抜けていく意識の中で、親しんだ街を、全ての闇を包む藪を、ただ茫然と眺めていた。
そこに自らの最期を刻む。人生という、大きな物語の「あとがき」を。
*
大学の課題で書いた作品です。
地名は実在のものを使用していますが、内容は実在する如何なるものとも関係なく、この物語はフィクションです。
風が吹いた。朝焼けの蒼が辺りを包む。
冬の川西池田駅への連絡橋は、暗い色のコートに身を包む人が行き交う。その日の朝も同じだった。携帯電話を見ながら、本を読みながら、空を見上げながら、友達と話しながら。それぞれがそれぞれの歩き方で、その道を歩いていく。阪急アステ川西の出入り口は四つのドアがあるが、その中の一つの自動ドアに群がって、そこから多くの人がこの連絡橋に飛び出してくる。煙草やコーヒー、香水の匂いが一気に広がる。しかし誰も表情ひとつ変えず、ただの通過点のようにこの場所を過ぎ、JR川西池田駅に入っていく。朝は何かがあっても、この場所では誰も気に留めない。
昼を過ぎると風が止む。風が止んで、人も消える。
アステ川西から見て左手にある大きな立体駐車場からも音が消え、辺りは連絡橋の下を通る車の音だけになる。ラッシュを終えたこの場所は、人の気配が消える。たまに通るのは高齢の女性と子連れの母親が数人程度。時折、付近のバスのロータリーから音がするが、この一帯は運行量自体が少ないため、音を聞く方が珍しい。ロータリーには止まったままの阪急バスと、中央に鎮座する源満仲像が、このゆったりとした時間の流れを象徴している。周囲に飲食店も少ないこの街の昼下がりは、何をするでもなく、ただ雲の流れるのを待つのみだった。
川西池田駅は夕方を迎えると住民たちの帰宅ラッシュが始まり、そうして一日を終える。ただ、この日に終えるものはただの一日ではなく、誰かにとっての特別な一日だった。
*
夜十時半。ラッシュを終え、人が少なくなったこの時間にある少女が連絡橋にやって来た。冬ものらしい茶色のトレンチコートに身を包んでいる。決して顔を上げることなく、足元ばかりを見ながら歩いていた。しばらくして連絡橋の中腹までやってくると足を止め、彼女は右手のビニール袋から一束の花束を取り出した。黄色い花だった。タイル状の橋の上に置くと、しゃがんだまま空を仰いだ。前日が雨だったのもあり、この田舎町の夜空には星がよく見えた。月明りが頬を照らす。邪魔になったのか、彼女は空を見上げたまま、担いでいたギターバッグを置いた。
どうして言ってくれなかったのかな。独り言ちたその声が、過ぎてしまった時間に伝わって空に響く。思い返せば、と言いかけて、口を閉じた。誰にも届かないその声を発することに何の意味があるのかと、彼女は無言で自分に問う。しかしその答えこそ無意味であることは、ここに来るまでに思考し終えて分かっていた。雪でも降りそうな冷たい風が、ラッシュの群れという壁を失って、彼女に直接吹き付ける。既に濡れた頬をさらに冷やす。膝を抱えて一度身震いしたがもう一度息を吸いなおして、お父さん、と口を開く。
本当は、もっと早く仲良くなれればよかった。意地張ってた私が、バカだったなって。お母さん、辛そうだったよ。お父さんいなくなって、どんどん弱ってる。この前学校から帰ったら、リビングで一人で泣いてた。あの強気だったお母さんが、だよ。お父さんの前でも泣かなかったのに、私、それを見て一緒に泣いちゃった。全然強くなれてなかった。この前のお葬式の時は、ちゃんと我慢できたのにね。ヘンだよね。でも、やっと話せるようになったのに、どうして放っていっちゃうかな。一人じゃ、強くなれないよって、言ってくれたのはお父さんなのに。どうして、お父さんは一人でいっちゃうのかな。私たちは、そんなに頼りなかったのかな。ううん、お父さんはきっとそんなこと言わないし、きっと自分を責めるって、それは分かってるよ。でも、でも、そう思わずにはいられなくて、今日も二人で泣いたんだ。
