俺は、いつの間にかあの日常を、当たり前に転がってるものなんじゃないかなんて勘違いをしていたらしい。紗夜さんが当たり前のように俺の傍に来て、からかい混じりに下ネタを言って、楽しそうに笑って、燐子さんの熱っぽい視線に汗を掻きながら、それでも人見知りしてしまう彼女を笑わせようとしてみたり。でも、そんな日々はたった一言のミスで壊れるんだってことを突きつけられた。
──人間は、いつだって大切なものの価値を、失ってから知るもんだ。
「放心してるね〜」
「放心してるなぁ」
夏休みが始まり、コンビニのイートインで涼んでいると、知り合いの二人がコンビニの制服に身を包んで立っていた。
幼馴染で師匠の今井リサと、ウチのバンドにいる内面がイケメンすぎるギタリスト、トーマ。
「……カップル揃ってでなんか用ですかね」
「失礼な弟子だな〜? 見たら仕事中ですってわかるでしょ?」
「リサ、コイツは今恋愛にアレルギー反応するんだから、許してやって」
わかってんなら二人揃って出てくんなよ。
ってかさ、なんだかんだ言ってキミたちイチャイチャしてるからね? 無自覚にイチャイチャされると余計に肌が痒くなるっての。
「やっぱコイツのことはほっとこうよ、とーま。モテない男の僻みに付き合っても無駄だって」
酷い師匠だな?
ちなみにトーマは本名だったりする。本名がカッコいいからそのまんまでいいだろっていうタイクーン理論である。
「なぁカンベ。俺としてはそこで逃げたら意味ないと思うんだよ」
「だからなんだよ、逃げなくて向き合ってたらこうなったんだからな」
「そうじゃなくてさ──」
「──いいんだよ。こうやって俺が何もしなきゃ、なんともならないんだからな」
なんで向き合って、傷つけて、傷ついて、それなのにまだ向き合わなきゃなんないんだよ。イミわかんねーよ。逃げてちゃなんも変わんないって言われても、なにも変えたくなかったんだよ、最初から。
「ほら、だから言ったじゃん」
「リサ、カンベみたいなヤツは突き放すだけもよくないの。大体、リサや湊さんが突き放したからこうなってるワケでしょ?」
「……確かに」
けど、そんな腐った俺にも、トーマは厳しい目でそれじゃダメなんだよ、って言ってきた。
それじゃあまた、今度は離れた俺と紗夜さんたちを繋ごうとしたあこちゃんを傷つけるんだぞ、と脅しを加えて。
──それは、ダメだな。あの子を傷つけるようなことをしたら、それこそもう、紗夜さんや燐子さんとは何をしても修復不可能になるから。
「お前、結構えげつないこと言うな?」
「ダチだからね」
ニコっと笑ってそんな事言うなよ! カッコいいやつだな! カッコよすぎて男なのにきゅんとしたよ! ダチだからって言葉をカッコよく言える選手権あったらお前は審査員のレベルだな! 自分でも言ってる意味わかんなくなってきたよ! ちくしょう!
「とりあえず、ココで逃げるのはNG。きちんと、あの子と一緒に精一杯考えろ、いいね?」
トーマが指で示した先には元気いっぱいのあこちゃんがそこにはいた。
その明るさに、俺もほっと息を吐くレベル。あこちゃんの元気は世界を救えるな、多分。
「カーンベさーん!」
「あこちゃん、わざわざありがとう」
「大丈夫! あ、リサ姉とトーマさんもいるー! 二人とももしかして……チーム闇の女王!?」
「いや、そんなチームに入った覚えはないよ?」
苦笑いをするトーマに、リサがトーマがいちおーは味方? と補足していた。やっぱりお前は味方してくんないのね。
「あったりまえじゃん! そもそもアンタが悪いんだから」
恋する乙女的には味方にはなれないな~、とおどけて笑いながら仕事に戻っていくリサに、トーマがはいはい、と苦笑いをして、それからもう一度俺とあこちゃんの方を見た。
「あこちゃん、そのバカのこと、よろしく」
「まっかせて!」
「カンベはあこちゃんの言葉を、とにかく素直に言葉のまま受け取ること。お前の主観とか、感情とか、プライドとか、そういうものは今は関係修復を遠ざけるだけだからな」
「お、おう」
それを最後のアドバイスとしてトーマは優しく笑いながら仕事に戻っていった。なんか難しいことを言われた気がするんだが。まぁ、やれるだけやろう。
一人じゃ正直何も考えられなくて終わってた。けど、たまたまあこちゃんがいて、そのあこちゃんが燐子さんや紗夜さんじゃなくて俺のところにいることが、奇跡みたいなものだから、これを機に変わるしかなさそうだ。
「それで、まずはどうしたらいいんだろう?」
「んーっとですね~、まずは、謝らないと! 悪い悪くないは別として、ケンカしたらごめんなさいしないとダメだもん!」
なるほど、あこちゃんのお姉さんは割と男勝りでケンカが多かったのだとか。それで彼女たちのお母さんはそうやって口をすっぱくして教えていたらしい。悪い悪くないは、謝った後、か。
「でも、謝るには悪いって思う気持ちがないとダメじゃない?」
「ううん! カンベさんはりんりんや紗夜さんがなんで怒ったのか、それを考えないと、ですよ!」
つまり、今回の解決に至る道は、相手が何で怒ったのかを考える。つまりは相手のことを考えるってことだな。俺は悪くないと思っても相手が怒ってることを考えて理解できれば、自然と謝罪する言葉が出てくるってことだ! さて、やっぱり難易度高いな?
