物にこもる魂を、魂が映す陽炎を、陽炎が成す親友を。
立ち止まった夏の日、僕は、今。
*
著者、yukigaがweb文芸誌「アカシアの箱」の5号誌に寄稿していた作品です。
大学の課題としても提出した作品ですので、誤字や誤表現等あるかと思いますが、その際は誤字報告からご指摘よろしくお願いします。
牛乳を注いだマグカップを持ち上げて、そのままテレビの電源を入れた。今日もいつも通りの朝が始まる。いつものニュースキャスターの声に、いつも通りのニュースたち。事件、事故、芸能人の不倫。つまらないことだらけのニュースは、BGMとしてはちょうどよかった。がやがやと流れる騒音程度のものだ。牛乳を一口飲んでマグカップを置くと、同時にトースターのパンが焼き終わった音が軽快に響いた。
サクサクとパンをかじり、当たり障りない言葉ばかりを話す出演者を見ながら、世界は今日も平常運転だと思う。最近では災害が起きても学校や会社に来い、などという意味不明な団体が増えたらしく、この世界は何が起ころうと平常運転なのではないかと思ってしまう。まぁ、僕にとってもそんなことはどうでもよくて、ただ当たり障りない毎日をすごすだけだ。昼になれば太陽が昇って、この季節特有の強い日差しが地表と人々を焼くだろうし、夜になれば蒸し暑さと疲れで、何かをするやる気すら削がれる。そうして毎日ぐだぐだと過ごすだけだ。大人も、子供も、皆。
ただ、今日だけは違う。僕にとって重大な日だ。
「なぁ、まだ準備できねえのか?」
「ごめんごめん。松葉はもう準備できたの?」
「とっくに終わってんよ。早く行こうぜ」
僕は今日を特別な日にするんだ。
*
松葉と一緒に外に出た。空に雲は重く横たわっていて、今にも空が落ちそうだった。そんな中で、隣の松葉は今にもスキップしそうな程気分がよさそうだった。
「今日はどんなの釣れるかなー」
「そんなに楽しみ?」
「ああ、お前と釣りできるのはやっぱり楽しみだ」
住宅街を抜けて向かう先は、近所の川だった。前々からこの日に行こうと決めていたが、まさかこんな天気になるとは思わなかった。途中で雨なんて降りだしたら気分は滅入るし、何より蒸し暑さが夜よりも先に来て、全てのやる気を失ってしまう。今日という一日を無駄に過ごすのだけは、避けたかった。毎日のように過ごしているどうでもいい一日ではなく、今日という日だけは。
「忘れ物してないよな?」
「うん、ちゃんと全部あるよ」
「にしてはお前、いつも軽装備だよなぁ」
「折り畳み式なんだよ」
「へぇ、最近ってそんなのあるのか」
大きな釣竿をケースに入れて背負っている松葉と違って、僕はポーチ一つで出てきた。重い装備は昔から好きではなかった。小学生の時に初めて松葉と松葉の親とうちの親と釣りに行った時、あの重い竿のケースを持たされて泣きそうになったのは、ずっと記憶にある。忘れられるはずもない。というのも、彼がことあるごとにその話を持ち出して、思い出に浸ろうとするのが主な原因である。何度も何度も聞かされている身としては、早く忘れてほしいものだと切に願っているのだが、それは叶いそうにない。
生まれてから二十年、ずっと住んでいるこの住宅街は、坂道こそ少ないものの細い道が多かった。しかし大きな荷物を持っているのに関わらず、松葉はそんな細い道を通りたがる。竿を家の窓に何度も当てて怒られているというのに、彼は変わらない。今日もまたいつものように狭い道を通る。言っても聞かないので、僕も松葉の竿を見つめながらその後についていく。
昔ながらの瓦屋根の家々を潜り抜けると、住宅地同士を結ぶ国道に出た。少し大きな交差点の横断歩道では、いつも長い信号に待たされる。松葉はこれが心底嫌いだった。
「ったく、なんでここは毎度こんなになげぇんだよ。イライラする」
「仕方ないよ、国道を跨いでるんだから」
「国道が何だってんだ。もっと住人に使いやすいようにしやがれ」