……あのさ、この前、こっちに来てからやっと、初めて友達ができたよ。教室でも一人じゃなくなって、話せる人ができた。確かに、向こうの友達が恋しくなることはあるけど、でも、こっちも悪くないって、やっと思えるようになった。私、ちょっと幸せだった。なのに、どうしてこうなるんだろうね。どうして、こんなにつらいんだろうね。……私、分かんないよ。お父さんのこと、何にも知らなかった。教えてくれなかったもんね。いつも話聞いてくれてたよね。……ちゃんとお父さんのこと知りたかったんだけどな。……ほんと、ずるいよね。私、そういうとこ嫌いだったんだよ? お父さんらしく振舞おうとするお父さんが。嫌われ役を買って出て部屋まで怒りに来るとことか、勝手に馬が合わないと思って避けてたとことか。……お父さんはきっと、それにまだ気づいてなかったんだろうけど。
そうそう、今日、すっごく星が綺麗でね、仲直りした日のこと思い出したよ。家出の時だったよね。あの時、警察の人よりもお母さんよりも、誰よりも早く見つけてくれたのはお父さんだった。家の裏庭の倉庫の扉が開いたあの時、私、すっごく怖かったんだよ。手が伸びてきて、実は、殴られるのかと思った。だけど……お父さんはそんなことしなかったよね。お父さんのこと嫌い嫌いって言ってた私を、お父さんは嫌な顔せず手を差し伸べてくれた。警察の人にもいっぱい頭下げてくれた。その後でいっぱい話聞いてくれた。私、初めてちゃんとお父さんと話せた気がしたんだ。その時の星空、今でも忘れない。あの日はすごい星だったよね。降ってきそうな、って言えば普通に聞こえるんだけどさ。……でも、あれがもう一年前なんだ。時は早いね。
来月、卒業式なんだ。……うん。友達ができたばっかりなんだけどね。お母さん、まだ辛そうだけど、私、高校生になるんだ。私、頑張ってお母さん支えるから。ほんとは生きてた方がよかったって、思わせてみせるから。だから、離れてても、見守っててね。
言葉を紡ぐ息を全て出し切って、一度深呼吸してから、少女は立てかけた花束を見た。冬の風はもう吹かない。ギターバッグを持って立ち上がり、じゃあ、と口にして言葉が詰まった顔をした。白い息が数回出た後、やっぱりいいや、と無理矢理に微笑んで、彼女はアステ川西の方へ去っていく。街のカラフルな光の中へ消えていく。少しして、置かれた黄色の花は手を振るように揺れた。
*
土日の川西池田駅は時間問わず賑わっていた。というのも、JR宝塚線の快速・丹波路快速が止まる川西池田は、阪急電車の駅と隣接していることも加わって、乗り換えの人で溢れかえる。誰かと出かける為か、心なしか明るい色を身にまとっている人が多い。父親と母親と手をつないだ子どもが、二人の顔を見上げながら楽しそうに飛び跳ねている。阪急アステ川西の中の百貨店で買い物をしたらしい女性たちが、両手にいっぱいの紙袋を携えてやってくる。しかし行き交う人は誰も足元の花束に気づかない。
その日は少し曇り空だった。雨が降る予報なのか、傘を持つ人が多かった。休日は増えるバスの利用客もいつも以上に多く、人々の白い息が街にその生きた証を残していく。バスが止まる間には送り迎えの車が何台も入れ替わる。その中から一人、老婆が真っ黒な服に身を包んで降りてきた。川西池田の駅に入っていく大勢を横目に、彼女はロータリーから連絡橋への階段を上ってくる。狭い歩幅から出る足音は、突いている杖の音と大勢の雑踏、それからバスと車の騒音にかき消される。誰も気にしなかった花束の前に来ると、彼女はその場で跪いた。右手に着けていた真珠のブレスレットを外すと、その手で青のハンカチを取り出し、花束の横に広げ、重りのようにしてブレスレットを乗せる。彼女の眼は、真珠のブレスレットから視線を外すことなく、ただ静かに涙を流した。
