ゆきますくオリジナル短編集   作:ゆきますく

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醜い右の頬の痣のような傷。私はずっと隠してきた。
誰にでも、一つや二つ、隠したいことがあるように、私は痣を隠してきた。
マスクで覆って、見えなくして、でも痛みによってそこにあることがはっきりと分かる、消えない傷。
ただ私の傷は、一つに収まらなかっただけ、なのかもしれない。


*
大学の課題で書いた作品です。
実在の事件をベースに書くというテーマで書いたものですが、本作品はその事件をベースにした以上の関係はなく、フィクションです。


Masked BorderLine

私は、どうしたかったのだろう。

 

二十九になった時、ああ、もう十年が終わるのかと思った。あんなに濃密だった十代と比べて二十代は本当に薄かったと実感した。誰でもそう思うかもしれない。だけど、自分を隠して、へらへらとこうしてアルバイトで食いつないできただけの私には、それがまるで人生で得られる悟りの全てのように感じた。昔はこんな日々が毎日続くんだろう、と未来を見ていたこの目は、今、こんな十年をあと数回繰り返せば死ぬんだろう、としか見つめられない。真っ暗なこの先を、私はどこを見るでもなく無駄な思慮をするしかできなかった。

 

父も母も兄も、皆地元で頑張っているらしい。兄は父の農業を継ぐつもりらしいし、最近よく携帯で画像が送られてくる。そろそろ米の収穫らしく、稲とともに兄が映った写真がやってきた。兄は昔から何でもよくできるしその上家族思いで、上京して大手のエリート営業マンとして七年も続けたのに、三年前父親が体調を崩したって報告だけでその日限りで会社を辞めて実家に飛んで帰ったらしい。結局ちょっと風邪をこじらせただけだったのだが、兄は放っておけないらしく、父の跡を継ぐと言い出して、今。世間一般は三十路を過ぎて私と同じようなことを悟るのに、兄はこの二十代が一番輝いているようだった。

 

私の周りは、いつもこんな人間ばかりだ。私が世間一般と思っているイメージを平然と裏切ってくる。二十九を祝ってくれると集まった大学時代の友人たちの中に居た智子は、同い年でありながら既に自分で起業して今はコスメの会社の社長。愛実は金融会社に勤める幼馴染と結婚してそれまで勤めていた会社を寿退社。友里はバンドマンの夢を追いかけ続けてるし、静香は大学時代から目指していた教師で毎日大忙し。祝ってくれるとなってスケジュールを合わせる時、一番空きが多かったのは間違いなく私だった。三十路か、なんて呟く友人はいないし、なんなら彼女たちにはその余裕すらない。昔は変わった子だと言われ続け、時には犬みたいな扱いをされてきたのに、今となっては私が一番一般に近くて、一般だと思っていた私の周りの人間は、皆その一般から外れていく。そして私は、一般という名の取り柄のない存在に落ちぶれていったのだ。

 

それでも時間は平等に過ぎていく。バイトで働いていようが、ぼーっと携帯を眺めていようが、買い物をしていようが、一人で帰り道を歩いていようが。残酷だ。私にはもう足掻くだけの時間もないのに、三十路という一つの境界線を越えてしまう。でもそんなこと、生きる上ではあまり意味がなく、そういうのは時々訪れる「大義的に人生を考える時」だけ、意味と価値を持つ。高校時代に仲が良かった男友達がこっそり寄稿していたらしいエッセイでそんなことを語っていた。携帯のSNSの欄の一番上に、そのエッセイのサイトの更新通知が今やってきた。

 

時間が過ぎても変わらないのは私だけだったのかもしれない。相変わらず右の頬にある青黒い痣のような傷は消えないし、マスクを手放すことはできない。鏡に映る醜い私の顔は脳裏にずっと焼き付いて、これからも毎朝更新し続け、そして消えることはないだろう。人間が下衆だといつも思うのは、自分で操作できない顔の出来というのが、人生を大きく左右するという点にある。この傷は物心ついたころにはあった傷で、小学生の時は散々からかわれたし、中学生になるといじめにも遭った。あざおんな、とか、ばけもの、とか、当時流行っていたゲームに出てくる怪物の名前を取って、あおおに、とか呼ばれた。私は逃げた。逃げて県外の高校に進学して、そこでマスクをつけ始めた。その頃から人の前でご飯を食べたりしなくなったし、マスクを手放すことはなくなった。この傷を見るのは、ついに私だけになった。でも、それでも見たくないから、家の中でも外さない。

 

