対応する。

 

「ふむ、殊の外苦戦するか。おい人形、ぐずぐずするでない。早うその虫の腕の一本でも引き抜いて来ぬか」

 

 淡々とした、侮蔑するような老人の命に泥人形は高い咆哮をもって答える。この紛い物の神にとって命令とは寧ろその存在意義そのものであり、力の根源であった。

 

 神とは祈り、あるいは怒り、憎しみ、恐れ………人の心より生まれるものである。より正確には人の心に影響を受けた森羅万象の法則が意思を得た存在である。

 

 故に元より神格の精神は人間らしさと自然らしさの双方を内包し、混同させていた。堕ちた地母神の万物の生命に対する深い、それでいて無慈悲で無分別で独善的な愛情はその一例であろう。

 

 人々の欲望により形作られた人形神にとって、要望こそが、要求こそがその存在意義であり、その存在の基礎である。だからこそ主君の命令に従い泥人形は次の瞬間新たに背中より豪腕を二本、作り上げた。そして、蜘蛛の左側の前足を引き千切ったのだ。

 

ギャ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァァァァァァッ!!!!???

 

 突然の激痛に蜘蛛は叫ぶ。叫喚する。無理矢理引き千切られた断面より緑色の体液が飛び散った。人形神はビクビクと痙攣する千切れた足を首を傾げて一瞥するとそれをまるで塵のように放り捨てる。

 

 泥人形が嗤った。嗜虐的で、邪悪な笑みで、嘲笑うように、嗤った。ニチャリ、と醜く破顔した。

 

ッ………!!!??

 

 大蜘蛛は、土蜘蛛は思わず怖気付いた。同時に人形と蜘蛛の間に何かが投げつけられる。それは風であった。妖気で形成された風………病の風を吹かせる凶妖『魔風』、その残滓………。

 

「実体がないのは中々手こずったな」

「全くだ。呪具も少なかったからな。霊力で無理矢理中和させて行く等と効率が悪い」

 

 蜘蛛が視線を動かせば相当に消耗したのだろう十名ばかしの退魔士の集団らがいた。霊力は妖力を中和して打ち消す………妖気の塊のような魔風に対して退魔士共は数に物を言わせてこの凶妖を消滅一歩手前まで消耗させたようであった。

 

『………………』

 

 口もなく、朧気な輪郭しかない風は無言で蜘蛛を見つめた。そのような気がした。そして……溶けいくようにその存在は霧散した。

 

おのれ……おのれ猿風情があぁぁぁぁぁぁぁ!!!!

 

 その叫びは、しかしその実威嚇よりも自身を奮い立たせるためであった。そして蜘蛛は未だ有効な打撃を加え切れていないものの企てに従って一時退避を決断する。やむを得なかった。本来ならば今少し彼らを蹂躙してから悠然と引く積もりであった。しかし人間共は蜘蛛の想定よりも遥かに強敵であり、卑劣であったのだ。

 

(だがしかし!!せめて餌を今一つ………!!)

 

 蜘蛛は、せめて引く前に人質を欲した。このままでは奴らは引く自身を深追いせず捨て置く可能性すらあったからだ。故に蜘蛛は自身の脅威を見せつけきれぬ代わりにせめて奴らを巣穴にまで引き摺りこむための餌を欲していたのだ。

 

 故に蜘蛛は威嚇するように奇声を放ちつつ、その目は必死に周囲を捜索する。正にその人質に相応しいものがいるかどうかを、急いで、そして祈りつつ、そして………。

 

(あれは…………)

 

 そしてそれを目にした時、思わず蜘蛛はその口元を吊り上げていた。

 

 

 

 

 鬼月胡蝶は鬼月の一族としてはその霊力は膨大とは言え必ずしも突き抜けたものではなかった。

 

 彼女の才能の内で最も特筆すべきは術の精密性である。式神の使役はその代表例であろう。簡易式とは言え万単位の式神を精密に操るのは並大抵の技量ではない。しかし、それ故に今朝にして見せた式神による死の演舞は彼女の霊力を相当量消耗させていた。

 