彼女は何も呟こうとしなかった。周囲の目を気にしたわけではなく、はたまた何も思わなかった訳ではない。ただ、悼んだ。頭上の枝がさわさわと揺れた。揺られるがまま、風に身を任せるしかできない枝は、彼女の髪に乗せるように一枚の枯れ葉を落とす。彼女はそれにさえ動じない。俯いたまま、閉じた瞳から重い一滴を繰り返し落としつづける。そのまま数分、枝と花束と揺れていたが、やがて顔を少し起こして、ハンドバッグから一冊のアルバムを取り出した。左手でゆっくり開くと保護フィルムの上にまた水滴が垂れる。家族旅行の写真ばかりが載せられたそれには、彼女の年輪とも呼べる生きた証があった。始めは三人で写っていた写真は、子供が育ち、やがて二人になり、そして四人になる。幸せそうに笑う老夫婦と息子夫婦が写っている。最後のページには孫娘も加わって、桜の花弁に包まれた五人の写真があった。永遠に続くこの時間に終止符を打つのはきっと自分か夫かと思っていた彼女は、今は亡き息子を改めて想う。当たり前と思っていた時間が唐突に失われ、また会えると思っていたその絶対的信頼が崩れ去った。家に帰ればまた会えるとも思えてしまうのに、目の前に置かれた弔いの花と青いハンカチに鎮座する葬式の証が、その想いを断ち切る。枯れた葉が髪から落ちてきて、改めて彼に関する全てを失ったのだと、彼女は痛感する。涙の跡に冬の風が突き刺さる。その寒さに痛んだ頬が赤く染まり、しわがれた嗚咽が喉の奥を突いて漏れだした。
家を思い出した。息子と夫と過ごした二十年を思った。息子が伴侶をつれてきた時を思った。家に響くただいまの声を、何通りも思い出した。息子が家庭を持つようになって、何も手に着かなくなると思っていた自分の後生に張り合いを与えたのは、たまに帰ってくるその声だったと思った。役割を喪失した彼女の目は、まだ息子の姿を追い続けている。
私は、と言いかけて涙を拭った。こうして想うことが、私にできることだと言葉を漏らす。ありきたりな言葉しかでない自分を嘲笑したくもなる。しかし、生きている間に自身の意味を見つけられなかった息子へ、今、こうして意味を与えることが、これからの役割なのだと言い聞かせる。遺品の日記に、自分の意味を失ったと書かれていたことを思い出す。旅立つ息子に、向こうでは見失わないでほしい。ささやかな願いが届きますようにと一度手を合わせ、彼女は立ち上がる。すっかり日も暮れていつの間にか晴れていた空から、オレンジ色の太陽が彼女の帰り道を照らしている。タイルの上に伸びる一人の痩せこけた影を見て、彼女は涙をこれ以上拭うことも振り替えることもなく歩き出す。沈みかけの大きな太陽は、彼女が真っ直ぐ歩けるように、見えなくなるまでその背中を照らしていた。
*
それは早朝のことだった。まだ始発が走るその前、ロータリーの時計が五時を指す頃、紺色のウインドブレーカーを纏った男は立体駐車場にいた。少し白髪が生え始めた長髪を、車から出てすぐに手櫛で直す。そのままゆっくりと歩いて立体駐車場の出入り口に差し掛かると、外の風に冷やされて一度だけくしゃみをする。肩をすくめてポケットに両手を入れる。連絡橋に出て来て辺りを見回す。まだ誰もいないこの場所にさわさわと揺れる黄色の花束を見つけて、彼はなるほど、と呟いた。花束の前に来てその場に膝をつくと、ポケットから手を出して息で温めた。雲一つない空にはまだ沈み切っていない月が浮かんでいる。まだ明かりが灯されている建物がありながらも、月は霞むことなくそこにある。彼は、すまないと言い出してポケットの中から小さな包み紙を取り出した。
「久しぶり。こんな形で会うとは思わんかったわ。まぁ、とりあえず土産でも持ってきたから、見てくれよ」