高校時代、この横断歩道に遮られ、寸でのところでバスを逃したことは少なくない。僕もだけど、松葉は特にそれで遅刻が多かった。この光景を見ると、朝練に遅れた松葉がよく顧問にどやされていたのを思い出す。
「何笑ってんだよ」
「いや、松葉が前川先生に怒られていたのを思い出しただけだよ」
「はぁ、せっかく釣りに行くってのに気分を重くさせんなよな。……あの婆さん、まだ生きってっかな」
「この前見に行ったら元気そうだったよ」
「へぇ、後輩たちも可哀想なもんだ」
松葉が少し笑って、そして軽く舌打ちをして、瞬間、信号が変わった。松葉は僕を見ることなく、前へ歩を進めた。その右斜め後ろを、僕は追いかけた。
*
交差点を過ぎたところにある狭い道を潜り抜けると視界が一気に開けて、そこに大きな山と川が現れる。天気が晴れていれば手持ちの携帯で写真を一枚とっておきたくなるが、今日の気分とこの天気ではそんな感情すら起きない。せせらぐ川の音とそよぐ風の音が、この一帯の時間をゆっくりと流していく。
「ふぃー! やっぱ心地いいなぁここは」
「そうだね」
「早速向こうに罠仕掛けてくる。お前はこっちの用意頼んだ」
「分かった」
松葉は一度うんと背伸びをすると、そのまま大きなクーラーボックスとレジャーバッグを持って上流の方へ駆けだしていった。置いて行かれた僕は、それを横目で見送った後で川の淵に腰かけた。
川下の方へ風が揺蕩う。木々が揺れて、森が囁く。雲の間から垣間見える夏の日差しが、浅い川の底を照らしていた。魚は多そうだった。心地よさげに泳ぐ川魚たちと、夏を知らせる蝉が鳴いている。こうしていると、やはり松葉との幼き日を思い出してしまう。彼がことあるごとに昔話を引き出す性格だからだろう。夏という季節はそれだけで思い出になりそうだった。何でもない一日がそうやって特別な一日へと勝手に昇華して、何も考えずに過ごしていた毎日が途端に大事な毎日に変わってしまう。無為に過ごすと、それこそ本当に取り戻せない、思い出の夏の日。同じ日をもう一度過ごすことなんて、やはりできない。そんなことを思うと、僕は夏という季節が少し苦手だった。
持ってきていたポーチを開く。そこに釣り道具は入ってなかった。入れてくるつもりもなかった。いつも釣りの時に使うポーチに、たった一冊のノートだけ。こんなことを何回も繰り返すあたり、僕はまだまだ過去というものに執着しているし、何でもない一日を過ごすという自分の考えに沿って生きることができてないと思う。だけど、仕方がなかった。
ノートをポーチから取り出して開いた。大学一回の九月から使っているこのノートは、僕の日記だった。何でもない日を、意味のある一日にするツール。ありふれた一日ではなく、特別な一日の数々が書き綴られている。去年の僕は、毎日を記すことで現実に夢を見ていた。腐るほど持て余した時間など存在せず、ゆっくりと過ぎていく濃密で特別な時間だけが存在し、そして、僕はその中に生きていると。表紙をめくり、そして次のページをめくると、そのまま夏の風がめくり続けた。そよぐ風は止まるべき時を知っている。風は、ページを今年の三月で止めた。
三月九日。唐突に連絡が来た。朝、眠いながらに携帯を開くと見慣れない「松葉」の文字があって驚いた。久々に釣りに行こう、と書いてあった。どこへ? と聞くと、いつもの、と返って来た。そういう会話をしていると、なんだか心がくすぐったかった。大学ではそんな会話をする相手もいないし、話していて安心する相手も少ない。携帯の画面越しだけど、松葉と話すのは安心する。僕たちはいつも二人で過ごしていたんだから。釣りに行くのは三月の三十一日に決まった。僕も楽しみである。
三月十日。そういえば、十日の読み仮名は「とうか」ではなく「とおか」だと知った。携帯の変換で出なかった。機械に知識の盲点を突かれたようで、少しびっくりした。日常というのは思い込みがはびこっているものだと痛感する。そういえば、昨日の松葉は最近面白いことがないと言っていた。釣りに行くのがその気持ちを払拭してくれることを切に願っている。奇遇だけど、僕も同じことを考えていたから。春休みの間は本当にすることがない。家でゲームを少ししたり、大学の友達と電話したり、家でぐうたら寝ているだけだ。メリハリのない毎日はそろそろ懲り懲りだ。だからといって、忙しすぎる毎日はちょっと勘弁してほしいけど。