 これが全盛期であれば兎も角、彼女はその外側こそ若々しくても、その内側は何処もかしこもガタが来ている老女に過ぎないのだ。消耗した体力の、精神力、霊力の回復は容易ではなくて、しかも山での野宿で、討伐隊の他の有力者達との付き合いもあるとなればその疲労も相応のものとならざるを得なかった。

 

 そこに来たのが夕刻を過ぎた時に来たこの襲撃である。

 

 動揺した、困惑した、しかしそれも一瞬の事、元より化物の奇襲なぞ十分にあり得る事であれば事前の準備の甲斐あってモグリ共をその囮として、理究衆でもって焼き殺す策はほぼ想定通りの効果を生んでいた。そして彼女もまた直ぐに凶妖が一体を早々に討ち果たして見せた。

 

 そのまま残る霊力をもって式神共を使役して敵の軍勢を迎え撃つ。勝算が無い訳ではなかった。自身の体力と霊力は少なかろうが、この戦は軍勢同士のもの、一族の者らについては元より心配する必要もなかった。息子も含めて、鬼月の退魔士がこの程度の有象無象に後れを取る事なぞない。そして後れを取る程度の者はそれまでの者だ。

 

 胡蝶にとって一番気にかける事はやはり件の下人であり、討伐隊の態勢が整うまでの時間稼ぎ、それだけで良い筈であった。さすれば下人衆は戦闘の邪魔だと言って後方に引き離せよう。そう、その筈であったのだ。

 

「あれは少々計算違いね………」

 

 周囲に護衛の式神共を侍らせながら胡蝶は呟く。朧気ながらも神気すら纏う大蜘蛛はさしもの胡蝶も想定の範囲外であった。堕ちた神か、神化しつつある妖か………何にせよ早々に小家の者とは言えあっという間に正規の退魔士が三人も討たれたのはただ事ではなかった。

 

 その上、討伐隊の中でも実力が屈指の宮鷹老の退魔士がその対処に拘束されたのは胡蝶にとって完全に計算違いであった。確かに最終的には押し返すだろう。しかしながら想定以上に泥沼化した戦局は彼女の不安を煽った。彼女が慮る下人の青年の身が危険に晒され続ける事を意味するのだから。

 

「さて、どうしたものかしら………あら?」

 

 小妖相手であればどうにか戦える程度の式神を何十体も展開し、同時使役しながら御意見番はこの状況をどう好転させようかと思慮して、それを視界の端へと捉える。

 

 それは下人衆の一団であった。群がる河童と蜘蛛を相手に陣を組み、盾を構え、槍を並べて接近を拒む。投石器と弓矢で仕留めていく一団………他の家の下人衆が散発的にかつ精々班単位での連携しか出来ず、しかも柔軟性が足りずに孤立して殺られていく中で、集団で必要に応じて後退等しながら妖の撃滅よりも損失回避を優先しながら戦闘している姿はその装備が他家に比べても充実している事もあって少々異彩を放っていた。

 

「家の下人らかしら?質の悪い駒でも使い方次第という訳ね」

 

 自家の下人衆の善戦を見て胡蝶は小さく呟いた。個々の戦闘技量では十年前に比べれば随分と落ちているだろう。元よりも下人の寿命は短いが彼らを見ればかなり若い者も見られた。訓練中の者も数合せのために此度の討伐に一部動員していたのだろう。個々の平均の質は他家より下回ろう。

 

 しかし装備の質もさる事ながら集団戦としての運用訓練は相当念入りに為されたらしい。相互の支援と交代を徹底していた。自分達には手に終えぬ相手には無理に戦わず距離を取り、確実に仕留められる雑魚相手でも体力を温存するために集団で袋叩きにしている。お陰でまだ損害らしい損害はないようだった。あの子は上司として部下を上手く教育と統率する事が出来ているらしい。

 

「本当、あの子ったら迂闊な事…………」

 

 胡蝶は目を細めると扇子で口元を隠して小さく呟いた。それは喜ばしいというよりも困り顔に近かった。そう、それは迂闊な行いだった。不用意な行いであったから。

 

 あの子らしいとは思う。元より面倒見は良くてあれこれ言いつつも責任感はある子なのだから、手を抜けなかったのだろう。しかし、それはただの一個人としては美徳でも彼の立場では危険な行いだ。

 

