きっと、今まさに高校生活を謳歌している頃で、小さかったあの時の姿のその面影すら、もう思い出せない程かもしれない。
そんな淡い思いは、たった一通のビデオレターによって消える。
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大学の課題として提出した作品です。
タイトルの意味と作品の構成を考えながら読んでいただけると幸いです。
「拝啓、お兄ちゃんへ。桃果です。これを見ているお兄ちゃんは、島を出て先生になったあの日から、何年後のお兄ちゃんですか?」
部屋は静かだった。和室の六畳間に、座布団の上に正座する少女が一人、まるでそこに置かれた置物のように鎮座している。その雰囲気からか、書院造の棚もかけじくも、あらゆる全てが今はその口をつぐむ。静まり返ったこの部屋で言葉を発するのを許されているのは、後にも先にも彼女だけだ。
「きっと、今もお兄ちゃんは先生を続けていると思います。中学校で生徒に会うのが楽しくて、毎日が新鮮で、何気ない話に笑える、そんな幸せな先生だと思います」
彼女は普段の派手な服装ではなく、白い無地のシャツと褪せて薄くなった青のジーンズを身にまとっており、そこにそれ以上のメッセージを生み出させない。両腿の上にある手は固く握られており、彼女の目は鋭く研ぎ澄まされていた。
「お兄ちゃんは頑張り屋で、何事にも一生懸命で、でもちょっぴり手抜きで、それでいてちゃんとノルマは達成する、要領のいい人でした。だから、お母さんもお父さんも、お兄ちゃんがすることに対しては何も文句を言わない、一家で唯一のエリートでした」
彼女を包む和室の一面にあるふすまには、大きく二つの樹が描かれている。左には松の木が、右には梅の木が。水墨と顔料だけで描かれたらしいそれらは、この部屋で唯一の暖色であり、彼女しかいないこの空間の中で唯一の彩りであった。
「前にも言ったかもしれませんが、私はお兄ちゃんを尊敬しています。こんなビデオレターを撮ることにしたのも、尊敬するお兄ちゃんには全てを話しておきたいと思ったからです」
ふすまの絵の松の木の近くには、鶴の親子が描かれていた。幼体の鶴は二匹おり、まだ幼くてまっすぐに歩くことさえ困難なようで、親鳥は前を向いて歩くことさえできず、常に幼体の鶴たちを見つめ続けていた。
「お兄ちゃんはこの島から出ていく時、いろんなものを残してくれました。私たちとの思い出はもちろん、お父さんとお母さんから借りていた学費の全額、私や弟のために用意された教科書やノート、お兄ちゃんのお気に入りだった小説、愛用していたパソコンまで。私たちは数年の間、それらをそれらとしか考えず、そのままにしていました。もちろん、私たちのために置いて行ってくれたものは、今でも愛用しています」
梅の木の近くには何もいなかった。そこにあるのは、どっしりと構える梅の木の幹と優雅に開かせている花弁だけで、そこには先ほどの鶴たちがぴったり収まるような空間が無を主張している。
「しかし、その中にはお兄ちゃんが忘れていったもの、つまり、置いていくはずではなかったものもありました。私は、一か月前、それをたまたま見つけてしまったのです」
和室に残されている座布団はどれも大きなもので、法事などで僧侶が使うそれのようなサイズしかなく、幅をとるので積み上げられている。それがふすまの松と梅の間に居座っており、その間に何が描かれているか、垣間見ることはできない。
「開くと一人の女の人の名前が出てきました。お兄ちゃんの昔の彼女の名前です。私が見つけたのは、日記でした。その頃のお兄ちゃんの心境がつづられていて……そしていつも丁寧で読みやすかったお兄ちゃんの字ではなく、そこにあったのは書きなぐったような悲痛な跡だけでした」
天井には吊り下げ型の照明が一つ。木製の枠に裸電球が差し込まれているタイプで、今時地震の対策だの停電の対策だので見かけなくなったものだった。それはこの家が建ってもう数十年たった今でさえ変えることなくこの部屋を照らし続けているらしい。
「私は、お兄ちゃんはこの家族が大好きだと思っていました。家族で旅行に行く時はいつもお兄ちゃんが計画してくれたし、お父さんとお母さんにはずっと気にいられていたし、私も弟もお兄ちゃんが大好きで、そしてお兄ちゃんはそれを受け入れてくれていた……疑うことは何もなかったんです。日記を読むまでは」
風が吹き抜けた。それにつられて、畳の香りがした。この部屋が和室たる所以である畳は、その管理が少しずさんになってしまっていたらしく、所々ほつれのような傷が見えている。ささくれのような傷もある。古くなろうとイ草の香りはそのままで、新品同様の香りがした。今も昔も変わらない香り。
「お兄ちゃんは、家族よりもその彼女を愛していました。永遠にさえ思っていました。全てを捧げてでも彼女を守りたがっていました。お母さんが血と涙を流して稼いだお金で行った大学の授業を休んでまでも、お兄ちゃんは彼女に会いに行きました。あんなに仲の良かったお父さんの宝物を密かに質に入れて手に入れたお金で、彼女にプレゼントを買いました。お使いに行く振りをして悩み苦しんでいる彼女を慰めに行ったり、課題をしていると言って彼女と深夜遅くまでメールを交わしたり、とにかく、お兄ちゃんは彼女を家族より愛していた、それは事実だと思います」
