反動として14000文字を一話に統合しているという無茶をしているので、普段とは違ってゆっくりと読み進める時間をもうけて読むことをおすすめします。
「ドクターは何で生きてるか、考えたこととか有る?」
「いや、無いな…………」
心音計の鳴り響く中病室で、彼女にそんな事を尋ねられた。
何と答えたのだったか。朦朧とした意識の中、何を考えていたのかも多くは思い出せない。
「――――――」
内容はともかく、返事はしたのだろう。
その翡翠色の瞳に吸い込まれるようで、ずっと眺めたままだったことだけが記憶にこびりついている。
「…………そうか。まだ、仕事が残っていたな……」
夜の帳に任せて、男は明かりをつけようともしなかった。暗い室内には、目を背けたくなるような書類の山。男に背負わされた積み荷の量そのものだ。
ドクターはロドスアイランドという場所にやってきてから、一体いくつ紙切れに文字を走らせたのだろう。遂行する能力が有った、それが信頼されていた、そんなちっぽけな理由が歯車のように結びつけて、彼そのものを組織にしている。
左手は動かない。先日の襲撃の後遺症がまだ残っていたのだろう、それは酷いものだった。
「もう、寝静まったか。夜も遅い……」
椅子をくるりと回して、離れの様子を眺める。明かりは無く、ロドスそのものが眠ってしまったような静寂が肌を這う。
暗闇に思いを馳せると、今度は襲撃の記憶が戻ってきた。ドクターはその浮き上がる記憶を、作戦記録でも閲覧するような冷めた心地で味わい始めた。
その作戦は内容としては簡単な地点の奪還作戦で、ターゲットの残存兵力というのも、少なくはなかったが絶望的でもない。大掛かりな作戦だとドクターもオペレーターには説明してみせたものの、内容自体に目立った点など無いというのが結論。
では何故、今彼の左腕が動かせないのか。直接的には、作戦のせいでもない。
「此処って本当に夜は静かだね。色んな場所を回ってきたつもりだけど、こういう静けさは見たことがない」
「モスティマか。ノックをして欲しい」
当然のように机に座ると、足をぶらつかせて景色に没頭する。そんな透明な瞳を伴った横顔は、あいも変わらず薄い笑顔だ。何を考えているのか分からなくて、それが今日のドクターには小さな不安になった。
「静かだが、止まっているわけでもない。これだけの建造物が有って、殆ど全ての明かりが消えている。こういうのはとても珍しいんだ…………いつも見慣れてるドクターからすれば、何の話やらって思うかもしれないけどね」
「実際、そう思った。私は外を、知らなさ過ぎるのかもしれないな」
菓子を持ってこよう、ドクターがそう言って立ち上がる。モスティマは黙ってソファに腰を落ち着けた、多くは言わない。
彼の居場所は此処で。正確には此処だけで、そういうものだろうと彼も勝手に納得した。
指揮の才があり、部下の信頼があり、成すべき使命があり、はて。彼である必要性はごまんと出揃ったが、彼がしなくてはならない理由など無い。
――――彼の負傷の原因は、怨恨だ。依頼企業のお目付け役が、最後の最後でドクターに切りかかった。かつての戦場で父を殺された……その男はそう言って、ナイフをその隠された腕に、胸に、足に、深々と差し込んだ。
最後には恨みがましい視線を撒き散らすそれに対して、ドクターは何も言えなかった。
電気をつけながら戻ってくるなり、色とりどりの菓子を置いてモスティマの向かい側に座る。当然のようにモスティマは狙いをつけようと見回した、彼は何だかんだと色んなものを毎度持ってきていて、彼女にとってはちょっとしたサプライズになっている。
「何も知らない。私が何であったのか、何をしたのか、何を以て今此処でペンを握っているのか。私は私に無関心すぎた、人の恨み言も満足に受け止められない程に、自分のことを何も知らない」
「自分のことをちゃんと分かってる人間なんて居ないよ、君は少し分かりやすいだけのことじゃないか」
身も蓋もない返しにドクターが黙り込む。
意地の悪いことを言った自覚が有ったのか、モスティマが悪びれたように口元を強く歪める。
「冗談だよ。でも、古いオペレーターの世間話を聞いてる限りだと…………自分のこと、と言えるほど“彼”は似ていなかったようだ。知ったところで、君はどうする?」
「覚えておくだろう、それだけだ。恨み言を言われた時に、“ああ、そんな事もあったな”とは言いたいというだけだ」
