「ねぇ知ってる?」
「なにがですか?」
「ウサギって、一年中発情できる珍しい動物なんだぁ」
「……は?」
突然そんなことを言われて俺はティースプーンを落としそうになった。だからなに、と思うと花音さんはにこにことこちらを見据えてくる。
──うん、もしかしなくてもバレてる。紗夜と燐子のこと。
「発情できる対象がいるとすぐ腰を振っちゃうんだよ?」
「それが何か?」
「カンベくんと一緒だね」
一緒じゃないですー、俺はウサギのように群れを作らずに生きていけるほど強くないし、興奮してぶうぶう鳴かない。そもそも発情できる対象がいただけで腰を振るほど性欲が強いわけでもないです。
「……そういえば、ウサギはプレイボーイのシンボルですよね」
「動物界の中で、最も性欲が強い、って話だよ?」
「俺はそこまで遊んでるわけじゃないんですけど」
「うん、だって私とはシてくれないもんね」
シません。第一紗夜や燐子ですらまだそんなに経ってないんだよ? 俺は花音さんのこと正式に好きになった覚えはないです。花音さんの片想いですー。
なんて強気に出られればいいんだけど、俺と花音さんの間には越えられない壁がある。力関係がね。
「なんで唐突にウサギなんですか」
「私ね」
「……うん」
「キミに食べられたいから」
ぞくっとした。こうやって比べちゃいけないんだろうけど、紗夜は割と不器用だ。まっすぐでだからこそ俺も紗夜の誘い方が好きなんだけど。
燐子は少し遠回しだ。おずおずと、でもしっかりと目線を合わせて誘われると、どうにも抗いがたいところがある。
それに対して花音さんは、計算されつくした妖艶さがある。首の角度、目線の合わせ方。それでいて計算外であるような、視線の熱量。
「カンベくんも、ここ一月で上手になったんじゃない?」
「確かに、漸く加減がわかってきたところかな」
「ほら……初々しさがないのは、ちょっと残念だけど」
「ホント、童貞好きですね」
「うん……カンベくんは、特に好物かな?」
余計なことは言わんでください、とこらえきれずに視線を逸らした。それをまるで合図にでもしたように、花音さんもくすくすと笑って熱をしぼめていった。この際なんで俺の性事情を詳しく知ってるかまで聞くまい。藪をつつくのは勘弁したいところだし。
「花音さんは、なんで俺なんですか?」
「深い理由はないよぉ、フィーリングってやつかなぁ」
「……セフレさんとは?」
「最近、ちょっとだけ忙しいみたい」
花音さんにとってセフレとカレシは大きな違いを持ってる。そりゃ誰だって恋人とセフレって全然違うものを差すんだけど、だからってその両方が欲しいってのは理解できないって思考停止しちゃうものだと思います。
「カレシは作らないんですか?」
「作ろうと誘ってるんだけどなぁ……」
「俺ですか、恋人いるんだけど」
「二人もね」
それを言うのはずるい。燐子も花音さんの理屈で当てはめるとそうなるよね。俺もそういう扱いしてるもん。でも他人に説明する時は燐子がオトモダチで紗夜が恋人だよって言うよ。そういう世間体って案外大事なことを童貞で理想に溺れてなんにもできなかった俺は知ってるから。
「三人目、ほしくない?」
「子どもはまだ一人も作ってませんけど?」
「まだ?」
「……言葉の綾です」
花音さんはこういうとこあるから嫌いだ。わかっててそういうことを言うからね。わかってなくて言われたらもっと困るけど。
話を逸らそうとしたら明後日の方向に返された挙句に、カンベくんにならナマでもいいよ、とか言われて苦笑いしかできなかった。
「既成事実は強いからね」
「そういう愛のない言い方はやだなぁ……?」
「俺にはない」
「私はあるもん。カンベくんを愛したいって欲求」
