和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 貫咲賢希さんより、覚悟ガン決めな雛のファンアートを頂けましたのでご紹介致します。
https://www.pixiv.net/artworks/92936011

 これからはお姉ちゃんの出番も次第に増えていく予定だよ、やったね!(尚主人公の胃袋)




第六八話●

 陽菜郡炭屋村近郊にて橘商会の一団と別れてから三日、脚切川の橋を過ぎて、皮剥山を抜け、耳裂峠を登り、俺達は漸くその谷に、鬼月谷の入口に迄到着した。

 

「よし、後少しだ!この峠を登りきったら直ぐ其処だぞ!!」

 

 俺は部下達に向けて叫ぶ。運悪く、橘商会の一団と別れてから三日連続で豪雨であり、皆流石に弱りきっていた。何処かで豪雨が過ぎる迄待とうかとも思ったが生憎泊まれるような場所もなく、いつ終わるとも知れぬ雨の中で野宿するにも限度があるので仕方無しにそのまま進む事になった。その結果が一団の疲弊であった。

 

「糞、昨日迄の雨が嘘みたいだな。こりゃあ強行軍は止めるべきだったな」

 

 雲一つない晴天に向けて俺は恨むように吐き捨てる。個人的な理由もあって出来るだけ早く谷に辿り着きたかった故の強行軍であったが……俺の判断ミスだな。

 

「そろそろ祠が見えて来る筈だが………」

 

 鬼月谷に侵入するには三つの道があるが、その全てに祠が設けられている。祠は谷を守る一種の結界の要であり、谷への出入口でもある。西から谷に入る耳裂峠の場合、その頂上部にそれが安置されている。

 

 そして更に進む事半刻程、漸くそれは見えて来た。耳裂峠の頂上、白樺の大木が聳え立ち、その根元にある小さな小屋と祠、谷への入口…………。

 

「ん?あれは………」 

 

 騎乗しながら後続を叱咤する俺はそれに気付いて目を細める。祠の側に人影が見えた。白く、小さな人影。子供の人影………その人物に俺は見覚えがあった。

 

「伴部さん………!!」

 

 同じように此方の存在を認めた白狐の少女は、子供らしい純粋無垢な喜びの笑みを浮かべて駆け寄って来た。俺もまた馬を小走りさせて近付く。

 

「白!?出迎えか?一人で良くもまぁ………危険じゃないか!」

 

 谷の結界との境界線に半妖の子供を出迎えに寄越すなぞ………そうでなくても、この世界における半妖の立場を思えば谷の村人から何をされるか分からない。それは余りにも軽率過ぎるように思えた。白の行動ではない。白に命令したであろう姫君に対してだ。

 

「あっ!えっと……大丈夫です!ちゃんと姫様が護衛を手配してくれてますから!!」

 

 俺の指摘に慌てて白狐は空を指差して弁護する。天を見上げる。遥か上空にその影はあった。目を細める。距離は遠くともそれが巨大な鷹である事を俺は認める。成る程、一応の保険は掛けている、か。良く見れば少女の手持ちには簡易な御守りの呪具らしきものが幾つかあった。とは言え………。

 

「だとしても余り感心しないな。別にこんな所で出迎えなくても良いだろうに」

 

 触らぬ神に祟りはないし、君子は危うきに近寄らぬ。………いや、前者の方はどれだけ注意しても向こうから勝手にやって来る事もあるが。何にせよ自分から危険な事をする必要なぞないのだ。

 

 ましてやこの峠から屋敷まで歩くと後一刻はかかる。馬なら兎も角、子供の脚では少々きついと言わざるを得ない。ひょっとしなくても前世ならば児童虐待で児童相談所案件だな。それに…………。

 

「失せろ。こいつは貴様らの獲物じゃないぞ?それとも、有象無象の妖共のように駆除されたいか?」

「へっ………?」

 

 白が訳の分からぬ表情を浮かべるのを無視し、峠に生い茂るすすき野に向けて俺は警告する。鬼月家が谷と屋敷を守るために十重二十重に仕掛けた防衛機構の一つ、野原に潜む野獣共に向けて、俺は命じる。

 

「……………」

 

 茂みの中から奴らは暫しの間唸りながら俺達を睨み付ける。が、直ぐにその気配は潮が引くようにして退いていく。

 

 黎明期の鬼月家が敢えて駆除せず、霊脈の最外縁に住まう事を許す代わりに人を襲わず、侵入者を迎撃し、何よりも鬼月の一族に絶対服従を誓う契約を結んだ獣共………奴らにとって狭義的には人間とは断言出来ぬ白の存在は餌という意味で非常に魅力的な筈だった。鬼月家に仕えている事を理性で理解していても、妖が何時までも本能を抑えられる等と信用出来ようか?

 

(というかルート次第では奴らも敵に回るしな)

 

 シナリオ次第では終盤の雑魚敵になる奴らであり、強化されまくった主人公達の前では次々と千切っては投げられるような輩ではあるが、それでも俺や今の白にとっては十分過ぎる程の脅威である。正直素直に消えてくれて安堵していた。

 

「ふぇ………」

 

 一方、今更に自身が怪物共によって狙われていた事に気付いたようで俺の足下に隠れる白狐の少女。怯えながら俺を見上げる彼女は俺と視線が重なると頭を下げる。

 

「あ、ありがとうございます………そ、その……ご、御免なさい………」

「別にお前を叱っている訳じゃないさ。…………よし」

 

 恐怖と罪悪感から狐耳と狐尾をしゅんと垂れ下げて落ち込む白をそう宥めてから、俺は決断する。馬を下りる。

 

「?伴部さん?」

「ほら、乗せてやる。まさかと思うが屋敷まで歩いて戻る積もりだったのか?此方は全員馬だぞ?」

 

 子供の足ではゆっくり歩かせても付いて来るのは苦労するだろう。馬車に乗せようにも乗員と荷物で定員オーバーである。

 

「で、ですけど…………」

「餓鬼に心配される程に俺の足腰は悪くはないさ」

 

 そうやって俺は手を伸ばす。その手を見つめて白は、しかし「うぅ………」とその手を掴む事に迷ったような様子を見せる。

 

 しかし数瞬後、突然何かを閃いたように白は顔を上げる。その手をぱっと握り締め、そして思い付いたように口を開く。

 

「じ、じゃあ!一緒に乗りましょう!!」

 

 妙案を閃いたように白は笑みを浮かべて提案する。ピンッ!と狐耳と狐尾もまた誇らしげに立ち上がっていた。

 