 下人衆は潜在的な反乱分子であり、退魔士にとって彼らは所詮頭数さえ揃っていれば良い捨て駒に過ぎないのだ。柔軟な思考も、集団戦の能力も然程求めていない。ただただ従順である事、それが最も重要な要素なのだ。それをこんな風に指導しては………立場的な理由もあるだろうが、場合によっては危険視されかねない行いだ。

 

(だから私は乗り気ではなかったのだけれど………あの孫娘らにはそこまで考えが回らなかったようね)

 

 止めはしなかったが、あの孫娘二人の思慮の浅い行動に今更ながら溜め息を吐く。確かに下っぱのせいで危険な状況に陥った事は度々あるが他にもやり様はあったであろうに………無論、尻拭いはしてやる積もりではあるが。

 

「………あら?あれは………どうして?」

 

 そして彼女は気付いた。その件の集団の中に本来いるべき人物が、あの青年がいない事に。

 

「っ………!?」

 

 悪寒と共に彼女は跳んでいた。はらり、と空を歩くような跳躍。同時に展開した式神が下人共と妖共の間に入り込む。

 

「!?何も……胡蝶様!?」

「思ったよりも良く働いているようで結構。ここの責任者は何処かしら?」

 

 突如として真上から陣のど真ん中に着地してきた人物に近くにいた下人らは武器を構えるが直ぐにその正体に気付いて動揺する。そんな彼らに対して問い掛ける胡蝶。

 

「は、私で御座います。朝霧班、班長の朝霧と申します。此度の討伐において衆の次席に任じられました」

 

 淡々と答える翁の面をした下人。そう、と胡蝶は呟くと視線を動かし……黒づくめの集団に紛れ込んでいたその少女を見つける。

 

「そこの白丁、此方へ」

「ふえっ……?」

 

 ビクビクと陣の真ん中で怯えすくんでいた半妖の少女に対して扇子を突きつけながら命じる。当の本人は自身が呼ばれた事実に混乱していたが。

 

「もう一度命じるわ。此方へ」

「ひ、ひゃい!!」

 

 若干圧の強まった命令に、びくりと震えながら白狐の少女は応じる。てくてくと慌てて参じる少女に胡蝶は表情を変えずに、しかして内心は焦燥して尋ねた。

 

「そこの、確か允職の天幕に行っていましたね?………允職は何処です?」

 

 胡蝶が問うと、白狐の少女は何かを思い出したように顔を赤らめて、しかし急かすような視線に気付くと慌てて答える。

 

「そ、その………分かりません!」

「分からない?」

「は、はいぃ………そ、その…伴部さんは、允職は天幕から出ていってしまい……預かり人を探すので、後から皆さんを連れて来るようにと……!!」

 

 怯えながら白は答えた。彼女が下人らと共にいる理由であった。彼らを呼び出して、呼ばれた彼らがより集まっていた所でこの襲撃、そのまま身動き取れずにひたすら迎撃する事になっていたのだ。

 

「っ………!?」

 

 そしてその言葉に顔面を蒼白にして胡蝶は式神と視界を共有しようとして、苦虫を噛んでいた。下人に付けていた式神との繋がりが切れていたからだ。それ即ち彼に何かがあったという事で………。

 

「不味い……えっ!!?」

 

 嫌な予感に物探しの呪いをしようとして、胡蝶は次の瞬間にその存在に気付いた。途上の退魔士や下人共の攻撃を完全に無視して地を抉りながら突っ込むように疾走してくる巨大な蜘蛛の怪物の姿が視界に映りこむ。

 

「此方に向かってきます!!」

「迎撃を!!」

 

 下人衆らは急いで弓矢と投石、投槍でそれに応戦した。胡蝶の式神達もまた突進を遮るように殺到する。しかし………。

 

「だ、駄目です!止まりません!!」

 

 それら全ての攻撃に怯む事なく、意に介さず、大蜘蛛は突き進む。顎を開いて鋸のように乱雑に生える牙を見せつける。

 

「っ………散開!!回避を!!」

 

 臨時指揮官であった朝霧という下人は命令する。最善の命令であった。これが思考が硬直している他所の下人であれば死守に固執して蹂躙されただろうから。しかしながら、だからといって結果が良いとも限らない。

 

「うわっ……!?」

 

