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昔、大学の課題で書いた作品です。
当時の批評では色んな角度からとらえられる、とちょっとだけ評判でした。
みなさんはどの角度からとらえますか?
そこは小さな部屋の入口だった。鉄扉は背丈と同じぐらいの高さで、すりガラスがはめられている。すっかり古びているらしく、錆の匂いが鼻の奥に自然と入ってくる。すりガラスの向こうは薄っすらと光があり、雑居ビルの一角のような雰囲気が漂っていた。慣れない場所で感じる緊張感みたいなものが張り詰めたこの空気は、ガラス以上に脆そうで、それでいて無機質なコンクリートのような固さがある。
見せたいものがある、と先方から連絡があり、ここへ案内された。呼び出し人はまだ来ていないが先に入ってくれと受付で言われ、言われるがままに進めばこの部屋が待っていた。背丈ほどしかないのにずいぶん重厚感があり、未境への入口のような大きさを感じて、未だこの鉄の扉を開けられない。
この通路もそんなに落ち着くようなものではなく、ただのコンクリート打ちっぱなしの通路で、上から数メートルごとに裸電球がぶら下がっているだけの、簡素な造りだ。所々コンクリートが風化して欠けた穴があり、足元のそれはネズミが通れそうなほどの大きさで、何故ここを打ち合わせの場所にしたいと言い出したのか、その真意は暗闇の中に行ってしまってつかめなくなってしまった。黙っていると、通路の奥からかコンクリートの暗闇の奥から、紙切れが風で揺れるような乾燥した音が響いてくる。その瞬間、いないのにネズミの声が聞こえてきそうな不気味さが背筋を襲ってきて、私はついに重い鉄の扉を開いた。
中は真っ白な壁にフローリングが施された簡素な部屋だった。通路からして、もっと暗い取調室のようなものを想像していたので、拍子抜けか、それとも安堵か、口元から少し息が漏れた。奥には予想通り、両手を広げた程度の幅の窓があり、しかしその窓は固く閉ざされている。淡い黄色のカーテンが左右に留められていて、外の様子に比べて冷たい風が吹きそうな不気味さはない。むしろここだけが安堵できる場所のような、実家のリビングのような安心感がある。窓の右側から西日が差し込んで、部屋の中を薄っすらとオレンジ色に染めていく。
窓を背にして部屋を見渡すと、中央に木製のダイニングテーブルが一つと鉄パイプの椅子が二脚、向かい合わせにおいてある。鉄パイプからは外との境界にあるあの鉄扉のような錆びを感じず、真新しい鉄の輝きが部屋の中の光によって現れる。座席部分のクッションもまだ新しいらしく、消毒剤の匂いがかすかに残っていた。ダイニングテーブルの真ん中には白い花瓶が置いてある。縦に長いつぼ型で、恐らく陶器。さしてあるのは、これはマリーゴールドだろうか。トマトのような、夏の草の香りがした。昔、通学路の脇に生えていたのを思い出す、懐かしい香り。深紅の花びらの中に、その花の中央から薄く広がる黄色やオレンジが花を立体的に見せている。薄いオレンジ色になった部屋で、ここだけが際立って明るく見える。外の無機質さとは全く異なる、生き物の香りと色。そして温かさを感じる。そう思うと、なんだかじっとしている気にもなれず、そわそわと部屋をうろつき始める。
窓を背に立って左側には写真がかけられていた。どこか見覚えのある、懐かしさのある、大きな空の写真。下は膝ぐらいの高さから、上は窓の淵の高さまである大きな写真だった。夏の畑が地平線になり、そこから大きな入道雲がいっぱいに立ち上り、白と薄い鼠色の濃淡が、まるで迫ってくるかのように映っている。写真には人の影は一切なく、こんなに広い景色に人が映らないのも珍しいと感じさせられる。むしろそれは、これは写真ではなく絵画なのではないかとも思わせる一因になって、私の頭に入ってくる。どこか見覚えのあるような懐かしい景色には、人影がない。そう思うとこの写真が、絵が、少し不気味にも思える。
逆側には――
「ここには君のベッドがあったね」
振り返ると、扉から一人の男が顔を覗かせていた。
「どう? 何か思い出せそう?」
彼は扉を軽々と開け、そのまま軽やかな足取りで中へ入ってくる。
「昔君の家に遊びに行った時を思い出して再現してみたんだけど、やっぱり駄目か」
「どういうことだ?」
「いや、この部屋に来れば何か思い出せるんじゃないかと思ってね」
「すまない」
彼は鉄パイプの椅子に腰かけて、足を組んだ。
「いや、いい。ちなみに、そこの花は何かわかる?」
「マリーゴールドだろう?」
「残念。それはキンセンカ。昔、僕も同じ間違いをして君に正されたんだよ」
「そうか」
彼は私ではなく、閉ざされた窓の向こうを見てつぶやく。西日はすっかり落ちて、部屋の中はだんだん暗くなってきていた。
「じゃあ、今日の用事はおしまい。呼び出してごめんね」
彼は手を顎に当てて、暗闇になっていくこの部屋で目を閉じる。
「じゃあ、また来てね」
気づくと私はまたあの通路にいた。無機質で誰もいない、コンクリートでできた不気味な通路。まだ何もわからない場所。キンセンカの香りだけが、頭の中にこびりついていた。