傲慢な悩みだね。
モスティマは無感動に切って捨てる。ドクターは怒ったわけでもなく、その一言にくたびれたように思案に遊ばせていた手を下ろす。
「そも、君はそういう事を考えてる顔に見えないけど」
「…………私は」
ドクターが口を開く前に、モスティマが彼の前にふわりと詰め寄る。机一つの距離が、あっと言う間に溶けてしまった。
息を呑むような笑み。黒々とした角と光輪のコントラストが、やはり此方側ではないという、考えてはいけない想像に頭を染め上げてくる。
元より真っ当な空気を放っているとは感じていなかったが、今日の彼女はいつもよりずっと恐ろしく。彼は竦んでしまうかと思った。
人差し指を唇に当て、しーっと小さく呟く。くぐもった声が嫌に艶を帯びた空気を醸し出していた。
「ドクター。先に言っておくけど、私は別に君の善意が間違っているとか、上っ面甚だしいとか、そういう変な話はしない。でも…………君は其処に隠しているよね?」
「そんな事は」
「誰にだって黒と白がある。君はもしかしたら少ないのかもしれないけど、それに皆甘え過ぎだ。それに…………私は“そういう所”が見たい」
悪戯っぽいようにも、誘っているようにも見える。そんな不思議な笑顔にドクターの反応は無かった。
鼓動が早い。それは彼女が女性だからか。今この状況に危機を感じているからか。それとも自分の中にある“それ”が恐ろしいからか。色々な言葉と感情がゆらゆらと頭の中を駆け巡り、漠然とした怪物になって彼の前に姿を現していく。
何かが心の中を這いずり回っている。漠然と押し込めたもの、忘れようとしたもの、どうにもならないもの。形容の仕方を忘れた。
見抜かれたようにモスティマが彼の後頭部に右手を回すと、こつりと自分の額を彼に当ててみせる。
「皆酷いことをするよね。君がいい子のふりをしているから、君が真っ白で、清く正しい怪物だと思ってるんだ」
「それは……………違うだろう……」
優しいね。一言が心に沈んでいった。
「でもそうだよ。それはそれは残酷な話だ、君は一体どこに自由があるんだい? 目が覚めて、当然のように指揮者をさせられて。必要なんだと言われて。理屈も分からず他の子達に慕われて」
それって。
聞きたくない、とドクターは思った。思わず口を塞ごうとした。
しかし彼女の左手がそっと、彼の手に重ねられる。まるで眠り薬でも含んでいるように、さっぱり手が動かなくなる。ドクター自身にもその意味がわからない。
簡単に止められるはずだった。止められない。
「綺麗事で言ってみただけで、皆は君を利用してるんだよ?」
「違う。そんなつもりじゃない筈だ、モスティマ。訂正して欲しい」
善意の鎖。期待の沼。承認の牢。過去の毒。
ドクターの頭の中は靄がかかってしまう。彼はなまじっか愚かにもなれず、それがどういう意味かも分かってしまう。
それを自分が、望んで今言わせているのだということに気づいてしまう。
目の前の堕天使はそれを弁えていた。
「うん、そうかもしれない。誰もそんなつもりはないかも、ごめんね? 君の言う通りだ、私は意地悪なことを言ったのさ」
「…………」
彼に都合のいい言葉が口から消えていく。自分がそうであるから分かるが、それは少なくとも彼女にとっては善意らしきものである。
例えその口元がどれほど歪につり上がっても。瞳の奥に期待を感じてしまっても。謝るつもりなんて毛頭なかったとしても。
自分がそういう事をするからよく分かる。
それは不器用過ぎる優しさで、自分は彼女に寄りかかってしまったのだと。ドクターにとっては、あまりに酷いことだった。
「そうだな…………だけど。“そんなつもりない”なんて、そうならもっと酷い言い草だ」
君は痛いのにね。
そう言ったきり、何もなかったように席について菓子を物色する。モスティマのそんないつも通りの姿が、どうしても直視できない。
目を伏せたのは彼女に対してか、それとも自分自身に対してか。
フィナンシェの袋を開けて、ゆっくりと口に運ぶ。たったそれだけの事が、妙なくらい艶めいて映ってしまってドクターはそっと目を閉じた。
含んで、噛んで、飲み込む。その口元に視線が吸われそうになる。
「…………ドクター。そうジロジロ見ないでよ、恥ずかしいから」
口元を抑えて参ったような笑顔を寄越すモスティマに、とても悍ましい事をしたような罪悪感が湧いてくる。
