愛ってなんなんだろうって考えることと正義ってなんなんだろうって考えることは、きっと同じなんだと思う。俺がまだほんの小さな頃、何かの番組で再放送されていたヒーローの歌が今でも少し、頭をよぎることがある。
──高校三年生までの俺にとって愛は、とても高い理想という壁に阻まれた手の届かない太陽だった。正義とは、間違ったことをしないという理想の壁そのものだった。そのことを振り返った時、いつもは二人きりじゃないと少し表情に乏しいカノジョが、ふわりとほほ笑みながら私もそうだったのかもしれないわ、と言った。だけど、その気持ちは踏みにじられた。路傍の花のように、あっという間に、圧倒的な欲望の前に。
そして彼女は、続いてごめんなさい、と笑った。あなたを私と同じにしてしまった、と。そんなこと気にしなくていいのに、いつだって彼女は……紗夜は、俺のハジメテを奪ったことを、どこかで後悔し続けていたんだ。だからロックちゃんの一件でも、俺に謝ってきたんだから。
「紗夜」
「……陽太」
いつだって優しくて、どこか脆さも感じる紗夜のこと。俺が放っておくわけがない。紗夜が放っておいてと言っても、必ず俺はどんなにカッコ悪くたって紗夜に縋り付くさ。なにがあったって、紗夜のことを放っておいたりしない。
「今日さ、泊まっていかない?」
「……明日も、早くに自主練習をしようと思って」
「そっか」
「……ええ、だから誘うなら白金さんにしておいて」
練習終わりに声をかけるとまるで逃げるように、傷を隠すように俺の横を通り抜けようとする紗夜を阻む。
というか俺がそれで納得するわけないでしょう? こちとら空気も読めないし二択三択も選べないヘタクソ童貞ですよ? 観念して俺を頼ってよ。だって俺は紗夜の恋人なんだよ?
「なら──別れましょう」
「……そうくるか」
「私もいい加減うんざりしていたのよ。私だけに飽き足らず二人も三人も囲って、その上何度セックスしてもデートしても童貞から抜け出せないような男に愛想が尽きたわ。それよりももっと私を満足させてくれるヒトを探しますから」
キツい言葉たち。俺をまるで敵のように睨みつけてくる紗夜の顔と言葉の槍にちょっと心が折れそうになる。
けど俺は決めてるって言ったよ。カッコ悪くても、なんだとしても紗夜を放っておかないってね!
「花音。変換して」
「……自分でやってよお」
「松原さん」
「ごめんね紗夜ちゃん。この
シリアスブレイクしてくれるのはふわふわおっとりDサイズでDTキラービッチ、松原花音さん。陽太って書いてヘタクソ童貞って読むのやめような? それに俺がちゃんと紗夜の言葉の意図を理解できない察するの下手でクソみたいに人の地雷を踏みぬく童貞だからってさ。
「それで、具体的に何があったの?」
「……あなたには関係ないでしょう」
「あるよお。私と紗夜ちゃんは他人じゃないんだから」
「他人です。もしくはこれから他人になるのよ」
え、えっとでも花音翻訳を使ったら一気に俺だけ話についていけなくなっちゃったんだけど。どういうことだってばよ。
俺がおろおろしている間にもガンガン話が進んでいってしまう。でもひとまずわかったことは、というかまぁ当然なんだけど別れたいって言葉は紗夜の意志じゃないってことだよね。
「よう……
「……紗夜?」
「あなたに止める力なんてありませんよ。この後に及んで別の女性を使わないと私の前に立つこともできないような男に、止められたくありません」
これは、つまり……もう俺には止められないってこと? と問うと花音に頭をはたかれた。諦めてどうするの? ホントにバカなの? と呆れられもした。言葉の裏を読めって難しいでしょ! そんな簡単にできていい能力じゃないはずだ!
