和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
貫咲賢希さんからは三点頂きました
・ツイログまとめ、姫様がドヤ顔してる……あとやっぱり大きい(何がとは言わない)
https://www.pixiv.net/artworks/96177916
・子蜘蛛ダンス、動くイラストですが感想のせいで微妙にあのダンスに見えて来たりして
https://www.pixiv.net/artworks/96213773
・バレンタインイラスト、もうこの三人の百合エンドで良いのでは?と思ったり(無数の地雷原を一瞥しながら)
https://www.pixiv.net/artworks/96214196
また宇佐見さんより佳世ちゃんのイラストを頂けましたので此方もご紹介致します。巾着の位置とか衣装の絵柄とか色々隠喩的、肌色少ないのに艶かしい……。
https://www.pixiv.net/artworks/96119989
お二人とも、素晴らしいイラスト有り難う御座います!
「お前なんて産みたくなかった」
それが彼女が今際の刻に母親から掛けられた最後の言葉であった。
扶桑国が支配圏の外、坂東陸奥の地に住まう化外の民である蝦夷はしかし、一枚岩ではない。そも、朝廷が適当に一括りにして呼称しているだけで彼ら当人達には同胞民族であるという意識は希薄であったし、霊脈は当然として利水や鉱山、農地に食糧、奴婢を巡って互いに争う事は珍しくない。
坂東蝦夷である酒樹黒狼一族は朝廷に臣従して軍と鉄器の援助を受けた秋保碧鴨一族や佐伯白犬一族に敗れ辺境へ辺境へと流れ着き山奥に隠れ里を築いた蝦夷の一派である。故に征東北伐を進める扶桑国への怨みは強く、度々に朝廷の騒乱に介入し、時の賊軍に協力もしていた経緯がある。
「べつに、いまさらだろう」
その言葉通り、山賊から購入された扶桑人の奴婢の女と部族の男の誰かとの間に生まれた入鹿にとっては最期の母の言葉は今更に驚くようなものではなかった。母の里での扱いと、己への態度から重々予想出来る事であったのだから。本当に今更の話である。
………流石に、少しも傷つかぬ訳ではなかったが。
何にせよ、まだ十にもなっていない入鹿は歳の割に達観していた。そして生来の気の強さから諦念はしていなかった。母親の怨みはこの際はどうでも良い。化けて出る訳でもなければ殊更気にするものではない。
そんな事よりも彼女にとって今と未来が大切だった。彼女は母親同様に惨めで無力で屈辱的な運命を受け入れるつもりは欠片もなかった。かといって奴婢の餓鬼がこの狭い里で選べる道は限られていた。
努力と紆余曲折の果てに部族の間諜としての道を彼女は見出だした。人口の少なさと汚れ仕事の多い任務の危険性から部族の間諜は万年人手不足だったのだ。
幸いにも師である龍飛は実戦経験豊かな戦士であり、世間を知る視野も広く部族衆の中では比較的出自に囚われる事なく弟子を育て上げる人物だった。血反吐を吐く程に厳しくとも、少なくとも不当に扱われる事はなかったと入鹿は認識している。親愛を込めてオジキと呼んだのは自身だけではない。
………半妖化の施術の対象となったのは、十分な間諜としての技能を身につけた直後の事である。
直前に里に襲来した妖狼は里の総出で漸く討ち果たされ、その骨肉は貴重な儀式や呪具の原料として解体された。しかして問題はその妖の権能であった。
犬神ならぬ狼神とでも呼ぶべきか。呪詛とも言うべき妖狼の怨念は討ち果たされてその肉体を失っても尚も消えず、大小の災いを里にもたらした。困り果てた里は、しかし自分達の一族にその名を冠するように狼を神聖視していた事もあって、特に長老衆らは此れを単純に祓うのに難色を示していた。何よりも大妖級の呪いである。出来うるならば此れを有効的に活用したかった。
「馬鹿な。論じるに値せぬ」
入鹿に白羽の矢が立った際に、師であった龍飛は衆議の場にて即座にそう言い切った。妖化の施術というだけでも危険であるのに、ましてや荒れ狂う呪いをそのまま弟子の内へと封じる等と、人柱以外の何物でもないではないか………しかして長老衆らの決定は覆る事はない。そして入鹿もそれを受け入れた。拒絶の権利は無かったし、危険な分成り上がる機会でもあった。恩義のある師に迷惑をかけたくはなかったというものもある。
流石にそのまま疎ましい奴婢の小娘を朝廷への祟り神として使い潰すつもりだったのは入鹿本人も、ましてや直属の上司たる龍飛すらも預り知らぬ事であったが。
何にせよ、朝廷の商人共との密貿易の秘密を守るために都へと師と共に送り込まれた入鹿は、しかしこの初任務で朝廷からも一族からも逃亡する身の上となった。
皮肉な事に、それ故に彼女がその力を使役する機会は少なく、結果的に彼女自身の破滅の刻も引き延ばしたのであるが………しかしながら常世は世知辛く苦しい事に変わりない。人は何処までいっても人である。獣とは違い人は一人では生きられない。
逃亡中に村々で盗みはしても殺しをしなかったのは善意ではなくて、単純に悪目立ちするからであった。しかし、あるいはそれによって己の内の妖の呪いと本能が騒ぐのを本能的に察していたのかも知れない。
さ迷って、さ迷って、さ迷った。豪雨を木陰でしのぎ、襤褸を着込んで寒さに耐えた。鞋は途中で擦りきれて裸足で歩いて、夜には獣や妖を警戒して木上で寝付いて、それすらも碌に眠れやしなかった。道中の村で半妖だと分かれば鍬を持った百姓共が徒党を組んで襲って来る。食料を抱えて必死に逃げた。度々に街道を巡回する官軍の兵士達を見れば薮に隠れて泥にまみれてやり過ごす。
惨めだった。苦しかった。辛かった。帰る宛てもなくて、頼りに出来る者なんていなくて、けれど安息の地なんてなくて、それでも死にたくはなかった。こんな詰まらない末路は嫌だった。己を哀れみたくもなかった。余計惨めなだけだ。