「………別に俺は構わんが、良いのか?」

「?何がですか?」

「………いや、何でもないさ」

 

 俺が確認を取ると不思議そうに首を傾げる白。穿ち過ぎたか。まぁ、この歳に対して必要以上に性別を意識するのも逆に可笑しい。俺は直ぐに話を終わらせると白狐の脇に手を回して抱き抱え、馬に乗せる。そして俺自身もまた再び馬へと乗った。

 

「よしっ、こんなものか………大丈夫か?」

「はい!」

 

 俺の前にいる白は背後を振り向いて答える。俺と彼女の位置関係は馬上で白の背後から抱き着くような形である。安全性を考えれば俺の後ろに乗せるのは論外だった。万一にでも彼女が振り落とされたら頭から落っこちる事になる。何なら何処ぞの元陰陽寮頭の呪いが発動して直後に俺も痙攣しながら馬から落っこちる。想像もしたくない。

 

「少し足を落とす。頼むぞ?」

 

 いざという時は支えるか抱き抱えるつもりだから問題ないとは思うが………白が落馬した時を考え、念のためにゆっくりと馬を進ませる事にする。その事を馬に伝えた。賢い青毛馬は詰まらなそうに小さく鳴いて、その要望に応えてくれた。

 

 谷の屋敷に辿り着くまで一刻余り。その間、俺は前に乗せた半妖の少女と雑談をしながらその時間を過ごす事になった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 相も変わらず厳めしく、仰々しい鬼月家本家の屋敷の門前に辿り着いたのは申八ツ半時……午後三時頃を回っていた。

 

「あ、兄貴!!帰って来たのか………!!?」

 

 馬が鬼月家の屋敷の門前にて止まったのと、屋敷の前庭からその呼び声が響いたのは同時だった。白衣を着こんだ人影が門前から駆け足の音を鳴らして近付いて来る。声変わりもしていない愛らしい声音、長く伸ばした髪に少女と間違えそうな美貌をした少年………白若丸だった。

 

「遅かったな!一体何処で道草を………?」

 

 笑みを浮かべて走って来る子供はしかし、次第に怪訝な表情を見せて、次いでそれは複雑そうなものになる。俺は馬を降りてから告げる。

 

「白若丸様、その呼び方はお止め下さい。以前にも申し上げた筈ですが?」

「えっ………?あ、あぁ………ごめん」

「謝る必要もありません」

「わ、分かった…………」

 

 俺の指摘に馬の傍らまでやってきた少年は動揺して、そして視線を逸らしつつも頷いた。あの糞蜘蛛の巣穴から生還して以来、一定の信頼は得られたようだったが、それはそれとして立場は明確にするべきであった。

 

 河童の騒動の後、この少年の立場は正式に定まった。家人候補として鬼月の御意見番様がこの少年の引き取りを提案したのだ。正確には提案というよりも要求か、あるいは取引というべきかも知れないが…………ゴリラ様、鬼月葵との取引。

 

 その時の俺の記憶はかなり掠れていて覚えていないが、白若丸は土蜘蛛の巣穴にて、その天賦の才の片鱗を見せつけたという。舞踊を基とした儀式と術式の才能、それを鬼月胡蝶に見出だされ、そして取引された。俺の立場の安堵の代わりに、である。

 

 ある意味では納得の内容であった。俺が允職な事もあり、下人衆はどちらかと言えばゴリラ様の影響下にあると見られている。基盤だ。鬼月家の御意見番はそこを突いて取引でこの少年を手に入れた。允職とは言え下人と家人の取引である。随分と割に合わない内容だ。

 

 ………尤も、原作を知っている俺からすればそれでもまだ有情であるようにも思えた。正面からの実力は兎も角、あの御意見番の政治力はかなりえげつない。俺の秘密を梃に下人衆への影響力を奪い取るどころかゴリラ様の派閥を幾分か切り崩す事だって出来ただろう。それをしなかったのはゴリラ様への貸しであり、俺にまだ利用価値があると考えての事なのだろう。お陰様で余計あのお姫様に足を向けて眠れなくなってしまった。

 

「で、その………遅かったな?怪我とかはないのか?」

 

 ちらり、と一瞬視線を馬上に向けた後、おどおどと、窺うように少年は問い掛ける。何処まで自覚しての事かは分からないがその美貌や仕草も相まってまるで美少女が尋ねたのではないかと思わず錯覚してしまいそうであった。お前、そんなのだからプレイヤーが放置すると廻されるんだぞ………?

 

「幸い、私も部下も損害はありませんよ。それにしても、良く見つけましたね。庭で何かしていましたか?」

「えっ?あぁ……丁度昼の鍛練が終わったからな。八つ時の後の休憩をしてたんだよ」

 

 俺が逆に問えば笑みを浮かべて白若丸は答える。自身の事を問われた事、それ自体が嬉しいかのように。それはまさに年相応の子供の態度そのものだった。

 

「そうですか、それは大変ご苦労様でした」

「そ、そうだ!!まだ少しおやつ残ってんだよ!!向こうの棟だからさ、行こうぜ!?分けてやるよ!!」

 

 俺が鍛練について称賛した直後、白若丸が思い付いたように叫ぶ。そのまま俺の衣服の袖を片手で掴んで、もう片方の手で件のおやつがあるらしい棟を指差す。指差しながら俺を誘う。

 

「いえ、私にはまだ職務がありますので。………白、悪いがここらで降りてくれ」

「あ……は、はい!!」

 

 俺が手を差し出せば、先程まで少年との会話を見ていた白狐はその手を取って馬から降りる。彼女は身長が足りないのでどうしても乗り降りで補助が必要だった。

 

「…………」

「どうかしましたか?」

「いや、何もない」

 

 何処か妙な感覚を覚えて俺は白若丸に向けて問うがぶっきらぼうにそう返される。嫉妬か?兄や姉が両親を弟や妹に取られて拗ねるようなものであろうか?原作のゲームシナリオでも、好感度を上げてから他のキャラクターとの交流を深めると似たような態度を取っていた気がする。まぁ、流石に原作主人公様程に信頼を得ているなどと自惚れてはいないが。

 

(仲良く………とまでは言えないか)

 

 半妖と人間、侍女と家人候補、所属する派閥と保護者の違い、仲良くしろなどと無責任な事は言えない。ただ、せめて互いに敵意は向けて欲しくはなかった。直接の仇や憎しみもないのにそんな陰険な関係になる必要もあるまい。というか原作シナリオもそうだけど同じ人類側なのに身内争いで戦力消耗するなや………その辺りは少しずつ俺が便宜を図っていくしかあるまい。