 弓矢や投石をしながら散り散りになる下人衆に蜘蛛は突撃した。逃げ遅れた下人が一人正面から蜘蛛にぶつかり吹き飛んだ。次いで一人がその足に押し潰された。ぐちゃり、と人が虫を踏み潰したような音が響く。

 

「白殿、ご免!」 

「きゃっ!?」

 

 近場にいた下人の一人が咄嗟に白を抱えてその場を回避した。もししなければ狐の少女は蜘蛛に潰されていた事だろう。

 

「っ……!?おのれ……!!」

 

 咄嗟に白鷺の式神を展開して、それに肩を掴ませて蜘蛛の突進を紙一重で避けた胡蝶。そのまま忌々しげに扇子を振るった。風の斬撃は、中妖程度ならば難なくこれを断絶させてみせたのだろうが全て蜘蛛の体毛の前に受け止められた。

 

「ちっ、やはりこの程度では………!?」

 

 自身の攻撃が殆ど効果のない事実に舌打ちした次の瞬間であった。ぐるりと半ば無理矢理に方向を変える蜘蛛。それはその頭を此方に向けていた。明確に目標を定めて、此方を至近で睨む蜘蛛。その感情の読めぬ目玉に己の姿が映っていた。………余りに予想外の事に動揺した表情を浮かべていた。

 

「どうし……きゃっ!?」

 

 妖が霊力のある退魔士を狙うのは分かる。しかし退魔士なぞこの場では幾らでもいるのだ。それなのに何故態態霊力を消耗している自分を明確に狙っている………?胡蝶の脳裏にそんな困惑が過ったが、それから先を考える事は出来なかった。何故ならば次の瞬間には蜘蛛の腕が彼女を叩きつけていたからだった。

 

「かっ!?この程度……!?」

 

 式神が粉砕されて、自身もまた右腕に打撲を負った胡蝶は、しかし直ぐ様反撃に出ようとしたが無駄だった。刹那彼女の視界を満たしたのは吐き出された蜘蛛の糸であったから。

 

 空中で、しかも右腕が打撲している状態でこれを避ける事は出来なかった。全身が糸に絡め取られる。妖力によって絹のように滑らかで、護謨のように弾力があり、その癖鉄の如く強固な糸は彼女に抗う隙なぞ与えなかった。

 

「あっ……!?嘘っ……そんな…………!!?」

 

 あっという間に彼女は全身を拘束される。同時に彼女はこれまでにない程に動転した。かつて、昔の記憶を思い出したからであった。そうだ、確かあの日も、あの時も………!!!

 

「い、いや……こんな……こんな事!?ぐっ!!?」

 

 震える声で、恐怖におののいた声で胡蝶は叫ぼうとして、しかしそれは果たされる事はなかった。グサリと刺すような痛みが首筋に走る。毒針だった。意識を奪う即効性の毒………。

 

「あっ……いや……駄目……そんな…………」

 

 急速に薄れ行き、混濁していく意識、暗く沈んで行く視界。そんな彼女の脳裏に最後に過ったのは掠れた白黒の記憶の中のあの最愛の人の姿で……………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 そこは温かかった。狭く、暗く、しかし確かに優しい温もりに満ちていた。

 

「んっ………」

 

 少年はその温もりに思わず微睡む。こんな目覚めは少年にとって余りにも希少であったから。彼にとって目覚めとはおぞましく、穢らわしい現実を直視する事そのものであったのだから。

 

 吐き気がするような程に強い香の甘ったるい香りにそれでも誤魔化せぬ粘ついた牡臭、それが少年にとって目覚めてから最も多く嗅いできた臭いであり、全身に練り込まれたような汗の感触が気持ち悪かったのを覚えている。いや、それならまだマシかも知れない。朝の日差しが差し込む中で昨夜の内の所業では満足出来ずに今一度一方的に事を始め、一方的に終わらされる事すらあった。

 

 故に、少年にとってこの感触は新鮮である種安心していた。その汗の臭いは決して不快ではなかった。滅多に汗を流さぬ僧達とは違い普段から汗をかいていて老廃物が溜まっていないからであった。自身を抱く手はゴツゴツとしていて決して形が良い訳ではなかったがその持ち主の勤勉さが触れるだけで良く分かった。