古いながらも整った書院造のこの部屋には、一か所だけ傷がある。それは柱だ。四隅の大きな柱のうちの一つには、刃物を突き立てたような傷がある。それも既に長い時間を超えて風化しており、部屋の一部のように見えないこともないが、それはやはり異質であり、刃物の跡はその異質な存在感を放ち続けている。
「だからこそ……私は許せなかった。あの人はただ自己満足でお兄ちゃんを振り回していただけだということが、お兄ちゃんの日記につづられていました。書く時は読む人の気持ちを考えて丁寧に書けと教えてくれたお兄ちゃんの字ではなく、まるでその悲しみをぶつけて投げ捨てるような書き方で、あの人に捨てられたことが書かれていて、私はいたたまれなくなって、日記を閉じました」
かけじくは伏せられており、その文字を読むことはできない。長い間かけられていたそれはもはや風景と同じで、その文字に意味は持たないだろうが、それでもこうして伏せられているということは、その文字に何らかの意図があったのかもしれない。この場にそぐわない何か別のメッセージが。しかし今、それを確認することはできない。
「しかし弟やお母さん、お父さんに話すわけにもいかず、私は無意識のうちに家を出て、あの人の家へ向かいました。一度お兄ちゃんと散歩した時に、ここが彼女の家だと紹介された記憶を頼りに、なんとか行きました。そして、そこには変わらずあの大きな塔のような家はありました」
障子から差し込む光は既に橙色になっており、日の傾き加減からおよそ午後五時ぐらいだろうと思わされる。念入りに手入れされたらしい貼りたての障子からじりじりと照らすその光は、まるで畳のイ草を焼いているようで、鮮やかな緑の色合いを狐色に変えていく。
「そこで私は手紙を入れ、後日連絡が来るのを待ちました。来ないかもしれないと思った連絡はあっさりやってきて、私たちは駅前のあの古びた喫茶店で会うことになりました」
かけじくが伏せられている隣には、熊の置物が置いてある。陶磁器で作られたそれは、雪のような白い肌に、青い花や葉といった文様が描かれていて、大熊と小熊が対になるように置かれている。
「あの人は、何も知らない顔でやってきました。聞いてみると、お兄ちゃんとは別れたけど仲良くしているという風に言いました。しかし、日記にはそんなことはなく、お兄ちゃんは一方的に苦しんでいたことが書かれていたので、私はすぐに嘘だと分かりました」
大熊の爪の先は青く、鋭く、そして獰猛なその佇まいを忠実に再現してある。対して小熊はまだ爪は白く、丸みを帯びていてその手に野獣のような力強さはない。大熊は自らの子ではない小熊でさえ、こうして食らう。
「話は続きました。お兄ちゃんの話はもちろん、あの人の今の話も聞きました。あの人はただ不幸な人を応援する自分が好きなだけでした。お兄ちゃんが愛した理由がよく分からない程に、あの人はただ自分が好きなだけでした。お兄ちゃんは、こんな人のために家族を投げうったのだと思うと、私は胸の中から黒いものが湧き出る思いがしました」
天井と梁の間には、老夫婦の写真が飾られている。モノクロのそれらはに映る一組の夫婦は、幸せな笑顔とまっすぐな瞳を携えている。その人生に一片の悔いがないかのように。
「私は……外に出ようと提案しました。あの人は笑顔で承諾しました。私が苦しんでいるのを楽しんでいるかのような顔でした。私は高架下に誘導し、そのまま、そのまま……刺しました。お兄ちゃんが置いて行った嫁入り用の包丁で、何度も何度も、その女を刺しました。悔しくて、つらくて、お兄ちゃんは人生をかけるほどの想いだったのに、その無念を、何度も突き刺しました」
太陽が沈み、その光は赤みを増していく。ゆっくりと滲み、畳の色を茶色へ変えていく。少し飛び出たささくれや、ほつれたような傷は茶色の中に沈んでいき、その姿を隠していく。
「お兄ちゃんは……こんなことを言うのも変だけど、私の初恋でした」
沈みきると、部屋はどんどんその明度を失っていく。赤みがかった部屋はどんどん黒くなり、茶色になった畳は薄い緑を暗闇の中に携えるだけになる。見えていた熊の置物や伏せられたかけじくさえもその姿を隠し、障子の白が薄っすらとその存在を示すだけになる。
「だから、お兄ちゃんには、ちゃんと話したかった。話して、そして、お別れしたかった。こんな私を家族として愛してくれたのに、私はお兄ちゃんの思い出を、お兄ちゃんからもらったもので殺した。私は、もうお兄ちゃんを好きでいる資格は、ありません」
真っ暗な部屋の中に響く音は、畳と何かが擦れる音だった。擦っているような音で、畳の凹凸が生み出すその音は、息をするようなか細い音だった。
「私は、去ります。永遠に、この家から。このビデオレターが見つかっても、私を探さないでください。私は、お兄ちゃんとは、家族とは、もう一緒にはなれないから」
障子の締まる音がした。暗闇は永遠を意味した。畳の擦れる音は、これ以降聴くことはなかった。
部屋の中央の座布団の上にあった大きなテレビは、音を立てて消えた。