包み紙を解きながら、彼は零すように言葉を出し始める。冷えてしまった指が上手く動かないながらも、少しずつ人差し指と親指でつまみながらめくっていく。
「正月に会ったんがもう遠い昔のように思えてまうな。たった一か月とちょっと前のことやというのに……年を取るというのは嫌なもんやな、ほんと。お前は結局昔と変わらず老け顔のままやったが」
包み紙の中から出てきたのは小さなサボテンの鉢だった。震える白い手で、先に置かれていたハンカチの上に鉢を乗せる。ゆったりとした動作で置いた後、そのままとんぼ返りするようにウインドブレーカーのポケットの中へ返っていく。
「あの時の顔は何もなさそうに笑ってたくせに、お前はいつも肝心なことを報告し忘れる。昔からや。いっつもいっつも、自分の判断ばかり信じて、周り見てなくて、んで自分を見失ってく。なのに、誰にも言わんと平気な顔して強がる。ガキの頃から変わらんな、ほんとに。その時に気づけなかった僕も僕やけど、さすがにあんまりやわ。……こんな奴でも長生きするのに、お前という奴は」
サボテンに生えた薄い毛が風で靡き、まだ三センチ程しかないその体は震えているようにも見えた。乾燥した冬の空気は、彼の体とサボテンに容赦なく切りかかる。痛いのを分かっていて、彼はサボテンの頭を撫でる。薄れていく指先の感覚を取り戻すように、その一本一本を確かめていく。
「思い返すとつまらんことばっかやから、最近の話なんやけどさ。見えてるかどうかは知らんが、お前の好きな花、置いてあるぞ。チューリップはまだ時期にしては早いが、でも、きっとお前のことを大事に思ってる奴が持ってきたんやろうな。僕も納得した。お前はこういう人を忘れたまま行ってしまったんだ。ちょっとは後悔しろ」
彼の眼からは何も零れない。脳裏に映る過去を見ているのか、彼の眼はサボテンを撫でながら街の奥にある地平線を眺めているようだった。
「僕の白髪もまた少し伸びたし増えた。現場でもしょっちゅういじられる。昔はペンギンとか色々言われたけど、今や落武者やで。なんか腑に落ちんよなぁ。そんなに老けて見えるか? 僕だってまだまだピチピチなはずなんやが。とか言うてると、お前の反応が見たかったりするな」
なのに、と言いかけて、そうだ、と言い直す。彼の右の頬が吊り上がって、そのまま息を吐いて震えを抑えているようだった。
「それから、お前が大事にしてたもの、預かったぞ。通勤用のカバンの中に入れてるとは、お前らしい。なのに、死ぬ時は持ち出さへんなんてな。しっかりしてるのか抜けてるのか、はっきりしてほしいところや」
仕事で使っているらしい大きめのウエストポーチからA5のノートを数冊取り出して、彼はパラパラとめくり始めた。殴り書きで、何度も力強く書いてあるせいか始めのページが黒くなってしまっているが、彼はその文字が何を示しているか、既に分かっている。
「あの頃の日記をこうやって取っとくなんてな。ほんまに変わらなかったんやな、お前は。しかもさ、それをわざわざ、死んだら僕に預ける、なんて書き残すなや。卑怯やぞこんなん。お前がそんなことするから、僕もついつい昔を思い出してしもうてな、こっちまで変な気持ちやわ」
別に言い訳なんてする必要はないとは思っていても、彼の中に残った少しの羞恥心と突然の出来事による整理の付かない名もない心が、いつものように目の前に不必要な言葉を並べたがる。それらを言い切ると、自分も変わらないなと、彼はここにきて初めて自然に笑った。もちろん、そこにはただの嘲笑以外の意味もある。日記のページが最後に辿り着き、裏表紙が閉じられると、彼はウエストポーチの中に戻してゆっくりとチャックを閉める。