 

「允職………」

「ん?あぁ、済まん。車と馬は厩にまで引いていってくれ。標本の方は理究衆が詰めている棟に、それ以外はうちの倉庫に保管だ。帳簿はつけておけよ?」

 

 背後から追い付いて来た部下達に向けて俺は命じる。さて、俺も何時までも道草を食う訳にはいかんな。

 

「白、出迎え御苦労だ。姫様の所に戻ると良い。御影、悪いが護衛をしてやってくれ。………白若丸様、それでは自分はそろそろ失礼致します」

 

 俺は少女と少年に向けて其々そう言うとその場を後にする。子供のお守りが面倒になった訳ではない。先程言った通り、俺の職務はまだ終わっていないのだ。遠足は帰るまでが遠足というが、仕事の場合は帰った後の報告と事務処理まで含まれているものだ。労働者は辛いね。

 

「ん………?」

 

 ふと、俺は違和感を覚えて足を止める。誰かに見られているという強い感覚……俺は思わず周囲を見渡す。しかし、警戒はしてみるものの直後にその気配は跡形もなく霧散してしまい、その残滓すらも最早感じ取れなかった。

 

(隠行?随分と素早いし、判断も良いな)

 

 一体何処の誰か、原作での鬼月家内部での骨肉の争いを思うと想像したくもない。大方ゴリラ様派所属とされている俺の偵察といった所か。

 

「たかが允職だぞ?見逃してくれても良いのにな」

 

 考えても仕方無い事である。この屋敷が伏魔殿なのは最初からの事だ。精々闇討ちに気をつけるさ。

 

 俺は歩みを再開する。何時までもここに留まり続ける訳にもいかないのだから………。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ふむ、これが件の妖魔本か。回収御苦労だったね」

 

 鬼月家の主だった一族衆が集まる屋敷の大広間、その一室にて、跪いた俺はそう労いの言葉をかけられた。声をかけた人物は直属の上司たる鬼月思水である。その手元には大量の封符と鎖で封印された妖魔本がある。

 

 ………たかが下人相手に上っ面の社交辞令とは言え労いの言葉を口にするような鬼月の人間はそう多くない。前世の基準に合わせると下人なぞ精々家電製品程度の価値しかない。道具だ。そして道具に礼を述べるなんて事をするのは奇人変人の類いだ。その意味で言えば思水という男は律儀な男であった。

 

 ………決して優しい訳でも慈悲深い訳でもないが。

 

「此度の案件、顛末に対しては了解した。しかし、予定よりも帰還が遅かったのはどういう了見か?よもや道草をしていた訳でもあるまいな?」

 

 質問というよりかは尋問に近い口調で問うのはふくよかな中年男である。隠行衆頭兼蔵頭たる鬼月宇右衛門である。今年の春頃、蔵頭を兼務する事になり名実共に鬼月家の財務の全般を司るようになった肥満体は此方を探るように睨み付ける。

 

「それにつきましては既に御報告を致しました筈。橘家の一門より要請を受けて道中を護衛していました故に帰還が遅くなる由にて、文をしたためました次第」

 

 俺は淡々とただただ生じた事実を無感動に、無感情に答える。下手に感情を出しても訝まれ、憎まれるだけであった。

 

「其処よ、可笑しいのは」

 

 宇右衛門の言葉と共にずっしりと体重を傍らの脇息に乗せて軋む音が鳴る。暑くもないのにパタパタと扇子を扇ぎながら肥満男は発言の続きを紡いでいく。

 

「護衛であれば、それこそ儂ら鬼月一族に文の一つでも送って貰えれば派遣もしようて。それをせず、道中で偶然遭遇しての事であるとしても貴様ら下人共ばかりの一団を雇い上げるとは随分と奇妙な事よ。ましてや引き継ぎの雇い入れも申さぬとは………」

「…………」

 

 疑るような視線を向ける宇右衛門。俺は何も意見せずに無言を貫く。ここで口を出しても話が拗れるのみだ。

 

「何を仰りたいのでしょうか、宇右衛門殿?」

 

 無言の俺を代弁するように発言したのは下人衆頭である。人好きのする笑みで、穏やかに問い掛ける。少なくとも表面上は。

 

「いやいや、そこの下人が本当に報告通りの行動をしていたのか不安での。よもや、非礼にも橘の一族に護衛の押し売りでもしたのではないかと不安に思ってな」

 

 にやり、と意地の悪い表情を浮かべる隠行衆頭。恐らくは俺が誰かの別命でも受けて橘商会に接触でもしていたのではないかと勘ぐっているのだろう。俺の素行不良の可能性を建前に頭の中の記憶を引き抜こうとでも画策しているのかも知れない。宇右衛門から見れば俺はゴリラ様や思水に近い、何か有益な情報を得られるのではないかと考えているのだろう。嫌な流れになりそうだな………。

 

「そう言えば確かに………」

「任務で連れていると思いますな。近頃の下人共は妙に知恵が回るようにも感じます。確か指導内容を改めたとか?」

「前の案山子よりかはマシですがね。ですが……それはそれとして少々指導を緩め過ぎにも思えますな」

「そも、此度の任務、郡司への応対も担当させたとか。たかが下人に対して権限を与え過ぎてはおりませんかな?」

「思水殿、下人殿の監督と統制の責任はそちらですぞ?何かあったら責任は取れるのですかな?」

 

 方々より、宇右衛門の言葉に賛同する発言が為されていく。同時に思水に向けて冷やかしと嘲りが、俺に向けられる視線には疑念と敵意が混在し始める。発言の半分は本音であろうが、残る半分は思水に向けた政治的な意味での嫌がらせであっただろう。

 

 次期当主候補を辞退したとは言え、未だに鬼月思水の一族における立場は重い。そしてその地位を欲する者もまた多かった。少しでも失態と言えるものがあれば嬉々として皆が溺れる犬に石を投げるように追及する。傍らに控える助職が敵意を剥き出しにしてそんな彼らを睨むのを、思水は淡々とした態度で宥める。

 

「どうかな、思水殿?儂としては其処の下人の悪影響もあると思っておるのだがな」

 

 跪く俺を一瞥して、宇右衛門は更に続ける。何処か厭らしい物言いであった。

 