強力な妖に追われた。何度も何度も逃げるが鼻が良いのかしつこく追い立てて来た。そんな最中にそれを見つけた。
退魔の結界、霊脈から溢れる霊力をもって構築されるそれは、今の何も備えもない入鹿にとってもまた無傷で潜り抜けるのは困難であったが………背に腹は代えられない。半妖なので死にはしないと分かって無理矢理に結界の内へと突っ込んだ。全身が熱湯を浴びたように痛かったがどうにか妖の追撃を振り切る。
ぼろぼろの無残な姿で入鹿は結界の内を放浪した。身体中が痛くて、空腹と寒さで限界だった。今にも死にそうだった。
小屋を見つけた。最早四の五の言ってられない。中に誰かがいても知るものか。
小屋に押し入って、誰もいない事に安堵した。もし誰かいたとして、今の自分では返り討ちに遭ってたかも知れないから。中を探る。干物や干飯を見つけた。少し怪しい色合いと臭いがしたが、もうどうでも良かった。気にせずに一気に食い荒らした。
案の定腹を壊して、小屋の中で呻き続けた。雨露を凌げて妖の襲来がなかったのは不幸中の幸いだった。他の地であれば間違いなく死んでいた。
丸二日程呻き続けた入鹿は、朦朧とする意識の中でその声を聴いた。
「そうなんだよ。この前から変な声が響くって言うんだ。幽霊じゃないかってね」
「それで調べるんですかい?そんなの手下にやらせりゃあ良いでしょうに。姫様が直々に出張る案件じゃあないでしょう?」
女の声だ。誰かと話している。迫って来る。しかし、入鹿は最早逃げる事も、争う事もない。精根尽きかけていた。精神は兎も角、肉体は限界だった。指一本とて動かない。何も出来ない………。
小屋の戸口が軋みながらゆっくりと開かれていく。年貢の納め時だと思った。口惜しいがどうしようもない。せめて楽にくたばりたいものであるが、何処まで期待出来るものやら………。
「えぇぇ!?人!?どうして!?って言うかこれ………食中毒!?」
足下に転がっていた食い残しを手にして、その闖入者はすっとんきょうな声を上げていた………。
(まぁ、酷い狼狽振りだったよなぁ………)
締まりのない邂逅だった事に入鹿は今更のように苦笑する。同時にぶっ倒れる傷だらけの半妖の余所者を躊躇なく介助した少女の無警戒振りに呆れ返っていた。本当ならば直ぐにでも武装した男共を呼び寄せる案件だろうに………。
(まぁ、その後の方も仰天ものだったけどな)
何処の馬の骨とも知れぬ半妖を朝廷に突き出さず、あまつさえ住まわせるなぞ、無警戒に過ぎる郷だと思ったものだ。一応立場は奴婢ではあったが、それは故郷のそれとは違って形ばかりのものであった。気楽なものだった。愉快なものだった。楽しかった………。
(って、何で俺こんな事思い出してんだ……?)
と、そこまで考えて入鹿は己がそんな追憶をしている事実に気付き訝る。身体は妙に重かった。何とも言えぬ倦怠感。ぼんやりと視線だけを動かして、入鹿はそれを見つけた。己を見下ろし、寄り添う件の少女の姿を。青みがかった黒髪の、神々しい巫女装束の主人を。恩人を。友人を………そして気付く。そんな彼女が泣いている事を。
(あ?何だ?てめぇ、どうして泣いて………血?)
そして彼女の純白の筈のお高い装束に赤い斑点が滲んでいる事に気づいて、入鹿は全てを思い出す。
ピクリ、と腕を伸ばす。眼前で自身を見下ろす姫君が緊張したように震える。その様子に苦笑して、入鹿は友人の頬に触れる。頬にこびりついた血を拭う。
「いる……か………?」
「………お高い装束なのに、随分と汚れちまったな?これは、仕立て直し……かね?」
入鹿の途切れ途切れの冗談に、目の前の少女はただ安堵したように泣き笑いしていた。
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(どうにか治まったって所か………?)
目の前での何処か百合百合しい雰囲気も感じられる寄り添う二人のやり取りを横目に観察した後、俺はその場に座り込んで落ち着く。全身の激痛を誤魔化して、考え込む。
『一件落着、とは行きませんね。所詮は問題を先送りしただけの事です。そう遠くない内に追っ手は来ますよ?その身体で逃げられますか?』
肩に止まる蜂鳥が淡々と物申す。現実を突きつける。その内容に俺は重苦しく沈黙する事しか出来ない。
体力を消耗し尽くした。逃げるのは限りなく不可能だろう。恐らくそれは入鹿も同様。一緒に捕らえられて打ち首獄門………いや、俺の場合はこの様なのだ。標本にされるかも知れないな。何にせよ、愉快な未来ではあるまい。
(彼是と後回しにして来たが……問題だな。落とし所次第だと直ぐ様闇堕ちか。雪音、それに家族が主人公様のカウンセリングが出来るかどうかだな………)
本当に困ったものだ。異能に、それもあの闇の帳に目覚めるとは……原作ですらあれに目覚めたのは一番酷い環境だったというのに、まさかこんな場面で目覚めてくれるとは………。
「そ、そうだ!えっと……伴部さん、でしたか?」
そんな事を一人考えていると突如として掛けられる言葉。視線を向ければ入鹿を木陰に横たわらせてやって来る主人公様である。遠慮がちに此方を見て、頭を下げる。
「その、色々と有り難う御座います。えっと……ただ………」
其処まで口にして、しかし環の言葉は続かない。何を言えば良いのか、彼女自身も分からずに混乱しているようだった。当然であった。今夜は余りにも多くの事が有りすぎて、しかもその理由も意味も彼女は何も知らないのだから。
………そして、此れから俺と入鹿に待ち受ける運命も。
「……お気持ちは分かります。先ずはその蜘蛛に礼でも述べておいて下さい」
「えっ?あ、はい……!!」
俺の言葉に応じて、慌てて環は足下に鎮座する糞偉そうな白蜘蛛に跪く。そして至極当然のように頭を下げた。土下座をして奇跡の礼を述べる。糞蜘蛛の反応を分かりやすく表すのならば(´▽`;)ゞであろうか?……いや、だから何でお前顔文字なんだよ?何で理解出来るんだよ、まさかと思うがそれお前の権能なの?