「ごめんね陽太くんがあまりにバカだから」
「……いえ、知っていることですから」
「ん? 紗夜?」
「なんですかヘタクソ童貞さん?」
「え、えぇ……」
紗夜にまで! あ、でもこれで紗夜の言葉は嘘だということはハッキリしてるよね。俺に愛想を尽かせたらこんな煽り方はしない。でもこれは純粋に俺が意気地なしでチキンなことを煽って……あ! そういうことか!
「やっとわかったんだって」
「……そのようですね」
さっきの他の女性云々は二人きりになりたかったってことか。そして俺に止める力がってのは、強引に、例え力づくでも紗夜を俺の家に連れてってほしいっていう……俺へのSOSだったのか。そう思った瞬間に近くにちょっといい感じの高そうな車が止まった。
「乗れ」
「え、あなたは?」
「オジサンが送っていってくれるって」
「お兄さん。にしとけ」
その車と顔に見覚えがあった。花音の元セフレさん……え、でもどうしてここに? しかもなんで俺と紗夜も? 疑問がいっぱいで、でもそれは紗夜も同じようで少し戸惑ったような顔をしていた。
「陽太くんが助手席ね。このヒト脚触ってくるから」
「もうしねぇよ。あれっきりだって約束しただろ」
「……ありがとね?」
何があったのかわからないけど、とにかくその車に乗せられて、松原家の前まで送ってもらった。もしかしたらまたセフレ関係を再び結んだ代わりに助けてくれる約束をしてくれたのかな? と思っていたらおじ……じゃなくてお兄さんは花音にも降りろと言って、花音がきょとんとしながら車を降りた。
「あれ、いいの?」
「ふん、よかねぇけど、カレシと同じようなことで苦しんでる子の前でそれを履行すんのは美学に反する」
「うん知ってたから呼んだんだあ、そう言ってくれると思った」
「やっぱ乗れ、足腰立たなくなるまですることにした」
「陽太くん以外とセックスしないって決めてるから」
またもや目まぐるしく状況が進んでいく。お兄さんが舌打ちをしてから、まぁいいと切り替えて、それから俺に向かってカレシくん、と呼んでくる。あの花音と、セフレという割り切った関係とはいえ数年間かかわっていた彼が花音を見る目は、少しだけ他とは違う優しさがある気がした。
「そこの愛欲にまみれたビッチを頼んだ」
「ひどい言い方」
「愛されたいって欲求にまみれてんだろうが」
そのやりとりもなんだか気の置けないようなもので、花音も年下としての愛嬌があって、少しだけ嫉妬してしまう。俺には見せてくれない顔だから。それを見たお兄さんはいいカレシじゃねぇかと笑い、花音はでしょ? と嬉しそうに笑った。
「それと、前見たときすぐに別れそうだなって思ってたんだ。けど、それはなさそうで安心したよ。悪かったな」
それだけを言い残してお兄さんは車を走らせて行ってしまった。なんというか思ったのよりもずっとまともだなぁと思ったんだけど未成年と会うたびにセックスしてるような人がまともなわけないか。
「じゃあ私、ご飯作ってくるからその間にお話ししてきて」
「うん」
客間に押し込められ、俺はようやく息を吐きだすことができた。なんだか激動過ぎてよくわからなくなっちゃいそうだったけど、困惑気味だけどいつもの優しくて愛おしいいつもの雰囲気に戻った紗夜に向かって手を伸ばした。これで紗夜の本心が聞けるよ。
「陽太……」
「大丈夫だよ紗夜。もう大丈夫」
「ごめん、なさい……っ」
紗夜はぼろぼろと涙を流し始めてしまう。大丈夫、泣かないでよ。俺だってごめんって言わなきゃいけないところだからね。ほんの一瞬でも紗夜が本気で俺に愛想を尽かしたのかもって疑ってごめん、泣かせてごめん、気づかなくてごめん。俺の口からも紗夜の口からもごめんという言葉があふれて止まらない。
「……助けて、陽太」
「うん、もちろん」
そして最後に絞り出されたのは俺が一番望んでいた言葉だった。紗夜に何があったのか、どうして俺にあんなことを言わなきゃいけなかったのか、その原因はわからないけど、俺は俺の大好きなヒトのために、全力を出すよ。
