――1995年 6月
ハリーはキョロキョロと周囲を見回す。何処かの田舎町だろうか。ハリーは墓地に転移させられたらしい。草が生い茂り、長らく管理されていない墓地だということがわかる。
墓地から見上げるような小高い丘の上には古ぼけた教会があり、墓地のすぐ近くには堂々とした大きな館があった。
ハリーは優勝杯を探すが、転移の衝撃でどこかに転がっていったのだろうか、見つけられなかった。
ハリーは杖を取り出した。なんていうことだ。全部うまくいって、全部終わったと思ってたのに。帰ったらあの校長を『死喰い人』だって告発してやる。ハリーは油断なく周囲を警戒する。ざり、ざり、と地面を歩く音が聞こえ、慌ててハリーは身を翻して墓碑に体を隠す。
……小柄な男だった。真っ黒なフード付きのローブを着て、フードを目深にかぶっている。片腕は杖に一定の角度で固定されており……おそらく何かを抱き抱えているのだろう。丁重に包まれたそれはまるでおくるみのようだった。
小男は真っ直ぐにハリーがいる墓碑の前に立った。墓碑を挟んで、ハリーと小男が1メートルもないくらい近づいた。
その瞬間、ハリーの頭、傷跡が今までにないほどに、強烈に、絶望的に痛み出した。
「が、あああっ!?」
ハリーは思わず声を上げて、墓碑から体を出して地面をのたうち回った。それくらいの激痛だった。我慢なんてできるわけがない。
痛みで弱ったハリーの襟首を、小男が掴んで、引きずり始めた。左手だ。その左手には指が一本欠けていた。ハリーはフードの奥に隠された人物が誰なのかはっきりと悟った。
「ピーター……ペティグリュー……!!」
怨嗟の声だった。助けてやったのに。命を救ってやったのに。その恩返しがこれか。
怒りと痛みに我を忘れても、ハリーにできる事はなかった。ハリーは一つの墓碑まで連れてこられると、墓碑に背中を押しつけられる。墓碑のすぐそばにあらかじめ置かれていた鞄の中から丈夫そうな縄がスルスルと這い出て来て、ハリーを縛りつけた。身動きひとつできないくらいぐるぐる巻きである。
震える手つきでピーターは拘束を確認する。たっぷり5分は確認に費やした。ハリーが腕一本動かせない状態だと念入りに確認したピーターは、黒い布を取り出すと、ハリーの口に押し込んで、それから縄で猿轡を噛ませた。
――これから何をされるんだ?
嫌な予感ばかりがする。拷問……? 処刑?
刻一刻と状況は悪くなっていく。ハリーが赤ん坊だと思っている包みがハリーの前、墓碑のすぐそばまに置かれた。もぞもぞと焦ったそうに蠢いている。その小さな赤子が蠢くたびに、ハリーの傷跡が焼鏝を当てられたかのような激痛に見舞われる。
すぐ足元に視線を向けると、胴の太さがハリーの腕ほどもある巨大な蛇がハリーが縛り付けられている墓碑の周りをぐるぐると回っている。
ごり、ごり、と重い何かを石畳の上を引き摺るような音が聞こえる。ぜい、ぜい、とピーターの荒い息遣いが聞こえる。
そして、ハリーの目の前にそれが現れた。
巨大な石の鍋だった。
大人一人がゆうに中に入れるであろう大きさの鍋の中に、不思議な液体がなみなみと満たされている。ハリーが魔法界に来る前に想像していたような、悪い魔女が使いそうな大鍋だった。
ピーターはさらに準備を進める。杖を使って火を熾すと、ほとんど一瞬で沸騰し、湯気が出て、いかにも熱湯という風になった。あれでハリーを釜茹でにでもする気なのだろうか。
もしそうだったなら、まだ良かったかもしれない。
ピーターはゆっくりと恭しく赤子を拾う。
「急げ」
赤子が声を発した。聞きたくない。もう二度とその声を聞きたくないと思うほどおぞましく、不快で、恐ろしい声だった。ハリーはこの声を聞いたことがある。忘れもしない四年前。クィレルに張り付いていたあいつだ。
まるでダイヤモンドのように煌めく鍋を見たピーターは、コクリと頷いた。
「ただいま……儀式を行います」
ピーターはおくるみを取り払い、そして、そいつがあらわになった。
ハリーは絶叫したくなった。猿轡をかまされていなければ間違いなくそうしていた。それほど恐ろしい化け物だった。