(それはそうとして………)
ちらり、と俺は視線を木の幹に横たわる入鹿に移す。腕の獣腕も、狼耳も狼尾も変わらない。しかし身体に生えていた獣毛は消えているし、骨格も人のそれに戻っている。何よりも……呪いらしき反応は見られない。文字通りに呪いだけを浄化したのか?
『期待外れでしたか?』
傍らで牡丹の指摘。俺は無言で以てそれに応じる。実質的な肯定であった。残念ながら妖化そのものを根治をした訳ではないらしい。これでは駄目だ。仮に俺が今回の奇蹟を授けられたとしても人間には戻れない。………実験を進めれば必ずしも不可能ではないと思いたいが。
「その………」
「ああ、すみません。少しお待ち下さい。今こいつを回収しますので。その後に御説明致しましょう」
これからの事、それらをどれだけ穏当に説明するべきか……それを考えながら俺は環の目の前で何時までもふんぞり返っている白蜘蛛をその背後から手を伸ばしていく。
そう、さっさと捕らえて虫籠に容れようとして……次の瞬間、俺は突風に吹き飛ばされていた。
「がっ!?」
「えっ!?」
より正確には突風が吹き荒れる刹那に既に俺は何かに首筋を掴まれたように宙を舞っていた。環が唖然として此方を見上げる姿が一瞬見えた。そして僅かに遅れて、俺は衝撃と共に地面へと跳ねながら叩きつけられていた。
「あ……がっ………!?」
頭から首筋、そして背中に掛けて火傷したような激痛が襲う。身体が動かない。それどころか寧ろ半ばまで人外めいていたその姿はゆっくりと人に戻っていた。脆弱で軟弱な人間の身体に。
………それは本来ならば喜ぶべき事柄で、しかし今は最低最悪のタイミングだった。
「うっ……ぐ………?」
唸り、苦悶しながら俺はどうにか首を動かす。そして探す。己を傷つけて瀕死に追いやった者の姿を。
そしてその犯人の姿を見出だして視界に収めると俺は驚愕していた。何で、貴様が………!!?
「おやおやおや、酷い反応だねぇ?まるで幽霊でも見るような反応だ。折角の感動の再会だと言うのに、そんなのだと傷ついてしまうよ?……まぁ、正確には再会というのは表現不足なのだけどね?」
そいつはベラベラと、長々しく御講釈を垂れる。
鼬、両手に尻尾を鎌に変化させた軽薄な笑みを浮かべる子供。子供の皮を被った怪物……先程闇の帳に呑み込まれて消化された筈のそれが其処にいた。一分の隙もなくそのままに、しかし怪我一つなく無傷のままに。それはまるで双子のように同じ出で立ちで………っ!?
(っ!!?あぁ、成る程。原作には出てなかったがこいつの場合はそういう解釈なのかよ……!!)
その伝承を思い出して、これ迄の不可解な現象を振り返って納得する。これは俺の責任だな。解釈が間違っていた。
「さて、もう怖い怖い連中が直ぐ側まで迫っているみたいだしね。……手早く片付けようか?」
口元をまるで三日月のように吊り上げて、凄惨に、残虐に、鼬の怪物は宣った。
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『鎌鼬』、あるいは『野鎌』、『鎌風』や『飯綱』とも呼ばれるそれは風を司る妖獣であるという。
地域によって異説はあれ、多くの場合は手足を鎌にした鼬の姿で知られるこの怪異には有名な伝承がある。それは三体の親子ないし兄弟の群れを成すというものである。一体目が人を転倒させて二体目がその身体を切り裂き、三体目がその傷口に薬を塗るのだとか。
三身一体の鼬の妖怪……しかし、この世界においてその伝承は単純に三体の鎌鼬がいる事を意味しない。
鎌鼬『鼬枷』の有する最上の権能、それは分身である。同じ容姿に同じ人格、そして同じだけの妖力すらも持つ記憶を共有する三体の凶妖。それこそがこの世界におけるこの妖怪の伝承の正体である。
無論、強力な権能には相応の枷があるものだ。事実、鼬枷は凶妖の中において素の実力は相当に下位である。最上位の大妖よりかは上という程度に過ぎない。そして分身は無制限に作れる訳でもない。
常に存在が許されるのは三体まで、しかもホイホイと喪失したらその場で新しい個体を生産出来る訳でもない。当然ながら存在する個体が同時に殲滅されてしまえば終わりで、やろうと思えば上位の退魔士ならば条件次第では然程難しいものでもなかった。
故に鼬枷は常に分身を一纏めにはしなかった。矢面に立つのは常に一体。そして己を討ち取って油断した人間を背後から襲うために一体が潜む。そして最後の一体は………。
「本当に今日は厄日だよ。そりゃあ僕だって色々な死に方はしてきたけどさぁ?まさか炭火焼された上に融かされるのは中々ないよ?」
手負いの下人の元にゆっくりと近づきながら鎌鼬は宣う。嫌味たらしく、ねちっこく嘯く。
「っ……!!」
「おっと、危ない」
踞っていた下人の短刀の投擲は、しかし悠々と避けられる。手負いの、しかも妖の力を失いつつある下人の不意討ちなぞ効果があれば退魔士なんてものは必要ないのだ。そのままひょいとスキップするように一跳ねして肉薄する化物。……尤も、一跳ねといっても軽く二十歩位の距離はあったのだが。
「ぎゃっ……!?」
刹那の瞬間に、下人のその両肩を抉られるように刺し傷が生まれた。血飛沫が舞う。両腕が動かなくなる。恐らくは骨を砕かれた。地面に這いつくばる下人は見た。鼬の両腕から生える鎌、その先端に濡れる血を。
「皮は猿に戻っていても中身は化物だね。此方としては両腕共に切り落とすつもりだったのだけど……ね!!」
「いぎっ……!!?」
どうにもならぬ状況でも、それでも起き上がって抵抗しようとしていた下人を腹蹴りで蹴り飛ばした鎌鼬。環の『黒』で腐りきって倒れた木の幹に轟音と共に背中から叩きつけられる。骨が折れたような嫌な音が鳴る。
「はっ、ぐ……!?ち、畜生………っ!?」
下人は瀕死のままに霞む視界に、此方に迫る化物を見た。影のせいか顔は黒く塗りたくられて分からない。ただギラギラと輝く石榴色の眼光だけは覗き見えた。
(こいつ、俺を殺すつもりはない……のか?)
