見知らぬ天井を見上げて目を覚ます。これほどに違和感があるもんなんだな、と、生まれてこの方、一度も病院のお世話になってない俺は初めての体験を噛み締めながら、身体を起こした。
──でも病院じゃなくてそこは、花咲川の保健室だ。
「……あー、やらかした」
朦朧としてたけど、紗夜さんと燐子さんに運ばれたことはよく覚えてる。焦った紗夜さんの声、まるでもう死ぬんじゃないかってくらい必死な燐子さんの顔、迂闊なことで迷惑と、松原さんの件とは比べ物にならない恩をもらった俺は、頭を抱えた。
そして、今誰もいなくてよかった。懐かしい夢を見たせいで、少しだけセンチメンタルだ。紗夜さんでもいようもんなら、今日は甘えてしまいそうだよ。
「あら、起きたのね」
「……さ、紗夜さん」
そう思ったらいたよ。黄色いカーテンを開けながら、今度は制服姿の紗夜さん。その顔は安堵に包まれていた。
「今日、体調が悪かったの?」
「んー、少し、かな?」
「……そう」
朝からいつもと違うのはわかってたんだけど、ほぼ病気とは無縁の健康優良児である俺はその辺の危機感ないからなぁ。
そんなふうに笑うと、紗夜さんはふっと笑みを浮かべてから。眉を吊り上げた。
「まったくもって認識が甘すぎるわ」
「……さ、紗夜さん?」
「いい? 今回はたまたま私や白金さんがいたからいいけれど、もしそれで一人だったらどうするつもり? たかが風邪だけれど、それで足を縺れさせて後頭部でも強打すれば、どうなるかわからない年齢ではないでしょう?」
相当なお怒りだった。
ここは、素直に謝ったほうがいい、そうしよう。
「ごめん……」
「……白金さんにも、そうやって素直に謝りなさい。先生に頭を下げて保健室に寝かせておいてくれたのも、看病したのも、白金さんなのだから」
「……そっか」
燐子さんが……それは、感謝してもしきれないよね。後でお礼を言っておこう。
それより、漸く怒りが収まった紗夜さんは、ベッドで上半身を起こした俺の隣に椅子を置いて座った。
「紗夜、さん?」
「本当に、よかった」
何を思ったか、紗夜さんは俺に抱き着いてきた。雰囲気が安全な時のだったから完全に油断してたんだけど。顎のすぐ下に紗夜さんの髪があってめちゃくちゃいい匂いがする。華奢で、でも決して弱くはない、ってレビューしてる場合じゃない!
「な、なに、してるんですか!?
「……やっぱり」
「え?」
けれど、顔を上げた紗夜さんはどうしてか、すごく真剣な表情だった。いつもの俺ですら蕩けてしまいそうな熱い表情じゃなくて、ギターを弾いてる時の顔。
「ドキドキは、当然しているけれど……どうしてそこまで、触れ合うのを拒絶するの?」
「……だ、だって、紗夜さんは、ビッチで──」
「──そろそろ、お互い胸襟を開く、いい機会ね」
「え、何を」
そう言うと、紗夜さんはICレコーダーを取り出した。燐子さんのらしく、うなされている時の声が入っているらしい。気になるところがあって録音したから、という燐子さんの伝言と共に、紗夜さんの手によって音が再生され──
『じゃあ、ベルさん、スカート捲ってみせて』
『……はい、み、見えますか……?』
『言われた通りちゃんと剃ってくれた──』
「再生するものを間違えたわ」
「いやそこは間違えちゃダメでしょう」
そういうプレイも可なのね燐子さん。かなり攻めてるけどこれに録音してるってことは後で何かされても自衛する目的もあるのかな……ってそうじゃなくて。
これだったわ、ともう一回再生した先には、寝言を言う俺の声が入っていた。それは、間違いなく懐かしい夢を見ていた時と、言葉が同じだった。
五人が揃って、クラスでもバンドやってるって認知されて、そしてクラス替えがあった二年生の春、俺にあった出来事。
その言葉は涙声で謝罪を繰り返す、俺の声だった。
「……知りたいの」
「知って、どうするんですか。紗夜さんにはわかりませんよ、俺が何に傷ついたか、なんて」
「わからないわ」
「なら」
「
その言葉に、俺は口を開ける格好になった。
それが恋、か。相手のことを知りたい、知って、それを知っていることを知ってほしい。そうやって共有して、心を繋いでいく。
「どうして、俺なんですか」
「わからないわ」
「え?」
「理由があったら、人は恋に堕ちたりはしないわ」
ふふ、と吐息交じりに笑って、でも、今日は襲われる危険性はない、という予感がして、紗夜さんとかなり近距離で見つめ合ってしまう。その瞳の中には、確かにまっすぐ、俺が映っていて、俺は安堵と一緒にゆっくりと身体をベッドに預けた。
「……俺、実は、好きな人がいたんだ」
「そう、なのね」
そんな顔をされてもな、別に悲しい話じゃなくて、どこにでもある、失恋話だ。しかも片想いも片想い。俺に告白する勇気なんてないことくらい、紗夜さんだって知ってるだろうし。
♪
「ねぇ、
きっかけは、進級してすぐ。一年も同じクラスだった近くの席の男子としゃべっていたところで、そう話しかけてきたこと。
「さぁ? オレも知らね」
「えー、みんな知らないけど、カンベなの?」
「そーなんだよ。バンドでも、そう呼ばれてるよな」
「そう、俺はカンベ」