今日買ってきたもやしと茄子を味噌で軽く炒めて、初めて兄が作った米が送られてきたので久々にご飯を炊いた。すると、不思議となんだか全てどうでもよくなる。ご飯の温かさと甘みが、そして茄子ともやしのみずみずしさに味噌が合わさって喉の奥へ溶けていく。正直、人生に張り合いを感じられなくても、大義がなくとも、アルバイトをしているだけの二十九歳には、ご飯が美味しくて、趣味が謳歌できればそれでいい。一次欲求が満たせるという幸せで視界を埋め尽くせば、三十路の境界線なんて見えにくくなるし興味も失せる。でも、そんな単純な私が嫌になる。目の前のご飯程度で私の十年の薄っぺらさを蔑ろにできてしまう程、私は単純で馬鹿で思慮が浅くて、だからこんなに失敗してアルバイトの仕事だけしかできないでいるというのに、何も反省していない。でも、ご飯はおいしい。おいしいご飯の香りはそれだけで頭を湯気で一杯にしてくれるし、エネルギーが入ってきて、夜の趣味の時間を精一杯使ってやろう、という気になる。あの兄が作った米だと思うと、なんだか泣けてくる味でもある。私は一次感情に流されやすいし、それ故に馬鹿だとは分かっていても、理屈抜きで湧き出るこの感動は抑えられない。

 

ワンルームのアパートの台所は立ち飲み屋みたいな雰囲気だと思う。食事を済ませて部屋の中に唯一ある大型のテレビの前に胡坐をかく。座布団と、テレビと、私。クローゼットの中に生活用品の全てを詰め込んで、現実逃避の体制を作り上げる。テレビの電源が入ると、そこにはテレビ番組などといった現実の虚像が映るのではなく、本当の虚像、バーチャルでゲームな世界が広がる。端麗な顔立ちの少年少女たちが私には手に入らなかった美しい青春を謳歌したり、生まれながら選ばれた天才が世界の危機を救ったりする世界が、そこにある。味わえなかったその幸せを疑似体験できる。同じ気持ちになれる。

 

 

いつもはこの幸せを感じながらまどろんでそのまま寝てしまうのに、今日は何故か眠れなかった。

 

 

微塵も眠さが現れない。ゲームとバイトで心身ともに疲労困憊のはずなのに。今日は妙に深く考えすぎただろうか。こんな風に自分を見つめなおしても何も起きないというのに、つい大学時代の癖でそうしてしまう。レポートのネタを探す時はいつもこんな風に自分の身の回りをよく見ていた。いいネタは常に身の回りにある、と教養の授業の先生が言っていたのを思い出す。おかげでレポートだけは真剣に取り組んで、真面目に点数を取っていた。今となってはその癖によっていい結果なんて一つも得られず苦痛でしかないのに、やめられない。

 

考えるのも疲れたしゲームも疲れた。これからの未来なんて明日やそこらで何かが変わる訳でもないし、ゲームはかれこれ五時間近くしているし、これ以上やるのはあまりいいとは思えない。といっても他にすることもないし、明日は昼からの出勤だから朝はゆっくり寝ていられるので早く寝る必要もない。時計は既に一時半を指していた。いつの間にか日付が変わっていたらしい。ちょっと前まで(といっても十年以上前だが)、父親と母親に合わせて私たち兄妹も日付が変わる前に寝るのが当たり前だったのに、今やこれでも眠くないとは、変わってないと言えば嘘になると思った。確かに見た目は変わらないし私は何も変わらなかったけど、確かに生き方は変わったかもしれない。昔ほどエリート思考みたいなものもなく、向上心もない。だからこんな生活なのだと自分を嘲笑してやりたくなるが、そんなことを深夜にすると泣いてしまって、今度こそ本当に眠れなくなる。私はちっぽけで弱い、ということを誰よりも知っているのは、私自身だ。

 

ゲームの音だけが部屋に響く。軽快な日常を示すゆったりとしたBGM。ゲームのシナリオの中の季節は既に三月を迎えており、これからお花見やクラス替えのイベントが発生する。彼らのクラスには、真っ白なマスクを一年中つける、陰湿な女子はいない。目鼻立ちが整った華麗な少女と、すらっとした立ち姿で爽やかな少年ばかり。か弱い人間を板ぶる極悪非道な人間もいないし、桜が舞い散る初々しい教室に全員が背を伸ばして座っている。理想とは常に美しく、輝かしいものだと痛感する。昔は、こういうのを作るプログラマーになりたかったんだっけ。

 