 

 何よりも自身を抱きすくめる者から邪気を、欲望の感覚を感じ取らない事が少年を一番安心させていた。これまで多くの悪意の、欲望の手を向けられてきた少年には触れられるだけで相手が自身に対してどのような感情を向けているのかを朧気ながら理解する事が出来た。そして少年は今自身を抱いているその感触が自身を守ろうという意志の下にある事を少年は感じ取っていたのだ。その腕は、その存在は自分に危害を加える事はない。それを何故だか確信出来る。

 

 故に少年は安心してその内に身を任せる。それに自身から摺り寄り、顔を埋めさせて、その匂いを一杯に満たす。

 

「うっ………?」

 

 しかし少年の意識は咄嗟に再度の眠りを咎めた。この場で眠るべきではないと本能に向けて強烈に訴える。何故?これほど安眠出来る場所はないだろうに?いや、駄目だ。ここで寝ては駄目だ。幾ら安眠出来るからと言って眠ってはいけないのだ。全てが手遅れになってしまうじゃないか。

 

 手遅れ………?手遅れとはどういう………そうだ、自分はどうして寝ている?この安眠の直前は何をしていた?ここは何処だ?誰に抱かれている?誰を……そうだ、自分は誰を助けようとしていた………?

 

「っ………!?」

 

 白若丸は驚くようにして目を見開いた。ぼやけていた視界が明瞭となり、少年は今更のように自身の置かれている状況に気が付いた。

 

 薄暗い密室……それが何処なのかを意識を失う直前の記憶から彼は推測する。そして自分と密着している温かなこの感触の正体にもまた辿り着く。

 

 同時に少年は羞恥心から顔を赤くして、忌々しげに歯軋りした。この感触に気持ち良さを、安心感を抱いた事に苛立ち、嫌悪感を噛み締める。

 

 ……嫌悪?それは誰に対してあいつに対して?それとも………。

 

『………そこの貴方、目覚めましたか?』

「っ!?誰だ……!!?」

 

 漆黒の密室の中、突如として響いた若い少女の無機質な声に白若丸の思考は中断された。動転して、次いで叫んだ。きょろきょろと身動きも碌に取れぬ中で視線を動かすが見えるのはただただ暗い闇だけであった。

 

『それはどうでも良い事です。それよりも、貴方はこの状況を把握出来ていますか?』

 

 何かが狭い密室内を押し退けるように動く音がして、次いで声が耳元で響いた。この感触は……小鳥?

 

「ここは……繭の中、か?」

 

 ここで目覚める直前の記憶、無数の蜘蛛の化物に群がられてねばついた糸に絡め取られていくおぞましい記憶を思い起こして少年は呟いた。

 

『御名答です。貴方方はあの蜘蛛の化物共によって繭の中に閉じ込められました』

 

 知っている。覚えている。あのおぞましい森の中で、逃げ場もなく、無数の蜘蛛に囲まれて、少年はただひたすらすがりついていたのだ。それが無意味だと分かっていながら、悪手だと分かっていながら、それでも尚離れたくなくて、離れるのが怖くて………。

 

「……っ!!くっ、この……糞、硬くて……破けねぇ!!」

 

 自身の心情に気付いて、それを振り払うように少年は繭を突き破ろうとした。手で押して、引っ張り、引っ掻こうとする。しかし、繭は破れる事はない。

 

 妙な感触であった。乾燥しているのだろうか?麦藁のようにカサカサとした繭は、しかし弾性もあって衝撃を吸収し、伸縮性もあるようでどうやっても突き破れそうにはなかった。

 

『妖の吐き出した糸ですよ?そんな簡単に破れる訳がないでしょう?』

「そんな余裕こいている場合かよ!!ちぃ……!!蜘蛛に糸巻きされているって事は!俺達が食われるって事じゃねぇかよ!?」

 

 蜘蛛が糸で獲物を絡め取る光景を、少年は良く知っていた。一応寺社では殺生を禁止されていたから、寺の隅に網を張る蜘蛛の姿を稚児は幾度も目撃していた。囚われて、哀れにもがく獲物が蜘蛛に弄ばれるのを少年は内心で嫌悪して、同時に恐れていた。その光景がまるで自分の事のように思えたから。