朦朧とする意識の中で下人はその事に気付いた。殺すつもりならば先ずは首を切断するか心臓を狙う筈なのだ。達磨にするつもりかも知れないが少なくとも今すぐ殺すつもりはないのは間違いない。
尤も、どの道にしても碌な末路は待っていないのは間違いなかった。
「! 止め……」
「うわああああぁぁぁぁっ!!」
視界の端に映る人影に、下人が制止の言葉を最後まで言う前に彼女は叫んでいた。背後から必死の形相で凶妖に向けて疾走する人影……環。その手には錫杖。食い殺された家人の落としたその呪具を、それが偶然目に入った環はそれを拾うとふりかぶって鼬枷に向けて叩きつける。………そして、防がれる。
「後ろからなんて、酷いね?」
「ひっ!?」
文字通りに素手で掴まえられた錫杖を、涙目の環は恐怖に戦きながら引っ張るがそれは少しも動かない。鼬枷の、その華奢な子供のような腕に宿る凄まじい腕力の前に完全に捕らえられていた。
軽く引っ張れば環の腕から錫杖は奪われて、そのまま環の肩に向けて錫杖は叩きつけられた。悲鳴を上げて環は吹っ飛ぶ。吹き飛んで地面に叩きつけられるとそのまま踞る。腕を押さえて呻く。
「落ち着きなよ。そんな怒らなくても君もこれと一緒に連れて行ってやるからさ。………まぁ、少し軽くするつもりだけどね?」
下人同様に瀕死の入鹿が這いずりながら環の元に向かうのを嘲笑するように一瞥し、鎌鼬は見下ろした。下人を見下ろした。
そして鎌を振り上げて、時間切れとなる前に手早く作業に取り掛かろうとして………直後に鼬枷は天を見上げた。
「……?」
鼬は獣性の鋭い感覚でそれに気付いた。急速に迫り来る気配。先程から此方に向かって来ている退魔士共ではない。そんなものよりも遥かに危険な存在……!!
「……参ったな。本当に此れで時間切れか」
そして倒れる下人を見下して、宣う。
「さようなら。また何処かで会おう、糞猿が」
直後、天から降ってきた一条の閃光が周囲を爆炎で呑み込んだ。
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龍の足は速い。一時的であれば退魔士でも音を置き去りに出来るものの、それは継続的なものではない。しかし龍は違う。
神龍共は流石に音速を継続する事は難しくても、上空を馬を超える高速度で駆ける事が出来た。尤も、そもそも音速を継続出来てもその恩恵は少ない。さしもの退魔士も気圧や衝撃波によって音速で突き進む龍の背中に張り付くのは容易ではないのだから。……彼女を除けば。
『滅却』によって砕かれる骨を、裂ける筋肉を、破裂する眼球や鼓膜を、へし折れる首を、それらの問題を無理矢理に解決して、それを視認した彼女は己を砲弾とした。
投石器と同じ要領である。高速で突き進む龍の急停止と方向転換、その反動と衝撃、直後に自身の足腰の筋肉を霊力で強化して、龍の巨躯を足場として彼女は天高くから直射して突貫した。
それはまるで急降下爆撃のような軌道であった。急速に迫り来る地上、彼女は鮮明になるその光景を見て、彼の姿を明瞭に見つけて喜悦した。愉悦して、憮然として、狂喜して、憤然とした。そして……爆発した。
其処にいた凶妖は瞬間に文字通りに粉砕された。肉片と化した。粉々に打ち砕いて、焼き付くした。軌道と速度を微調整はしても尚、衝撃波は山中に響き渡って、木々を吹き飛ばし、地面は盛大に抉れる。粉塵が舞い散る。灼熱が周囲を舐める。
どうでも良かった。彼女の全てはただその腕の中に抱く者のためにあったから。
破壊の跡、その中心部にて所謂お姫様抱っこの体勢で彼女は彼を抱いていた。眼前の愛しい人を手中に収めて鬼月の一の姫は口元を歪める。その瞳は暗く濁る。
「あぁ……済まない◼️◼️。随分と待たせてしまったな?」
何処までも愛しく大切な人に向けて彼女は甘く囁く。謝罪する。返事はない。ただ小さな呻き声だけが漏れた。薄く瞳を開いて此方をぼんやりと見やる幼馴染みの身体は何処までもぼろぼろで、血塗れで、痛々しかった。直前まで彼がどのような修羅場に生きていたのかがありありと分かる。
それを見て、雛の内に激情が渦巻く。怒りの矛先は彼以外のこの世の万物全てに向けて。彼を傷つけ、それを許容するあらゆる事象が雛にとっては憎悪の対象であった。燃え盛る悪意と敵意。底知れぬ憎しみ。
……そして、その加害者の一人が丁度この場に馳せ参じる。
「ぬっ!?やはり雛…か?し、しかし何故ここに………?」
背後からの困惑と動揺を含んだ声に、雛は首だけを振り向かせた。其処にいるのは肥満体の男、隠行衆頭 鬼月宇右衛門……萩影から連絡を受けて急ぎ向かい、その萩影の死に更にその足を急がせて部下達を置いて先行、そして漸くこの場に到着した叔父を、しかし雛はただ冷たい視線で射抜く。彼女がこの男に向けて心中に抱く感情は彼をこのような状況に追い込んだ事への憎しみだけだ。
「………遅いお着きですね、叔父上。残念ながら全て終わらせてしまいましたよ」
