なんでだろう。そんな疑問と、頭を打たれたような衝撃を受けている自分が、更に疑問につながっていく。
何故、なんて野暮だと言われたのに、快楽を味わいたい理由はただ一つ、キモチイからだって、あのヒト本人の言葉だったじゃないか。
──なのに、なんで俺はショックなんだ? 俺は氷川さんの気持ちよくなりたいって言葉を一度だって受け入れてなかったのに。
「……わからねぇな」
「どうしたのですか?」
「……どうも。相変わらず何処にでも現れますね」
「ふふ、私は諦めてなんていませんから」
スタジオから帰る途中に寄った喫茶店で、氷川さんはいつもの調子で俺の向かいに座って、その表情を崩した。
今日もまた、俺のハジメテを奪うために、清く正しい雰囲気を纏ったまま。
「お断りします」
「どうして? オナニーでは味わえない快楽がそこにはあると思うのですが?」
「……氷川さんは飲食中に下ネタを言わないといけない病気にでも罹ってんの?」
「性病には罹っていませんが」
「言ってねぇし訊いてねぇよ……」
毎度思うけど、このヒトは下ネタを言ってる時の会話は微妙にかみ合わない。それに最近のオナホは高性能だからかなり満足できるって話も聞いたことあるんだが、と考えて氷川さんの作り出す空気に引っ張られてることに気づいて慌てて思考から排除した。
そんな俺の思考は察されることなく、コーヒーを優雅に啜りながら、氷川さんは考え込んでいる様子だった。どうせナニ考えてんだろうけど。
「ナニの大きさに自信がないのですか?」
「……そうですね」
「大丈夫ですよ。膣というのは柔軟にできていますから、男性の性器に合わせて大きさを変えることも可能なのです」
「今日はまたぶっ飛んだ下ネタだなぁ……」
真顔でナニ言ってんのこのヒト。知らなかったけどさ。大きいのがいいの、とか寝取られもののAVとかマンガでも良く聞くじゃん。ああいうのって創作上の話ってことなんだろうか。
「その辺を説明するのは……ええと、少々面倒なので移動しましょうか」
「待て待て、そうやってホテルに誘導しようたってそうはいきませんからね?」
「ふふ、バレましたか」
なんで楽しそうなんですかね。俺はずっと氷川さんを拒否し続けてるのに、くすくすと笑いながら、まるで恋人にでも語りかけるように、そういえば、と話を音楽の方面に戻してくる。
ますます謎だ。誰でもいいんじゃないのか、なんて思ってしまうほど。
「あのさ」
「なにか?」
「氷川さんって……昨日、男のヒトといなかった?」
「いましたよ」
勇気を出して訊いてみたのに、氷川さんはあっさりと肯定した。その瞬間、身体の奥から何か黒いものが湧き出てくる感覚があった。
でも、それを何とかすることなんてできない。自分でもなんなのかわからないこの気持ちを、俺は飲み込むことしかできなかった。
「ってことは、ホテルですか?」
「そうですね、連絡をいただいたので」
「それじゃあタマってるのは解消されたんですね」
「そうですが、それはそれとして──」
「──だったら、もう俺に構う必要もないじゃないですか」
「……カンベさん?」
氷川さんはそれでいいんだ。アイツが言ってた通り、童貞で女を気持ちよくする方法も知らない、無知な俺なんかよりも、気持ちよくしてくれると知っているそのヒトと会っていた方が有意義に快楽を味わえるんだから。所詮俺は童貞で、氷川さんはビッチで、その間にある溝は俺が簡単に飛び越えられるようなモンじゃないんだ。
「今日はついてこないでください……それじゃ」
「待って……!」
慌てて立ち上がる氷川さんと伝票と千円札を置いて、俺は店を出た。
最悪な気分だ。なんでかわかんねぇけど……すっげぇ嫌な気分なんだ。
氷川さんに、じゃない。だから童貞なんだって自嘲する自分が、嫌だ。でもどうやって自分を変えたらいいのかもわかりはしないから。
──それの解決に氷川さんを使う、なんてもってのほかだから。だから、もう会うのはやめよう。話すのはやめよう。このままじゃ俺は、そのうち、最悪なことを言い出しそうだから。
「待ってって言っているでしょう!」
「……っ、なんですか。ついてこないでって、言いましたよね?」
「あなたが話を最後まで聞かないからでしょう? 私の話を聞いてください!」