「仕方ないよな。もう出会って二十……えっと、八年か。なんで僕らみたいな正反対の人間同士がこんなにも続いてるんやろうな、変よなって思う時は結構あった。でも、なんか昔に話したと思うけどさ、そういう存在が地元に帰れば居るってことが、僕にとっては大事なんよな。話したんやなくて、文字でやったっけ。まぁどっちでもええんやけどさ。お前が僕のこと羨ましいとか言うてたけど、それはきっとお互いでさ、隣の芝が青く見えるだけなんよな、きっと。性格も、境遇も、全くちゃう僕らやけどさ、でも、お互いそれに満足しながら、お互いの存在に刺激受けてたんやと思う。前にも言うたけど、なんか改めて」
サボテンを撫でるのに飽きが来たのか、ブレスレットやハンカチ、チューリップの花弁の先を撫で始める。輪郭を描くように、人差し指だけでゆっくりと撫でる。
「お前の顔、最後に見た時にさ、こんな風に撫でたんやぞ。お前に触るのなんて二十八年の中で一度もなかったのにさ、お前がもうおらんくなるって思ったら、なんか自然に棺桶の中のお前の顔に手が伸びたわ。意味不明よな、あはは」
少し標準語にかぶれた関西弁を話す彼はまだ顔を上げないままだったが、乾いた笑いが響いたその瞬間、川西池田駅に数人の足音と電車のサスペンションの音が響いた。ロータリーの時計が五時半の鐘を鳴らす。すっかり冷え切った手をポケットに戻して、彼はまた少し笑った。
「でもな、そろそろ時間やから、これだけは最後に言うておくんやけどさ」
彼は顔を上げることもなく立ち上がり、流れ出てくる人の波に逆らって歩き出した。
「まだ言うてない、僕が本当に伝えたかったことは、生きてるお前に伝えるべきことやったから、もう言わん」
後頭部を右手で掻きながら、ウエストポーチにある携帯で通じない番号をコールすると、じゃあな、と言い慣れない一言を添えて、暗い駐車場の中へ消えた。彼が去って見えなくなった頃、浮かんでいた青い月は朝の光の中へ無言で沈んだ。
*
雨が降った。空が広く見える川西池田駅は、それだけで辺り一帯の光が消える。まるで土曜日の昼下がりのような気怠さが街を覆っていて、黄色のチューリップは寂し気に揺れていた。歩く人は雨よけがある細い路を大勢で通り、はみ出た人は傘を持って目線を隠しながら早足で過ぎていく。足元のタイルの色と空の色に合わせるように、人の色や雨の色が全て灰色一色に染まっているような気がした。歩く音さえも静かになり、一帯は寒い雨の音が響く。
雨が降り続く午後三時半頃、学生服に身を包んだ少年とスーツ姿の男が二人で川西池田駅から出てきた。スーツ姿の大きな男が差す黒い傘に、少年は少し委縮した様子で入っている。ゆっくりと歩き、ついに花束たちの前に来ると、少年はその場に座り込んでから目を閉じて、静かに手を合わせた。背中で傘を差す男がいるものの、足元のタイルに跳ね返った水滴が彼の足元を濡らしていて、もはやその傘の意味などないほどだった。しばらく経っても、彼は目を開けようとはしなかった。濡れようと、寒かろうと、後ろを人が何人も通り過ぎて行こうと、彼にはそれは関係なかった。濡れたカバンにさえも興味を示すことなく、彼はただ祈る。
「あの日もこんな雨の日でした」
そして、少年は目を瞑ったまま、口を開いた。
「学校の帰りが遅くなって、僕は八時ごろにここにやってきました。帰り道でした。人通りはまだ多くて、たぶん帰宅ラッシュだったと思います。僕はアステの方から出てきて、ちょうど川西池田駅に入るところだったんです。後ろの方で、音がしたんです」
彼は目線を足元に落としたまま、言葉を繋いだ。傘を差す男は無言でその背中を見つめている。
「駆けつけると、先生でした。先生がここから落ちたんです。しかも、真っ逆さまに、頭から落ちていました。僕、初めて、あんなに黒い血を見て、それで、気が付いたら……」
「そのままそこに倒れていた、ということか」
「そう、みたいです。目覚めた時には既に先生にブルーシートがかかっていて、僕は雨でびしょびしょになってて、そうしたら、警官の方が見つけてくださって」