「一度その允職を此方に譲って貰えぬかな?何、何の問題もなければそのまま返そうぞ?念のためだ、念のために一度審問するべきだと思ったのよ。常々より、引っ掛かる所もあるのでな」

 

 冗談ではなかった。隠行衆はその仕事柄拷問を含む尋問も職域に含まれている。当然、頭の中の記憶を掘り起こす事もだ。引き取られては何をされるか知れたものではない。

 

「あらあら、随分と迂遠な物言いをする事ね、隠行衆頭は。本音を語ってくれても良いのよ?そんなに私の駒が允職にあるのが疎ましいのかしら?」

 

 上座の一角から響いた修飾も糞もないあからさまな発言は何処までも高慢で、しかし異様な程に強い存在感を纏っていた。平伏したままに、俺はちらりとその声の主を覗きこむ。

 

 鮮やかな桜色の和装が先ず印象的であった。宇右衛門同様に脇息に肘を乗せてゆったりと持たれるのは、衣の上からでも分かる肉感的な美少女である。鬼月の二の姫君、鬼月葵………俺の視線に気付いたように、彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。俺は直ぐ様視線を戻した。

 

「葵、ここは公の場であるぞ?幾ら直系とは言え言葉には気を付けぬか!ましてや、そのような言いがかりをつけるなぞ………」

「余り怒鳴らないでくれるかしら、叔父様?耳が痛くて敵わないわ。まさか奥方相手にもそんなお声を上げているのかしら?何とまぁ、大人げないこと。そんなのだと終いには逃げられてしまうわよ?」

 

 ゴリラ様は嘲りを含んだ、というかそれしかないような口調で嘯く。袖で口元を抑えてコロコロと鈴が鳴るような美しい声音で、嘲笑う。内容も辛辣だった。宇右衛門とその妻である『プレイヤーの脳を破壊するNTRれ幼妻』は、連れ添っていたら親子と間違えそうになる。

 

「っ………!!?葵、御主言わせておけば!!」

 

 宇右衛門は羞恥と怒りとで顔を真っ赤にする。咄嗟に立ち上がろうとするのを側にいた幾人かが彼を宥めて、葵の非礼を謗る。

 

 尤も、そんな光景も当の本人はまるでどこ吹く風だ。それどころか葵の派閥に属する一族衆の中にはこそこそと頭目の発言に乗って忍び笑いを漏らして耳打ちし合う。思水と同じく、鬼月の財務と隠行衆を手中とする宇右衛門もまた、他者にとって嫉妬され、敵視され、引き落とされるべき対象であったのだ。

 

「私も允職に対する処置には同意致しかねるな、叔父上」

「っ………!?」

 

 がやがやとまた騒がしくなり始めていた室内に、凛としたその声音が響いた。

 

 驚きと共に部屋に詰める者達が一斉に上座へと視線を集める。葵と丁度相対するにその席にいたのは艶やかな、烏の濡羽色の髪を一纏めに括る麗人であった。背筋を伸ばした男物の着物を着込んだ細身の女性………鬼月家の一の姫君、鬼月雛。

 

「ぬうっ!?」 

 

 宇右衛門は顔をしかめる。目を見開き、あからさまに驚いた表情を浮かべる。それは周囲の者達もまた同様であった。

 

 当然であろう。彼にとっては雛の介入は余りにも想定外であった。宇右衛門は次期鬼月家当主を選ぶに際して限りなく雛派に近い中立派の立場なのだから………尤も、それを知っているのは原作のゲームをやりこんでいたお陰であるのだが。何にせよ、俺が発言出来る事はない。無言でただただ沈黙する。

 

「雛!貴様、儂を………」

「静粛に御願い致します、叔父上。鬼月の家の重責を担う叔父上ともあろう方がそのように気を荒げていてどうしますか?」

「ぐぅ、しかしだな………!!」

「分かっております」

 

 尚も怒り心頭の宇右衛門を宥めつつ、一の姫は妹を睨み付ける。

 

「葵、叔父上は鬼月の重責を担う一族の長老格だ。余り非礼な言葉を使うな。もう子供ではあるまいだろうに。………それとも、お前にはそんな配慮も出来ないか?」

 

 凛とした表情で、姿勢を正したまま雛は妹を窘める。そんな姉を一瞥して、葵は鬱陶しげな表情を浮かべて頬杖をつく。溜め息を吐く。

 

「分かりましたわ、御姉様。………叔父上、先程は長老を相手に大変失礼致しましたわ。どうぞ、良しなに」

 

 文面は兎も角、その口調は仕方無しといった風に適当であった。宇右衛門はそんな姪の態度に不快そうにする。

 

 まぁ、何が一番酷いかって原作を知る俺からすればこれでもかなり柔らかく思える事である。絶対絶望大輪妖姦宴会を回避するだけで随分とまぁ、丸くなったものである。下手すれば今頃首が二、三個くらい転がっていた。

 

「ぐぬぬぬ…………!!」

「さて、叔父上。話を戻しても宜しいか?」

 

 腹を立てる宇右衛門に向けて淡々と雛が尋ねる。どの道、ゴリラ様にこれ以上の譲歩は期待出来ないのでそれ自体は理に適っていた。

 

「叔父上、御気持ちは分かりますが堪えて下さい。………そも、この場は命じた任務の報告を受ける場の筈。無関係な議論を呼び込んで場を荒立てたのは叔父上である事は事実でしょう?自重を御願いします」

「ぬぅ…………」

 

 淡々とした雛の指摘に流石に宇右衛門も反論出来ない。そうだ、ここは謀略と派閥争いのための席ではない。議題を脇道に逸らしたのは宇右衛門であり、葵はそれに乗っかったに過ぎない。

 

「隠行衆頭、御気持ちはお察知致します。しかし、下人衆は私の管轄下であり、それに関しては全面的に責任を負うもので御座います。それをいきなり私の職権に触れかねぬ御言葉………よもや、下人衆頭の役務にまで御関心がおありで?」

「叔父上は強欲なお人よねぇ?」

 

 慇懃かつ義務的な思水の言葉に、ゴリラ様が嘲るように乗っかる。むっ、と宇右衛門は再度不愉快そうに顔をしかめた。しかし今度は周囲はそれに同調しない。寧ろ険しい表情を浮かべる。今更ながらに宇右衛門の言葉の意味を理解したようだった。

 

 鬼月家の退魔士と鬼月家に従属する家人を除けば、下人衆と隠行衆は共に鬼月家の下部組織における二大武装勢力である。その頭を一人の人間が兼ねて、ましてや財務までも監督する事になれば………宇右衛門の鬼月家における立場を思えば皆が一斉に警戒を強める。