ドクターも仕方なくクッキーを食べて気分を誤魔化すことにした。パッケージを開く感触、袋を開ける音、鼻腔を突く香り、色々なものが鮮明に感じ取れる。神経過敏になっているのが彼自身も理解できてきた。
「でも。君が今の言葉に思う所があったなら…………それは大事なことだ」
平然と菓子を食べながら喋り続ける彼女の姿は日常の中にあり、しかし非日常に立っている。その不思議な様子というのが、今の彼にはどうにも惹き付けられる。
しかし目新しいというわけでもない。
「嬉しい、楽しい、気持ちがいい。世の中は確かに、そういうものだけ味わっていくほうが気楽なものだろうけど…………それはあんまりなことだ」
「あんまりな事…………そうなのか?」
そうさ。
目を瞑って水を飲む。
夜。寝静まる時間。彼らだけの時間が、彼らの裁量でゆっくりと時を刻んでいく。
「君の道は未だ開けている。決して、ドクターという押し付けられた肩書だけが全てではなかったはずだよ」
「…………押し付けられた、というのは違うな」
口が勝手に動いた。モスティマの瞳が光ったような気がしたが、そんな見間違いに興味はない。
「進んで手を伸ばした。あの日、アーミヤの手を取ったあの瞬間に救われたからだ。必要とされた、その感覚がどれほど足を前へと歩かせたかをきっと君に理解することは出来ない」
白紙の日記帳に、初めて文字を書き入れたのはアーミヤだった。それが誰であったかは、きっとどうでも良いのだろう。
ただそれを、何も知らぬまま書き記す耐え難い孤独を奪い去ってくれた誰かが居る。それが彼の行動理由のすべて。
何もなかった。間違いなくそうであったはずのものに、名前をつけてくれていた誰かは確かに居た。彼にとってはそれで十分だった、幾度振り返ってもそんな事しか思いつかなくなる。
「わた…………僕にとっては、それがとてもとても重要なことなんだ。何もかも捨てて生きていっても、僕は生きていけることはない。生かされている礼というだけだ」
「呪いみたいな言い草だよ。君は、水槽にでも飼われているつもりなのかい?」
じわりと、毒が沁み込むような傾ぐ感覚。
モスティマの言葉に関して、考えてこなかったわけではない。こんな生き方がいつまでも出来るとも思わなかったし、何か足りないという感覚はいつも脳裏を過っている。
心がざわつく。分かっていたつもりになっていたことが、束になって押し寄せてくる。
漠然と不安になる。何故生きている。何故こんな事を。何故自分がこんな目に。分からない、分かったつもりにしていた事が、乱暴な結び目が解けて、覆いかぶさってくる。さながら大波のように。火砕流のように。悪夢のように。書類のように。
言葉が口から零れ落ちる。
「もう、僕は――――――」
言葉は掬い上げられた。剥ぎ取られた面の裏、口元に温かな感触がする。
誰のせいかというのを考える必要はなかった。可能な容疑者はたった一人、気づけば目の前にしゃがみ込んでいた。
身体接触を意図的に避け、肌を見せないことを徹底してきた彼は、相対的に人の肌にとても弱くなっていた。それは時に冷酷であり、時に人間臭くも有る自分を切り離して考えさせるための策の一つでもあったが、結果として彼を弱くしてしまっていたのは皮肉だろうか。
何秒経ったか、頭が回らない。口に入り込んでくる空気が生暖かくて、頭がくらくらしてしまう。甘い匂いが漂ってくる、何のことだか考える気力が出ない。
そっと離される。夢見心地が抜けきらず、彼は思わず頭を抱えながら座り込むモスティマを見つめる。
「続きは、まだ言えそう?」
「――――――モ、モスティマ?」
「それとも、もう少し頑張りたい?」
その瞳はいつも半透明で、彼の言葉を全てかき混ぜて分からなくしてしまう。笑顔が、視線が、存在が、虚ろに見えて手を伸ばしてしまう。
触ると驚くほどその肌は柔らかく、くすぐったそうな表情は紛れもなく生きていて。
思わず溜息が漏れる。
「“ドクター”、どうする?」
「…………まだ。まだだ」
「そっか。でも君の心に空いた穴はどうやって埋めようか、頑張れないね?」
「それは…………」
答えが出ない。具体的な施策は何も出てこない、ただ漠然と“何とかする”と思ってしまう。
疑念の出た今、それと戦うには曖昧過ぎる。もっと確かで、効果的な理論が必要だ。それは、それは、それは。
頭がぐるぐるとして返事が出来ないまま固まっていると、モスティマが手袋を外し始めるのが目に入った。何をしているのか分からないまま眺めていると、そのままするりとドクターの両手に指を絡めてしまう。