冷静に、そう雛は努めて冷静を装った。平静を偽った。煮え滾って煮え滾って、煮え切った溶岩のような欲望と感情に無理矢理蓋をする。
分かっていた。まだその時ではない。今此処で逃亡しても一族から追手が次々と繰り出されるだろうし、彼に掛けられた幾つもの呪いも悪意も解けない。
鬼月の掛けた蛇の呪縛も、おぞましい地母神の侵食も、蜘蛛の魂の寄生も、全て同じだ。彼の身霊両面で犯すそれらを雛の業火が焼き払う事自体は可能だろう。しかしそれは彼そのものを焼く危険を孕むのだ。
呪い自体が彼と繋がっている故の危険である。呪いと彼との境界線は曖昧なのだ。下人の認識で近いものを言えば癌の放射線治療のようなものであろう。因子を殺す事が出来てもそれは彼の魂すらも傷つけかねない。そして魂は治癒出来ぬし、それは雛の異能の特性を思えば尚更だ。
だから、彼女は演じる。それが忌々しい妹の拵えた演目に従う行いと理解していても。幸い、此方にも利点はあったから。
「っ!!?こ、これはどういう事だっ………!?御主が何故此処におる!?……!?そうだ、その下人は!其奴はどうするつもりなのだ!?」
一瞬気圧されて、唖然としていた宇右衛門は、しかし我に返ると捲し立てる。叫ぶようにして追及する。それに対して、雛が向ける視線は変わらない。何処までも冷たい。業火の中に佇んでいながら、何処までも冷酷で冷淡で無感動だった。
「これには事前に内密の下知を与えていたものでしてね。此度はそれに従って知らせを受けて参った次第です。何も驚く事はありませんよ」
「下知、じゃと………?」
「えぇ。手に余る怪異共が入れば、此方に知らせよと。………逸って他者の功を横取りするような命であった事は認めましょう」
雛の物言いに、宇右衛門は顔を真っ赤にして怒る。怒り狂う。
「な、何と言う侮辱か!?儂らでは敵わぬ妖を討ってやろうとでも思い出しゃばったとでも!?馬鹿にするでないわ……!!」
そして宇右衛門はぎっ、と雛が抱っこする下人を睨み付けると叫ぶ。
「其奴を今すぐに寄越せ!!その者は逃亡を図ったのみならず、儂の手下共に手傷を負わせ、あまつさえお尋ね者の逃亡に手を貸したのだぞ!?はっ!そうじゃ……!!」
そして気付いたように周囲をキョロキョロと見渡して、宇右衛門はそれを見つけるとズカズカと突き進む。
「ちっ……ぐっ!?」
「い、入鹿……!?」
腕の骨を打撲して踞る環に駆け寄り、雛の着弾の爆風と衝撃からも守っていた入鹿のその髪を宇右衛門は掴み上げて引き摺るようにして郷主の娘から乱暴に引き剥がす。そして二人はそれに抵抗するだけの体力はなかった。
「や、止めて下さい!入鹿に酷い事は………!?」
「蛍夜の姫様、止めなされ!一度は見逃しますがの、二度目ともなれば許される事ではありませんぞ!!?」
入鹿を助けようとして、しかし環は宇右衛門のその眼光だけで怯えて怖じ気づく。それだけ宇右衛門の放つ霊力に気圧されていたのだ。雛はその光景に対して何の感慨もなければ関心もなかった。どうでも良かったし、何ならこれから起こる流れを彼女はある程度予想出来ていたから。
あの悪知恵ばかり働く妹が何も手を打っていない訳がないのだから。
『宇右衛門、お止しなさい。此度の案件、先方には非はありませんよ?』
雛の予想は鶴の出で立ちをした簡易式の姿を以て現れた。気品と共に甘ったるい印象を与える声音………天より現れたそれに、その式の向こう側の存在に、宇右衛門は驚愕する。彼はその参入を予見すらしてなかったように思えた。
「これは、母……御意見番殿?何故此方に……?」
『隠行衆頭、先ずは髪を掴むその腕を御放しなさい。蛍夜の姫君が疎みますよ?』
「しかし!この蝦夷は……!?」
宇右衛門の言葉を制止して、鶴は宣う。
『その件については話が少々長くなりますし、先方の家への説明もありますので詳しくは後程話しましょう。ですが、先ずは御放しなさい。………あぁそれと、其処の下人の呪いも、鎮めなさい。その者に罰するべき罪状はないわよ?』
「ぬぬ、だが……」
『宇右衛門』
「納得行きませぬ!御意見番殿、貴女は何を……っ!?」
宇右衛門の言葉が最後まで紡がれる前に、式神は飛翔してその側にまで迫っていた。そして鶴は長い首を伸ばすと宇右衛門の耳元にまで嘴を近付ける。
そして嘴を開き囁く。小さく、小さく囁く。
『これは私の好意なのよ?意固地にならない事ね。………それとも後妻の小娘が貴方の失態で恥をかいても良いのかしら?』
「ぬっ!!?」
その言葉は何処までも冷酷で冷淡で、到底身内に向けてのものだとは信じられなかった。其れほどまでに情に乏しかった。
文字通りの脅迫、宇右衛門は知っていた。権謀術数を企む時の母のその声音を。他者を陥れ貶める時に紡ぐ声質であった。汗を額に流す。怖じ気づく。本能的に恐怖する。