 

「ぬぬ……いや、儂は別に………無論、思水殿の職権に干渉する積もりはない。下衆の勘繰りなどされては敵わぬわ!」

 

 咄嗟に宇右衛門は自身の立場を理解して疑念を払拭せんと叫ぶ。最早下人一人に構っていられる状況ではなかった。

 

「うむ。下人衆頭殿、そういう訳だ。言われずとも理解しているとは思うが………今後とも下人の管理監督を頼む。方々からも意見があるようだしな。そちらについてはまた纏めて報告するとしよう」

 

 雛は思水に向けてそう言い終えると、そのまま長らく蚊帳の外となっていた俺に視線を向けた。穏やかな表情だと面越しに見ても分かった。

 

「允職、長らく待たせたな。任務御苦労だった。………退出すると良い」

「はっ!」

 

 雛の命に俺は深々と頭を下げて応じる。そして黙々とその場を退出する。俺としても、何時までもあの空間にいたくはなかった。霊力に当てられて吐き気がするのもあるが、やはり会話一つ一つに粘つきがあって居心地が悪過ぎるのだ。

 

 縁側に出た後、一礼して障子を引く。障子を締め切った後、ふぅ……、と俺は静かな溜め息を吐いた。

 

(流石に動き過ぎたかな?少し怪しまれているか…………)

 

 下人衆の再建のためとは言え、やはり目立ち過ぎたかも知れないと今更ながら思う。無論、殆どの行動はゴリラ様や思水の名義で行っているが………俺が単に叩きやすく、引き摺り落としやすい美味しい立場なのも一因だろう。

 

「また罠でも仕掛けられたりしないだろうな………?」

 

 狼の大妖に食い殺される寸前だった経験を思い出して、俺は呻く。原作に近付き、鬼月家内部における抗争もまた、苛烈さを増している。当主候補の二人ももう子供ではないのだ。対立は次第に誤魔化し切れなくなる。

 

 いや、鬼月家自体が最終的にどうなろうとも俺にとってはそれはどうでも良い。しかし、その余波は勘弁して欲しいものだった。チェストバスターされる綾香もそうだが、鬼月の身内争いは周辺被害が洒落にならん。というか無関係な奴ら程酷い目に遭うというね………笑えねぇな。

 

「ん?あれは………」

 

 縁側から渡殿を通って、自身の小屋に向かおうとしているとそれを見つける。庭先を仕切ると透垣の影に隠れて何かを垣間見る人影、その姿に俺は思わず胡乱げな眼差しを向ける。

 

 同時に人影も此方の気配に気付いたようで振り向いた。仕立ての良い和装を着込んだ、黒髪の、線の細い青年………。

 

「と、伴部さん……!!御願いします!!誤魔化して下さい!!」

 

 此方に駆け寄って来て、すがり付くように懇願する青年に、俺はそれを拒否する事は出来なかった。そのまま訳も分からぬままに頷いて、それを見た青年は一瞬安堵の表情を浮かべるが、直ぐに慌てて縁側の足場に潜り込んで隠れる。そう時間がせぬ内に、それは来た。

 

「あ、伴部さん。もう帰還したんですか?」

「はい、先程依頼の顛末を一族衆の方々に報告し終えた所です」

 

 キョロキョロと庭先を探すように見渡しながら透垣の影から現れた鬼月綾香に対して、俺は恭しく宣う。その後ろからはてくてくとおかっぱ頭の童が着いて来る。

 

 蓮華家の妾腹にして唯一の生き残りとして鬼月家預りとなっている桔梗姫である。彼女は俺の下に来ると感情表現の乏しい表情で俺の服の袖を掴み、問い掛ける。

 

「葉山は、どこ?」

「いきなりですか………」

 

 せめて挨拶くらいしようよ。凄い失礼だぞ。

 

「桔梗さん、いきなり失礼ですよ!?すみません、躾てはいるんですけど………」

「いえ、構いませんが………葉山というと、黒羽様の事でしょうか?」

 

 俺はつい三月程前に正式に羽山鬼月家を継いで、元服した青年の名前を口にする。

 

「はい。家の引き継ぎのゴタゴタも終わって漸く落ち着いて来たようですので、遊びに来たんですけど何処か行ってしまって………すみませんが、見ていませんか?」

 

 心底困ったような表情で問い掛ける綾香。何なら傍らの桔梗はじっーと無言で此方を見つめて来る。

 

「彼方の対にてそれらしき人影は見ましたが………」

 

 断定は出来ません、と言い切る前に綾香は礼をしてその場を走り出す。うん、お前さんそんなのだからおっちょこちょいってプレイヤーに言われるんだぞ?

 

「…………」 

「……どう致しましたか、桔梗姫様?」

 

 綾香が立ち去った後もじっーと此方を見つめる少女。その此方を見透かそうとしているような視線に気付かない振りをして、俺は尋ねる。

 

「………何もない。ばいばい」

 

 淡々とそう言って綾香の後に続く童女。二人が完全にその場からいなくなったのを確認してから、俺は件の青年に脅威が消滅した事を伝える。

 

「あ、有り難う御座います、伴部さん………」

「いえ………黒羽様こそ、これは一体何事でしょうか?」

 

 疲れ気味の表情で礼を述べる元隠行衆の青年に向けて、俺は肩を竦めて質問する。

 

 羽山鬼月家当主、鬼月黒羽………元隠行衆葉山はどう巡り巡った結果か、原作から逸脱したサブキャラであった。本来ならば原作のスタートの時点でも隠行衆であったが………土地も人もない実質は名ばかりの部屋住みとは言え、鬼月の分家の当主に返り咲いたのは大きな変化である。話によれば若作りな御意見番様が後見人として後ろ盾になっているそうだが、こればかりは何が目的なのか分からない。ただ言える事は、それが彼の取り巻く状況を大きく変えた事であろう。

 

「いえ、こんな事を言うのも何ですけれど………昔馴染みとの距離感が掴めないもので。その、綾香は小さい頃の友人だったんですけれど………もう互いに良い年じゃないですか?それをまるで子供の時みたいに接されるもので………」

「はぁ」

「何ならまだ気心が知れるんでしょうが、桔梗姫様も綾香と一緒に来るんですよ。けど、綾香がそんなのですから同じく距離感が………」

 

 言いにくそうに葉山は、いや黒羽は呟く。その言葉で俺は大体察しが着いた。より正確にはその発言と俺の持つ原作知識から、であるが。

 

 おっちょこちょいの癖にお姉さんぶって、しかもフレンドリーな鬼月綾香は服装が割りと露出しているのもあってか少し羞恥心に疎い所がある。年齢の割に心が幼いと言うべきかも知れない。原作のシナリオでもルート次第で無意識に主人公と間接キスしたり、添い寝したり、何なら同じ風呂に入って来るイベントすらもあった。まぁ、そうやってあからさまに吊るされた釣糸に食らい付いたプレイヤーは一際陰惨なチェスト地獄を見せつけられるんですけどね?