そう思っていたのに、氷川さんは俺を追いかけて、焦ったような、怒っているような顔で俺の肩を掴んでいた。
でもそれだけでも、俺は俺が嫌になる。氷川さんにこんな顔をさせてる自分が。
「俺じゃなくても……昨日のヒトを構えばいいじゃないですか」
「それじゃあ意味がありません」
「なんで、アンタはビッチなんだろ!」
「私は確かにあなたから見れば
「──っ」
それは、どこかで俺が言われたかったのかもしれない言葉だった。本当にそう思ってくれたことが、マジで嬉しいと思えた。けど、それでもやっぱり、俺には氷川さんの生き方が理解できない。
理解できない人に童貞を奪われるのは、
「どうして? なんで俺なんだよ。童貞で、モテなくて、カノジョなんていたことすらない俺なんだよ」
「そんなこと知りません」
「は?」
「モテないことも、カノジョがいたことないというのも、今知りました。そしてカンベさんが童貞だということも含めてそんなことは
──どうでもいい。俺のコンプレックスになりつつあるそれを、氷川さんはどうでもいいと言い切った。
童貞だから俺を誘ったわけでも、モテないことを憐れんだわけでもなく、氷川さんは、氷川紗夜はただまっすぐに俺を見つめて、強い瞳で言い切った。
「私は、楽しそうに演奏するあなたに心を奪われたの」
「……それって」
「こういう誘い方しか、知らないのよ」
どういうこと? いやいやもっとあるじゃん。食事に行きませんかとか、好きです、とかさ。なのになんで俺の独り言を拾って手伝いましょうか、なんですかね。もしかしてコミュニケーション能力ないんですか? バカなの?
「ただ好きです、と言ったところで、笑われるだけだわ」
「……笑いませんよ。罰ゲームかとは思いますけど」
「ほら、本気にしない。私を知ってもらうには、インパクトが必要でしょう?」
そりゃモテませんし、そういう経験もありますので。にしたって、不器用とかいうレベルじゃないし。
そもそも、今でも本当かどうか疑ってるんだけどな?
「……マジですか?」
「ビッチですからね。信じてもらえないでしょうけど」
「そりゃあ、好きとか言いつつ他の男の誘いに乗ってヤっちゃうなんて言われたら」
「……ビッチは嫌いですか?」
「そりゃあ。一途な方がかわいげあるし」
「……そう」
あ、拗ねた。こんな顔もするんだ。
と言ってもなぁ、今は受験にバンドで、お付き合いをしている暇もねぇし、なにより相手が浮気をしますって言ってるようなもんだしな。
「……選べるような立場でしょうか?」
「うるせぇ!」
事実だけどさ! 贅沢に選ぼうとするから童貞なんだってわかってるけどさ! だからって好きになってくれた人を無条件で好きになったら、なんか負けてる気がするじゃんか!
がっつく童貞に思われるのも嫌なんです!
「なので、ひとまずオトモダチからで」
「セフレですか?」
「そういうオトモダチじゃないんだけど……氷川さんにはヤるかヤらないかしかないの?」
「ありません。私は異性の友人というものを信じていないタチなので」
いや、あると思うけど。いない俺が言うのもなんだけど、男女が仲良くなったら即セックスじゃ、この国はもっと性行為に寛容になってると思うし。そういうのがないからこそ付き合っていける異性っていると思う。俺の幼馴染との関係だってそうだし。
「……それと、紗夜です」
「ん?」
「セフ……オトモダチから、というのなら氷川さんという他人行儀はやめてください」
「名前呼びしろってこと?」
「ええ」
「……紗夜、さん」
「はい」
こうして、俺は紗夜さんとオトモダチから始まることになった。
恐らくこのヒトはすぐ他の男とヤっちゃうだろうし、付き合うか、ハジメテを奪われるか、なんてわからないし、今の感情としては、もっと本物の清楚系がいいなぁなんて思ってるけど。
「それじゃあ、デートに行きましょう、ホテルへ」
「それだと結局セフレなんですけど……嫌ですよ」
「私はイキたいのですが」
「どっちの意味?」
──紗夜さんとしゃべって、下ネタに呆れたり、音楽のハナシをしたりしてると、割と、居心地は悪くないから、そういうのを考えるのは、後でいいかなって思うんだよな。
ビッチを卒業してくれたら、少しは考えてもいいけど。