「…………っ、モスティマ。これはどういうことだ」
「罪滅ぼし、かな。嫌だった?」
「そうじゃない。そうじゃなくて…………」
言葉に迷ったまま固まるドクターを他所に、ゆっくりとモスティマが身体を預けてくる。
心拍数が高まるのが分かった。距離感の近いオペレーターは何人も捌いてきていて、今更思うところなど無い――――そんな思考を終えた刹那の衝撃。
耳元で平然と呟く。
「つまらない夢のようなものだと思えばいい。私は大丈夫だよ? 君は?」
「私…………」
「そう、君だよ」
僅かに動く身体がぶつかると、嫌な熱が彼女と触れ合った部分から流れ出してくる。
「この躰で良ければ好きに使うといい。君がそれで助かるなら、いいんだ」
「…………」
「私は君の“友人”、だからね」
「リーダー、何か様子変わったよね」
「そんなつもりはないが、そう見えるか?」
凄く変わった、とエクシアが目を細める。その表情はいつも見慣れた笑顔のサンクタには遠い、冷めたところを感じてしまう。
彼の中には漠然と続く義務の日々への疑いが生まれていた。正確には、生まれたと言うより自覚したというのが正しい表現となる。
それは元よりあったもの。植え付けられたのではなく、既に芽吹いていたもの。僅かな疑念は、確かに態度に表れるようになった。
仕事は片手がやや不自由なところを除けば、だいぶ順調に進んでいる。
「まあ察しは付いてるけどね…………あたしはとやかく言う気はないよ、リーダーの良いようにすればいいと思うし」
「全部分かっている、という顔だな。君が思うほど大層なことではない、安心してくれ」
彼の大事は、世界の大事ではない。知っていたが改めて実感するようになった。
心境の変化は確かにそれなりに大きなもの。だが、仕事相手に対して報告する所は全く無いと言っていい。
歯車として生きることに疲れた、という実にシンプルな変化だった。それ以上のこともなく、それで積み上げられる書類の量も変わらず、平然とロドスアイランドは継続する。
それを実感して思うところもある。それだけの話だ。
「すっごい個人的には、リーダーも自由に生きていいってフツーに思ってるよ。選択して立てばそれは自己責任、ただキミは…………選んでなさげ」
「今日のお手伝いは随分とお喋りだ。心配しなくていい、私は大丈夫だと言っただろう」
そうかもね、と何処と無く淋しげに笑う。ドクターは返事をするわけでもなく、書類に目を通し始めた。
彼が机に向き合えば、大抵彼からアクションを起こさなければ彼は返事をしたりすることはない。その集中力は指揮をするときにも何処か似通った、言い知れない空気感を醸し出している。
今日もそれは例外ではなかったが、エクシアはそれを忘れたのか。それとも覚えているからこそか、彼を置いて喋り始める。
「縛られて生きることも、枷を捨てて生きることもどっちも悪いことではないよ。でもリーダーって何ていうのかな…………選んでないんだよね、勿論それも駄目じゃないけどさ。もっと色んなものを持ったり、捨てていったりする中ではやっぱり――――――選んで立ってるって、結構違う」
彼の手は止まることはない。エクシアは気にしている様子がなかった。
「だから良い機会だと思う。逃げても残っても、良いことだよ。ちゃんと何とかしようって思ってるから、それは無駄じゃない。つまり、えーっと…………何だっけ……」
「もう少し纏めてから喋った方が良いぞ、エクシア」
ドクターが口を挟む。困ったような笑顔がエクシアから消えた、驚いたようだ。
恐らく色んなオペレーターが此処にやってきて、雑談をして、時によってはハプニングを起こしてきただろう。それはエクシアも見たことが有る。
ただ、その中で彼が手を止めること無く口を挟んだことは一度たりともない。
休憩する時だけと、決まっていた。今、その手は止まっていない。
「…………その旅路に幸あれ。要するに、そんな話かな」
その言葉を口にした彼女の表情を、とうとう彼は見ることはなかった。
「そうか。では後で」
「ああ、後でね。ドクター」
そう言って別れていくドクターとモスティマを、アーミヤは偶々見かけた。ドクターは明後日の方へ歩いていくが、モスティマは此方へと歩いていく。
何だかそれがアーミヤにはひどく寂しくて、胸の前でそっと手を握ってしまう。何だか彼が、遠く遠くへ消えてしまうような不安が頭をよぎったのだ。