……そして何よりも、その言葉の意味を理解した彼には、脳裏にその少女の姿を思い浮かべると表情を歪ませる。彼に最早選択の余地は一欠片としてなかった。
「………」
無言の内に宇右衛門が片手で空を締め上げるような仕草をすれば、雛の腕の中の下人にしつこく纏わりつく蛇はその姿を幻のように消す。次いでもう片方の腕で掴んでいた髪を放せばどさり、と尻餅をつく入鹿とそれに駆け寄る環。
そして、鶴はそんな二人の元に向かうと優雅に頭を下げた。
『蛍夜一族の環姫ですね?我が一族の者が御無礼を』
「えっ……?あ、はい?」
眼前で人の言葉を話す鶴に環は唖然として、取り敢えず答えるように礼を述べた。実際はそれはただの簡易式であるのだが、式神術の専門家とも言うべき鬼月の御意見番のそれは限りなく精密で緻密で、眼前で目を凝らしてすらまるで本物の鶴そのものの造形であった。
『お初に御目にかかります。鬼月一族御意見番を承る鬼月胡蝶と申しますわ。此度は貴家の財を誤認して接収した事に代表して謝罪を』
そして鶴は頭を恭しく下げる。その光景に環は口をぽかんと開いて、そして気付いたように尋ねる。
「誤認?接収………それは、どういう?」
『詳しくは後程の事になりますが、橘商会の令嬢よりの申し出ですわ。「良く顔を見れば下手人とは違う」そうです』
何か言おうとした宇右衛門を一度視線で制止し、鶴は再び環を見下ろす。じっと、見つめる。
「………?」
『……祭日でお忙しい中申し訳ありませんが、御父君にお会いしても?郷の領主への説明もしたいものですので、ご紹介を御願いしますわ。………雛』
そこまで要請し、鶴は孫娘の方を振り向く。其処には既に地に降りてとぐろを巻きながら雛を迎える鬼月の龍が鎮座していた。
「鬼月谷に向かいます。討伐隊については手紙をしたためておりますので問題ありません」
黄金色の龍の、その頭を無遠慮に踏み敷いて、雛は振り向きもせずにそう答えた。雛は夜営地を立ち去る際に既に置いてけぼりにした者達に向けて事後の行動を命じた手紙を用意していたのだ。
『………』
「……では」
その言葉と共に龍は飛翔した。魚のようにも、蛇のようにも身体をしならせて、一気に月夜の空を駆け走る。あっという間に、消えていく………。
「姫……ど………」
「たま……どちらに………!」
ふと、森の向こう側から複数人の人の叫び声が響いて来たのを、鶴は聞き分ける。鶴は周囲を見渡す。互いに寄り添う姫と半妖を、そして不満を抑え込み神妙な表情を浮かべる己の子を、そして最後に隠行しながら肥太った蜘蛛を掴んでパタパタと苦しそうにその場を飛行離脱する蜂鳥を確認する。
……何かヒィヒィと息切れしながら飛ぶ式に構わずに『(ノ´Д`)ノパパマッテー』という表情で蜘蛛が宿主に向けて手を伸ばしているが気にしてはいけない。
まぁ、何はともあれ此処からは大人の仕事である。胡蝶は冷笑する。息子や孫娘達にはこういう仕事は任せられない。
『良いでしょう。憎まれ役も汚れ仕事役も必要だものね?………そう言う訳でご機嫌よう。蛍夜の家中の者達かしら?』
そんな事を嘯いた鶴は、直後に藪を掻き分けて現れた郷の者達に向けて悠然と挨拶の口上を口にしていた………。
「………どうやら龍は行ったようだね?」
郷の外、結ばれた結界の外、大木の枝の上に座り込んでいた怪異は天を見上げて嘯いた。
凶妖鎌鼬、その最後の分身は嘯いた。
「……やぁ、良く戻って来たね狼夜。いやはや、初陣から散々だったねぇ?しかも、まさか同じ同胞相手と相討つとは運がないものさね」
その気配を感じ取り、嘲りながら下方を見下ろせばそこにいるのは顔面の半分を押さえ、ゼイゼイと息を荒くする人影の姿。
「ははは、頭蓋が陥没してるね。まぁ、気にしない事さ。あの火で炙られたなら兎も角ただの殴打だろう?其れくらいの怪我なら飯を食べて寝ていれば元に戻るさって………聞こえてないか、これは」
おどけるように後輩を慰める鼬枷は、しかし途中で狼が己の話を碌に聞いてもいない事に気付いて肩を竦ませ呆れる。呆れ返る。尤も、その理由は理解出来ない事もない。
『千疋狼』、嘗て扶桑国にてそう呼ばれ怖れられた凶妖がいた。千の狼妖を従えるものとして伝承には伝わるがそれは長い時によって事実が歪曲したに過ぎない。
朝廷に討たれた際に、その妖は自らの魂を、力を、それらを千に分割して逃げ去った。何時か再び一つに纏まり復活する事を夢見て……尤も、それは今も果たされる事はなく、それどころか分身もその多くがあるものは確信的に、あるものは有象無象として退治されて、中には他の妖に食われたものも少なくない。
数ある分身が一つ、その因子を宿した元半妖の凶妖『送り狼』狼夜からして見れば、同じ起源を持つ半妖と言う二重の意味での同胞に大事な初陣が邪魔されるなぞ不本意以外の何物でもなかった。だから唸る。怒り狂いながら唸り続ける。
「そうカッカとするなよ。確かに作戦は失敗だ。けれど一応家人を一人討っただろう?それに、幸か不幸か今回出会した連中は実に興味深い。上に報告すれば失態を追及される事はないさ」
