和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 貫咲賢希さんよりファンアート(11月11日・ポッキーの日)を頂いたのでご紹介致します。
https://www.pixiv.net/artworks/94058117

 多分妻から誘って、くっつく前に夫が折っちゃいます。妻は(o´・ω・`o)としょげます。可愛い。貫咲賢希さん、素晴らしいファンアート有り難う御座います。

 あらすじのPIXIV記事のリンク障害が解消されております。長らくご迷惑をおかけして申し訳御座いません。 


第七四話●

 行動は迅速だった。報告用の式神を予備も含めて二体放ってから、俺は主人公様や佳世を護衛しながら郷村にまで急いで帰還した。帰還した時には既に知らせを受けて武装した商会の傭兵や男衆、鬼月家からも下人衆が蛍夜家邸宅を中心に郷村の警備と警戒に就いていた。取り敢えず背負っていた千鳥は駆け寄って来た御影に押し付ける。

 

「と、伴部さん………!?」

「佳世様はお連れの方々とお屋敷に。………蛍夜の姫様も護衛を連れて御家族の許にお向かい下さい」

 

 そのまま屋敷の門を潜り抜け、佳世と少年を商会の者達の所に引き渡すと、次いで主人公様と女中にも避難を促す。

 

「で、でも………!?」

「でもではありません!!ご自身の安全を優先して下さい!!」

 

 どうにかしてその場に留まろうとする主人公様にそう叱責して蛍夜家の使用人達に押し付ける。万一にもお前さんにここで死なれたら困るんだよ………!!

 

「姫様、落ち着いて下さいませ。今は指示に従いましょう」

 

 尚も追い縋ろうとする主人公様を抑えるのは女中の鈴音であった。彼女は某かを主人の耳元に向けて囁き、神妙な表情を浮かべた環は、しかし最後にはそれに何度も頷いて提案に従う。それは心から納得したというよりは納得しようとしているようにも見えた。

 

 何を話しているのか、それが気にならない訳ではないが………残念ながらこの喧騒の中で、しかも時間もない中でそれに意識を向ける暇はなかった。俺の立場では許されなかった。

 

 故に、俺は護衛対象を保護し終えるとそのまま急いで踵を返して屋敷の前庭へと戻る。多くの人影が彼方此方へと動き回る中、俺は一際大きい人影を見出だすとそちらへと向かい、その眼前で跪く。

 

「下人衆允です。只今蛍夜、橘の両家の方々の護衛を終えて参上致しました」

「うむ、宜しい」

 

 床几にずっしりと座り込んだまま腕を組み、横柄にかつ尊大に宇右衛門は宣う。

 

「貴様にしては良くやった。たかが下人とは言え、我が家の手の者がいながらお二方に何かあっては一大事だからな」

 

 鼻を鳴らしながら宇右衛門は傍らの家人に視線を向ける。家人は頷くと俺に問う。

 

「先行して貴様の送り出した式神より件の獣毛は受け取った。あれは貴様の部下が入手したものに相違ないな?」

「はっ。部下に尋ねた所、襲撃された瞬間に咄嗟に掴んだものであるとの事です」

 

 事前に退避しながら千鳥から話は聞いていた。巡回の途上、何かの気配を感じ取り、それを探りながら近付いた所背後から襲われたのだそうだ。その際に咄嗟に伸びた手が相手を掴んだらしい。それ自体は直ぐに振り払われたが………部下の掌の獣毛はその時に残留したものと思われる。

 

「成る程。………検査しましたが、やはり新鮮な妖気を纏っておりました。郷内に妖が紛れ込んでいるようです」

 

 顔をしかめながら家人は宇右衛門に報告する。俺は内心で緊張する。この流れは少し厄介かも知れない。

 

「ふむ、やはり結界に綻びでもあったか」

「しかし、我々が滞在する中での事案で幸いでした」

「いいや、そう楽天的に捉えるでない。………我らが招き寄せたと思われているかも知れんからな」

 

 家人の言葉に、今度は宇右衛門は声を忍ばせて囁く。その表情は険しい。

 

 退魔士もまた霊力を持つ故に、妖共を大いに魅了する。ましてや下人共や隠行衆までもいるとなれば………民草が退魔士という存在を畏れ敬うと共に、軽蔑する理由である。宇右衛門からすれば鬼月の名誉のためにもここで失態は犯せない。

 

「では、山狩りですかな?」

「急いで結界の調査も必要でしょう。今から掛かりましょうか?」

 

 宇右衛門と共に東討隊に属する禿頭に無貌の面を被った理究衆頭鬼月慧晴と若い家人、吉備萩影がそれぞれ意見を口にする。宇右衛門はその意見に顎を撫でながら僅かに考え込む。

 

「いや、山狩りは後に回すぞ。それよりも先に結界の結び直しだ。我らがここに来た理由を忘れてはならん。妖を野に放つのも、他の妖を郷の内に入れる事も、共にあってはならん事だ」

 

 元々この郷に進駐したのは街道を荒らす妖の討伐を邦守に要請されたためだ。故にこの郷の内に入り込んだそれが件のものであれ、違うものであれ、それを再度外に放つ事は許されない。同時に進駐した郷に入り込んだ妖を放置する事もまた許されない。先ずは結界を結び直し逃げ場を奪い、その後に山狩りで追い詰めるのが得策であろう。

