「火鍋は無しだ…………やっぱり辛い」
未だに舌が痛いらしい、ドクターはぼんやりと口元を触って身震いする。唇をなぞるだけでその悪夢と烈火の夕食が思い起こされるようで、あまりいい表情はしていない。ニェンの弾けるような笑顔が段々と怖いものに見えてくる。
夜の執務室は薄暗い。電気を付けることに異論が有るオペレーターは居ないが、彼の個人的な裁量としてライトを付ける形で作業をすることになっていた。
確かにこの場所の光はロドスのあちこちに届いてしまう。だが、文句を言うオペレーターなど居ない。
取ろうとしたペンに手がぶつかると、ころころと転がって床へと落ちていく。顔を少ししかめた。
「睡眠不足? いや栄養不足…………ないな、あの火鍋は中々重かった筈…………」
「ドクター」
呼ばれる声がした。扉は開いただろうか、気配はしただろうか。どちらも答えはノーだったが、ドクターはそれほど焦っている様子がない。
その程度のことなら対応に慣れていた。気づけば彼の横で書類を眺めているくらいなら可愛いもので、気づいたら部屋に雀卓を広げている、お土産で埋め尽くす、そんなことだってよくある。
スカジは、随分大人しい方だった。
「あぁ、スカジ。もう夜も更けてきたが…………急用だったか」
「別に。あなたがいつまで経っても明かりを消さないから、見に来ただけよ」
ペンを拾い上げて、ゆっくりとした動作でドクターに渡す。夜中に現れるには随分としっかりした服装で、それは何処か幽霊じみている。
平然とソファに腰掛けると、何を言うわけでもなくじーっと見つめている。スカジならよくあることだ。
居るのも構わず独り言のように呟く。
「光が漏れていたのか…………遮光カーテンでも付ける頃合いなのかもしれない」
「眩しいほどじゃないわ。そこまで徹底する必要性もない筈よ」
「そうか…………」
返事も尻すぼみになる。スカジは無自覚ながら会話がとてつもなく下手な人種で、こうやってすぐに話題の種も尽きて静寂に呑まれてしまう。
意外なことと言えば、彼女が存在するだけの空間というのをドクターはそれほど不快に感じたことがないということか。スカジは秘書に任命しても、殆どふらふらと部屋の本棚を漁るだけの有様だが、彼がそれに何かを物申したことも全く無い。コーヒーを飲みながら本を読んでいた時は流石に注意されたが。
夜の帳に包まれた部屋。
ただ仕事をする男と、ただ佇んでいる女。
それは数百年ほど前の、重苦しい西の絵画作品に似た不思議な空気を帯びている。
気づけば本を読んでいた。またこの部屋に置かれたものだ、スカジが歩いてくる。
「ドクター。これ、読めない」
「どれだ…………というか、良く此処までつまずかずに読んだものだ……専門書じゃないか。これは」
あれだこれだ、とドクターは難しい事を言って聞かせる。スカジにどこまで伝わっているか、ドクターにも正直わかっていない。ただ、彼女は少しずつ質問の頻度を減らしているような気はすると言うだけだ。
秘書というのも、大抵形骸化している。ドクターは一人で仕事を済ませてしまうからだ、勿論一部の手の速すぎるオペレーターにかかれば例外こそ存在するが。
スカジは特にその傾向が強い。ふらふらとしているだけだ。
「難しいことばかりしているのね、あなた達って」
「したくてしている訳でもない。それに、難しいと言えば君の身体構造も大概だと思う…………正直、未だにさっぱりと言ってもいいからな」
驚くほど低い源石の血中濃度、言葉通り怪物じみた身体能力。果ては得物の構造まで彼女については詳しく把握されていない。言うまでもなく、本人も喋ったことはない。
その人を避けるような…………正確には押しのけるような態度も噛み合って、オペレーターの中では彼女の扱いはかなり悪い方だったりする。気にしたことは、無いのだろうか。ドクターはそれも最近疑問だ。
少し妙な様子でも、この通りの真っ当な女性なのだから。
「医療班のメンバーにもよく言われてるわ。他にも、化け物、人の形をした災害、後何が有ったかしら……」
「君は人間だ。他とは違うが、それはまず間違いない」