 

『分かっていますよ。ですからさっさとそれを切り裂きましょう。手はあります。貴方と一緒に閉じ込められているそこの下人の手元を探して下さい。短刀がある筈です』

「短刀………?っ!!」

 

 その言葉に一瞬少年は怪訝な表情を浮かべ直ぐにそう言えば手に持っていた事に思い出す。慌てて手を伸ばす少年。しかし……。

 

「っ……!?」

 

 暗闇で慌てて探したからだろう、腕に痛みを覚える少年。そう言えば鞘に入ってなかった。

 

「うぅ………糞!」

 

 呻きつつも少年はその小刀の柄を掴んだ。その持ち主の手の上から掴んだ。ゴツゴツとした分厚くて硬い手だった。その手はガッチリと小刀を握っていた。

 

『無理矢理剥がして下さい。そこの下人は毒で身体が麻痺していますから、意識も曖昧です』

「あぁ。分かったよ。………悪いけど、借りるぞ?」

 

 少年は懇願するように頼み込む。そして小刀を取る。するりと思いのほか簡単に小刀は少年の手に落ちた。

 

「よし。このまま………!」

 

 手にした小刀を少年は繭に突き立てた。爪の時とは違いまるで豆腐に突き立てるようにすっと刃は繭に沈む。そして横に刃を流せばさらりと繭は切れていく。

 

 切り口より漏れる仄かな光……白若丸は繭を押し退けるようにして開いた。

 

「っ!?これは………!!?」

 

 繭の外の光景は余りにもおぞましかった。無数に安置される繭、洞窟であろうか?壁の一面が彼方此方へと伸びる蜘蛛糸で覆われていた。思わず鳥肌が立ちそうになる風景である。

 

『……っ!繭に隠れて下さい』

「えっ……?っ!?」

 

 耳元で響く声に白若丸は一瞬戸惑い、次いでその気配に慌てて繭の中に身体を埋める。そして繭の隙間からそれを見た。

 

 大柄な蜘蛛が一体、一面繭に覆われた部屋へと現れた。カチカチカチ!と顎を鳴らす大蜘蛛。薄ら暗い洞窟内に赤い瞳が妖しく輝く。

 

 蜘蛛は見聞するように繭を見ていく。白若丸は慌てて切り開いた繭の切り口を隠す。………蜘蛛は少年らの隠れる繭の上を通り過ぎる。そして、一つのそれを見出だすと、蜘蛛はその繭に噛み付く。

 

「いっ……ぎっ゙!?お、おい゙止めろ……やめ……やが……ぎがっ!?」

 

 繭を顎で切り裂いて蜘蛛は中身のそれを咥え上げていた。聞き覚えのある男の声が途切れ途切れに聞こえて来る。しかしながら蜘蛛はその声に関心なさそうで、咥えた繭の中身を何処かへと連れていってしまった。

 

『さしずめ食料庫といった所でしょうか?』

 

 白若丸が戦慄する中、しかし耳元の女の声は淡々と無感動そうであった。繭は言うなれば真空パックのようなものであった。防腐剤を兼ねた麻痺毒は獲物を仮死状態にして、繭に包み込んで保存食とする。

 

(それにしてもこれだけの巣を作るとなると数年程度では足りぬ筈……となるとこの無数の繭、中身は必ずしも人間とは限りませんね)

 

 式神越しに周囲を観察していた牡丹は考える。あれだけの蜘蛛、養うのに必要な血肉の量はいかほどか。そして牡丹が知る限りこの一帯が他の郡や邦に比べて殊更妖共の被害が大きかったという話は聞かない。そしてあの河童共………。

 

『………成る程、家畜ですか』

「えっ……?」

『此方の話ですよ。それよりもそこの下人を………っ!?』

 

 そこまで口にした所で牡丹はその気配に感づいた。

 

『ちっ……!?巣穴でも油断しませんか!!』

「何を……うわっ!?」

 

 突如頭上から白若丸らの繭を包囲するように落ちてきたのは小柄な蜘蛛共であった。小柄……といってもそれはあくまでこれまで見たものに比べてである。赤ん坊よりも一回り大きなそれは蝿取り蜘蛛にも似ていた。白若丸らを威嚇しながら彼らはゆっくりと近付いて来る。