 

「蛍夜、橘両家の御仁とも話さねばならんな。要らぬ誤解をされては敵わぬ」

 

 そう言って、宇右衛門は一族たる鬼月慧晴に街道及び周辺一帯の監視を命じる。前々当主の弟の一人に当たり、宇右衛門の叔父に当たる仮面の老人は恭しく頷いてその命に応じる。尤も、実の所妖退治に関して言えば東討隊に参加する者達の中で最も経験豊富な人物であり、適任であるのは確かであった。

 

「吉備、貴様は結界の確認を指揮しろ。儂はここの屋敷を守る」

 

 ふんぞり返りながらそう宣言する宇右衛門であるが、それをただただ臆病風に吹かれたとは謗る事は出来ないだろう。蛍夜、橘両家の者を守るだけでなく、討伐隊の責任者として両家に説明と交渉もせねばならない。

 

 何よりも、強化さえすれば宇右衛門は残る二人では比較にもならぬ程の身体能力を有していた。何かあれば宇右衛門が迅速に救援に駆け付ける事になるだろう。

 

「ふむ。………丁度良い。この騒ぎだ、貴様には働いて貰うぞ?」

「はっ」

 

 内心で状況の変化に対応仕切れずに混乱していたものの、宇右衛門の言葉に逆らう訳にも行かず、俺は恭しく返答する。内容については予め聞く事はない。そも、俺に拒否権なぞないのだから。

 

「返事ばかりは達者なものだな。のぅ?………まぁ、良い。では命じる。お主には………」

 

 そして宇右衛門は嫌味を交えながら、俺に対してその命令を下した………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そのような経緯の次第、宇右衛門殿の命に従い参上致しました」

「えっ………?あ、あぁ………成る程。分かったよ」

 

 俺の通達に対して、某か考え事をしていて上の空であったTS主人公様は、漸くその意識を引き戻したように返答した。

 

 結界の調査、そして襲撃があったその日の夜、俺は正式に蛍夜の姫君に対する鬼月家から派遣される護衛として彼女の私室で、その御簾の眼前で跪く。

 

 宇右衛門の下した命令自体は、彼の視点で言えば当然と言えば当然ではあった。宇右衛門は屋敷を守護するものの、必要に応じて救援に動くために代理たる者が必要だった。そして動かせる退魔士の余員がいない以上、次点の実力者として……かなり質が落ちるものの……下人衆の允職である俺がその候補に上がる事もまた、自然の成り行きであった。

 

 強いて言えば、俺が主人公様や佳世との面識がある事もそれを後押しした。尤も主人公様については………残念ながら俺と環姫との初接触のヤラカシについては一部の者しか知らぬ事で、宇右衛門は俺が倒れた所を蛍夜の姫君に保護された、くらいの内容しか認識していないらしい。故にこのようなある意味で無礼な人事が行われてしまったのである。

 

 ………まぁ、だからといってそれを是正するつもりはないが。本当の事を宇右衛門に伝えた瞬間、俺の首は手刀で刎ねられている。

 

「貴様が護衛ですって………!!?鬼月の連中は何を考えているのですか……!!?」

 

 俺の申し出に真っ先に怒りを露にしたのは御簾の傍らに控えていた女中の鈴音であった。あからさまに此方に嫌悪感を剥き出しにして睨み付けて来る。

 

「鈴音、止めるんだ。折角護衛に来てくれたのに失礼じゃないか」

 

 鈴音の暴言に、環姫は慌てて叱責する。そして此方を見つめる。

 

「ごめんね?別に悪気がある訳じゃないんだよ。ただ、鈴音は僕や郷の心配をしてくれているだけなんだ。余り気にしないでくれると嬉しいな」

「はっ。して、御返答は?」

「僕の所に話を持って来るのだから、その前に父さん達に話は通しているんだろう?どうなんだい?」

「姫様の御判断に任せる、との事です」

 

 善く善く考えればこの義徳の判断も、この世界では結構ぶっ飛んでいる。

 

 性別よりも霊力の過多が重要な退魔士家ならば兎も角、それ以外の身分では男尊女卑の価値観は普通に根付いている。それを家長が娘の判断を尊重しようと考えるなぞ………ましてや事故とは言え愛娘の身体を覗いた下賤の身の男ともなれば、先ずは怒り狂うのが普通であろう。

 

 いやまぁ、それを言ったら最初の時点で俺の首が飛んでないのが不自然なのだが。

 

「………僕は構わないよ。寧ろ心強いかな?堅彦が言ってたよ?君、結構腕前が良いんだよね?そんな人が側にいてくれるなら安心さ」

 

 主人公様はそう言って微笑む。少し元気が無さそうであったが、そこに悪意は感じられなかった。

 

「それに佳世さんと仲が良さそうだしね。………実の所、僕って田舎育ちで、しかもこんな性分だろう?佳世さんは暫くここに滞在するからその分付き合いもあると思うんだ。そんな時に僕だけじゃあね………君が側で色々手助けしてくれるなら助かるんだ」

 