三月十五日。ここ最近続いた土砂降りの雨のせいで気が滅入っていたら、この日記を開くのさえ忘れていた。日課にしようと思うと上手くいかない。書きたいことがあると自然と開くのに。人間の頭ってやはり不思議だ。というのも、松葉が――
「おーい、仕掛けて来たぞ」
「お疲れさま」
「あれ、竿出してねえじゃん」
「あ、ごめん、ちょっと風に当たっててね」
「気分でも悪いのか?」
「いや、大丈夫。ちょっとすっきりしたよ」
松葉が大きく手を振って走って来たので、急いでポーチに仕舞った。松葉は帰って来たその足でクーラーボックスと竿のケースに駆け寄った。そのまま竿を仕掛けて、持ってきていたベンチに座る。僕は立ったまま、少し風を浴びる。やはり、ここで日記を開くのには勇気が要る。
「今日は天気があんまよくねえけど、ちゃんと釣れっかなー」
「大丈夫だよ。さっき雲の間から日が差してたし、魚は結構いるみたい」
「なら安心だな」
釣りというのは、魚が引っかかるまでは基本暇である。暇って言い方はあまりよくないかもしれないけど、とにかくすることがない。じっと待つ。大自然って言うほどの自然ではない、里山のような場所で、大きく深呼吸して獲物を待つ。松葉はここで本を読むのが昔から好きだった。
松葉が読むのはレジャーブックではなく、小説が多かった。時々エッセイも読んでいたっけ。近代の文豪たちの作品を五冊ぐらい、餌にするのと同じようにチャック付きのビニール袋に小分けして入れて、クーラーボックスに詰めてくる。手荷物をクーラーボックス一つにまとめつつ、濡れないようにしたいらしい。こんなところに頭を使うのも松葉らしかった。アウトドア用の折り畳み椅子に座って、今日もまたいつものように本を読んでいる。
「今日は何読んでるの?」
「漱石の『こころ』」
「あれ、前も読んでなかったっけ」
「そうだっけ。まぁ、別にこれを選んだ意味なんてなくて、ただ読みたかっただけなんだがな」
「そっか」
顔を向けることなく、松葉はページをめくりながら返事をする。本の世界に入っているようなので、そっとしておこう。邪魔をすると、後からいろいろと小言を言われるのは目に見えている。
「ちょっと上流の方へ散歩に行ってくるよ」
「分かった。だけど雨降ると危ねえから、早く帰って来いよ」
「うん、分かった」
立っていた僕は松葉に首を向けずに返事をして、そのまま上流へ歩き出した。松葉がこうやって心配してくれるのは、きっと昔のことが原因だと思った。
昔……中学二年のころだったか、いつものように松葉と釣りに来た時のことだった。からっと晴れていていい釣り日和だった。その日もいつものように二人で竿を仕掛けて、そして二人で罠を仕掛けた。獲物がかかるのを楽しみにして、松葉は読書、僕はぼうっと空を眺めていた。しかし時間が過ぎるにつれて暑さが増してきたせいか体が疲れてきて、僕はそのまま椅子で寝てしまった。だから気づかなかった。黒い雲が空一帯を覆っていて、途端に雨が降り始めた。松葉は急いで本をしまうと、そのまま竿を片づけ始めて、「お前は罠の撤収を頼む」と言った。僕は急いで上流の方に走って罠を外そうとしたが、かけていた場所に罠が見当たらない。雨がどんどん降ってきて、川の水が増した。流されたのだと思い、必死に探していると、瞬間、鉄砲水のようにいきなり水流が僕をのみ込んで、そのまま下流へ流されてしまった。かなり激しかったが通り雨だったらしく、意識を失った僕を松葉が下流で引き上げてくれたらしい。それ以来、松葉は一人で上流に罠を仕掛けに行くようになったし、僕が上流に行く時は必ず早く帰って来いと言うようになった。