木の枝から空中回転しながら鼬は降りて宣った。他人事のように、嘯いた。そして、鼬は目を細めながらその方向を見る。
木々の向こう側に隠れる鬼を見る。
「………と言う所で今回はこの辺りで手打ちにしないか、碧鬼の皇女様?」
「そうだなぁ。……確かに演出的には此処は勝負は持ち越しも良いかねぇ?」
木々の間から現れた鬼は厚かましい口調で応じた。片手の瓢箪から酒を呷り機嫌の良さそうに鼻歌を歌う。その出で立ちは多少汚れていた。先日宿場街で暴れた際に付けられたものであった。流石に最終的に十人を超えた退魔士を殺さぬ手加減をして足止めするとなればこの鬼と言えども余裕綽々とは行かなかったらしい。
「尤も、その甲斐は十分あったがな?けけけ、実に良い酒の肴だったぜ?」
「酷いものだね?僕達の仕事をお摘み扱いかよ。………おい、止めろ。お前じゃあ無理だよ」
殺気を放ちながら前に出ようとする狼夜を抑えて、鼬枷は宣う。そして鬼を観察して続ける。
「もしかして、ずっと僕らを観察していた?いや君の性格を考えれば………これはこれは、鬼に成ってから随分と性格が悪くなったものだね。えぇ?」
此度の一連の騒動において鬼が何を企み何を仕出かしたのか、その答えに行き着いた鎌鼬は舌打ちして皮肉を述べる。本当に、鬼というものは性格が悪い連中である。
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ?あのお前さんも随分とチンチクリンな姿になったものだな?土蜘蛛の奴もそうだが、最近の流行りかね?」
向けられる敵意なぞ何処吹く風とばかりに鬼は尋ねる。とは言え、鬼の疑問自体は純粋であった。特に彼女の眼前の風妖の今現在の姿を思えば………。
「おや?伝わってないのかな?この姿は大乱の頃からなんだけどね?」
「マジかよ、似合わねぇな。もう少しマシなガワはなかったのかよ?」
鼬枷の返答に鬼は心底からの感想を口にする。鬼は知っていた。この凶妖の本来の姿形、そして性格が何れ程醜いものなのかを。厚化粧にも程がある。
「人生……いや、妖生色々あってね。それは君も同じだろう?どうだい?折角会ったんだ。今回は僕らに加わらないかい?此方としては君程の存在なら大歓迎なんだけどね」
「冗談は止せよ。こちとら漸く良い英雄様を見つけた所なんだぜ?それをほっぽり出せるかよ、可哀想だろう?」
「それは残念」
ほっぽり出される方が相手は幸せだろ?という言葉は呑み込んだ。
「………では僕達はここらで退散と行こうか。狼夜、行くよ」
「っ………!」
一瞬、鼬枷の言葉に舌打ちして、しかし今の己では眼前の鬼相手にどうにもならぬ事を理解して、渋々と『送り狼』はそれに従う。
そうして背を向ける鼬と一歩下がる狼……刹那、一迅の風と共に二体の姿は消えていた。
「けけけ。いやぁ、実に面白くなって来たじゃねぇかよ。しかも丁度良く英雄様も出てきた所となれば………痛快だぜ。漸く俺にも風が吹いて来たかな?」
けらけらと子供のように楽しそうに、それでいて妖怪らしく嫌らしく鬼は笑う。嗤う。身勝手に期待に胸を膨らませる。千年近く待ちわびて来たその時がやっと来るのを感じて。
何時しか鬼の姿も幻影のように失せていた。ただそれでも、その身震いするような特徴的な笑い声だけはひたすらに闇夜の山に響いていた。
けらけらと、けらけらと………。
ーーーーーーーーーーーーーー
「結果は上々……とは流石に行かないわね」
屋敷の自室にて、後々の分析のために己の記憶を書に転写した桃色の姫君は呟いた。
全く以て、彼には手を焼かされるし、慌てさせられる。まさか罪人を、己の仇敵を解放して死地に赴くなぞ………ある意味何時も通りの行動であるが見守る方は気が気ではない。最後だって避役が寸前で彼の身体をズラさなければ首が危なかった。
幸いにも、どうにか全ての収拾の目処は付きそうではあるが………。
「代償は安くないのよねぇ」
そういって嘆息する二の姫。一時的とは言え、彼をあの女の手元に預ける事になる事は、葵にとって不本意なだけでなく危険過ぎた。
あのイカれた女の頭がどんな思考回路なのか想像するのも困難だ。何かあって短慮な結論を導き出して彼に不利益があっては困る。そうでなくても、此度の彼は無茶をし過ぎたのだから………。
「それにしても奇特な事ね。彼を迎える訳でもなしに式だけでなく自身も向かうなんてね」
屋敷の門を潜った牛車を撮った式神の視界を鏡越しに覗く葵は首を傾げる。あのくたばり損ないの歳増が蛍夜郷に直接赴くと言った時には流石に耄碌したかと思ったものだ。
「大方、彼処の連中から手駒を集めるのが目的と言った所かしら?浅ましいものよね」
既に彼の立場を守るための台本は出来ている。郷の蝦夷程度は口封じを兼ねて確保するかもとは思っていたが……まさかあの郷主の小娘も取り込むつもりか?