 苦笑しつつ、申し訳無さそうに俺に頼みこむ蛍夜の姫君。当然ながら負い目のある俺ではそれに否を言う選択肢は有り得ない。

 

「承知致しました。私も立場上、深く交流がある訳ではありませんが出来うる限りの助力をさせて頂きます」

 

 深々と俺は一礼する。僅かな沈黙………そして鈴音が口を開く。

 

「………宜しい。では退出して下さい。今夜の警備ですが、丑の刻限から部屋の戸口の外で控えるように。此方から求めなければ内に入るのは止めなさい。………一度は兎も角、二度までも無礼を働く事は赦しませんよ?」

 

 脅すように鈴音は俺に命令する。まぁ、命令の内容は真っ当であった。寧ろ本来、高貴な身分の女性の部屋に下人が足を踏み入れる事も、真っ正面から会話する事だって有り得ぬ事だ。最も人外の輩の活動が活発になると伝えられる丑の刻限から警備に就くように命じるのも理に適っている。鈴音の言は完全にこの世界においては常識の範囲に収まるものだった。

 

「はっ!」

 

 再度俺は一礼した後、そのまま下がり背後の襖から部屋を退出する。そして襖を閉じると共に小さく嘆息する。

 

「不味いな………これは介入するのは難しくなったか?」

 

 此度の騒動が何を原因として何事が起きているのか、それは分からない。問題はそれによって俺の行動の自由が利かなくなった事だ。

 

 特に結界の点検作業に関わりにくくなった事が厄介だった。下手すれば原作の妖襲撃イベントが潰れかねない。そうなれば………原作主人公の覚醒フラグが折れるのは避けたいのだがな。

 

(最悪、俺自身で結界を壊さなくてはならなくなるか?それはしたくねぇな………)

 

 綻んだ結界の要を見て見ぬ振りをするならば兎も角、自ら壊すのはやりたくなかった。この世界においてはそれは明確な殺人の幇助に他ならない。そこまで出来る覚悟が俺にあるのか?しかも、それで犠牲になるのは何の罪もない、善良な郷村の住民なのだ。

 

「っ………!!?」

 

 其処まで考えが及んだ所で、不意に襲いかかってきた眩暈と吐き気に思わず俺は膝をつく。そして口元を押さえて吐き気を押し込む。全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。皮膚の下を無数の毛虫がのたうち回るようなおぞましいこの感覚は………!!

 

「くっ……はっ!人の事を心配出来る立場じゃあねぇな」

 

 俺は内心の恐怖と不安を押し殺すように小さく冷笑する。そう言えば最後にあの蜘蛛に飯をやったのは何日前の事か………そろそろまた餌付けしなければならないようだった。俺のために。

 

 丸薬は妖化を表面的に抑えるだけに過ぎず、蜘蛛に因子ごと血を吸わせるのだって危険だった。因子を全部食わせるには貧血処では済まない血が必要で、しかも小さい内はあの蜘蛛は直ぐに腹を膨らませるらしく、完全に因子を食わせるにはある程度成長しなければならない。そして俺の中の因子を全て食い尽くせる頃には恐らくあの白蜘蛛は手に負えなくなる程に成長している事だろう。ははは、八方塞がり感が凄いな。

 

「やってられねぇな」

 

 悪態をつくが、現実は変わりやしない。何はともあれ、このまま今日を凌ぐ訳にはいかなかった。このまま何もしなければ身体が内側から変質する激痛に一日中苦しむ事になる。護衛どころではない。主人公様の部屋を番する前に一度人気のない場所であの蜘蛛に飯をやらなければならなかった。

 

「はっ、あの野郎馬鹿面下げて喜ぶだろうな。糞ったれが………!!」

 

 俺は舌打ちすると、そのまま蜘蛛に便所飯をやるために………奴にはそれで十分だ………厠を目指して廊下を進んでいった。人通りのない廊下は明かりに乏しく、しかも曇天の空のせいで星の光も、月光も届かぬ故に廊下の奥は不気味な程に闇に包まれていた。

 

 それは、俺のこれから先の運命を暗示しているようで、どうしてもその心中に拭い難い不安と焦燥を抱かざるを得なかった………。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「………それで、姫様はどう為されるおつもりなのですか?」

 

 忌々しい下人の男が完全に立ち去ったのを確認してから女中は、鈴音は主人に向けて問い質す。

 

「どうするって………」

 

 それに返答しようとした環は、しかし直ぐに言葉を詰まらせる。彼女も分かっているのだ。全ては時間稼ぎに過ぎない事を。

 

 発端は橘商会の客人が郷を訪問するという知らせを聞いた事であった。その話を聞いた途端に表情を青くした友人の異変に二人は気付いた。そして、夜逃げしようとする友人を問い質し、遂に観念して友は全てを洗いざらい話した。

 

 話の内容は衝撃的で、しかし確かに罪がないとは言えないが見捨てる事もまた出来なかった。これから冬が来る。郷から逃げても北土の吹雪の前に凍死するのは必然で、半妖の、札付きの哀れな友人を匿ってくれる者、物を売ってくれる者なぞ外の世界では滅多にいない。

 