昔話に浸っていると、いつも罠を仕掛けるポイントが見えてきた。魚たちが隠れる川べりに張った小さな罠を仕掛けるのが僕ら流だった。久しくこの場所に来ることはなかったので、やはりそのことを思い出してしまう。この場所は松葉との思い出の一つなのだと、改めて感じる。しかし止まることなく、僕はさらに上流へと歩を進めた。
里山の中へ入っていく。緑が生い茂って、蝉が鳴き、雲と葉の間から太陽が垣間見える。よく見た夏の里山だった。川沿いの砂利道は、手入れされていない木々に押されて狭くなっていく。確か、ここで松葉が竿の糸を引っ掛けて大泣きしたんだっけ。
小学五年ぐらいの時、いつものポイントで待てど暮らせど釣れないことがあった。罠も全然かからないし、魚はいるのにまったく釣れない。しびれを切らした松葉が「上の方で釣ってやる」と意気込んで、いつもの竿を担いで上流の方へ駆けあがっていった。なんだか不安に思えて追いかけると、小枝と小枝の間に釣り糸が絡まって動けない松葉が、この近くに座っていた。いろいろ動かしてみたものの、余計に絡まっている気がして、だけど助けを呼びに行くのも格好悪くてできない。そんなことを呟いていた気がする。いつもの威勢のいい松葉じゃなかったので僕も慌てて解こうとしたものの、それがびくともしない。数十分格闘した末、やはり駄目だと二人して座り込んだ。でも時間が解決してくれる訳でもなかったので、やがて太陽がくれてきて、すると松葉が泣き始めた。亡くなったおじいさんから譲ってもらったばかりという釣竿を、壊してしまったと思ったらしい。今となっては笑い話だけど、当時はつられて僕もぐずった。このままこの場所を離れるわけにも行かず、だけど門限が近づいていて、親に怒られるのが目に見えて怖くなったのだった。
「あの時は、親が来てくれたんだっけ」
僕は蝉の鳴き声に包まれたこの場所でひとりごちた。あの頃のことが、まるで昨日のことのように思い出せるこの場所は、思い出の場所と言って差し支えないだろう。少し日が照りだした。木漏れ日が差し込んで、木の根を照らした。まるであの頃の松葉が、そこにいるような気さえした。
暑い。真夏の気温が山を包んでいる。顔からしょっぱい液が流れ出す。
もう少し進もうと思ったけど、さすがの暑さに体が持たない。坂道が急勾配になり始めたので、さっきの木陰に戻る。松葉があの時座り込んでいた場所に、同じように座った。座った拍子にポーチの中が揺れる。……今日の目的である日記が、そこにある。今日ここに来た、釣りに来た目的。
僕は、また日記を開く。
三月二十日。久々に家の周りを散歩した。春がそこらにあった。桜の蕾、中学校の卒業式、だがしかし、花粉。どうしてこう、幸せなものばかりの春にこの厄介者は現れるのか。僕は心底辛い。そういえば松葉も杉の花粉が駄目だと言ってたっけ。一番飛ぶ時期に里山で釣りなんて大丈夫なのか。また聞いておこう。
三月二十一日。松葉は平気だと言っていた。なんでも、薬で事前に抑えるものがあるらしい。最近の医療はすごい。僕もそれを知っていれば今頃散歩にも行けたのに、なんて言うと、松葉は鼻息をふん、と鳴らしてざまぁねぇな、って返してきた。画面上のやり取りなので、鼻息を、っていうのは完全に僕による音からの推測だけど、きっとそうしているに違いない。今日は比較的暖かかった。チューリップは十五度を超えると開花するらしく、今日は今年初めての開花日になったらしい。三十一日もこれくらい晴れてくれるといいな。
三月二十五日。大学の友達にいきなり仕事を頼まれて、かなり忙しかった。この四日間、本当に何もできていなかった。だいたい、サークルの新歓のビラづくりをやれなんて、僕には全く無関係だ。……しかし、前に貸しを作っていた友人だったから、断るにも断れなかった。仕方ない。今日が木曜日だから、土日は釣りの準備に使おう。直前になるけど、下見にも行こう。僕たちが使っていた川は、あまり人が釣りに来る川ではないから問題ないだろうけど、念のため。