その切なげな表情が見えなかったのか、敢えては見えていてか。
モスティマは彼女に声をかけてくる。
「やあ、アーミヤ。もしかして彼を呼び止めておいた方が良かったかな?」
「…………! いえ、大丈夫ですよ。仕事は…………あっ、えっと」
思わず自分が抱える書類を見てあたふたしてしまう。全く大丈夫な気配はないが、ふと見つめた廊下の先にドクターは居ない。
分かりやすい動作にモスティマがくすりと笑う。
「そうか、遠慮しなくて良かったのに。大した話じゃなかったんだ、本当に」
「遠慮していたと言うか、そうではなくて…………」
貴方を見ていたらドクターが消えてしまう気がして。そんな事は言いたくても言えないし、アーミヤにとっては失礼極まりない言葉にしか思えなかった。
ぐっと飲み込んで苦笑いをして返す。
「ちょっと考え事をしている内にお二人が話終わっていたみたいで…………もしかして、ドクターが何処に向かったかもご存知なんですか?」
「あー、ご飯食べるって。だから食堂だろうね…………何だっけ、チーズタッカルビを食べるとか? 彼、辛いのそんな得意じゃない筈なのにね」
からから笑うモスティマに、アーミヤまでつられて笑ってしまう。彼は本当に辛いものはあまり得意ではなく、ニェンに付き合わされていた時も、この世の地獄に座っているような酷い顔つきをしていた。
何だかんだとオペレーターとの付き合いが良い、というか流されるままの彼は、本当に色んな事をオペレーター経由で経験している。
盆栽だとか、辛いものとか、楽器、食べ歩き。記憶喪失の彼にとってはとても良い体験になっているだろうと、ひっそりアーミヤまで頬を綻ばせていたりもしていて。
だが。最近の彼は、何か違う。漠然と不安だった。
「取り敢えず彼にその書類の束の話はしたほうが良いね。追いかけるなら、ついでに私もついていってお昼にしちゃうけど」
「はい。そうしましょうか」
そう言いながら足取りは存外にゆっくりで、だけど執務室はあっという間で。すぐに入って、書類を置いてしまう。モスティマがそんなアーミヤの姿を薄ぼんやりと眺めていた。
崩れた書類を整え直してから、視線に気づいたアーミヤがキョトンとしたままモスティマに話しかける。
「えっと。どうかしましたか? モスティマさん」
「――――いや? 君は丁寧な子なんだなぁって思ってた、それだけだよ」
大事なことですから、という答えと共に控えめな笑顔が帰ってくる。
モスティマが扉を閉めると、外へ出る。ばたん、という音が何だか大きく聞こえたのはアーミヤの勘違いだろうか。ぽつりぽつりと、短い道中が始まった。
何となく言葉を出せない重苦しさを感じていたアーミヤの代わりに、言葉を始めたのは彼女の方だった。
「アーミヤ。ドクターのことは、好きかい?」
急に飛んできた質問、アーミヤがあらぬ方向に想像して顔を赤らめる。
「えっ、えっと…………その」
「いやいやいや、別にそういう意味じゃないよ。勿論、どういう意味と捉えてくれても良いけどね」
からうかうような物言いにアーミヤが焦ったようにモスティマを見つめ返す。悪びれたように手を上げて苦笑いする彼女だが、その仕草が何処と無く軽薄でどういう受け取り方をすれば良いのかには迷ってしまう。
しばらく深呼吸を続けて、ようやっとと言った感じでアーミヤが答える。
「勿論好きですよ」
「そっか。意地悪な質問をするよ、良いかな?」
「…………分かりました、構えます」
ファイティングポーズを取るアーミヤに何を思ったのか、モスティマは黙って彼女の頭を撫でた。
されるがままにゆらゆらと頭を揺らすのが少し続いた後、飽きたようにぱったりと手を上げて息を吐く。何だかモスティマはいつもよりずっと、それは普通に見れば大した事には見えないが――――――深刻そうにも見えなくはない。
アーミヤは勝手に嫌な予感に想像が巡ってしまう。
「君はもし、ドクターはロドスに居ない方が幸せだろうと思ってしまったら、どうする?」
「……結構、意地悪な質問が来ました」
拗ねる余裕もない、と言った伏し目がちの表情。
「ごめんよ」
小さくモスティマは謝った。
無言の間も、窓から降り注ぐ陽光が二人を照らして止まない。アーミヤがふと縋るようにモスティマの方に振り向くと、その顔はずっと陰の中に有って、穏やかな笑顔は何かが凍ってしまったような物寂しさ。此方まで、心が凍てつく。