 寝床が、屋根が、薪が、日々の食事が欲しければ罪を犯すしかないのは明らかで、そして環は友をそのような目に遭わせる事もまた望まなかった。だから……隠した。

 

 父や兄は信頼出来たが彼らが如何に慈悲深いとは言え郷に責任を持つ身である。いざとなれば友を引き渡さねばならなかったし、罪の連座もさせたくなかった。機密が漏れる可能性もある。秘密は共有する者が多い程に気付かれるものだ。今一人の友人の助言を受けた環は郷の山奥の一角に隠れ家を拵えた。そして匿った。

 

 ほんの数日で済む筈だった。数日後、商会が郷を立ち去れば友は再び自由の身の筈だった。しかし、郷外の妖被害によって商会が立ち止めを食らい、更には退魔士の一行まで訪れたのだから状況は最悪であった。

 

 急遽、周囲に見られないように夜中に食糧等を隠れ家に運び込み、道中の汚れが分からぬように温泉で洗い流そうとして、起きたのがあの下人との接触だ。

 

「うぅ………」

 

 それを思い出して環は己の身体を抱いて顔を赤らめる。恐らくは完全に事故だったのだろう。それは分かっている。それでも流石にあの時の事を思い出すとどうしても羞恥心の余りもやもやとしてしまうのだ。これまでだって散々みっともないだの淑女らしくない等と言われてはいたのだが………今回ばかりは彼女だって恥ずかしい。

 

 文字通り一糸纏わぬ身体を真っ正面から目撃されたのだ。あの時、女としての第六感で胸元や股下等を凝視された気がした。厭らしい感触はしなかったし、あの後の彼の事を思えば単なる自意識過剰、気のせいだったのかも知れないが………。

 

「それについては自業自得ですよ。だからせめて布くらいは身体に巻いて下さいって言ったんです。………まぁ、逆に言えば怪我の功名ではありますが」

 

 ある意味では、確かに運が良かった。お陰であの下人に貸しが出来て、その行動に同行する事も出来たのだから。

 

 退魔士らが結界の点検のために郷の外縁を巡ると聞いて、どうしても環達はその阻止、あるいは同行をせざるを得なかった。そうしなければ最悪何も知らぬままに友が見つかってしまう所であった。罪人であると気付かれなくても人里から隠れる半妖がどんな目に遭うかなぞ知れたものではない。

 

 それに結果論とは言え、騒ぎが起きた際に友が追撃されずに逃げられたのも環達の存在のお陰であった。もし環達がいなければ鬼月の下人はそのまま屋敷に引き返さず襲撃者を追跡していたかも知れない。環達、貴人の安全が優先された事が友が追手を逃れる事が出来た大きな理由だった。

 

「あの下人、一応それなりの立場みたいですね。先日の件で脅迫も出来ますから、ある程度此方で自由に動かせる筈です。精々利用させて貰いましょう」

「鈴音、そういう言い方は………」

「姫様、甘い事は言わないで下さい。もし事が公になったら………分からない訳ではないでしょう?」

 

 半妖の、札付きを匿った事が知られればどうなるか………実際、鈴音は最初主人に対して郷の男達を総動員してあの半妖を捕らえ突き出そうと進言していたのだ。それを目の前の姫君は苦悩しつつも退けた。

 

 友が過去に何等かの罪を犯したのを知っても尚、この姫君は友を見捨てられなかったのだ。信じたくなかったし、信じられなかったのだ。あのがさつだが気安い友が罪を犯した等と………。

 

 そして捕らえられたらどうなるのか、そのあり得る最悪の末路を思い、どうにかして蛍夜の姫君は友を守ろうとした。愚かな行為と分かっていても、割り切れなかった。割り切るには彼女は優し過ぎた。そして仲を深め過ぎていたから………。

 

「まぁ、それについては今更彼是言う積もりはありませんよ。所詮は過去の事ですから。………それはそうとあの馬鹿!勝手に騒ぎを起こして!此方が動きにくくなったじゃないの!!」

 

 鈴音は騒ぎの元凶である半妖に対して忌々しげに吐き捨てる。此方があれこれと必死に誤魔化してやっているというのに、どうして態態火に油を注ぐのか!匿われたのなら大人しく隠れていたら良いものを!

 

「き、きっと何か理由があったんだよ」

「姫様は甘いですね!!………確かにあいつは馬鹿ですが愚かではないですよ。だとしても!腹は立ちますよ!!」

 

 グチグチと、ブツブツと、ネチネチと、女中の少女は呪詛を吐くように悪態をつき続ける。その様子に苦笑いしつつ、同時に環は神妙な表情を浮かべる。憂いを見せる。

 

「ごめんね?鈴音にも迷惑がかかって………その、あれこれ助言を無視しちゃってるのに協力してくれて………」

「はい。全くあいつにしろ、姫様にしろ迷惑のかけられっぱなしです」

 

 主君の謝罪に対して容赦なく言い捨てる鈴音。ぎろり、と睨み付ける。その反応に環は身体を小さくして恐縮する。この光景を見るとどちらが主人か分かったものではないが………無論、公私の区別は……少なくとも鈴音は……ついているのでここまであからさまに宣うのは誰も見ていない時だけである。

 