 

 ……恐らくは綾香は黒羽相手にも同じように接しているのだろう。あるいは、主人公相手よりも親しいので更に大胆かも知れない。原作では立場もあって余り親しく触れ合えなかったのだろうが、今では立場はほぼ対等だ。子供時代と同じ乗りで接しているのだろうが、相手をする黒羽の方はそうもいかないのだろう。

 

「もう年頃の娘なんですから何時までも子供時代みたいに接されても困るんですけどね………」

 

 元隠行衆の青年は疲れた表情を浮かべて嘆息する。彼からすれば自身の環境が様変わりし過ぎた事へのストレスもあるのだろう。

 

 受け継いだ霊力が多い訳でもないので退魔士として生きるのは難しいだろうが、それでも鬼月の名を正式に名乗れるとなれば幾らでも成り上がる道はある。地主でも、役人でも、商人としても成功する道はあるだろう。恐らくは彼の周囲に集まる輩も多い筈だ。

 

「あ、すみません。自分の事ばかり………伴部さん、確か依頼で出ていた筈ですよね?今日お戻りに?」

「はい。先程御報告を終えた次第です。……お聞き耳を立てていたでしょうから今更では?」

 

 俺の指摘に苦笑を浮かべる葉山改め、黒羽。隠行衆でなくても精々壁一枚で聞き耳を立てるのは簡単だ。

 

「いえ、念のために………自分は呼ばれませんでしたので」

 

 黒羽は複雑そうな表情を浮かべる。同じくあの場に呼ばれなかったのは綾香も同じであるが、彼女の場合は父が存命で出席している。黒羽は名目上とは言え分家の当主である。それが参集に呼ばれなかったとなると………色々と複雑な状況なのだろう。

 

(そう言えば御意見番を見なかったな。さて、これをどう見るべきか………)

 

 原作での状況を元に俺は鬼月家内部の勢力状況を推測しようとするが、如何せん情報が少な過ぎるな………。

 

「それはそうと黒羽様、先程からその呼び方はどうかと思われます。私は允職とは言えたかが下人です。そのような敬語は出来れば………」

 

 悪目立ちするだろう。それは互いにとって不都合しかない。

 

「えっ?あ……そう、ですね。はは……すみません、中々慣れませんね」

 

 何処か複雑そうに、哀愁すらも感じさせる微笑を青年は浮かべた。俺はそれに対して内心で眉をしかめて首を捻る。彼の反応の意味が理解出来なかったからだ。確かに俺は幼少時代の彼に少しは面識はある、河童の騒動で助けた経験もある。しかし、そんな態度を取られるのは不可思議であった。

 

(まあ、口止めされるよりはマシだろうがな)

 

 妖母の侵食すらも遅延させられる破格の丸薬である。個々の存在としては強大という訳ではない河童程度であれば完治はさせられよう。しかし経歴に傷がつくのはどうしようもない。自身の体面のために口止めに殺されても仕方無い内容であるが………彼にはそんな素振りが全くないように思えた。

 

 まぁ、寝首掻くための演技の可能性は否定出来ないのだが………少なくともあからさまに敵視されないだけでも儲けものだ。

 

「………余りここに留まるのも宜しくないでしょう。そろそろ別の場所に行かれた方が良いのでは?」

「そう、そうですね………確かにそろそろ何処かに逃げた方が良さそうだ」

 

 俺の指摘に思い出したように顔を引きつらせる。隠行衆という役柄、耳が良いのだろう。耳を澄ましてからそそくさに立ち去ろうとする、と彼は振り向く。

 

「伴部さん、改めて、無事に帰って下さって幸いでした。その………何か困った事がありましたら遠慮なんかせず、話して下さい。貴方は私の恩人ですから、恩はちゃんと返したいんです。………今度こそは」

「?は、はぁ………」

 

 最後の声音だけは小さくなって聞こえなかった。分からなかったが、そのままに思わず頷いていた。其ほどまでに目の前の青年の静かな、しかし強い意志に不意を突かれてしまったからだ。暫し、その場に流れる沈黙………。

 

「一体………」

「あ!黒羽、やっぱり隠れていましたね!?」

「っ!?す、すみません……!失礼します!!」

 

 引き返して来たのだろう、遠くから響く綾香の叫び声によって喉の奥まで出ていた俺の言葉は飲み込まれる。黒羽が慌てて走り出す。それを追って綾香と童女が俺の直ぐ側を通り過ぎる。俺は思わず少年の背に手を伸ばそうとして、止まる。そして疑念が頭の中を満たした。俺は何を言おうとしていた………?

 

「…………」

 

 どうしようもない違和感のせいで、暫くの間俺はその場から動く事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何時までも答えの見つからない事を考えても仕方なかったし、何時までも思考の海に浸っていられる程俺は暇ではない。

 

 それでも、収支の伝票の作成に返納した備品の確認、自身のいなかった間の衆内における方々の報告書の確認等々、為すべき事に事は欠かなかった。結果的に漸く俺が鬼月家の屋敷の端にあるその小屋に辿り着いたのは夕暮れ時、酉の七ツ半を過ぎていた。夏が終わり秋口に入った頃である。空は既に紅く染まっていた。夕焼け空である。烏の鳴き声が響き渡る。

 

「何事もなければ良いが………」 

 

 小屋に向かいながら俺は呟く。案ずる。馬上で白との雑談の際にそれとなく聞いていたから問題ないとは思うが………あの二人の立場を考えたらどうしても心配であった。身分もそうであるし、出身や俺の手下である事もあって本当に何もないかを考えると不安は拭えない。

 

 小屋が見えてきた。竈の煙が立ち上っていた。火を使っているのだろうか?

