――1995年6月 ホグワーツ
カルカロフはやり遂げた。困難で、達成不可能だと思われる使命をやり遂げたのだ。あのアルバス・ダンブルドアを出し抜き、凶暴凶悪な傭兵の目を潜り抜け、ハリー・ポッターをしかるべき場所へと送り込むことができた。
「……あとは、戻るだけか」
「どこに、あるいは誰の下に、かのう?」
カルカロフはバッ、と振り返り杖を引き抜こうとした。ところが、杖の先端がローブから出たその瞬間に『武装解除呪文』が無言呪文で飛んできて、抵抗の余地なくカルカロフの杖が弾き飛ばされ、声をかけてきた人間、ダンブルドアの手の中に収まった。彼は興味なさげに杖をローブの中にしまうと、特徴的な……等間隔に節のようなふくらみがある杖を油断なくカルカロフに突き付けた。
「きゅ、休憩していただけだ、ダンブルドア」
「ワシは全てを見ていたよ。――残念じゃが、ワシはお主を告発するつもりはないのじゃ」
「なんだと?」
妙だった。
ダンブルドアの表情にあるのはどこまでも深い憐れみ、もっといえば同情。
「――知りたいことは全て知っておる。お主はただ、泳がされただけじゃ」
「……馬鹿な? そんな馬鹿なことがあるか」
カルカロフは驚愕した。はったりだ。老人がよくやる、自分を大きく見せるための詐術だ。
――そうでなければ、ダンブルドアはカルカロフの犯行を見逃した……もっといえば『例のあの人』の復活を黙認したことに他ならない。
「実に、難しい問題じゃった」
ダンブルドアはちょい、とほんの僅かに杖先を下げた。その瞬間、部屋の壁に合った模様だと思っていたのたうつ蛇のようなレリーフが剥がれ落ち、ロープとなってカルカロフに襲い掛かった。瞬く間に全身を縛られて床に転がったカルカロフを、ダンブルドアが憐れむような目を向ける。
「あ奴は倒さねばならん。もう二度と、魔法界が分断され、絶望と死の時代を到来させるわけにはいかん。――ゆえにワシは決断した。できればしたくなかった。じゃが、万全を期すためには致し方なかった……。すまんのう、カルカロフ」
「何を……言ってる?」
それは懺悔なのだろう。優しく、甘いダンブルドアが罪の意識を感じるほどの『何か』を、決断した。そう言う事に他ならない。
「……難しい二択じゃった。ハリーがなんの支援もなくあ奴の下から帰ってくることを期待して、ワシが全ての絵を描く道か、ハリーの生還を万全にしたうえで、計画の介入を許すか」
カルカロフは目を見開く。およそダンブルドアらしくない言葉だった。ダンブルドアはどちらかというと、狡猾な策を立てる策士であることをひた隠しにして油断を誘うタイプだ。すっとぼけ、はぐらかし、煙に巻き、少しずつ少しずつその遠大な計画に巻き込んでいく。そういう、最も対策を立てにくい策士のはずだ。
それがなぜこうもペラペラと何かを話している?
まるで……冥途の土産だとでも言わんばかりに。
カルカロフはそれだけはないと感じた。ダンブルドアはとにかく人死にが出るのを忌避する。闇の魔法使い相手の『禁じられた呪文』が解禁されたときも、ダンブルドアは頑なに『死喰い人』を殺そうとはしなかった。
つまりこれは、何かのブラフか、計画の一部か? カルカロフはそう結論付けた。
「ワシは、選ばねばならんかった……。答えを出さんわけにはいかんかった。ワシは、彼女の雇い主として、そして英雄アルバス・ダンブルドアとして……いや、違うかの。彼女がワシに求めているのはいつだって、『ホグワーツ校長』のダンブルドアじゃ。……ゆえにワシは選んだのじゃ。苦渋の決断じゃった。辛い二択じゃった」
そして、ダンブルドアは、もし他に聞いている者がいたら驚愕の余り腰を抜かしかねないことをカルカロフに言った。
「彼女は……お主を含む『死喰い人』の殲滅を実行するじゃろう。ワシは決して、彼女の邪魔をしない」
「な……なんだと? わ、私を殺すというのか?」
ダンブルドアは、恐るべきことに頷いた。あのダンブルドアが他者の殺害の是非を問われ、首肯したのだ。
「――無辜の民か、犯罪者か。どちらを守るのか。ワシは当然の選択をしたに過ぎない」
「し、『死喰い人』には生徒の親もいるのだぞ!?」
「……じゃろうなぁ」
ダンブルドアはつらそうな表情をして、天を見上げた。
「な、なぜ、あの傭兵に好きにさせる! お前は雇い主だろう!」
「そうじゃよ。しかしのう。ワシは、忠誠を得るために条件があるものを他に知っておる。彼女も、それと同じじゃよ」
ダンブルドアはパタパタと駆けてくる音を聞いて、憐れみを向けた表情を引っ込め、困惑した表情になった。杖を軽く一振りすると、カルカロフの口にロープが巻かれ、猿轡がかまされた。
「――ダンブルドア先生、いったいこれはどういうことです?」
マクゴナガルが部屋に入ってきた。
「――ワシには全くわからん……。ただ、カルカロフがハリーに向かって術を……。ハリーは一体どこに送られたのか……」
しらじらしい狸爺め。カルカロフはそう怒鳴りたくなった。いや、違う。
――そもそもあの傭兵は今、どこにいるんだ?