「け、けど……協力はしてくれるんだね?」

「私だって友人が殺された方が良いとは思いませんよ。…………仕方無いって諦めたくはありません」

 

 不愉快そうに、不本意そうに、しかし最後は何処か悔しそうに、女中は呟く。

 

「一度乗った船です。今更降りはしませんよ」

 

 女中のその言葉は己が裏切らない事を、主人と友を見捨てはしないという事の宣言であった。

 

「………何かあった時は僕の責任だよ」

 

 だから環もまた宣言する。何かあればその時には目の前の義理堅い友を守る事を。今更言う程の事ではないかも知れないが………それでも環は敢えて明言する。ある意味愚直な程真剣に、呆れる程に真摯に。

 

「……ふふ、そんな真面目に話さないで下さいよ。思わず笑っちゃいましたよ?」

「え。そこ笑う所なの?」

「生真面目過ぎると逆に笑えて来るものですよ」

 

 環には良く分からない感性であったが、そういうものなのかも知れない。何にせよ、先程まで室内を支配していた重苦しい空気はいつの間にか霧散していた。

 

「さて、何時までも後ろを向いていても仕方ありませんね。これからの事を考えましょうか?」

「そうだね。何時までも後ろを向いていても仕方無いよ。あ、そう言えば………」

 

 と、ここで蛍夜の姫は思い出す。

 

「へへへ、実は夜食がてら炊事場でお菓子を貰ってね。どう?一緒に食べない?」

 

 そうやって環が取り出すのは菓子受けに載った南蛮菓子であった。

 

「これは………何ですか?」

「えっと、確かくっきーとか言ったかな?南蛮の煎餅みたいなものだって。少し甘い味がするみたい」

 

 それはサンドイッチの生地として用意した小麦粉の余りを使った焼き菓子であった。炊事場を借り受けた橘商会の老女が礼として焼いて屋敷の女中らに振る舞ったものの残りである。

 

「へぇ、それは面白そうですね。ではお茶と一緒に貰いましょうか」

 

 そう語り、立ち上がる鈴音。恐らくは炊事場までお茶を取りに行くのだろう。

 

「手伝おうか?」

「姫様は姫様らしくそこにふんぞり返っていて下さい。下の人間からすると姫様のような人間が動かれると逆にやりにくいんですから」

 

 優しくても上司は上司だ。部下からすれば何度も何度も不意討ちで顔を出されたら気を抜く暇もなくて肩が凝るものなのだ。

 

「それでは失礼を」

 

 そして一旦退室する鈴音。そして薄暗い廊下を炊事場に向けて進んでいく。その表情は険しい。

 

「………そうよ。もう奪わせはしないわ」

 

 女中の呟きにはふつふつとした怒りの感情があった。そうだ、彼女は確かに怒っていたのだ。己の居場所に訪れたあの連中を。

 

「因果なものね。退魔士なんて………」

 

 それを忘れた事はない。彼女にとって退魔士という存在は大切な兄を奪っていった憎しみの対象であったから。

 

 大切な長の兄、何時だって優しくしてくれて、色々な遊びを考えてくれて、両親と共に必死に働いて、少ない食事を分けてくれた。幼い頃の自分には分からなかったが今なら分かる。それがどれだけ大変な事であったか。それを求めた己がどれだけ愚かで我が儘であったのか。

 

 そしてそれだけ優しかった兄は、挙げ句に自分達家族のために自分自身を………。

 

「っ………!!忌々しい!」

 

 奥歯を食い縛り、絞り出すように少女は言葉を漏らす。霊力を持っていれば呪詛にすらなっていそうな程の情念を込めて、呟く。顔を歪める。

 

 最後に見た兄の姿は退魔士の男に、黒ずくめの下人共によって連行されていく光景だった。訳が分からず、しかし漠然とした不安に駆られて、二度と会えない事を本能的に理解して兄の名を呼ぶ。駆け寄る。しかし、追い付けない。黒づくめの下人共に遮られて、届かない。

 

 余りに昔のせいで、余りに幼かったせいで、もう兄の顔だってはっきりと思い出せない。振り向き様にかけられた最後の言葉だって覚えていない。そんな余裕なんてなかった。そして、最早それが分かる事なぞ永遠にないだろう。

 

 退魔士家に買われた者の末路なぞ碌のものではない。この郷にいてすら方々の噂は聴こえて来るし自分で調べもした。宮鷹や鵯神の家が購入した霊力持ちをどう扱うのか、その悪名は巷でも有名だ。そうでなくても下人やら隠行衆やらと言う存在がどれだけ簡単に使い捨てにされる事なのか………彼女も馬鹿ではない。兄が今も生きているなぞ思っていない。とうの昔に実験動物にされるか、妖に食い殺されるか、何にせよ碌な最期ではなかっただろう事は想像するに易い。

 

 分かっている。分かりきっている。今更どうしようもない。墓すら何処にあるのか分かるまい。その墓だって本当に兄の遺体が埋まっているとも限らない。いや、墓すらあるかも………。

 

「だから、もう奪わせないわ。奪わせるものか………!!」

 