「ちなみに……自分で気づかなくちゃいけないところだと思うんだけど」
「うん」
「燐子さんは、なんで怒ったの?」
俺にはいまいちそれがわかってない。俺が吐いた言葉たちが燐子さんを傷つけたことはわかってる。それについて気づいてないことを紗夜さんが怒ったってことはわかった。でも紗夜さんにも燐子さんにも、俺が
「わかりません?」
「考えたよ? 考えたけど……」
童貞には難しい。なんとなく俺に経験がないから、セックスじゃなくて恋愛とか異性と関わる経験ね、それがないから、わからない気がする。前にクソ野郎……ランスが、女の子は男と感覚が違うから、それを切り替えるのが大事、みたいなことを言ってたし。その切り替えがよくわかんないのも、俺がピンと来てない理由、だよな?
そんな風に自信なく、考えたことを伝えると、すっと手が伸びてきて小さな手が俺の頭を撫でた。
「あこはね、まずそこが大事だと思うんです」
「そこ?」
「考えること! カンベさんは、あんまり考えておしゃべりするタイプじゃないですよね?」
なんか優しく、慈愛に満ちた表情と仕草のあこちゃんにドキドキしながら、その言葉に同意した。思ったことをそのまま口に出すタイプだね、俺。
「りんりんも……多分紗夜さんも、考えて考えて、やっと言葉にするんじゃないかな~って」
考えすぎもよくないことになっちゃうけど、と八重歯を見せて笑うあこちゃん。そっか、思考と感覚のバランスが大事、ってことなんだろうか。それが簡単にできたら恐らくコミュニケーションに阻害なんて起きないだろうけど、それは俺の勝手な主観だから放り投げるとして、思考と感覚をバランスよく働かせるのが、理想の会話ってわけだね。
「俺は考えがなさすぎで、燐子さんは考えすぎ、ってことかな」
「うんうん!」
「それじゃあ……えっと」
多分、トーマのヤツが最初にあこちゃんの言葉を素直に聴くことって言ったのはこれをわかってたから、なんだろうな。
今の俺はあこちゃんの言葉を通して、燐子さんや紗夜さんのことを考えて言葉を選んでる。あとは主観と感情、プライドを入れるなってのは俺に無駄な否定をしないように、だな。流石ダチ。俺の自己肯定感の低さをよく知ってる。
「燐子さんは、俺がランスのことを言ったら、あの表情をした」
「うん」
ランスが気に入らなかったわけじゃない。じゃなきゃ燐子さんもただ嫌な顔をするだけで留まるはずだから。燐子さんが傷ついたのは、それが別の意味を持ってるのだと考えたから。
──えっとつまり? 燐子さんは自分を白金燐子として知ってくれるヒトを求めてるわけじゃないってこと?
「んーっとね、そうなんだけど、そーじゃなくてぇ……なんて言ったらいいんだろ~?」
あこちゃんが自分の語彙力のなさに苦戦してる。そうなんだけど、そうじゃない。完全に正解じゃないってこと? そうやって頭を捻っていると、上から涼し気な声が響いた。
「惜しいですね、そこにもう一つの事実を加えれば、正解に辿り着けますよ」
──なんで、今頃になって。いや、今頃になったから出てきたのか。俺がちゃんと燐子さんと向き合おうとしたから、紗夜さんに向き合おうとしたから、それを知って……多分暇そうにレジにいたあのギャルだな。アイツが連絡したんだろう。
駆け付けてきたんだ。俺に審判を下すために。
「……さ、紗夜さん……?」
「どうも」
氷川紗夜さん。俺が間接的に傷つけたヒト。
紗夜さんは至っていつものあまり働かない表情筋を放棄して、淡々と、それでいて当たり前のように俺の隣、あこちゃんとサンドイッチする形で俺の横に座った。
「紗夜さんも、チーム闇の女王に?」
「いえ、私は言うならばスパイです」
「自分で言っちゃうんだ」
「捕まえて性的な尋問でもしていただいて結構ですよ?」
しません。あくまで平静を装う紗夜さんは、それで? とスパイらしく諜報に徹しようとする。
「何が足りないかはわかりましたか?」
「……一つ、事実が抜けてるってやつ?」
「はい。それは、宇田川さんはわかっていると思います」
「……そーですけど」
わかってるけど、口に出せない、いや、出せないってよりは俺がきちんと気づいていなくちゃいけないことで、ホントは俺も知ってないといけない事実なんだ。けど、全然わからなくて俺がうんうんと頭を悩ませていると、紗夜さんは溜息をついて、それから、まぁ仕方ありませんね、と優しい顔をした。
「紗夜さん?」
「私や白金さんにも、悪いところはあるのです。私は、それを伝えるのが怖かったから……ままならないものです、ヒトの、感情というものは」
それは間違いなく、紗夜さんの本音であり、俺に対して思わず放った、極大のヒントだった。ままならないヒトの感情、燐子さんに同調した紗夜さんの気持ち、それを覆い隠した俺の主観と感情、それらが重なったから、それらに誰も向き合おうとしなかったから、この事態になった。
「わかった。わかりましたよ……紗夜さん」
「カンベさん……」
確かに、燐子さんにも悪いところはあるんだろう。でも、人間が思ったことを素直に、ストレートに言葉にできたのなら、そもそも、あのヒトが俺の言葉に傷つくことすらなかったはずなんだから。
わかったなら、俺は燐子さんに謝りに行こう。それがきっと、正しい人間関係ってヤツだから。