彼はまだ目を開こうとしない。瞼の裏に、そこにあった男の死体が目に浮かんでいるのかもしれない。誰よりも近くで、誰よりも先にそれを見た彼は、きっとまだその目でその時間を見つめている。
「でも、僕は何も感じなかったんです。確かに先生はいい先生でしたし、僕の相談にいつも乗って下さってました。僕より強くて、いろんな失敗を乗り越えてきた人だと聞いていましたし、僕は安心しきっていたのかもしれません」
「つまり、自殺するような素振りはなかった、と」
「そうですね、少なくともその日は、僕らの前で先生は笑ってました」
彼は雨に濡れるチューリップを撫でる。指の先の感覚は寒さと冷たさで既にそのほとんどを失っており、チューリップが優しく揺れるのをただ見つめているだけになってしまっている。
「他に何か聞きたいことはありますか?」
「いえ、彼が生徒に素振りを見せてないとなると、これ以上は」
「そうですか。あ、傘は自分で折り畳みを持ってますので、大丈夫ですし、先にアステの方に戻っててもらってもいいですか。後で連絡しますので、詳しいことはその時に」
「分かりました」
スーツ姿の男は傘を持ったまま、アステ川西の方へ去っていった。彼は学生カバンの中から折り畳み傘を出して、そのまま開く。人並みの中に消えて男の姿が見えなくなったことを確認してから、彼は再び口を開いた
「今のは、警察の方です。僕は最後を見てしまったので。僕は、そんな後のこと、どうでもいいんですが」
彼は少し嘲笑気味に笑うと、はぁ、と一息ため息を漏らした。
「先生。なんだか、変な気持ちなんです。変っていうのは、僕、持ってた不安とか嫌なこととか、もう全部ふっとんじゃって、何が何だか分からないんです。悲しい、っていうんでしょうか。先生がいなくなって、進路相談室からは人がいなくなりました。教室では先生は休職したと言われ、クラスのみんなは誰も先生が自殺したなんて知りません。僕も言ってないからです。変ですよね、衝撃的な話だし、みんな嘘に騙されてるなら、僕は言うべきなんですよね、本当は。でも、そんな気にならなかった。先生は誰にも見られたくなくて、こうやって死んだんですよね。きっと、数週間前の僕がこうして死んだら、学校の誰にも知られたくなかったと思うから、僕も思うことはたくさんありましたが、学校のみんなに言うのはやめました」
雨の音が次第に強くなる中、彼は袖が濡れることも気にせず、持ち寄られたものたちに触れていく。彼は、目を閉じたまま、あは、と笑った。
「変ですよね、これから先の未来について一緒に考えてた先生が、僕の自殺を止めて、そして自分は死んでいくんですから。先生のせいで、僕はどうしたらいいかわかんなくなっちゃいました。もう国立大学の受験だって迫ってるのに、どうしたらいいか分からないまま、こんなところに来てしまってるんです。僕は、もうどうしようもないんです。……先生、僕、言ってなかったんですけど、実はあの日まで僕は将来教師になろうと思ってました。中学時代からの夢だったんです。自分の今できることを、仕事にしたいって思ってました。でも、あの日、先生は職員室に一人残ってそのまま泣いてたのを、僕は見てしまったんです。弱いところを見せたくなかったんだと思って僕はその場を去りましたが、でも、その時こうなるって分かってれば、きっと止めたと思うのに、僕は止められないまま、こうして先生の未来が消えていくのを見てしまったんです」
彼の目から数滴の涙が溢れた。雨に濡れた頬をゆっくりと伝って流れ落ちていく。
「何がつらかったのか、何が先生の負担だったのか、そんなの、分かりません。でも、僕は、僕が先生の負担になってたって思えてしまって、誰にも言い出せないまま、僕はこうしてここにいるんです。分かりますか、先生は僕の未来を奪ったんです。やっと目指そうと思うものができたのに、その先に死が待っているのを、先生は僕に見せてしまった。もう、取り返しがつかないんです」