 固い決意と共に少女は吐き捨てた。確かにあの馬鹿な友人は罪を犯したのだろう。厄介者なのだろう。主人を説得し、それでも駄目ならば当主様や他の大人に密告するべきなのだろう。しかし鈴音は結局兄を助けられなかった負い目からその選択肢を貫けず、そして今はそれでも良かったと思えた。あの友人を退魔士共の所に連行させるなぞ論外だった。幾らあいつでも其処まで罪深くはないと鈴音は信じていた。だから………匿う。

 

 せめて今あるものだけは、奴らに一つも明け渡したくはなかったから………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「おやおやおや、これはまた面白い事になって来たじゃあないか?やっぱりあいつに付いて行って正解だぜ。本当、毎度の事ながらあいつと一緒だと退屈しなくて済むのが嬉しいねぇ!!」

 

 先程までの文字通り『全ての会話』に聞き耳を立てていた鬼は小さく笑い声を上げる。笑い声を上げながら、堂々と屋敷の廊下を進む。途上で幾人もの女中や警備が通りがかるがその誰もが鬼の存在に気付く事はなかった。其れほどまでに鬼の隠行は完璧に過ぎたのだ。

 

 挙げ句には屋敷から煙管を頂戴し、焼酎瓶を頂戴し、温泉玉子まで頂戴した末に多数の警備が行き交う屋敷の庭を過ぎ去っていく。碧い髪をたなびかせる美しい化物に視線を向ける者は一人としていなかった。古の昔、腸を溢しながらもあの伝説的な退魔の英雄達から逃げ切った鬼にとってはこの程度の事は朝飯前である。

 

 悠々と歩む鬼の周囲の風景はいつの間にか屋敷から深い郷内の森へと移っていた。道なき道を高下駄でもってまるで舗装された道を練り歩くようにしてルンルンとスキップしながら進んでいく。大の大人でも必死に登らねばならぬ岩々の上を鼻歌を唄いながら跳び跳ねる。その筋力、その脚力はあからさまに人間ではなかった。

 

「さて、確かこの辺りに………見いつけたぁ」

 

 プイプイと周囲を見渡し、鼻を犬のように鳴らして匂いで探し、鬼はそれを見つけた。温泉、それも恐らくは郷内で最も広く、そして有望なものであった。郷の有力者や客人のために用意された一等の温泉源。霊脈の流れる土で湧き出すその温泉の効能は言うまでもない。鬼はこの郷の散策中に見つけていた。そしてこの騒ぎとなればこの辺りを訪れる村人なぞ先ずあり得ない事も分かりきっていた。故に………鬼はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「けけけ、では俺も楽しませて貰いますかね?」

 

 そう宣うや周囲の事なぞ一切気にせずに己の衣装………人足の粗末な着物を脱ぎ去って、傘を宙に放り投げる。そして、その身体を惜しげもなく晒し出した。

 

 そこにいたのは異国情緒を身に纏った大陸風の美女であった。長く艶のある髪が広がり、白い肌が深い闇の中でも不思議と浮き出ていた。

 

 豊かで張りのある双丘が鬼が呼吸する度にたぷんたぷんと擬音を奏でながら揺れる。弧を描きつつ引き締まった腰には抉れたような痛々しい傷を無理矢理縫ったような痕があったが、その欠点は却って彼女の全体的な肉体的魅力を引き立てているように思えた。肉付きの良い大きな臀部を無遠慮に見せつけて、髪の隙間から見える二本の怪物の角は、寧ろ彼女の纏うその神秘性に拍車を掛けていた。人によってはその姿に深い森の中で沐浴する精霊の姿を、古の物語の一場面を幻視したかも知れない。

 

 それはある意味、女性美の一つの完成形であった。恐らくこの場を目撃した者がいれば男であれ女であれ、思わず溜め息を漏らしたに違いない。其れほどに碧い鬼の身体は幻想的で、蠱惑的であったのだ。

 

 ………完全に豚に真珠であったが。

 

「ひやっほい!!!!」

 

 ばしゃーん、とまるで子供のように温泉に頭から突っ込んだ鬼であった。そしてそのままばしゃん!!と湯面まで浮かび上がると下品にゲラゲラと笑う。その幼稚にも思える光景は、先程までの神秘性に満ちた人外の美女とは似ても似つかぬ姿であった。 

 

『何が楽しいのだか………子供ですか?』

 

 ぴしゃりと温泉の直ぐ側の岩肌へと飛び降りた式神が呆れ果てる。優に千歳を越える時間を生きているだろうに餓鬼染みたようにはしゃぐ鬼をジト目で睨み付ける。

 

 過去、幾人もの高名な退魔士や武士が討伐を試み、返り討ちにあった悪名高き怪物の本性がこれである。これでは先人達が浮かばれないにも程があるだろう。

 

「うひゃひゃひゃ、やっぱり温泉は良いものだなぁ!これで月が出ていれば最高に乙なものだがな!!」

 

 そんな事を宣い岩肌に白い背を預けてご機嫌そうに拝借した焼酎を御猪口に注いで呷る鬼。そして艶かしく視線を森の中へと向ける。

 

「ほれ、お前さんもどうだね?一杯やらないか?中々旨いぞ?」

 

