けれど、そんな大層な考えは浮かばなくて。
でも、歩いてきた道は壮大で険しくて。
だからかな、今こんな生活をしている自分を、自分だけは認めてあげなきゃってなる。
でも、向き合わなきゃいけないことだってあるんだよな。
帰らなきゃな。ちゃんと。自分の場所に。
*
実は最近、嫁と会ってないんだ。もう半年ぐらいかな。家にも帰ってない。それまでも仕事の都合で家を空けることはあったし、そもそも家に居るのが短い男だったけど、せめて週に一回ぐらいは帰ってたんだ。なのに、ここ最近ときたら、仕事場を寝床にして、気づいたら起きて、上がってくる仕事をこなして、時には車でもホテルでも寝る。家に金を入れてないわけじゃないんだ。むしろ、嫁や娘たちのために資産を残そうと、最近は仕事柄安く手に入る不動産を見繕って、自分で直してリフォームしてる。人からの仕事も多いけど、自分でそうやって少しずつ資産を作ってる。決して家族を蔑ろにしたいわけじゃない。
もちろん女の子とも遊ぶ。それぐらいいいだろう? 別に肉体関係があるわけでもないんだし。デートぐらい嗜みとして許してほしい。……とはいえ、嫁とはデートすらもう久しくいってないのだが。
いつかはちゃんとしなきゃな、とは思う。だけど、いつまでもこうしてだらだら過ごしていたいのに、何故結婚してしまったんだろう、ってちょっと思う訳。
そんなある日、夢を見たんだよ。
まだ高校生だったあの頃の二年二組の教室に、二人で居るんだ。使い古された机に、白がかった黒板、廊下から差し込む夕焼け。すぐに夢だと気づいたんだけど、何故か体が動かない。するとあの頃の嫁――まだ茶髪で襟足がくるんと内巻きだった彼女が、視界に入ってくる。お互いまだ着慣れてない制服に身を包んで……と思うのは、俺がもう既に還暦間近のおじさんだからだろうが、久々に見た白いセーラー姿の彼女はこちらに歩いてきて「まだ居たんだ」って言うんだ。
それから、「早く帰ってこないと、ハンバーグなしだからね」って笑顔で言って、教室を出ていくんだよ。ハンバーグは、俺が嫁の料理で一番好きだったものなんだ。それから、窓の外の光が急にまぶしくなって、気づいたら運転席のハンドルに頭を打ち付ける俺が居たんだ。
それから仕事に行ったんだけど、妙に頭に残ってたんだよ。制服姿じゃなくて、ハンバーグ。何日たっても頭から離れないから、ついにこの前初めて外でハンバーグを食べた。ビッグボーイに入ったんだ。だけど、それがえらく不味くてね。いや、うまみもしっかりあって、肉汁もあふれて、これはこれできっと美味しいんだろうけど、「ハンバーグ」って名前の割にはちっとも心に響かない。
困ったもんで、男ってのは変なプライドがあってさ。自分から連絡するのってちょっと恥ずかしかったりするんだよ。で、LINEのトーク履歴見たら、すっごい下にあるの。嫁の名前。しかも最後にやった会話が「娘の参観日行く?」「行かない」、これだけ。その時は何とも思わなかったけど、今となってはすごい素っ気ないなって思ってさ。これは俺も悪かったかなぁって思って、プライド折って「明後日ぐらいに家に戻ろうと思うんだけど、よければハンバーグを作ってくれないか」って、送ったよ。ちょっと緊張した。本当は今日帰りたかったけど、いきなりだと申し訳ないなって思って、明後日にした。変な心配の仕方だよな。俺もそう思う。
で、もちろん返信はない。そりゃそうだ。今更何を言ってるんだと思うだろう。既読すらつかなかった。嫁には嫁の、家族には家族の生活リズムがある。今、夕方七時。ちょうど飯時だろうなって思った。軽トラを走らせて、とりあえず残った仕事を片づけ始めた。もし返信があれば、明後日帰ろう、帰れるようにしようって思ってね。
だけど、結局返信がないまま、二日後になってしまった。でも、もう口の中はハンバーグ。ビッグボーイでもロイヤルホストでもガストでもない、嫁のハンバーグの口になっていて、憂鬱な気持ちと待ち受けている幸福を皮算用する気持ちが混ざって、もう気が狂いそうだった。
「ただいま」と、鍵を開けて入ると、オレンジ色の照明が自動でついて、奥の方でテレビの音がするんだ。この照明、嫁に言われて付けたなぁ、って思いながらドアを開ける訳。
そしたらさ、「おかえり」って、娘二人と嫁が言う訳。嫁は続けて「遅かったじゃん」って、あの頃――高校二年生の夢の中の笑顔と全く同じ顔で言うんだよ。あの頃の俺たちと同じ年頃になった娘たちが、笑顔で「うわ無精ひげだ」「見ないうちに老けた?」とか、散々言うけど、嫁は「変わらないね」って笑ってくれた。俺は何してたんだろうなって、思いながら、ダイニングの席に着いたんだ。
目の前には、思っていた通りのハンバーグ。きっと他の人にしてみればそれほどかと疑われるかもしれないけれど、輝いて見えたハンバーグ。「いただきます」と同時に、ひとくち頬張る。
「これだ」
って呟いた。涙がぽろぽろ出た。嫁は「変わらないね、ほんとに」って背中をさすってくれた。話さなくなって半年。近況報告もしないまま、給料だけ振り込み続けた半年。悪いのは、仕事を言い訳にして会わなくなっていた俺の方なんだろうなって思って涙がこみ上げてきた。すすり上げて泣いた。娘たちは「お父さんって美味しいハンバーグ食べたことないの?」とか、「お父さんはすぐ大げさになるからね」とか、好き放題言ってるけど、もう何も言い返せなかった。
その後、娘たちが寝た後のダイニングに座っていると、嫁が「で? 何かあった?」と聞いてくれた。上の話を全部話したよ。
そしたら、「なにそれ」って眉を八の字にして笑うんだ。最近色んな若い女の子――娘よりちょっと年上くらいの子たち――と遊んだけれど、この笑顔にはかなわないなって思って、また泣いたよ。
で、「ごめんな」って言ったら、「違う」って言うんだ。
「ありがとう?」「違う」「助かる」「違う」……じゃあなんだ? ってなった。
そしたら「愛してる、でしょ」って。また泣いた。一生大事にしようって思った。