一度深呼吸する。白い息が大きく漏れて、彼の眼鏡が白く曇った。それを濡れた学生服でふき取ると、彼はこれ以上涙を流すことはなく、目を見開いて、花束を睨みつけるように見つめた。
「僕は、言いたくない言葉ですけど、先生に言っておくべき言葉があります。それは、僕は先生が嫌いだったということ。先生がいつも教師として全力だったところは認めます。でも、何事も饒舌に話し、僕を困惑させ、そして僕には自殺するくらいなら最後まで頑張ってみないかと言った癖に、僕よりも早く自ら命を絶つ。理不尽で、身勝手で、僕が弱いのを知っていて、弄ばれた気分です。最低です。僕はもう、二度とここを通るつもりはありません。学校へ行くのもルートを変えるつもりですし、そもそももうそんな回数登校することもありません。僕の高校時代はこの事件で幕を閉じたんです」
彼は立ち上がった。傘を右手に持ち、濡れたカバンを左肩に担いだ。
「先生はその行為で、二人の人間を殺しました。一人は先生自身、そして、もう一人は夢を見ていた僕です」
彼は立ち上がると、ポケットから取り出した携帯電話で最近登録された番号をコールする。スピーカーから先程の男の声がし、少年は今から向かいます、とだけ言って通話切断ボタンを押した。
「さよなら、先生」
振り向くことのない少年の顔は、やがて人の波の一部に消えていく。花束にあるチューリップのうちの一本が、雨に打たれてその花の首を垂らした。重さに耐えかねたそれは、茎からぐにゃりと曲がり、起き上がることはなかった。
*
冬の間に気温が高い日を小春日和、と呼ぶが、その小春日和で今日の川西池田駅は大いににぎわっていた。もちろんどこかへ遊びに行く人ばかりではなく、制服姿の中高生が部活動の為に遠出するにも今日は絶好の一日だった。すっかり着慣れたせいか、上着の裾が少し光り始めていて、太陽の光を浴びて鈍く輝く。三人ほど横に並んで歩く女子学生や、縦にも横にも広がりながら大きく口をあけて笑っている男子学生の集団が、静かだったこの街に若さの音を授けている。しばらくして昼の二時頃になると、珍しく気温が十五度を上回り、置かれたチューリップが微かに花開く。グレーのタイルの上に咲くチューリップは、都会のタンポポのように力強く、そして凛々しくその香りと色を解き放つ。出会いの季節である春は、もうすぐそこにいるような気がした。
私はベンチに腰かけて、一人空を眺めていた。長く遠い空がゆったりと流れていくのを見つめていた。きっとこの場所を離れられないと、つくづく思った。笑ってみたりもした。だけど、ちっとも心の底からの笑いにならない。私の心はあの体に置いてきたのだ。もうここに残るのはただの執念のみ。置かれたチューリップの匂いを感じることも、サボテンの毛を撫でることも許されない。彼らの言葉だけを受け取り、そして、どうにもできないという事実を淡々と受け入れるしかできない。そもそも何故こんな選択をしたのか。自分でもよく覚えていない。ただ、私は、この世界のあらゆるものがつまらないと思ってしまったんだ。つまらないというのは、面白くない、楽しくない、というのとは違う。私は、疲れた。周りに合わせるのも、嫌われ役を被るのも、これから先の未来を考えることも。