 空色の目をすぅと細めて、口元を吊り上げて、口を掴んだ酒瓶を揺らして碧鬼は森の中に隠れるその存在を誘う。暫しの沈黙の後、返答がきた。

 

「………いらねぇよ。鬼の差し出す物なんざ碌なもんじゃねぇだろうが」

 

 若干震える声で、しかし勇気を振り絞って紡がれるその言葉に鬼はその表情を綻ばせる。合格だった。ここでおもねったり、あるいは無言を貫いていない振りでもしていたら近場の石でも投擲してその頭を粉砕していた事であろうから。

 

「けけけ、酷い物言いだぜ。俺は別に血呑の奴程悪食じゃねぇぞ?」

 

 碧鬼が例に上げるは、西土にて儚く絶世の姫君に化けて、若い鴛鴦夫婦を狙っては幻惑で誘い、その妻を絞りあげた血酒は夫に振る舞い、その肉は焼いて食わせた事で悪名を轟かせたかつての『扶桑悪六鬼』が一体である。それ自体は遥か昔に朝廷の命にて討伐されて最早伝承上の存在でしかないが………何にせよ、比較例が悪過ぎて到底弁明にはならなかった。

 

「………噂には聞いた事があるぜ、四凶の碧鬼。本当にまだ生きていたのかよ。糞、都で大暴れした化物がどうしてこんな郷に居やがるんだよ?」

 

 森の中から全くの無警戒の鬼に最大限警戒し、身構えながらそれは問い掛ける。その答え次第では影も……入鹿も覚悟を決めねばならなかった。勝てる気は一寸もないが………それでも飯の恩義がある以上、放置も出来なかった。所詮は金で雇われて必要ならば人でも殺すろくでなしであるが、ろくでなしにはろくでなしなりの義理という物があるのだ。

 

「ははは、良い目をしてやがるじゃねぇか。………ふむ。まぁ、七割といった所かな?ギリギリ合格だな?」

「お前、何を言って……」

「誉めてやってんだよ。素直に喜びやがれ」

 

 訳の分からぬように一人で納得する鬼に問いかけようとして、しかし黙りこむのは直接的に向けられた眼光によってであった。明確に向けられた不興の視線は、入鹿を黙らせるに十分な圧力があったのだ。

 

 森の中に忍ぶその影は思わず全身の毛を逆立てて、ぞわりと震える。そして確信する。次の発言を誤れば自分に次はない。

 

「………郷の外の連中はてめぇの手下共か?」

 

 そして慎重に言葉を選び、問い掛けた。

 

「知らんね。おっと、別に引っかけじゃあないぞ?手下でなければ下僕でもお仲間でも御上でもねぇさ。完全に完璧に無関係さ。………これで満足かね?」

「信じたいがな。考えてみりゃあ鬼に聞いても意味ねぇか」

 

 今更思い至ったように入鹿は嘆息する。善く善く考えれば鬼の言質程に信用ならないものもなかった。

 

「そう身構えなさんなや。もっと肩の力を抜けよ。肩凝るぞ?」

「………貴様がこの郷に来た理由は何だ?」

 

 けらけら笑いながら力を抜くように提案する碧鬼の言葉を無視し、蝦夷の半妖は問う。その態度に鬼は更に口元を愉快げに吊り上げる。

 

「俺様の御気に入りを見守りにさな。中々面白そうな事になりそうでな。この演目を見逃す手はないぜ」

「御気に入りだぁ?」

「お前さんにとっても因縁がある相手さ。俺の育成中の未来の英雄様さ」

「因縁?育成?何を………っ!?」

 

 鬼の意味不明な宣言に首を傾げるが、直ぐに半妖はその意味に思い至った。まさか、こいつ………!!?

 

「随分と見知ったように話して来るから何だと思っていたが………化物が、あの場を見ていたな?となりゃあてめぇの言う御気に入りってのは………っ!!?」

 

 鬼の言わんとする事に思い至ったその刹那の事であった。おっさんのような体勢で温泉に浸かっていた碧髪の鬼の姿が幻惑のように消え失せる。同時に入鹿はその腕を背後に向けて振るい………鬼の剛力の前にその腕を捕らえられる。

 

「うおっ!?ぎっ………!!?」

 

 そのまま背後から入鹿は羽交い締めにされたように湯に濡れて身体を火照らせた鬼に拘束される。背中に鬼の豊かな肉感を加えられながら、しかしそれに対しての喜びなぞ一欠片すらなく、ただただ入鹿はその顔を強張らせる。

 

「うひひ、中々可愛い顔じゃあないか?」

「ひっ!!?」

 

 ぺろり、と長い舌で頬を当然のように一舐めする碧鬼。余りのおぞましさに入鹿は身体を震わせる。式神は嫌悪感に満ちた表情で視線を逸らす。

 

「ぐっ……てめぇ………うえっ!?酒臭っ!!?」

 

 どうにかして拘束を解こうとして暴れる入鹿は、しかし次の瞬間に鼻腔に強烈な酒精の香りを嗅ぎとって吐き気を催した。興奮した碧鬼の体臭を匂うのは自殺行為に近かった。

 

「おえっ……!?うべっ!!?」

 