そういえば、まだお風呂には入ってなかったな。まだ二十九なのに、もうすっかり四十代さながら、よいしょと腰を持ち上げて風呂場へ向かう。給湯器の電源を入れて、ユニットバスにシャワーを向けてから水を出す。しばらく出していないと冷水しか出ないので、毎度少し待たされる。そのまま風呂場の扉を閉めて、また部屋に戻ってくる。なんだかまたゲームでもしようかな、という気になってきた。コントローラーを握る。我ながら、本当に気まぐれだと思う。

 

 

でもそうはいかない。

 

 

ぷつんとブレーカーが切れた、らしい。いきなり部屋の明かりが消えた。シャワーの音だけがする。あ、ゲーム、セーブしたっけ……。そんな呑気なことを考えるのも一瞬で、体の内側から得も知れない恐怖が湧いてくる。電気が消えると鏡を見られなくなるし、携帯が手元にないと怖くて仕方がない。もしかしたら自分にしか見えない何かが出てくるかもしれない。ゲームのやりすぎだとは理性で分かってはいるが、自分一人しかいない家で何かが起こっても、誰も助けてくれない恐怖がある。部屋の中に一人座っていたが、このままでは埒が明かないのは分かっているし、体の震えを抑えて手探りで立ち上がる。本当は携帯を持っていきたかったがあいにく場所が分からず、諦める。つかむものは何もない。己の方向感覚だけを信じてなんとか部屋の入口の段差までたどり着き、躓かないようにゆっくりと足を上げる。両手で柱を確認し、力強く掴んだ。一度深呼吸する。シャワーの音はずっとユニットバスから響いてきていて、水のはじける音が余計にその不気味さを掻き立てる。両手で柱をもう一度つかみ直し、そのまま前へ進む。台所の冷蔵庫を左手で確認し、風呂場の入口の扉のざらざらを右手の人差し指で感じる。左足を出して、右足を擦るようにして出す。一歩、二歩、数回繰り返したら靴箱の取っ手が左手にあるのが分かった。ブレーカーはこの上なので靴箱に乗らなければならない。履いていたスリッパを脱いで、右足を靴箱の一段目にかけた。

 

 

だけど、やっぱり、今日はおかしかった。

変だ。シャワーの音しか聞こえないのに嫌な予感が背筋を貫いていた。

左手にある靴箱に上る時に、何故右手につかむものがあるのか。

その先は、玄関扉しかないのに。

 

 

瞬間、靴箱から引きずり降ろされる。私より高い何かが、首を、締める。しめる。ざらざらしてて、少し臭い。紐のようなものが、私の首を締めあげる。軌道を塞ぐ。何故ここに人がいるのかは分からない。でも、こんな時でも頭がしっかり動くあたり、私は不幸だと思う。マスクが息を塞いでいる。今まで生きるために着けてきたマスクが、今となっては、後ろにいる不審者と同じ、殺人鬼なんだ。そう思うと、マスクと共に生きてきたなんて思っていた私が馬鹿馬鹿しく思えてくる。顔から血の気が引いていくのが分かる。頭の中がだんだん白くなる。そのせいか、後ろにいる私を殺そうとする人間に対して、嫌悪感や恐怖感が消えていく。私、上手く生きることすらできなかった私を、過去ごと葬り去ってくれるのだと思うと、むしろそれでもいいような気さえする。だけど、とにかく苦しい。苦しくて苦しくて、体だけが生きたいと主張し続けているせいで、一次欲求が満たされなくなっているせいで、体は必死にもがく。声も出ないのに、もがいて、もがいて、紐を少しでも緩めようとする。最後の最後まで私の体は出来損ないだと思う。苦しい。死ぬ。本当に、死ぬ。あえて使っていなかった視界が、首を締めあげられるにつれて赤く滲んでいく。血が滲んでいくのだろうか。苦しくてもう限界らしく、体は最後の抵抗で足を動かし始める。少し浮いた私の体はばたばたと跳ね始める。まな板の上の魚のごとく、息の根を止められる寸前で跳ねる。

 

 

もう、死んじゃってもいいかな。

 

 

赤を通り越して視界が白になった瞬間、私は気づいたらアパートの駐車場にいた。咳をしながら大きく深呼吸する。生きている。感覚が少しだけ戻るが、全部は戻ってこない。動かせるのに触覚がない部分がある。。アパートの階段を降りる音がする。足が動き出す。そして、醜くも叫ぶ。

 

 

「助けて!」

 

 

私はそれ以来、マスクを着けなくなった。痣は白くなって、次の日の夜には痣が剥がれ落ちて新品の右頬が私の顔に張り付いた。この日は、私の三十歳の誕生日だった。

 

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