 

「…………」

 

 小屋の戸口の前で俺は立ち止まる。そして手元の手荷物を見下ろす。佳世と別れる際に土産として受け取った菓子である。喜んでくれると良いのだが………。

 

「偽善だな」

 

 其処まで考えて、俺は己の考えを嘲る。彼らを心配しているなら、そもこんな屋敷に連れて来るのではなかっただろうに。ここから鬼月家の争いは一層激しくなるのだ。しかも俺の手下ともなればどんな流れ弾が来る事か………ここに連れて来る時も思ったが、本当に偽善だ。

 

 そして何が腹ただしいかって、彼らを危険な目に遭わせているのは自分なのに、同時に彼らの存在に安堵している自分で…………。

 

「旦那、何でそこに突っ立っているでさぁ?」

「ん?うおっ!?孫六っ……!?」

 

 当然後ろから声を掛けられて、俺は心底驚く。背後を振り向いたらそこにいたのは孫六であった。肉体労働で日焼けして鍛えられた身体をした男は、此方を不思議そうに見やる。その腕にあるのは……兎肉?

 

「いや、それは………?」

「あっ?これですか?旦那が今日戻ってきたって聞いたもんで飼育小屋の兎を絞めたんでさぁ。そろそろ血抜きが終わると思ったんで小屋の裏で吊るしてたのを下処理して持ち戻ってきたんです」

 

 ニコニコと内臓と毛皮の処理とした兎肉を見せつける孫六である。飼育小屋はこの前俺と孫六が共同で拵えたもので、兎と鶏を飼っている。流石に允職とは言え、三人分の飯となるとある程度自給しなければならない。

 

「あっ!御兄様お帰りなさいませ。………この足音、伴部様ですか?」

 

 孫六が戸を開けて、俺がその後ろに続いて允職用に宛がわれた小屋に入ると盲目の少女が編み物をしながら出迎えてくれた。孫六の妹の毬は目は見えないがそれ以外の五感が鋭敏で、足音だけで俺の存在を認識する。

 

「あぁ。丁度そこで孫六とあってな。どうだ?何もなかったか?」

「はい。伴部様がご不在中、これといっては何も。伴部様はお怪我等は……?」

「安心しろ、五体満足だよ。なぁ、孫六?」

「へい、流石旦那でさぁ」

 

 心配そうに尋ねる毬に俺は応揚に答え、孫六もまたそれに応じる。そのまま孫六は台所の方まで向かい、火元と釜の中を確認すると、俎と包丁を用意する。下処理を終えた兎を調理する積もりらしい。

 

「お粥と汁物はもうそろそろです。後は……この匂いは兎肉でしょうか、御兄様?」

「あぁ。旦那、もうすぐ飯は出来ますから身支度を御願いしやす。桶は……こいつだな」

 

 聴覚と嗅覚のみで調理の具合を言い当てる毬に、孫六は頷くと部屋の隅に置いた桶に竈で煮ていた鍋の湯を注ぎ込む。薪も貴重なので調理の際の熱を再利用したものだ。毬は膝で歩きながら同じく部屋の隅に置いてある木箱より着替えを取り出してくる。

 

「着ていた物はそこの笊にでも置いておいて下さい。後で洗濯しやす」

 

 そういってから孫六は毬の傍らに足を向ける。妹もまた兄の足音に気付いて改めて正座をして此方を向いた。そして二人で並ぶ。

 

「改めて旦那、お帰りなさいでさぁ」

「お帰りなさいませ、伴部様」

 

 朝黒い肌の逞しい男と、華奢な体つきの盲目の少女は揃って俺にそう声をかけた。優しげに微笑みながら、心の底から喜ぶように、帰宅を歓迎する。

 

 そう、それはまるで家族を出迎えるように………。

 

「…………」

 

 それはきっと幸せな事だった。とても幸福な事だった。俺のような……俺のような醜くて卑怯な人間には勿体無い程の………。

 

「旦那……?」

「……ん、あぁ。土産があるんだ。南蛮焼き菓子だよ。……後で皆で食べようか?」

 

 俺は内心の思いを悟られぬように、孫六に箱を渡してその場を誤魔化す。箱の中身はクッキーだ。兄妹は俺の言葉に喜色を浮かべる。心底楽しみにしているみたいだった。俺もまたそんな二人を見て喜ぶ。そして………小さく呟く。二人に聞こえるかも怪しい声で、囁く。

 

「………ただいま」

 

 厚かましい事は分かっていた。お気楽な物言いなのは理解していた。それでも尚、いやだからこそ、せめて俺はこの一時の幸福を噛み締めていたかった。

 

 これから先の、希望も何も見えない真っ暗闇の苦難を潜り抜けるためには、心の支えが必要だったから…………。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 彼女は自室に辿り着くと共に床に身を乗り出していた。熱病に魘されるかのように顔を火照らせて、瞳は霞んでいて、その息は荒い。しかし、同時にそれは何処となく甘ったるく、淫靡な空気も纏っていた。

 

 発情仕切った、獣の姿であった。

 

「はぁ………漸く、漸く会えた。長かった………本当に、長かった………!!」

 

 彼女は叫ぶ。力の限り叫ぶ。咆哮する。獣のように………否、それは正に獣そのものであった。

 

 本能と欲望に身を委ねた者の姿が、そこにあった。

 

「あぁ……長かった!!あぁ………本当に、長かった…………」

 

 歓喜の声は次第に嗚咽に変わる。床にしなだれて、嘆息する。十日、それが彼がこの屋敷から姿を消していた日数であり、それは彼女にとって、鬼月雛にとっては余りにも長過ぎる悠久の時間であったのだ。

 

 元よりも、あの忌々しい妹を筆頭に訳の分からぬ部外者共が最愛の彼の周囲を囲っていた。そのせいで雛が彼を見守るために送り込んだ式神はその悉くが引き裂かれ、焼き払われ、打ち払われ続けてきた。雛とてそれに対抗せんと努力は続けて来たし、既にその腕は一流と呼ぶに相応しいものであったが………残念ながらそれでも尚、彼の元に式を侍らせるのは困難を極めた。

 

 故に彼を見守っていられるのはこの屋敷にいる時くらいのもの………遥か遠くから、雛は最愛の彼を何時までも見つめていた。耽溺しながら見つめていた。いつだって見つめていた。それは余りにも当然の事であった。

 

 雛にとって辛いのは彼が屋敷の外に行ってしまう事、そうなってしまえば雛にはどうする事も出来ない。幾度かは適当な依頼に自ら赴いて彼と偶然を装い逢瀬にしようとも思ったがそれすらも邪魔されて上手くはいかない。

 