決してモスティマの事を嫌うわけではないけれど。ちょっぴり、怖かった。
何度か、深い息がアーミヤの口から飛んだ。しかし、答えはあった。
「…………正直な話をすると、そう思ったことは何度もありました。今のドクターは、いわば無関係です。以前と変わらない指揮も出来て、仕事もこなせて、オペレーターの皆さんとは以前よりずっと――――――そう、以前とは。違う方ですから」
違う人間だと、アーミヤだって気づいてはいる。
今こうやって生きている彼は、平然と自分の横で戦ってくれているが、やっぱりそれは彼女がかつて見たあの男とは少し違う。似ているし、頼ってしまうけど、そうするからこそ違うこともよく分かる。
ただ。それ故に思う所もない訳ではなくて。
ゆっくりと続ける。
「――でも、ドクターは逃げませんでした。一生懸命、傷だらけで、今日もああやって此処に居てくれます」
「それで?」
「だから、だからですね。これはとても勝手な、希望的観測だって分かってます」
でも。
「私をドクターが信じてくれたように、ドクターを私は信じています。もっと幸せな場所もあるかもしれません、もっと良い手段もあるかもしれません、でもドクターはその中で此処に立ってくれました。状況が追い詰めたり、複雑な見えない糸がきっとあります……………それでも」
「……それでも?」
色々なことが頭を巡った。自分は無責任なんじゃないか。彼の人生について考えたくないだけじゃないか。願うべきことは違うんじゃないか。
本当にそれは、彼女にとって小さな旅路だった。心の中には様々な言葉が思い浮かぶ。色々な反芻をして、鮮やかにそれが言葉を組み直した。四季折々のごとく、何度も何度も。めぐる言葉は一つとして、同じものなど無く。
その表情に何を思ったのか。一言が出るまで、モスティマはただ待っていた。
「私は今のドクターが不幸だなんて、言いたくありません。誰であれ、その人生が不幸だなんて、そんな酷い言葉で片付けてはいけないんです」
成程。
モスティマはアーミヤがやっとのことで吐き出した言葉を、それにしては呆気ない返答で受け止めた。そして、その表情が完全に消えた。
「…………アーミヤ、君は多分、いい子だ。だから私ははっきり言っておくことにする」
「何でしょうか」
「君のその強さが、今の彼を不幸にしているよ。そういう言葉が本来弱くて、ただの人だったものを、バケモノに近づけてしまった。事故、偶然、運命――――それはどうでも良いか」
はぁ。とモスティマが溜息をつく。
らしくないな、と彼女自身が思っていた。言葉を曝け出しすぎている、それは誰のせいか。考えるまでもない。数少ない、いやもしかするとたった一人の――――”友人”のせいだ。
まさかこんな形であの日思い出した温もりをぶつけられるとは、思っていなかった。
分かっていたが、予想外。それは今から零す言葉にだ。
「君のそれが、彼の核か。いや、どうしてだろうな…………羨ましい。羨ましいってこんな気持ちだっけ、何だか疲れちゃうなぁ……じゃあ、アーミヤ。先に謝っておくよ」
「何で、ですか」
アーミヤは今度こそ、本当に身構えた。
「これから、ドクターを殺してしまうから」
「さて。時間は随分過ぎたけど、気持ちは変わっていないということで構わないかな?」
「…………ああ」
私室に二人。今日も孤独な夜だ、と彼の胸中に虚しい寂寥感が漂ってきた。
モスティマがからから、と錠剤の入った小瓶を持ってきてはドクターによく見せる。
「ご覧の通り、これは立派な薬物。数錠も飲めば君は眠気じみた気怠さに襲われて、どんどんと身体を動かせなくなり、そして永遠の眠りにつく。とてもシンプルだね」
彼の返事はなく、冷めたような視線を感じ取るや否や、モスティマはそれ以上何も言うことはなかった。
何か抜け殻じみた様子の姿が月明かりの中ではどうにも、寂しそうに見える。ドクターは力ない様子でベッドに座り込み、粛々と彼女の言葉を待っていた。
「……本当に、一人で良いのかい? 別に良いよ、それほどの未練はないし。君が望むのであれば」
言葉の意味を考えるまでもなく、彼は即答した。
「僕は勝手に死ぬというのに、君を付き合わせようとは思わない。待っている人も居るだろう」
「…………ふーん。そっか、仕方ないね」
何処かつまらなそうに、モスティマが空返事をする。