僕は一度日記を閉じた。この先はここで読むべきではない。一度だけ、大きく深呼吸をする。これから先の話を、僕は思い出さなきゃいけない。思い出す義務がある。そして、これを、思い出として僕の中に残すべきなんだ。日記をポーチへ仕舞い、立ち上がった。暑さにも慣れてきて、風と木陰に癒された僕の体はまだ先へ行けると教えてくれる。先へ進もう。
*
急勾配の坂を上ってさらに奥へ進む。里山を越えるにはこの一本の道しかなく、階段もなければ街灯もない。夜になると使えなくなるこの道は、その性質上人が通らない。僕らはそれを小さいころから知っていた。車が通るには獣道すぎるが、僕らの足なら問題なかった。松葉はクーラーボックスと竿を担いでよく走り回っていたっけ。そんな風景も、真夏の陽炎が揺らして視界から消す。あの日ももう思い出かと感じた。その感覚はどんどん僕の足を重くしていくような気がした。次第に感覚全てがゆっくりと鈍くなっていく。蝉の鳴き声は如何せんずっと聞こえているのに、僕の耳にはそれがまるで何も聞こえないかのように静かに感じられた。昨日までの僕なら、ここで引き返すだろう。だけど、今日は前へ進む。その為に来た。下流で呑気に釣りをしている松葉を思うと、また陽炎が揺らめく。僕は振り払って奥へ進んだ。
里山を登り切り、いよいよ頂上というところまで来た。僕は立ち止まった。ここが、川の源。右手に見える大きな森のゲートが、そこに佇んでいた。いくら照り付けようと太陽の光を受け付けないほど、密集した木々に包まれている。息をのむ。覚悟は、できている。右足を一歩踏み出した。
森の奥へ入っていく。小道を、ゆっくりと踏みしめる。鬱葱とした木々たちを押しのけて小道を抜けると、そこは泉のような場所だった。湧き出ている場所だけが林冠になっていて、太陽の光が差し込でいる。神秘的で、まるでゲームの世界にあるようだと、昔松葉に言った記憶が蘇った。水辺に近づくと、まだ汚れを知らない透き通った水が湧き出ていた。まだ太陽に照らされていない、冷たく、不純物がない水。暑さと陽炎が張り付いた顔を、水で流す。視界が開ける。木々の中で、蝉に囲まれた中で、太陽が照らす輝きの中で、僕はまた、ポーチを開く。
これが、最後だ。
三月二十九日。今日は久々に釣り道具屋へ行った。一年も使ってなかったせいか、ルアーが少し錆びていたので取り替えた。糸も絡まっていたので切ったら長さが足りず、同時に取り換えた。仕事がないと、家では暇だ。暇というのはしばしば悪い意味で使われるけど、僕はちっともそうは思わない。予定が決まっていて、それまでを待つ時間というのはこれほどまでに楽しい。松葉は下宿生で今は東京にいるらしいが、明後日の夜には帰ってくるそうだ。長旅の次の日だから疲れていないか心配だが、松葉なら大丈夫だろう。いつものあのパワーできっと僕よりもはしゃいでいるに違いない。
三月三十日。なんだか、こういう気持ちをちゃんと記しておきたくなった。やっぱり松葉は僕の一番の親友だと思う。幼いころから仲が良くて、いつも二人でいろんなことをした。高校時代、体育会系の部活に入ることもできた松葉が、僕の部活に入ってくれた時は心底嬉しかった。クラスが同じになった時はもっと嬉しかった。テストが終われば毎回のように釣りに行って、一緒に川魚を釣り上げた。そんなことができるのは、きっと僕の知り合いの中では、松葉だけだ。こんなこと、言えないだろうから、こんなところに書く。死んでもこの日記は松葉には見せたくないなと思う。こういうのは両親と、それから将来してるか分からないけど、結婚した人生の伴侶に、死んだ時に見つかればいい。こんなものを書くのは、僕のエゴだから。僕が勝手に思ったことを勝手に書いて、そして、毎日がつまらなくないという証明をし続けているに過ぎない。これは、僕が墓場まで持って行って、そこで手放そう。
風が止まる。ページをめくらなくなる。日記はそこで止まった。