髪の毛のない肌が嫌に赤っぽい赤子の形をした何か。そしてその顔はのっぺり鼻がなく、切れ込みのような瞼の奥には赤く輝く目がギラギラとしていた。
ピーターは赤子を抱き上げる。彼の顔が嫌悪に歪む。恭しく抱き上げたまま、彼は恐怖の赤子を鍋の中に沈めた。
よし、よし。ハリーは内心喜ぶ。そのまま溺れてしまえ。茹だって死んでしまえ。
ハリーの願望は叶いそうになかった。粛々と、なんの妨害もなく儀式は進む。
「父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を蘇らせん!」
ハリーの足元の墓の表面がパクりとまるでバッグみたいに開いて、中から僅かな、細かい塵芥が浮かび上がり、サラサラと鍋の中に投入された。シュウシュウと音を立てて鍋が火花を散らす。液体の色はドギツイ原色の青色に変化していた。
ピーターは半泣きで、懐から銀色に輝く短剣を取り出した。カタカタと震えながら、彼は自分の右手を鍋の上にかざす。
啜り泣きながら、ピーターは唱える。
「しもべの――肉、――よ、喜んで差し出されん。――しもべは――ご主人様を――蘇らせん」
さっくりと、魔法がかかっているのか、儀式の効果か。まるで紙を切るかのような抵抗のなさでピーターの右手は切り落とされ、鍋の中に落ちた。
ピーターの絶叫がハリーの鼓膜を震わせる。しばらく彼は絶叫を続けていた。それでも彼は這うようにしてハリーの方へと歩いてくる。息も絶え絶えに、しかし確かに唱えながら。
「敵の血、力ずくで奪われん。……汝は……敵を蘇らせん」
殺される。そう直感した。
身動きも悲鳴も上げられない。だが、ハリーの想像に反してピーターが刺したのは心臓ではなく腕の内だった。ハリーは痛みに呻く。ピーターが短剣を取り落とし、代わりに薬瓶を懐から取り出した。ぽたぽたと流れ続ける鮮血を採取すると、ピーターは痛みに喘ぎながら鍋の下へと戻り、血を注いだ。
彼はやり遂げたようだ。力なく崩れ落ちると切り落とされた腕を押さえて啜り泣き、うずくまってしまった。
――鍋はもはや爆発しそうなくらい激しく火花を散らし、波打っていた。
失敗しろ。
ハリーは強く祈る。
失敗するんだ。
だが現実は無常だった。
急に、鍋の中に満たされていた液体全てが蒸発し、まるで霧のように蒸気があたりを包んだ。
何もかも台無しになっていてくれ。
失敗していて。
あの赤子は死んだ。そうでしょ?
だが……蒸気が晴れると、鍋の中にひとりの男がいた。
両手を緩やかに広げて、わずかに天を見上げるように顔を上げた骸骨みたいに痩せ細った男がいる。体には一本たりとも体毛がなく、指先はまるで枯れ枝のように細く、長かった。
「ローブを」
骸骨に皮を貼り合わせたような風体の男は感極まったような声で言った。ピーターは鍋のそばに置いていたことさら大事にされたローブを広げると、彼に着せた。
彼はローブの中から杖を取り出した。無造作にこつんと軽く石鍋の縁を叩くと、砂のように石鍋が崩れ去った。ゆっくりと、男がハリーの方に振り返る。
「……!」
忘れもしない顔だった。鼻のなく、切れ込みのような瞼。その奥に輝くギラギラした赤い瞳。
ああ、ハリーはこいつを知っている。
いや、もしかしたらこいつを知らない奴はいないんじゃないか。
――ヴォルデモートが復活した。
闇の時代が再び始まる。
死と闘争の時代が再来する。
――
ヴォルデモートはハリーを見て笑みを深くした。次に、ヴォルデモートは自分の体を触り始める。腕を、足を、顔を、愛おしむように、慈しむように。
ヴォルデモートは空にむかって両手を広げて、天を見上げた。握られた細長い蜘蛛の脚のような指が少しずつ広げられる。月明かりがまるで彼を祝福しているようにも見えた。そして、きっとヴォルデモートもそう思っているのだろう。彼は随分と浸っていた。
腕を犠牲にした下僕のことも、愛おしそうに周囲を這う大蛇のことも、ほんの少しも気に留めていないようだった。
ヴォルデモートは杖を愛おしげに撫でると、不意にピーターに杖を向けた。ピーターは半ば宙に浮きあがり、猛スピードでハリーのすぐ隣の墓碑に叩きつけられた。凄まじい悲鳴と、楽しげに嗤うヴォルデモート。