 そうなってしまえば雛は、その身を焼き尽くされるかという程に苦しんだ。彼を求めて、彼に焦がれて苦しんだ。余りにも苦し過ぎて実際に自身を焼き尽くしてしまった事も幾度もある。………全て直ぐに再生してしまったが。

 

「うぅぅ………」

 

 床に悶えながら雛は尚も嗚咽を漏らす。慟哭する。子供のように泣きじゃくる。泣きはらす。

  

 それは寂しさからであった。彼の側にいられない故の悲しみからだった。それは年を経るごとに、彼女がより女へと変わっていく度に強くなっていった。彼から頂戴した衣服を纏い、その匂いを肺に一杯吸い込んでももう誤魔化し切れない。一時は自らの心の臓を彼に捧げる事でその渇望も紛れていたがそれも………どういう訳か、この一年程は頻度が極端に減ってしまった。彼に、己の思いを、献身を、愛を証明する手段が失われてしまった。それは雛にとって絶望そのものだった。

 

 だからこそ先程の一門衆の集いにて、彼と視線があった事が、彼と会話を交わらせた事が、雛にはこの上ない幸福で、法悦で、悦楽で………彼女はその行為だけで密かに達していた。顔にこそ出していないが、下着を変えなければならない程だった。それは彼女にとって想定の範囲内であった。

 

「………憎らしい」

 

 そこまで思い出して、突如として泣き止んだ一の姫君は、同時にその顔を般若のように怒りに歪める。あの会議の事を思い出して激怒する。彼を貶めようとした輩共を、嘲りの輪に入った者共に、そしてあの妹に………。

 

 事前に彼を貶めようと一部で画策していたのを、妹の提案に乗って切り抜けた。浅ましい事に、あの妹は自身と彼の愛を利用して自身の政略に利用したのだ。お陰様で雛を支援する宇右衛門は派閥の中で浮き、宇右衛門自身もまた雛との関係に楔を打ち込まれた。あの叔父はどんな小さな事でも何時までも忘れない器の小さい男だ。そして雛はそれを受け入れざるを得なかった。彼のためならば、あらゆる犠牲を雛は許容する。

 

 そうでなくても、あの妹の差し金だろう。彼の近くには鬱陶しい奴らばかりだ。あざとい紅毛人の牝に、ぶりっ子の獣の餓鬼、穢らわしい稚児の小僧、おぞましい鬼に手配済みのはぐれ、面の皮の厚い裏切り者に彼の側に置くのもおぞましい被差別階級の盲女………あぁ、本当に邪魔だ。どれもかれも、誰も彼も汚くて、醜くて、不浄な連中ばかりだ。こんな連中に囲まれている彼が余りにも哀れだ。可哀想だ。こんなの虐待じゃないか。あの女は一体何処まで彼を貶める積もりなんだ……!!?

 

「いっそ、皆焼いてしまおうか?」

 

 ぽつりと呟いた独り言は、しかしそれは余りにも魅力的な選択肢に思えた。この屋敷も、この屋敷に住む連中も、みんなみんな斬り殺して焼き殺して………死人に口無しだ。

 

 そして火事に紛れて彼に手を引かれての逃避行、あの日のやり直しだ。彼の微笑みに、笑顔で返して、忌々しい、穢らわしいものは全て捨て去って、あの日の約束を果たすのだ。あぁ、何て甘美な光景だろうか……?

 

「駄目だ………駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!まだ、駄目だ!!!!」

 

 美しい空想の世界に逃げ込みそうになって、雛は己の頭を掻きむしってそれを拒絶する。駄目だ、まだ駄目だ!!彼を救い出すには、まだ、行動してはならない!!!!

 

「耐えろ……耐えるんだ、私。そうさ、何年も待ったんだ。もう少しじゃないか?耐えるんだ。そうだ、もう少し……もう少しだけ………!!?」

 

 己の欲望に対して必死に言い聞かせようとしていた瞬間、突如として襲いかかる動悸に似た禁断症状に女は慌てて部屋に安置していた唐櫃へと駆け寄った。盗みを恐れて自身で仕掛けた封符を、自ら毟りとる。呪いが彼女の掌を焼くがそんなものはどうだって良い。大事なのはその中身だけだ。

 

 蓋を放り投げて、その中に仕舞いこんでいたその下着を抱き抱えて、顔を埋め、雛は肺に一杯その匂いを吸い込む。次第に心臓の心拍は落ち着いて来たように思えた。彼の匂いに満たされた雛は阿片をしているかと錯覚しそうな程に薫然としていた。落ち着く。安心する。

 

「んっ、はぁ…………、あぁ…………」

 

 何度も使い込まれて、彼の血や汗や吐瀉物で汚れて、染み込んだその下着は雛の宝物だった。彼から貰った大切な贈り物だ。認可?そんなものは必要ない。何せ自分達は夫婦なのだ。ならばその資産もまた共有するべきだろう。彼の全ては自身のものだ、そして自身の全てもまた………雛は彼が望みさえすれば己の命を含めた一切合切を僅かの躊躇もなく笑顔を浮かべて彼に差し出せた。家族とは助け合うものだから。雛は己が良妻と確信していた。

 

 ………この下着がなくなった時に仕える兄妹が洗濯時の不手際と思い顔を青くし怯えながら謝罪し、彼がどうせ古着だからと気にせずに恐縮する二人を何時までも宥めていた事実なぞ雛は知らない。知っていても気にもしないだろう。関心もないだろう。彼の側にいるあらゆる人間が雛にとっては邪魔でしかなかったから。雛の世界は彼と己とで完全に完結し、完成していた。そこに他者の入り込む余地なぞなかった。あって良い筈がなかった。断定していた。

 

「そうだ、待っていてくれ………もう少しだけ、待っていてくれ。私が迎えに行くから、絶対に救い出すから。今度は私が!お前を!絶対!だから………だから…………なぁ?」

 

 強い激情の言葉は最後に懇願するように萎れていた。そして呟く。

 

「お願いだ。待ってくれ…………」

 

 子供のように寂しげに呟いて、雛は彼の下着を抱き締める。彼そのものを抱き締めるように強く、強く、何時か来る彼との逢瀬に思いを馳せて、彼との生活を空想し、抱き締める。愛する。彼を、愛する。自身が決定的なまでに彼と擦れ違っている事に気付きもせずに。

 

 その赤い瞳には何処までも光なぞなく、ただただ濁りに濁りきった情愛と情念の狂気に満たされていた………。


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