(確かに奇妙な力だったけれど………別に無敵という訳でもないでしょうに)
口元を開いた扇子で隠して葵は考え込む。しかしやはりしっくりと来ない。
無敵どころか小娘は明らかに無防備だった。精神的にも未熟。あの程度、あの黒いものが届く前に投石でもしてやれば良いのだ。葵は地平線の先からでも最初の一撃で頭部を粉砕してやる自信があった。鍛練すればもう少し使えそうであるがそんな時間何時まであるか………。
「それとも………まさかね」
今一つの可能性、あの郷に住まう彼の肉親を思い出して、しかし葵は嘲笑する。それこそ滑稽な話だ。
彼自身はあの女中の無事に安堵していたが、葵からすればその行為に正直共感なんて出来なかった。
葵からすれば、彼の家族は彼を切り捨てた存在に過ぎない。彼を犠牲にして自分達の保身を行った俗物共でしかない。彼自身にはまだ未練があるのかも知れないが………だとしても彼のために連れて来る行いが正しいとは思えなかった。
漸く切れた悪縁だ。再び繋げるべきではない。生んでもらった恩義は十分過ぎる程に果たした筈だ。彼を自由にしてやるべきだ。彼は優しい、だからこそ側にやるべきではない。彼に全てを捧げた時に障害となりかねない。成功すると親戚が増えるとも言う。
葵は『肉親』という存在そのものを欠片も信用出来なかった。彼女にとって肉親が味方だった試しなんてなかった。彼女にとって唯一信頼出来る存在は、あの絶望の中においてすら己の味方でいてくれたただ一人で………。
「………後で詰問しなくてはね」
頬杖をして、葵は面倒そうに吐き捨てた。あの老婆の影響力と知恵は味方にしておきたいが、しかしその過去を思えば完全には信用は出来なかった。本当に厄介なものだ。彼が早く自分達の上に立ってくれればこんな事に、味方の警戒なぞせずに済んで楽なのだが………。
「姫様!葵姫様は………!?」
そんな事を考えていると、遠くから己を呼ぶ騒がしい声が響き渡る。屋敷に仕える雑人の一人の声であった。屋敷で仕事をさせている式神共の視界と繋げた葵は直ぐに眉をひそめる。
「私の敷地で騒がしいわね」
慌てて己の殿に足を踏み入れた雑人を、簡易式共を使役して確保する。例え庭先であろうとも、自身の有する敷地に財産に土足で足を踏み入れられるのは葵にとって不愉快でしかなかった。彼女がそんな暴挙を許すのはこの世でただ一人のみだ。
「何事かしら?簡潔にかつ明瞭に答えなさいな?」
とは言え、その程度の事を雑人共が分からぬ筈もない。葵は寛容を自認しているので一応式神越しに問い掛ける。詰まらぬ内容であれば罰として腕くらいは折るが、その程度は慈悲というものである。
そう思って、詰まらなそうに尋ねた葵。しかし………。
「と、当主様が!御当主様が先程、覚醒なさり………!!うわっ!?」
鬼月の家内情を何も知らず、ただその歓喜のままにその知らせを伝えた雑人は直後に己を捕らえていた式達が手を離した事で地面に尻餅をつく。受け身をする余裕もなく彼は腰を痛める。
彼はその後数日程腰痛で仕事が出来なくなるのだが、しかしそんな事は相手には何の関係も興味もなかった。
「………は?」
その知らせに、鬼月葵は暫しの間心ここに有らずとばかりに茫然とするしかなかった…………。
本編では分かりにくいちょっとした裏設定・キャラ紹介
鼬枷
鎌鼬の凶妖、主な権能は風撃と分身、また簡単な変化で普通の鼬の姿等にもなれる。因みに両権能の具体的な内容は
・風撃 伝承を反映して通常の「相手を負傷させ、痛みも感じられる風撃」以外に「負傷するが痛みのない風撃」、「負傷しないが痛みはある風撃」、「負傷も痛みもない風撃」も扱える。特に最後のものはあくまでも『鎌による負傷と痛み』がないだけなので鎌に遅延性の毒物等を塗った場合、対象を気付かれずに毒殺出来る。
・分身 他の妖と違って身分けによる妖力の減少はなし。但し全体有する妖力の条件は同じ、また同時に存在出来るのは三体まで、記憶はリアルタイムで共有で一度分けたらその分身を失っても一定期間は新たな分身は不可能。攻略方法としては範囲攻撃で三体纏めて吹き飛ばす、記憶の共有を逆手にとった記憶介入型瞳術等を利用する等が挙げられる
正直な所、権能自体は種さえ分かってしまえば凶妖の中では下位なので一流退魔士ならば三体纏めて退治も難しくない。大乱中は基本的に変化とその知能の高さもあって裏工作、暗殺諜報に従事してるので表舞台には出ていない。
尚、名前による縛りを受けており、元は大陸出身。縛りで知性を得た代わりに純粋な妖力はかなり縮小している。性格は悪い。縛られる前はもっと悪い。
入鹿
ひょっとしなくても蝦夷製卑劣爆弾。源流となった里を襲った妖狼は朝廷の退魔士が嫌がらせとして送りつけて来た祟り神的呪霊だったりする。最初に送りつけた退魔士としては「蛮族うざっ!取り敢えず適当に歯向かう部族二、三個滅ぼしてくれヨロ!」なわりと軽いノリ。……実は「もののけ姫」のアシタカも卑劣爆弾な説があるらしいっすね。
千疋狼
入鹿、狼夜の妖としての因子の源流。人妖大乱以前、扶桑国建国期に央土に攻め寄せた神格持ちの凶妖。朝廷との熾烈な戦いの末、滅せられるその寸前に己を千の分霊に分けた。
……分けた瞬間に偶然その場に居合わせた兄を闇墜ちさせそうな武者によってその半分以上を殲滅されて復活出来なくなった無残な敗北者。実は第一話で雛に討たれた大妖もその一つだったりする。
ガワとしては入鹿はダンジョントラベラーズというゲームのエフレノア、狼夜と鼬枷は原案の方のマンハッタンカフェとアグネスタキオンがイメージだったりします
次回、章末です。