 

『ちっ、森の時と同じですね。休眠して気配を消していましたか……!!貴方、小刀を持ってここを逃げますよ!!』

 

 舌打ちしつつ牡丹は少年に命じる。幸い、相手は精々小妖、その中でも下位程度の格しかない雑魚であった。白若丸一人でも、幾重にも呪いを掛けられた小刀さえあれば逃げるのは不可能ではない。そう、少年一人であれば………。

 

「こ、こいつはどうするんだよ………!?」

 

 白若丸は繭の中で未だに動けぬ自身の保護者を見て叫ぶ。

 

『捨てなさい。このまま捕まって食われたいのですか!!』

「捨てるって……そんな事出来るかよ!?」

『ではここで貴方も食われて終わりますか?』

「っ……!?」

 

 式神の淡々とした、血も涙もない言葉に少年は言葉を詰まらせる。詰まらせつつもそれに反論は出来なかった。白若丸は自身がどれだけ無力で役に立たない存在なのかを散々理解していたから。理解はしていたのだ、しかし………。

 

『チッチッチッチッ……!!』

「ひっ……!?」

 

 一斉に蜘蛛共が顎を鳴らす独特の音に少年は怯える。怯えながら傍らに倒れる男に抱き着いた。麻痺毒で身体が動かぬ事を理解しながら。一人で逃げる選択肢なぞなかった。その傍らを離れたくなかった。死ぬよりも、唯一信頼出来る人がいなくなる方が彼には恐ろしかった。

 

『何を愚かな事を……!?』

 

 一方で牡丹は苛立つ。この繭の量を見れば、麻痺毒がどれだけ長期間効力があるのかは分かりきっていた。解毒剤なぞない以上下人は自身で移動出来ないと見るべきで、白若丸には彼を背負い、守りながらこの巣穴から逃げるなぞ出来る筈もなかった。故に、少年に出来うる唯一の選択は一人で逃げる事、逃げて助けを求めるくらいの事だ。そんな事も分からないというのか……!!

 

 牡丹の考えは誤りではない。しかしそれは当事者でなく、妖と関わる経験が多いからこそ言える事でもあった。故にある意味では彼女の辛辣な評価は不当であったかも知れない。

 

 何にせよ、少年は選択してしまった。そして、牡丹の式神にはこの場をどうにかする手段も能力もありやしなかった。故に彼女は見ているだけしか出来ない。再び少年が、彼らが無数の蜘蛛によって囚われる姿を見ている事しか………。

 

 そう、その救援がなければ。

 

『っ!?』

 

 突然彼らのもとにそれは投げつけられた。丸い形をしたそれは次の瞬間には破裂して白煙が周囲を満たす。

 

『ギギッ……ギッ!?』

 

 直後、白煙の中で何かが反射して光る音と共に蜘蛛共の短い断末魔の声が響いた。

 

「えっ!?な、何が……!?」

 

 何が起きたのか分からぬままに混乱する白若丸。そして次の瞬間に彼は白煙の中から飛び出して来た手袋越しの手にか細い腕を掴まれる。

 

「うわっ……!?」

 

 手に引き寄せられる少年は、視界の正面にそれを捉える。黒い布で顔を覆ったそれは隙間から見える両目が白若丸を殺気を混ぜた視線で睨み付ける。

 

 観察し、見聞するような冷淡な目付きであった。

 

「………よし、感染はしていないようだな」

 

 パクパクと口を開いて緊張する少年を無視してそう嘯く男。いや、その声質から見て彼は若い青年のように思われた。外套を着込み、露出を避けた出で立ちの青年はそのまま白若丸を捨て置き繭に駆け寄る。

 

「この仮面………やはり鬼月の允職か」

「何を………」

「静かにしろ。煙で目が見えずとも声で居場所が気付かれる」

 

 叱責するように小さく呟いた青年はそのまま鬼を象った面を掴み、ゆっくりとその内側の顔を一瞥する。

 

「………感染はしていないな」

 

 一瞬の沈黙の後、安堵するように青年は呟いた。そして彼は未だに麻痺毒で動けぬ允職を背負うと少年の腕を再び掴む。

 