 一嗅ぎしただけで悪酔いしそうになる強い酒精を至近で食らい思わず吐瀉物をぶちまける入鹿を全裸で見下ろして、けらけら笑う鬼。

 

「おいおい、若いのにそんなに酒に弱いのは良くないぜ?」

 

 悪びれもせずに説教するかのようにそう嘯いて、そして鬼は蝦夷の耳許で囁く。

 

「てめぇのお友達はあいつが護衛になるってよ。結界については鬼月の退魔士共が見回りして確認するんだとか。良かったな、えぇ?………おっと、危ない」

 

 意地悪げにそう宣う鬼への返答は再び振るわれた怪物の腕の一閃であった。人間であれば一撃で腹が裂けて臓物を撒き散らすであろうそれをステップしながら危なげなく鬼は避ける。

 

「畜生……ふざけやがって……!!うえっ……!?糞……!!」

 

 あからさまなまでに殺意を滲ませた半妖は、それでもこれ以上この場に滞在する必要性と危険性を天秤にかけたようで、咳き込みながら立ち去っていく。最後に鬼を睨み付けてから、文字通りに尻尾を巻いて逃げ出す。

 

「やれやれ、つれないな。折角摘みだってあるんだが」

 

 そういって温泉玉子を殻ごとバリバリと貪る全裸の鬼である。

 

「おい、嬢ちゃん。この案件についてはコレだぜ?ネタバレは面白くないからな?」

 

 口元に人差し指を立てて鬼は蜂鳥に警告する。

 

『承知していますよ。彼方だってそれは理解しているでしょうよ』

 

 淡々と牡丹は頷いた。元よりあの下人は自分よりもずっと長くこの眼前の鬼と綱渡りな付き合いをさせられて来たのだ。鬼が恣意的に情報を隠匿したり、隠したりしても今更驚きはすまい。

 

(とは言え、因果なものですね。風の便りで脱走したとは聞いていましたがこんな所に流れていましたか)

 

 単独では到底逃げられるものではない。誰か協力者がいたと考えるのが道理であるが………何か企んでいたようにも、仲間がいるようにも見えない。

 

(そも、何故態態下人を襲って、しかもここに顔を出したのやら。思慮が足らないと言うべきか、軽率だと言うべきか………理解し難いですね)

「おや、お前さんには分からんのかい?」

『………貴女には分かるのですか?』

 

 当然のように内心の思考を読まれた事に不快感を抱きつつも、牡丹は問いかける。彼女は己が理解の及ばぬ所について、素直に他者の意見を考慮するだけの度量はあった。

 

「それこそあいつと同じさな。………それなりに付き合いのあるお前さんなら直ぐに分かってくれると思ったのだがね?」

 

 自分は良く分かっている、とでも言うようにふてぶてしく、小馬鹿にするように嘯く鬼。そして犬歯を見せながら凶悪に嗤う。

 

「けけけ、最初見た時は噛ませの端役と決めつけていたが………いやはや、意外と盛り上げてくれるじゃあないか」

 

 まるで面白い玩具を見つけたとでも言うように碧鬼はご機嫌に下手な鼻唄を歌い始める。道化のように両手足を大きく振るって温泉にまで向かうと夜の秋風に冷え始めた身体を再び湯に浸す。そしてふひぃ~、と気持ち良さそうに吐息をして碧鬼は予告する。予言する。

 

「まぁ、今は黙って見てろって。俺の経験則から言って、今回はまた飛び切りに愉快で痛快なお話になりそうなんだぜ?」

 

 何処までも高慢に、まるで劇でも観賞するかのように宣う化物に、蜂鳥は顔を歪める。こいつの言う「愉快」が碌な意味合いを持たないのは明らかであった。

  

「さて、役者連中も大方お揃いだ。ひひひ、此度もまた上手く調理して楽しませてくれよ。俺の愛しい愛しい英雄様よ。なぁ?」

 

 鬼は心底楽しげに自身が見込んだこの場にいない御気に入りの英雄候補へと呼び掛けた。その顔は子供のように破顔していて、顔は上気させ、その瞳をうっとりと潤ませる。顔と身体が赤く紅潮しているのは決して湯の熱だけが理由ではなかった。むわっと噎せかえるような酒の匂いが辺りに広がる。鬼は完全にこれから起こるのだろう事々に思いを巡らして、大いに欲情している証拠であった。

 

 何も知らぬ者にはその妖艶さから大いに劣情を抱かせて、知る者にはその身勝手さから底無しの嫌悪感を抱かせる光景。

 

(どうせ気に入らない展開は無理矢理書き変えるつもりなのでしょうに)

 

 そして、それでも駄目ならば全てを卓袱台返ししてなかった事にするのだろう。いや、実際に過去の事として綺麗さっぱり忘却していても可笑しくない。過去に散見される目撃情報からして、この鬼がどれだけ自己中心的なのかは窺い知れるというものだ。本当、良くもまぁあの下人は何処に逆鱗があるかも分かりにくい気狂いに纏わりつかれて今日まで生きて来られたものである。

 

『全く、ろくでもない』

 

 そしてこの先嫌でも引き起こされるだろう厄介事と、それを引き受ける者の事を思って、松重の孫娘は何処までも深く嘆息せざるを得なかった………。

 


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