娘はああ言っていたが、私たち夫婦は、離婚するつもりだった。娘は彼女が預かる予定だった。話は少しずつ進んでいた。私たちは、話す時間が少なすぎた。意思疎通も、互いのことも、長い年月を通してお互いが変化していることも、私たちは気づけなかったし、気づいても納得できないまで、私たちはすれ違っていた。大事な存在がそうして離れていくのは、もう懲り懲りだった。でも、私にはどうにもできなかった。私が何をしようと、どうしようと、彼女は既に私を見てはいない。彼女も、娘も気づいていないだろうが、私は知っていた。彼女に次の相手がいることを。私じゃない、別の人間がいることを。隠し通せているつもりだったのだろうが、私には、透けて見えてしまう。それだけ、大事だったから。愛していたから。見たくないものまで見えて、そして、私たちが過ごした十数年間は、今隣にいるであろう男に敗北したのだ、と思うと、私にはどうにも耐えられなかった。両親は、そんなこと露知らず、また顔を見せてくれと連絡してくるし、言い出すにも言い出せない。私は、一人で、一番はずれのクジを引かされるだけだったのは目に見えていた。
サボテンを持ってきた彼は、幼馴染だった。日記を押し付けてしまうことになり、彼には申し訳ないことをしたと思っていた。ただ、あれは私の心臓とも呼べる大事なものが詰まったものだったから、彼以外に預けることが考えられなかった。彼は、私が唯一いつまでも信じられる人だと思っていたから。だからこそ、私は彼の本心が知りたかった。だからこそ、彼の言葉は聞きたかった。あれを読んだ、彼の本心を。だけど、聞けなかった。彼は最近のことと葬式の時のことを話しただけで、私には大事なことを話さなかった。私は、自分の意義が見出せなくて、裏切られ、見捨てられ、そして大事な存在でさえ離れていくこの私の意味は、誰かが与えてくれるものだと思っていた。でも、誰も与えてはくれない。だからこそ、私は死ぬ時に、死んだ後の世界を覗きたいと願った。私が死んだらどうなるのか。私がいなくなったら誰がどう思うのか。彼は、応えなかった。私は知ることさえ許されない身になってしまった。謝りたくてもその言葉さえ届かない。私は、私自身の手で、彼の中の私を殺し、私という存在意義を失った。
学生服の彼は、教え子の一人だった。彼のことを、彼がやってきてから思い出した。死ぬ時は誰の顔が思い浮かぶわけでもなく、イメージできなくなった真っ黒の未来を見て、この橋から飛び降りたのだから。でも、彼の声が聞こえたことは、よく覚えている。視界が上から真っ赤に真っ黒に染まっていき、意識が朦朧とする中で、彼の叫び声が聞こえた。冷たくなる意識の中で、必死に声を出そうと粘ったが、掠れた声すら出なかった。手はピクリとも動かなかった。やっと死ぬのだと思った。解放されるのだと思った。前述した全ての苦しみから――離婚も、娘との別れも、旧友への想いも、職場でのトラブルも――、やっと。だけど、そんなことはなかった。確かに、私が死んで彼女は再婚できるようになったし、娘にはそれが知られぬまま私がいなくなることできた。私がいなくなり、私が主導していた学校の校則改革は終わり、今まで通り理不尽なものが放置された校則のままで、代理教員を補充して何事もなかったかのように運営は再開するだろう。確かに問題は解決しただろうし、物事はあるべき形を取り戻していくのだと思う。だけど、それはただ「私が不必要だったこと」を証明したに過ぎない。私がしたかったのは、私が存在する意義を証明することだったはずなのに。全てを諦め、全てを投げ打ち、誰かに思ってもらえればそれだけで価値があると思っていたのに、今となればただ無価値を証明しただけ。
私は何がしたかったのだろう。こうして空を眺めていると、何か答えが出そうな気がした。しかし、それは人生の外で見つかるものであり、テストの後の答え合わせに過ぎない。そんなものは、物語に直接関係しない「あとがき」に過ぎないのだ。
春という新しい季節が来ると思わせる太陽は、キラキラと輝いていた。通る人にその光が並々注がれて、彼らは影を伸ばす。それは彼らがいる意味そのものであり、立つだけでそこにいるという証明でもある。川西池田駅は今日も生きている。私はいつか見た自分の影をタイルの上に描いて、空の蒼に同化して、また思慮の世界へ消えた。