「ただ…………看取ってくれる人も居ないと、僕も悲しくはなる。それぐらいだ」
「構わないよ。それで君が、少しでも良いと思うなら」
ただし。
とモスティマが部屋を見回して、くすくす笑うと立ち上がる。何事かとドクターも思っていたが、モスティマは落ちていた紙切れを一つ拾うとわざとらしくひらひらと見せる。
「部屋は綺麗にしておこうか。凄い散らかってて、死んでも死にきれないかも」
「……オペレーターに押し付けられたものが多くてな。ただ、一理ある」
「これ何? 鍋?」
「ニェンが押し付けてきた。今度鍋料理を作る時は僕の部屋で食べるんだとはしゃいでた」
「らしいと言えばらしいね」
ドクターの部屋には実に様々なものが有った。どれも彼が持ち込んだものではない。
殆ど全ての品物がオペレーターに贈られた、押し付けられた、必要だと言われた、おすすめされた――――そんな接頭辞を伴う品々。
その部屋に彼が持とうとしたものはない。
ただ、持って欲しいと願われたものが置かれていた。
「盆栽キット。変わったものもあるんだね」
「エンカクだ、お前には心の休養が全く足りん。話にならん、って怒られたものでな」
本当に色々なものが有った。
「CD、凄い数だね」
「フロストリーフに貸してもらったものだ。結局、聞き損ねてしまったな…………」
整理している内に、ドクターの私物らしきものは殆どないことが分かった。彼自身、少し驚いていた。
片付いた部屋の中は、以前よりずっとクリアに置かれたものが映っている。それは一度手に取ったから、綺麗に並べたから、両方の意味と言っていい。
モスティマが困ったように笑ってみせる。
「君のものはとても少ないね」
「…………僕は、こんなに貰っていたのか」
彼の感嘆符も仕方ないほど、多くのものが有った。多すぎるくらい。
「そうだね。君はこれだけのものを背負った、捨てるのも致し方なしだ…………さて。一人で飲めるかい?」
手に握った錠剤を見つめながら、コクリとうなずく。
死に目にはあまりに味気ないミネラルウォーターで、ゆっくりと飲み込んでいく。その様子をモスティマがじっと眺めていて、だがそれが不快に思うところもないのがドクターには不思議だった。
飲み干して、コップを置いて、ゆっくりとベッドに倒れ込む。
別れを告げる世界は、今日は三日月の気分らしい。ぼんやりと眺める。
「どうだい? これから君は死ぬ訳だけど、思う所とかは?」
「随分あっさりしていると。人はこんな呆気なく、死ねてしまうんだな」
そうだね、とだけ言いながら彼女もベッドに落ちてくる。
視線が合うと、彼が呟く。
「君は。こう見ると、中々綺麗だな」
「お褒めの言葉が死の間際って、ちょっと遅すぎるよ」
そうだろうな、と彼自身が感じる。
以前は怖いと思ったその姿が、何だか絵画のようだと今更ながらに気づいてしまったのだ。その半透明に思える翡翠の瞳が、曇りのない群青の髪が、くすんだ光輪が。
ただ単に美しいと思った。
それは死の手前という雰囲気のせいなのか、それとも寝転がってみたからなのかまでは判別がつかない。
「今思えば、沢山美しい人に出会った」
「…………へぇ。景色なら、私も負けないけど?」
張り合うようにモスティマが答える。
「ロドスには善悪で片付けられないものが沢山転がっていた。それは時に僕を傷つけ、励まし、怒らせ、絶望させ、とにかく忙しいものだった気がするが――――――」
小さく、眠気が襲ってきた。
「いやはや。どれも、綺麗だった」
「うん」
じんわりと、視界が滲んでくる。
一体どれほどのものが彼を動かしたのだろう、どれだけのものが生かしたのだろう、きっと眼の前の彼女にも想像のつかない、多くのものが心の中で眠っている。
全てが今、足を引っ張ってくる。遅蒔きの後悔がドクターを心をじわじわと食い潰して、食い潰した代わりに涙を吐き出していく。
その人生は残念ながら、その苦労の甲斐有ってと言うべきか。不幸にもと言うべきか。
鮮やかなものだった。それを今更思い出しても、遅すぎる。
「オペレーターに一言ずつ言っておけば良かった」
「言えないね」
声は震えて。
「早すぎたかもしれない、諦めるのが」
「どうだろう、君次第だ」
眠気が止まらなくて。
「自分の意志で選んだのを、忘れていた」
「今、思い出せたね」
死にたくなくなって。
その頃にはもう、視界は薄っすらとしていて、どうしようもなく手遅れ。