理由なんて、そう大したことじゃない。小学生の時に兵庫県神戸市のことを、間違えてカミベって呼んだのが始まり。それ以来、それをいじられてカミベって呼ばれたのがやがて呼びにくいからってカンベって、ちょっとカッコよくなっただけ。だから本名の赤坂とも陽太とも関係がないってワケだ。俺としてはこの渾名は気に入ってるからいいんだけど。
「じゃあ、あたしもこれからカンベって呼んでもいい?」
「え、い、いいけど」
「やり、じゃあ、よろしくね、カンベ!」
たったこれだけ、たったこれだけで女性免疫がまるでない俺は、恋に堕ちた。後付けするなら、明るく笑う、その顔が素敵だったこと。
「おお、ついにカンベにもカノジョができるのかぁ?」
「黙れランス」
「うへぇ、カンベってホントさ、僕には冷たいよねぇ、アイス?」
「……当然だろう」
「アイスも冷たい!」
「そりゃアイスだからな」
その子とは順調に仲が良くなっていった。何人かのグループでカラオケとかも行ったし、メシも行った。ワンドルのライブにも来てくれて、めっちゃよかった、って笑ってくれた。もう告ってもいいんじゃない? と茶化してくるランスの言葉も、受け入れがちになってしまうくらいには、俺は浮かれていた。
「ん、でも美鈴ちゃんかぁ、あんまりいい噂聞かないんだよね~」
「ランスに比べればマシじゃない?」
「僕はそれでもいいって子しか食べないからいーの」
「クズ死ね」
そんなわけないだろ、って俺は笑い飛ばした。そもそもなんでそんなヤツが俺を構うんだよって、まぁ、それがミスだったんだろうな。出逢いからほぼ一年くらい経ったある日、忘れ物をして、夕暮れの教室に向かった時、俺はその子と男女二人の三人組が残って、何か話してるのが耳に入った。
「みっちゃんカレシと別れたの?」
「うん、まぁ、いい加減ウザかったし、いっかなぁって」
「ありゃ、美鈴ちゃん、ケッコー付き合ったり別れたりするよな」
「あはは、これで17人目です」
「自慢か!」
それは俺が知らない顔だった。17人って年齢と同じだろ。多すぎだろ。そもそも俺と初対面の時から何人と付き合って別れたんだよって思いながら、入るタイミングを逃して壁に背を押し当てて、盗み聞きの格好で、三人の会話が続いていくのを待っていた。
「次の候補は?」
「赤坂?」
「カンベ? ないない。だってアイツ、偶にめっちゃ地雷踏んでくるし」
「なのに付き纏われてるよなー、美鈴ちゃん、よく我慢してるよ」
「そなの、褒めて褒めてー」
「よしよし」
「えへへー」
なんだよそれ。付き纏われてるって、俺にはそんなつもりないのに、地雷? 何のことかまるで覚えがない。とにかく俺は、笑ってもらえるように、俺なりに頑張ってたのに、そんなこと言われなくちゃいけないのかよ。じゃあなんだって、あんな顔してたんだよ。
──俺はもう、その日は忘れ物を諦めた。諦めて、恋も諦めて、その日はひたすらにベースを掻き鳴らした。
「……っ、クソ!」
でも、いつもは俺を救ってくれたベースの音は、なんにも応えちゃくれなくて、虚しさと、涙だけが募ってさ。
楽器やってても、モテないことは半年くらいで既に気づいてた。でも、それでも楽しくて、やりがいがあるから続けてたのに、急にそれが意味を成してないんじゃないかって思い始めた。今日はもうやめよう、と俺はスタジオのベンチに座り込んだ。
「がっつき方がさ、童貞なんだよね、カンベって」
「うわ、ヒクわー」
童貞? まだそうだけど、そもそもセックスってどうやってするの? そういうことに興味を持ち始めたのは中学生になりたての時だった。その時はそこまで深く考えてなかったっけ。高校生になったら自然と恋人ができて、そういうことも自然とできちゃうんだろうって、そんな感じ。だから全然興味なんてなかったようなものだった。友達とバカやって、ベースってカッコいいよな、なんて話したりして、そんな感じだった。
──そして高校生になってもう三年生、そこで、俺は今一度思うワケなんだけど。
「……どうやったらセックスってできるんだ……?」
中学生の自分を殴りつけて、顔のカタチをもうちょっと美形にしてやりたいくらいの後悔がそこにあった。酷いもんだ、中学時代友達とバカばっかりやってきた俺にはセックスどころかカノジョすらどうやったらできるのかもわかっちゃいねぇのに。
「顔はそれなりだからダイジョウブっしょ!」
「そうか! よかった!」
と、幼馴染に言われたものの、その大丈夫が全然大丈夫じゃねぇってことに気付いた時には、もう手遅れにも程があった。バカ野郎、そもそも女っ気ねぇんだけど。
モテるらしいというクソみたいな理由でバンドを始めたけど、よかったって言ってくれるような女がいねぇ! 幼馴染には似合わないとか言われるしな。
「ああ……童貞卒業してぇ……なんとかして……大人になりてぇよ」
それ以上にきっと、もしかしたら、もっと女心とか、付き合い方をわかってたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって後悔が、俺に押し寄せてきた。
そんな時に出会ったんだ。今の傷を語ってる相手と、そんな俺と会話するきっかけを探していて、挙句の果てに手伝いましょうか、とか言ってくる、とんでもないビッチに。
──救いの手を差し伸べられたんだ。