自分はそこまで変わっていないのに、相手はすっかり大人びていて。もしくは、年相応になっていて。
だからこそ……今だからこそ、確かめたいこともたくさんあって。
歳をとって、もう変えられない過去だと分かり切っていて、だから、あの時のことは本当だったのか、確かめたくて。
それを単なる知的好奇心と呼んでいいのか、それとも全く違う感情なのか、それさえ分からないけれど。
いつまでも幼い考えのままの自分ではあるけれど。
でも、確かめたい。君の、気持ちを。あの時の、思いを。
心の内が読まれたくないと、そう思うのはどこかこの想いがやましいからなのか。
幼馴染の田中から連絡があった。久々に会った。昔の話になって、共通の友人の話になった。その時に言われたことを、今日は確かめに来た。それだけのはずなのに、どうしてこうもやましいと感じなければならないのか。自分の不甲斐なさに頭を抱えそうになる。
午後七時。梅田駅の二階改札の前。袖口で見える腕時計の針が進むのを眺める。仕事のネクタイを外して緩めた首元から、外の空気が入ってきて体を冷やす。ポケットから携帯を出して一度点けるも、来てほしい通知はない。
来てほしい通知、というのは件の同級生である北野結菜からの連絡である。今日の待ち合わせに至るまで、特に連絡らしい連絡を取っていないこともあって、本当にこの場所が正しいのか分からなくなるというのもあるが、それ以上に彼女との再会が八年ぶりなことが、心臓の鼓動を早める主な原因だった。
「おまたせ、待った?」
携帯をしまおうとしたその時、向こうから聞きなれた声が聞こえる。思わず、目でその姿を探そうとして、瞬間、前のめり過ぎる自分に嫌気がさして、一度だけ目を伏せる。開くと、そこには。
「いや、さっき来た。寒くないか?」
「ちょっと走っちゃったから、大丈夫」
昔の同級生の、変わらない笑顔。八の字眉で、ぎこちなく笑う彼女は、腕にかけていた黒のコートを羽織る。
「今日はちょっと冷えるよね……ここからどれくらい?」
「三分は歩く」
「ん、分かった」
梅田のコンコースを並んで歩く。革靴の踵の音と、ヒールの音が交互にかつかつと鳴る。少し冷たい風が顔を引き締める。思わず目を閉じる。
久々に会ったのに、この距離感。頭の中に少しずつ浮かび上がる昔の光景。高校生の時の彼女の姿が微笑みかけてくる。あの頃、こんな日が来るなんて思っていただろうか。閉じた視界に浮かぶ世界に思わず浸りそうになる。
「高校以来だよね、太田と二人でご飯なんて」
「北野と同じクラスだったあの年から、もう五年か」
「早いよねー……」
記憶の視界を振り払い、目を開いて隣を見ると、遠い先を見ている彼女の瞳が、電飾の光を反射していた。寒くて澄んだ空気を通して真っすぐ見据えるその先には、何が映っているのか、分からないけれど。純粋に楽しいと言いたげな視線を、どこか羨ましいと思う自分がいる。
短い彼女の後ろ髪が少し揺れた。その毛先を目で追ってしまう。
「で? 今日は何かあったの?」
「いや……特にないが、田中と話してたら、職場近いって聞いたから。一人で飯、なんか嫌だなと」
「なるほど」
こっちを向こうとする彼女から顔を背け、なるべく心が読まれないようにする。真っすぐな知的好奇心で尋ねてくるその言葉とは裏腹に、自分の心のやましさを自覚してしまうから。遠いところを見るふりをして、そう見えているだろうかと心配な表情すら、内へ隠す。
「あら、おしゃれなところ」
「おすすめされたんでな」
「田中に?」
「田中に」
「気が利くね、彼も」
予約の太田です、と伝えると、奥の席へ案内される。少し背伸びした気分で、彼女の前を歩く。洋風な店内の装飾は少し薄暗く、席に着くとテーブルのライトが温かい。コートを脱いでハンガーにかける。
「預かろうか?」
「ん、ありがとう」
コートをかけてから座るタイミングで、同い年ぐらいの若いウェイターが来てメニューを手渡してから、水のコップを丁寧にテーブルに置いた。斜め前に座る彼女がメニューを受け取ってから座る。
「ごゆっくりどうぞ」
その若いウェイターに笑顔で軽い会釈をする彼女。メニューへ向き直ると同時に髪を耳にかける些細な仕草に、席に座ることも忘れて見とれてしまいそうになる。はっとして、席に着く。こんなミスばかりで、先が思いやられる。自分に自信がなくてどうする。そんな言葉が頭を反芻する。