ここから先は、僕が自分の力でめくらなきゃいけない。
運命を受け入れるために。松葉のために。
こんなことをしても、誰も喜ばないかもしれない。
だけど、松葉だけは、きっと、喜んで泣いてくれるから。
四月一日。あれはエイプリルフールではないらしい。
四月二日。紡ぐ言葉が見つからない。
四月三日。とりあえず日付だけは書いておく。文字を書く気にならない。
四月八日。日付さえ書くことを忘れていた。大学の授業が始まる。
四月九日。僕はやっとベッドから起き上がった。携帯にはもうあの文字はなかった。松葉は、いなくなった。死んでしまった。あの日、急に降り出した雨に流された。僕は、昔松葉が助けてくれたように、松葉を助けることはできなかった。やっぱり上流には僕が行くべきだったんだ。慣れた場所だからと油断していたのが駄目だったんだ。天気予報を信じて雨が降ることを考えていなかったのが駄目だったんだ。松葉は、もういない。松葉は、死んだ。あの日、僕の家に来た松葉の笑顔が忘れられない。親に聞いても、誰に聞いても、彼は死んだとしか言われない。あり得ない。僕よりも先に松葉が死ぬなんて。僕よりも前向きで、社会的で、誰よりも強く賢かった松葉が、何故、僕より先に死んでしまったんだ。僕らはただ、あの日のように、あの日々のように、また二人で釣りがしたかっただけだったのに。何故僕には、巻き戻してやり直す時間がないんだ。何故僕には、松葉を救う手を伸ばせなかったんだ。あの大雨の中で、松葉ならきっと、僕を助ける手を伸ばしたはずだ。何故、僕は松葉へ手が伸びなかったんだ。誰よりも大切な、誰よりも僕の親友だった松葉が、松葉が、何故。どうして。書き綴れば綴るほど、僕の言葉が乱雑になってる。涙が止まらない。昨日まで死んだように眠っていたけど、目覚めるとこんなにも辛い。でも、これも、僕の特別な一日だから、頑張って記す。ごめんよ、松葉。松葉、ごめん。君のことを忘れたくない。だから、これに記す。君と過ごした時間を忘れないために。あの日の僕が、君を救えなかったことを忘れないために。
四月二十日。病院から退院して家に帰って来たので、久々に日記を開いた。でも、このページより前は、何故か開けない。物理的に開けないんじゃなくて、僕の頭が開くなと言う。その声を振り払ってページをめくろうとしたけど、途端に指が重くなったので今日は諦める。医者は僕に何もない、大丈夫だと言った。今はその言葉を信じよう。
四月二十一日。松葉がやってきた。大学の授業の一環で実習地をこっちに選んだらしい。実家に相談したら昔使っていた部屋が既に使われているらしく、それなら一人暮らし中の僕の家に、ということらしい。両親がちょうど単身赴任で二人ともいなかったので、僕としてもよかった。一人寂しい家にいるのは、病院にいるより気が滅入りそうだったから。松葉との毎日は、きっと楽しい。朝からそんな嬉しいことがあったので、今日は大学の授業をサボった。
五月四日。松葉と釣りに行った。僕も釣竿を担いだ。釣りに行くのが久々だったのもあって、張り切って準備してしまった。朝五時に起きて、二人でクーラーボックスを準備して、餌をいっぱい詰めて、川へ繰り出した。この日は綺麗に晴れていて雲一つない空だった。気持ちよく釣りをした。たくさん釣れた。この日の夕飯はその魚たちになった。だけど、昔から魚が好きな松葉は、何故か食べなかった。今日は飯いいよ、って言ってそのまま外へ出ていった。帰って来た松葉に聞くと、コンビニでご飯を済ませたらしい。変な松葉だと思いながら、僕は明日以降のご飯にどう使おうかを考えている。やっぱり塩焼きがいいかな。変に味をつけると、味が落ちる気がする。松葉にも相談してみよう。
六月二十日。雨が強くなりだした。梅雨の時期は気分が滅入るから本当に嫌だ。松葉もなんだか元気がなさそうにしてる。僕が大学から帰ってくると、松葉は最近調子悪いんだ、と言っていた。季節の変わり目なので風邪になりやすい。気を付けてもらわないと。僕も松葉も、元気が一番だ。