「それで、何があったの?」
「私から、奪って、ふみにじった男のことは……知っていますよね?」
「……えっと、紗夜の初恋のヒト、だよね?」
「一応は」
あれだ、去年に日菜さんから聞いたやつだ。中学の時の弓道部の顧問で……笑顔で近づいてくる良き先生であり中身はとんだクズだったっていうあの。
どうやら紗夜は偶然にもその男に会ったらしい。まだ塀の中にいなかったことが不思議でしょうがないけど、結局逃げて姿をくらませただけだし、戻ってきていたのかな。
「その男が……?」
「ネットか何かで私と陽太のことやRoseliaのことを知ったのでしょうね。私に近づいてきたの」
「それは」
前に燐子で似たようなことがあったやつだね。あの時は燐子が逆転して終わったけど、紗夜はそういうのができなかったんだろうな。その男はまたもや紗夜を食い物にしようとしてきた。紗夜の弱みなんて幾らでももっているでしょうね。
「ええ……それで、あの男はそれをネットに流してRoseliaの評判そのものに傷をつけようとしてきたの。それが嫌なら……お金を貢げと」
「うわ」
ゲスもいいとこだよねホント。花音の元セフレさんとか紗夜の元お得意様みたいに割かし性格がマトモなのとしか会ったことないけどやっぱりこうだよね。
紗夜が稼いでるのを知って近づいてきたのか、それでついでに抱いてやるぞといけしゃあしゃあとのたまったのか。
「うーん、花音、どうしたらいいと思う?」
「いい方法があるよお」
「……あるんですか?」
「最終手段♪」
そうして花音が誰かに電話をかけて数分後、また折り返し電話がかかってきたと思ったら牢屋にブチこんどいたよって言われた。ええ……どういうこと? 一体何をどうしたらそんなことができるの?
花音の知らなかった恐ろしい一面に戦慄しながらでも安堵した。どうやら監視という名のストーキングもしていたらしく一発でアウトだよね。
「……結局、俺が助けることはできなかったね」
「いいえ、陽太の決意があったからこそ、松原さんもああいう手段に出ることができたのよ」
「そうなのかな?」
「私が松原さんでも、危険を顧みずに私を助けようとしてくれるヒトを放ってはおけないもの」
覚悟さえ持てばよかった。俺が立ち向かおうとする準備をしていたから花音が気をまわして解決してくれたってことか。一応納得しておこう。ホントは助けてって言われたからヒーローのように助けたかったんだけど。
「そこで立ち向かうことだけが、ヒーローじゃないわよ」
「そうみたいだね」
「……でも、私、怖くなったのも事実なの。あの男に言われて……自分がその流れに逆らうことのできないビッチだって、身体を売り続けてきた事実は消えないんだって言われて」
「うん」
そう、その事実は消えない。紗夜とセックスした人がたくさんいることも、それでお金を手に入れてしまったということも、消えない。でも過去は消えないなんてみんなそうだ。花音だって、たくさんの男に抱かれていた。だからああやって嫉妬に狂った男に連れていかれそうになってしまう。燐子だって、コスプレをして本当の自分じゃない自分になって色んな男に抱かれた。だからこそ時々、自分のことが不安になって泣いてしまう。俺だって、リサや美鈴を傷つけた。自分の理想ばっかり押し付けて、自分の気持ちばっかりでたくさんの人に嫌な思いをさせた。だけどさ。
「間違えたからって、幸せになっちゃいけないなんて決まりはないよ」
「……陽太」
「俺にとって紗夜はハジメテの人だよ。俺に一番最初に贅沢なくらいの愛おしさをくれた……大切な人だから」
俺にとっての愛は変わった。俺にとっての正義も変わった。大人になったから、大人になって、間違いがあっても人は変われるんだってことを知った。
だからあのヒーローはいつだって慈しみをもっていたのかな? いままでずっと苦しめられてきた敵にすら、最後は慈愛の光を放って、ともに分かり合ったように。
──俺たちは、変われるって信じてたから。