それを欲求って名前で表すのはやめなさいっての。ツッコミをすると花音さんはさっきより幾分か嬉しそうな顔をした。その理由を考える間もなく、俺は立ち上がった花音さんを目で追いかけた。そろそろバイトの時間だもんなと思いながら俺も立ち上がった。
「んー? 一緒にいたくなった?」
「迷子になったら困るでしょ」
「……うん」
花音さんはそこで最大級にかわいい笑顔を俺に向けてきた。はいはい、恋する乙女ですね花音さんもそういうところは。
あれだよね、なんでこう女の子って察してくれる男が好きなんだろう。俺はそんな察するセンサーに気を遣ってるとカロリー足らないよ。餓死する。
「一般論はよくないなあ」
「今日に限ってはその一般論とやらの枠内じゃんか」
「ふふ、カンベくんだからだよお」
嬉しくないです。その恋する乙女ムーブは適度に摂取しないと死ぬの? 適度に出されると俺が死ぬんだけど、やめようよ。カロリーガリガリ削れる。
そんな風にげっそりとしていると、花音さんは頬を膨らませるというあざとい仕草で、もっと構ってほしいことをアピールしてきた。
「やめて」
「そんな嫌がらないでよお」
「じゃあやめて」
「やめない」
やめないんじゃん! 立ち上がっている間もぎゅっと腕に抱き着いてくる。ああ柔らかいとか思う前に紗夜とかに怒られそうだなって思えるようになったのは成長したに違いないそうに違いないから頼むら煩悩よ去ってくれ、色即是空……空即是色!
「バイト終わったら……迎えに来て?」
「え、なんで?」
「今日、夜まであるから」
「……そんなのいつもセフレさんに頼んでるでしょ」
向こうは車も持ってるし、なんならそのまま車でヤれちゃうからって言ってませんでした? 制服カーセックスとは、恐れ入りますと紗夜がわなわなしてこっちを見たというエピソードを思い出しましたよ。
「や、今日はカンベくんがいーんです」
「かわいく言われても」
「かわいい?」
「失言でした」
にこにこしないで。もうホントに花音さんは俺をからかってくるよね! 最近紗夜がこういう立場から普通に恋人になっちゃったバランスを取るように花音さんがからかい上手になってるの許せないんだけど。高校時代じゃなくてよかった!
「行ってきますのキス……ほしいなあ」
「店の前で? 家の前じゃないんだけど?」
「して?」
「振り回してきますね、まるで恋人みたいに」
「……じゃあ、もういいもん」
ふん、と拗ねたようにくるりとターンをして、花音さんは最後に一言だけ、ばか、と呟いて店の事務室の方へと消えていった。
はぁ、どうしたらいいんだろう、とため息をついた瞬間、俺の前にピンク色の髪が意地悪く揺れてきた。
「今の、見ちゃいました」
「……う、上原さん」
「紗夜さんとお付き合いしてるのに……いけないんですよ?」
まずい人に見つかった。俺の人間関係がまだ正常だと思い込んでいた、そして騙し通せていたはずの一人、上原ひまりさんに見つかってしまった。
どう説明したらいいやらと悩んでいると、説明してあげましょう、とどこからか助け船が出された。
「……えっと、紗夜?」
「なんでしょう愛しのカンベさん?」
「いつから俺の傍にいた?」
「初めからです」
「え」
「具体的にはねぇ知ってる? からですが」
「ほぼ最初っからだね」
どうやらこのストーカー行為に定評のある恋人さん、氷川紗夜さまが説明してくれるらしく、ひとまずバイトの上原さんと別れ、俺と紗夜は近くのホテルに入ることになった。うーん計画通り! って感じで非常に納得がいかないわけですが。
とりあえず燐子が突撃してくるのだけは防げたからよしとしよう。3
そんな嘆きをしながら、今度の約束を取り付けられて、俺が今実は泥沼に引きずり込まれているんじゃないかということに気づいた。
あれ、もう手遅れか。あはは、あははは……はぁ。