「何? どうしたの?」
彼女の声で現実に呼び戻される。今はとりあえずメニューを決めねばと首を少し振る。
「ん? ああ、別に……北野は決まった?」
「うん。オムライスにしようかなって。太田は?」
「俺は……ハンバーグにでもしようかな。呼んでいいか?」
「うん、お願い」
「すいません」
そこに通りすがった、今度は壮年のウェイターに声をかける。メニューを伝えると、整った礼をして去っていく。コップの水を一口飲む。喉が少し乾く。手を机の上で組んでみる。落ち着かない。閉じる際にメニューの値段を見て、ちょっとたじろぐ。普段なら絶対に頼まない値段。何故こういう時に限って普段と違うことをしたがるのか。自分の中のくだらない見栄がちらついて、自己嫌悪しそうになる。
「なんか落ち着かないね」
「あ、なんか変だったか?」
「あ、いや、ううん。あんまりこういうところ慣れてないだけ」
「そうか。俺も慣れてるとは言えないが」
「だよね」
対して、彼女は自然体だ。ハの字で笑うその顔に、緊張こそあれど不安は見えない。でも、とにかく今の自分の緊張をほぐさねば。
「……最近どうだ? 就きたいところ行ったんだって?」
「露骨な世間話だぁ……まぁ、うん、そう。大阪支社勤めになれたのも、地元離れなくていいから嬉しい」
そんな自分勝手な気持ちから出た話題にも、気取らずに対応してくれる彼女。ふふ、と笑いながらお冷を口にする。合わせてひとくち。雰囲気に流されそうになるのを踏ん張る。
「確かに、じゃなきゃここで会うなんてできないしな」
「そ。ここって決めてたところに入れたからまずは一安心」
「で、結局今何の仕事してるんだ?」
「商社の営業。いずれは会計も学びたい。……太田は? 大学、いいところ出たんでしょ?」
「そんな大したことない。普通の大学出て、今は作家の編集やってる」
「作家の編集? 小説とか?」
「漫画だよ。まだまだひよっこだけど」
「へぇ。もう本出てるの?」
「出てるよ。先輩の業務引き継いだだけだから、これまで出してた人だし、俺に代わってからも、三冊は出してる」
「すごいじゃん。出たらまた教えてよ。今度は買う」
「お待たせしました」
少し緊張と寒さがほどけてきたところで、先ほどの壮年のウェイターが、二人分の料理を持ってきた。ハンバーグとオムライスが並べられ、湯気がうっすらと視界を覆う。会話が途切れてしまって、次に何を言おうか、何を話そうか、考えていた思考は湯気の白さに塗り替えられてしまう。
「……食べるか」
「そうね」
出てきた言葉にまた自己嫌悪になりそうになって、彼女をちらりと見る。視線が合う。腹の虫が少しうるさくなってきたと感じたのは、お互いだったらしい。少し薄暗い部屋の中、銀食器のあたる音が響く。
彼女の小さい口に運ばれるオムライスをただ見つめてしまいそうになり、慌てて自分のハンバーグを食べるも、食事の味が分からない。
「何かついてる?」
「え?」
我に返る。スプーンを持ち上げて、ほんのり紅く、小さく薄い唇へ運ぶその前で、こちらを見て尋ねる彼女に目を奪われていた。
「いや、ずっと見てるから」
「いや……美味しそうだなと」
「食べる?」
「いいのか?」
「ん、いいよ」
皿を向けられる。思わず、彼女のスプーンが向けられるのか、とやましい期待と緊張がよぎったが、気づかれないように小さく息を吐いて切り替える。新品のスプーンをとって、ひとくち。デミグラスのうまみが口いっぱいに広がる。
「美味しいよね」
「確かに。うまい。今度は俺も頼もう」
「ん、そうして」
得意げに笑う彼女にまた視線を奪われ、そのことに気づいて、さっと視線を皿へ戻した。今度こそ静かに食事を運ぶ。乾く喉を振り切るように、ハンバーグと白飯をかきこんだ。ソースまで綺麗に白飯で取り切って、フォークを置いた時、息がふっと漏れる。
「美味しかったね」
「そうだな」
もう何度目かも分からないが、なるべく自然に言葉を紡ぐ。まるで、今こうして目の前に対峙しながら彼女ばかり見ている自分は嘘であるように、彼女の中の「太田」を演じる。普段とは違う自分になっているのは分かっている。だけど、今それを自分から露呈させるわけにはいかない。そんなちっぽけなプライドさえ守れない自分とは、思いたくない。その思いが今の自分を突き動かしていた。