七月十二日。今日も松葉は釣りへ行こうと言い出した。休みになれば毎日のように行っている気がする。最近松葉はちっとも釣れない。僕ばかりが釣っている。昔は逆だったのに、なんだか面白くなかった。こういうのはやはり競い合う相手と切迫しているから面白いのであって、あまりにも相手がゼロに近いと張り合いがない。今日も僕が釣った魚を食べた。松葉は食べなかった。
七月三十日。最近松葉との話ばかり書いている気がする。僕だって大学に行っているのに、その話を書く気になれない。何故だろう。昔は書いていた気がするのに。松葉も、自分の実習先の話なんてしない。そして、あまりにも期間が長い。こんなに長い実習って、松葉は何の実習なんだろうか。そして僕に大学の話を聞いてこない。松葉は意図的に避けているのかもしれない。そっとしておこう。最近、ゲームをする時間が減った。だけど、こうして毎日話す相手がいるのは、ゲームをするよりも喜ばしいことだ。
八月四日。松葉の様子がおかしい。釣りに行こうと誘うくせに、僕がちょっと電話に出ていたりすると、勝手に準備を済ませて行ってしまう。僕が荷物を持たずに家を出たら、松葉がフル装備で重そうに歩いていた。持とうか? と聞くと、いやいい、と言われる。結局僕はその日、釣り道具に触れないまま釣りを終えた。なんだか変な気分だった。
八月二十五日。意を決して、前のページを開いた。やっぱりそうだ。松葉は、いないんだ。今リビングで鼻歌を歌っている松葉は、もういない。やっぱりそうだったんだ。魚を食べない松葉もおかしい。釣りの話ばかりする松葉もおかしい。松葉はいつも魚をおいしそうにかぶりついて食べるし、いつも大学でのサークルの話と釣りの話を混ぜて話す。釣りにしか目がないのは、松葉じゃない。これは、幻影だ。松葉に見られないように、今度からはポーチに仕舞おう。
*
風が一度吹いた。山の中には、僕と、水と、風と、太陽と、木しかない。僕は、この場所にこれを捨てに来た。一緒にいた松葉はただの幻覚にすぎない。そう、幻。僕が過ごしたかった日々が綴られていて、それが結局足かせになっていただけなんだろうな。意を決して開いたページには、涙が滲んでいて、思わず今またシミを増やすところだったが、なんとか耐えた。僕は、前へ進まなきゃいけない。こんな幻影と戯れていても、きっと松葉は喜ばない。
「やっと、僕は捨てるんだ」
声に出すと、途端に喪失感が全身を揺さぶる。それを上書きするように、次の声が喉まで上がってくる。
「僕は、特別な毎日を捨てて、思い出にして、何でもない一日を生きようと思う」
水辺に跪いた。手帳サイズの日記を、震える両手で握りしめた。
「君は、僕に、特別な毎日をくれた」
三月のページを一枚、ちぎった。
「僕はそれがすごく嬉しかった。楽しかった」
その一枚を、泉へ浮かべる。
「一緒に過ごす日々が、特別に思えた」
また一枚ちぎって、浮かべる。まるで、花占いをする時に花弁をちぎる様に。
「何でもない日なんて、ないと思った」
三月三十日をちぎる。
「でも、君はもういない」
四月は、破る。
「だから僕は、何でもない一日に、また戻ろうと思う」
声に出すと、目頭から陽炎が暑さに耐えかねて零れる。破った四月が滲む。
「こんなものを持っていても、僕は戻れない」
シミがついた四月を、さらに破って、小さくして、その破片を水に流す。
「大事な時間は、記すものじゃない、覚えておくものだよ」
書かれた文字が、水で滲んだ。紙片が透けて、水になって、陽炎のように揺らめいて。
「だから、ちゃんと思い出したかったんだ」
川の流れに乗って、四月は流れていく。そして、見えなくなっていく。もう手に入らない時間、やり直せない時間、手が届かない時間になる。
「僕は生きている限り、思い出す」
最後に、幻影を見つめていた時間をちぎって浮かべる。文字だけが浮いて、揺らめく。
「松葉、またね」
松葉は、彼は、彼の幻影は、陽炎になって消えた。