それは科学的にも、直感的にもというのが彼の意見だ。
それでも人間だ。数々の異様を彼自身、彼女を剣として扱うことで目視したが、それは怪物扱いには程遠い。
彼女が怪物だというのなら、ロドスには怪物は腐るほど居る。相手がそう思いたいだけの主観的な妄想としか言いようがない側面もまず間違いなく存在している。
「そうなのかしら? どっちでも良いけど」
「どっちでも良くはない。君は二つの手を持ち、心は一つ、そして人間だ。怪物だったら使い潰しても痛む心はないが、スカジを使い潰すのは心が痛む」
「へぇ…………じゃあ、あなたは?」
ドクターの手が止まった。顔色は見えないが、赤い瞳がじぃと、何処か彼を推し量るような重苦しい視線を送っている。何かを訴えかけてくるような視線が耐え難い。
止まっていた両手をスカジがそっと握る。いつも物を壊すばかりだった彼女からは想像の付かない、硝子細工に触れるような弱々しい手付き。細く、白い腕を彼はやはり怪物と断ずることが出来なかった。
彼女の能力はドクターの想定通りの凄まじいもので、恐らくもっと激しい戦場でも平然と生きて帰ってくる。理屈では分かっている。
正確には彼女以外もそうだろう。危険な作戦を彼は扱おうとしない、それは半ば恐れているような節も有った、実行する時の事前準備はかなり神経質。
妥当といえば妥当だが、スカジには妥当とは言えない。少し、行き過ぎている。直感的なものだ。
「私は人間なんでしょう? そうね、二つ手があって、心も一つ。合っているわ、あなたは正しい眼を持っている――――――――じゃあ、あなたは何?」
「私も人間だ。急に、何だ…………?」
急にじゃない。
スカジの口調が一際はっきりした。
「あなたは神様でも、化物でもない。全員は助けられないし、何でもは出来ない。何も、悪いことではない筈よ…………もう少し、休んだ方が良い」
「…………休息は取っているが?」
取っていない。
「あなたは皆に怖がられているわ、ドクター」
「そうなのか? てっきり、全員私のことを体の良い玩具か何かだと思っているのだと」
「あなたの心の中には、私よりも、私が見てきた怪物よりも、もっともっと怖いものが潜んでる…………いつか、壊れてしまう」
スカジはその恐ろしいものについて、形容するのを躊躇った。
一番近い形で言うなら、恐らく”善意”。言葉の耳ざわりは驚くほど良い、それは社会的に評価されうる言葉で、スカジもそれくらいは知っていた。
今回に限ってそれでは済まない、と断じている。
そう言って他人に自分を切り売りして、自分を見失って、そして消えていく。さながら泡と溶けた人魚の如く。
「壊れはしない。君達が治せる、そういう時のための集団、組織だ」
「治らない」
「治るさ、君達はとても良くやってくれている。私は問題ないよ」
「問題しか無いのよ、ドクター。治らない」
傷は塞がっても、治ったりしない。
確かに一見治るだろう。皮膚はきれいに整う、だが中身はズタズタのままだ。忘れようと、乗り越えようと、強くなろうと、一度付けられた傷そのものは治ったりしない。
それで問題ない、等と思いこむのが最も最悪のパターン。
もう誰も、見向きしてくれなくなる。皆忘れてしまう。彼が誰のためにそんな怪我をしたのかすら、忘れられてしまう。
「…………強情だな。あの火鍋の匂いがお気に召さなかったか? アレはニェンに言って欲しい、別に――――」
スカジの視線に、とうとうドクターも黙り込む。
元々人を押し黙らせる穏やかな波のような圧力の在る瞳をしていたが、今日の彼にとってはいつも以上に声を出し辛い。
理由もわからない。
「偶には休みなさい。それが、回り回ってあなたの願いのためにもなる……………それとも。私はそれほど、信用ならなかったかしら……」
伏し目がちに尋ねるスカジの顔に、返事を迷ってしまう。
「…………よく分からないが、休めば良いのか? 仕事があるから、寝室でとも行かないのだが…………」
そう言うとドクターは目をこすった。
それは善意という名の化物。なんてね。
急ごしらえというか、半端なところで済ませました。次回に続きます。