「ひっ……!?」

「煙が効いている内に逃げるぞ。………それとも、こいつ共々蜘蛛共に食われたいか?此方は最悪お前を捨てても問題はないんだぞ?」

 

 脅しを含んだ質問に少年はたじろぐ。その目付きは幾つも死線を越えてきた者にしか出せぬものであった。少年は恐怖の余り息を呑む。この男はやむを得なければ本当に彼をここに捨て置くだろう。

 

『……選択肢はありませんよ。行きましょう』

 

 耳元で囁かれる若い少女の声。先程から響くその声が、その人物が何者なのかも知らぬが、少なくともこの瞬間において白若丸にその提案を拒否する選択はあり得なかった。

 

 逃亡は思いの外簡単に出来た。青年が言うには少し前に巣穴に犇めいていた蜘蛛共の多くが飼い慣らしていた家畜共と共に出払ったとの話であった。式神と少年はその話に覚えがあった。

 

 巣穴をどれだけの時間走ったであろうか?青年はそこで足を止める。

 

「よし、ここだ」

「ここって………まだ外じゃないじゃないか!?」

 

 てっきりこの巣穴の外に出られると思っていた少年は叫ぶ。青年は布地の隙間から見える目でそんな少年を再び睨み付けた。叫ぶな、という意味であった。

 

「出来るならもうやっている。流石に出入口は奴らだらけでな。だから……ここに隠れている」

 

 そう言うと、青年は壁一面を覆い尽くす蜘蛛糸の一角に手を捩じ込む。  

 

「蜘蛛糸は必ずしも全てが粘着性のものではないんだ。でなければ蜘蛛自身が絡まっちまうからな」

 

 蜘蛛糸の縦糸と横糸……だけという訳ではないが、実際蜘蛛糸にも様々な種類があり、全てが獲物を捕らえるためにある訳ではなかった。そして、青年の隠れ家はそれを利用していた。

 

 非粘着性の糸の塊で作った蓋を捲るとそこにあったのは小さな横穴であった。畳にして五、六畳程の広さの隠れ家………その最奥で何かが震えた。

 

「桔梗、大丈夫だ。俺だ。………同僚がいたから救助してきた。安心しろ、危険はないさ」

 

 少年に向けていたのとは打って変わり優しそうな声で青年は語りかける。すると横穴の奥に隠れていた人物はゆっくりとやって来た。少女であった。仕立ての良さそうな着物を着込んだ幼い少女が警戒したように白若丸らを見ていた。

 

「早く奥に行け。此方が入れん」

「あ、あぁ………」

 

 横穴に入るべきか否か困惑していた少年は、しかし背後から急かす声に慌てて進む。その後に下人を背負った青年がゆっくりと入り、最後に気づかれぬように蜂鳥の式神が穴に潜入する。

 

「………よし、こんなものだな」

 

 蜘蛛糸を違和感なく被せて出入口を塞いだ青年は振り向くと小さく安堵の溜め息を吐いた。そして横穴に安置していた手持ち式の行燈に火をつける。仄かに明るくなる横穴。

 

「っ………!!」

「葉山!?」

 

 同時に緊張の糸が切れたのか、歯を食い縛るように小さく唸りながら青年は壁に身体を預ける。桔梗と呼ばれた少女が慌てて駆け寄ろうとするが右手で静止される。そして自身のもう片方の腕を強く握り締め、踞る。

 

「お、おい……!?」

「大丈夫だ。問題ない………直ぐに、収まる」

 

 同じように心配して近寄ろうとする白若丸に対しても青年は苦悶しつつ、しかし冷淡に吐き捨てる。そしてふぅーふぅー、と深く、獣のように息を吐くと漸く落ち着いたのか座り込み、胡座をかいた。そして、一度横たわる鬼月の下人を無言で見つめると、次いで強い目付きで彼は再び白若丸を睨み付けた。

 

「………さて、では自己紹介から行こうか?俺は鬼月家が隠行衆所属、名を……葉山と言う。早速で悪いが聞かせて貰おうか?何故鬼月下人衆の允職なんかがこんな場所に?」

 

 鬼月家が分家、羽山鬼月一族の末裔にして一族から隠行衆に零落した妾腹の青年は白若丸に対して尋問するようにそう尋ねたのだった………。


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