モスティマが嗚咽を漏らすドクターをそっと抱きしめながら、ただ頭を撫でて誤魔化そうとした。
「アーミヤを置いていってしまった」
「連れて行きたかった?」
「違う……連れて行って欲しかった」
足りないなぁ、とモスティマが呟く。
何がなのか、彼にはよく分からない。ただ彼女からはとても温かな体温と、優しい匂いがする気がする。遠くなる意識の中で、それだけがずっとはっきりしたままだ。
声が脳を透き通る。最後の言葉は
「おやすみ、ドクター」
そんな静かで、いつものような彼女だった。
「モスティマ、何でこんな方法でリーダーを連行するの…………? 犯罪臭がしてヤなんだけど……」
「いいからいいから。せっかくのドクターの“休暇”だ、無駄にならない内に急いで」
走るキャンピングカーの中で、エクシアとモスティマがそんな話をしていた。
当然のようにモスティマに寄りかからされているドクターは穏やかな寝息を立てていて、昨晩の姿からは全く想像もつかない安心しきった寝顔だ。
移動するロドスが遥か遠くに見えると、見つめながらエクシアが不安そうな顔をする。
「やっぱりおかしいって。睡眠薬で眠らせて連れてきたんでしょ、これ…………どうやったかは敢えて聞かないけど、後で大騒ぎじゃない?」
「大騒ぎだろうねぇ、良いじゃないか。ロドスの大黒柱が元気なんだから、ペンギン急便としても大助かり。違う?」
「いや、う~ん…………でもそんな気もしてきた! まあいっか!」
「いっかではないぞ、エクシア」
運転していたテキサスにチョップを入れられてぴーぴー言い出すエクシアに、モスティマは何処か安心した表情で返す。
前部座席が賑やかになってきたのを良いことに、こっそりとドクターの手を取って味わうように眺める。様々な思案が通っては通り過ぎていくが、大抵は意味のないことだった。
単純に、彼のガス抜きをしてやろうと思った。無意識にストレスを抑えつけるのは最悪のパターンだ、解放するには多少無茶も避けられない。結果として中々の事をしでかしてしまったし、それこそドクターの罵詈雑言なんて珍しいものも聞けてしまいそうだが、それはまあ必要経費。致し方ない犠牲である。彼女にとっては須らく、愛すべき”友人”の為なのだから。
ただもしも。彼が己の言葉を後悔せず、アーミヤが満足の行く返答をしなかった場合は――――等と考えてみたりもしたが、結果はそうではない。考える意味がないか、とモスティマは一笑に付して忘れてしまう。
結果は予想以上だった。彼女にとって死は決して否定的な捉え方をされるものではないし、事実彼に否定の言葉を浴びせるつもりなど無かったが――――――今の彼には、死は似合わない。
止まるものを歩かせないが、歩くものを止める気はない。それだけの話。
「何とか言ってよモスティマ! 私、別に浮足立ってないよね!?」
「いいや間違いない。落ち着けエクシア、そんな調子じゃ保たないぞ。これから何日もこの堕天使に私達は振り回されるんだからな」
酷い言われようだ、と困ったように笑うだけで返事はしない。理由はエクシアが面白かったから。
前部座席がいよいよ騒がしくなってきて、小さな音なんて掻き消されるようになった頃。彼女はちょっぴり、寂しそうに彼の耳元で呟く。
「私は連れて行ってくれなかったね、ドクター。酷いなぁ…………」
拗ねたような一言が、予想通り掻き消されていった。
背負わせてくれなかった、押し付けてくれなかった、それは誰一人例外ではなく。歩み寄った彼女も、例外に漏れること無く。苦悩から後悔まで、全て一人で持っていくのが彼というものらしかった。
同時にゆっくりと、彼の目が開いていく。
アーミヤから取り付けた休暇は三日。それで限界らしい、あの様子では本当にかなり切羽詰まったものらしいことは分かった。
三日有れば何だって出来るだろうと変な自信は有る。旅は慣れているから。
「おはよう、ドクター。よく眠れたかい?」
さて、難しい後書きについては活動報告の方にでも書いておきましょう。まずはお疲れさまでした。
一応、これでこの作品は一旦の最終回となります。元々風呂敷を畳む気はなかったのですが、何となくこの回が終わりに相応しいと思ったので終わりです。
気が向いたら何か増やしますが、旅をしているモスティマを放置プレイしていてそろそろ怒られが発生するのでそちらを書こうかなと。
では締めの一言。
来世はモスティマの弟になりたいです。
以上、杜甫kuresuでした。