「で?」
「ん?」
彼女の声に一瞬思考が止まる。視線を彼女へ向けると、火花が散る音が鳴ったように、視線が合う。思わず身構える。
「今日はどういう用事なの?」
「……それはさっき言ったが?」
それを伝えるのは、こんな形じゃなくて。彼女が気付くのは予定外で。
「それだけじゃないんでしょ?」
「はは……なかなか鋭いな」
だけど、ここまで言われては、プランBに切り替えるしかない。
「で、どうしたの? 相談ぐらいなら乗るけど」
机の上で指を組む彼女は、慈愛に満ちた顔でこちらへ微笑んでいる。この場に持ってきたのは自分であるはずなのに。この話を持ってきたのも、こうして会うことを決めたのも、自分だったはずなのに。色んな自責の感情を抑え込んで、息をのむ。ここで言わなきゃ、背中を押してくれた田中に示しがつかない。反射的に後頭部へ伸びた右手を下しながら、覚悟を決める。
「……北野ってさ」
「うん」
出した息はもう引けない。視線を、泳がないようにおさえつける。この瞬間だけは、彼女の反応の全てを、目に焼き付けておきたくて。
「田中から聞いたんだけどさ」
「うん」
「学生時代、俺のこと好きだった……って本当?」
言葉を発した瞬間、世界が止まったように思えた。
彼女から、笑みが消える。
そして。
「……好きじゃないよ?」
視線が外れる。その言葉とともに笑顔が消える。心臓に痛みが走る。
「あ、そう……」
漏れた声は、息が混じった情けないもので。
「そんな話だったの?」
「え?」
「やだな、そんな話するために、こんなおしゃれなお店?」
取り繕うように、困ったように笑う彼女に、しまった、と思い直すももう遅い。今、自分の言葉が事実でないことを告げられたことより、目の前の彼女を困らせたという事実が、胸を締め付ける。行き場を失った彼女の指先が、髪の先を、整ったネイルでくるくるといじっている。
「……私、帰るね」
再び笑顔が消えたその瞬間、立ち上がる彼女。コートを無造作にハンガーから取ると、椅子を直して歩き出す。その背中は無言だった。慌てて立ちあがるも、彼女の背中は、ふり絞った声に応えないで遠のいていく。こんな時、なんて言えたらいいのだろう。そんなことが頭によぎるほど、どこか冷静な自分も居た。
だけど。
「待ってくれ!」
急いで会計だけ済ませて、店員に頭を下げてから、見えなくなりそうな背中を追う。冷汗が額を伝うのを感じて、
「ちょ、ちょっと待てって」
早歩きでつかつかと音を立てて人込みをかき分けていく。反射的に出る声も、彼女には届かない。それを、這い上がるような足取りで追う自分の情けなさが心臓に突き刺さる。どうしたらよかったのか、どうすればいいのか。今この時、反省会なんて意味もないのに、頭の中で繰り広げられる。
駅の改札への交差点は、もうすっかり車だけの世界で、横断歩道には彼女の背中がぽつりとあるだけだった。人込みを抜けた先、やっと息ができると吸い込んだその世界に浮かぶ彼女の背中を、じっと見つめて、足取りを整えて、手を伸ばす。
「待てって」
「待たないよ」
伸ばした手を躱されて、信号が青に変わる。
でも、今、今、言わなきゃ。一歩ずつではなく、何歩でも、前へ。
「結菜!」
今度こそ、その右手をつかんだ。彼女の踏み出した足が、戻る。
呼びなれない下の名前を発音した口元が、熱を帯びる。顔まで熱を帯びてくる。震えは止まっていた。
「どう思ってるか知らないけど……好きか嫌いかなんて分からないけど」
一度息を出し切る。白い息が彼女と俺を包んで、もう一度冷たい空気を吸い込んで。
「俺は、ずっと好きだったんだ」
瞬間、世界からこの手のぬくもり以外が消えたような気がした。
車の音も、信号の音も、雑踏すらも、消えてなくなったような。
次に聞こえる音は、彼女の声だと言わんばかりの、静寂。
「……最初から、そう言えばいいのに」
振り向いた彼女は満面の笑みで。あは、と笑って白い息がこぼれて。時間が戻ってきたように、梅田駅の喧騒が耳に飛び込んでくる。繋いだ手は、離さないままで。
「やっと、言ってくれたんだ」
他の誰にも聞こえない声で、結菜は、確かにそう言った。
二つの白い息は、やっと重なる。
澄み切ったこの想いだけを抱いて。