「ワームテールよ」
気味が悪くなるような猫撫で声だった。
「ご、ごしゅ、がほ、ご主人様。ご主人様は約束なさいました……」
「もちろんだとも。腕を伸ばすがいい……」
ヴォルデモートはピーターに……ひいてはハリーに近づきながら言う。ピーターは嬉しそうに切り落とされた腕を、震えながらヴォルデモートに差し出した。断面がありありと見えて、ハリーは思わず目を逸らした。
ヴォルデモートは杖をぴたりと切り口が見える腕に向ける。しばらくそうしたあと、楽しげにヴォルデモートが言った。
「違うな」
「……え?」
「その腕ではない」
「そ、そんな、そんな、ご主人様」
絶望した表情を見て、ヴォルデモートはさらに楽しげにわらった。
「ん? その腕ではないと、言ったのだが」
ピーターは泣いていた。情けなく、ポロポロと涙を流しながら、無事な左手を差し出す。そこには赤い、血のような刺青があった。髑髏……闇の印。
ヴォルデモートは杖の先で刺青を触り、満足そうに笑った。
「戻っている……。完全に。つまり、知っているということだな」
ヴォルデモートは杖の先を強く刺青に押しつけた。ハリーの額がまたしても強く痛む。ピーターが苦痛に呻き、泣き叫ぶ。
「……これではっきりする。これでわかる……」
血の赤から、焼け焦げたような黒色に変色した刺青を見て、ヴォルデモートは楽しげに言った。満足そうな顔をすると、ヴォルデモートはちらりとハリーを見て、それから墓地を見回す。
「何人戻るか。何人離れるか」
ヴォルデモートはしばらく、黙って待った。ふと、ヴォルデモートは墓地のそばにある館に目を向ける。しばらくそうしていたあと、マントを翻す音が聞こえた。墓と墓の間から、木の影から、暗がりという暗がりから、魔法使いが……『死喰い人』が続々と集まっていた。全員が真っ黒なローブを被り、そして仮面をつけている。総勢で20人か、もっと多いか。
「真の家族が……戻ってきた」
ヴォルデモートがそう言うと、『死喰い人』の一人が彼の足元に跪き、ヴォルデモートのローブの裾にキスをした。
「偉大なる御方……。
――我らがご主人様」
その一人がきっかけとなって、次から次へと『死喰い人』が跪いて、這いつくばってはヴォルデモートの裾にキスをした。キスをした後、彼らは離れ、まるで沙汰を待つように平伏した。その場にいる全員が平伏するようになると、ヴォルデモートはハリーの方へと向き直った。
「――
……ヴォルデモートは少しずつハリーに近づいてくる。
「14年……長かった。俺様はお前に敗れた……それは認めよう」
細長い指がハリーに伸びる。
「しかし、俺様は愚かではない……むしろその対極にある。4年前……1991年の6月。お前は何もできなかった。あの忌々しい傭兵におんぶに抱っこ……しかし俺様はお前に触れることすらできなかった。
だがもうその
ゆっくりと、恐る恐る。それでも確かにヴォルデモートはハリーの額にある傷痕に指を伸ばす。
「もう……俺様はお前に
焼けつくような痛みと共に、ヴォルデモートがハリーに触れた。クィレルの時と違い、ヴォルデモートは健在だ。その結果に満足した彼はハリーから離れ、くるりと振り返った。
「ようこそ、俺様の忠実なしもべたち……愛しい、『
ヴォルデモートは楽しそうだった。嬉しそうに笑みを浮かべ、平伏する『死喰い人』たちを見回す。
「長かった……しかし、お前たちは俺様がいたときと同じように、俺様の呼び出しに即座に応じた……我々は未だ、『闇の印』の下、結ばれている……同胞よ、家族よ……。俺様は嬉しい――そうだな?」
ヴォルデモートはひくひくと切れ込みのような鼻腔をわずかに膨らませ、臭いをかぐ仕草をした。
「だが……妙だな? 臭う……臭うぞ。
罪の匂いだ」
平伏している人間たちが、わずかに震え始める。
彼らにはわかっているのだ。
偉大なる御方、ヴォルデモート卿が、今までの怠惰を許すような人間ではけっしてないということを。
――絶望的な追及が始まる。
次回、パワハラ会議(英国版)