――1995年6月 何処かの墓地
ハリーはごくりと息を飲んだ。ヴォルデモートが『死喰い人』に対して敵意のようなものを見せ始めたのだ。
「……妙だな。妙だ……おかしい。これは何かかがおかしい……」
ヴォルデモートはひたすらにおかしいと繰り返す。何がおかしいんだ? ハリーがそう思った瞬間、ヴォルデモートは杖を持った手を大げさに振った。平伏している『死喰い人』達がびくりと大きく震える。
「お前ら全員……妙に元気だな? 最後に見た時と変わらず無傷で健やかで……んん? 最後に見た時より膨れたヤツもいるな……。魔力も全く陰りが見えない……あまりにも集合が早すぎる」
何人かの『死喰い人』がカタカタと震えだす。
「俺様は不思議でならない……わかるだろう? ここにいる魔法使いの一団は……ご主人様に永遠の、そして絶対の忠誠を誓ったはずだと俺様は思うのだが……。なぜ、誰も当のご主人様を助けようとしなかったのか?」
あの、と恐る恐る手を挙げた『死喰い人』を彼は無視した。
「家族よ! 真なる我が同胞たちよ……お前たちが何を考えているのか俺様にはわかる……家族なんだ。当然だろう? お前たちは俺様が敗れ去ったと信じたのだ。もはや復活の目はありえない。偉大なるヴォルデモート卿の名前は時と共に風化し、消えていくだけの弱い存在だったのだと確信したのだ……」
ヴォルデモートは淡々と述べていく。『死喰い人』たちは否定も肯定もしなかった。その態度こそ、何か言い訳をするよりもはるかに雄弁に語っていた。
「さすがは我が同胞たち! 素晴らしい。狡猾な我が同胞はまるで自分が脅され、呪縛され、嫌々従っていたとそう証言したのだろう……。それが忠誠を穢すことになっていると知りながら!」
ヴォルデモートは一瞬だけ怒声を上げるが、すぐに平坦な、平静そのものの声色になって言う。
「しかし……そうならばもっと不思議なことがでてきた……謎だ。この謎は解くことができるだろうか……。つまり、俺様がなぜもう二度と立ち上がれないと、復活できないと、『死んだ』と確信するに至ったのか、と。お前たちは俺様の力に忠誠を誓ったのではないのか、と。古今東西どんな魔法使いよりも強大且つ絶大な力の証を見続けてきたお前たちが、なぜ? ――そんな疑問だ」
ヴォルデモートはこつ、こつ、と歩いて平伏する『死喰い人』達の前を歩く。
「この答えも俺様は簡単に出すことができる。お前たちは愚かにも……忠誠を誓ったにもかかわらず……俺様よりも上位の力が、俺様よりも優れた魔法使いがいると、信じたのだ。もはやお前たちは『死喰い人』だったことを忘れ、他の者に忠誠を誓っているのだろう。
かのアルバス・ダンブルドアに」
そこまで言うと、ようやく『死喰い人』たちが反応した。あるものは首を振り、あるものはぶつぶつと否定の言葉をつぶやく。しかしヴォルデモートはそれらを全て無視した。
「こんな失望があるのか? この期に及んで弁明するものすら現れない……深い失望を俺様は感じている……」
一人の『死喰い人』がついに輪から飛び出してヴォルデモートのすぐそばに転げるように飛び出し、平伏した。
「ご主人様!」
悲鳴のような大声だった。
「ご主人様、お、お許しを、我々全員を、どうか、どうかお許しください!」
ヴォルデモートは乾いた笑い声をあげた。そして杖を振り上げた。
「『クルーシオ――苦しめ!』」
その『死喰い人』は地面をのたうちまわって悲鳴を上げた。
「許し? 我々全員? 『クルーシオ――苦しめ!』」
再び、勇気ある……あるいは、愚かな『死喰い人』は絶叫を上げる。ヴォルデモートは楽しそうだった。人を拷問して、徹底的に苦しめて、心から楽しそうに笑っている。
「14年……14年だ……長い雌伏の時だった……誰も助けに来ない。誰も俺様を探さない。家族だったのではないのか? 同胞だったのではないのか? 俺様に忠誠を誓ったのではないのか? ――絶望だ。それをそんな言葉だけで?
『クルーシオ――苦しめ!』」
三度の拷問魔法。その『死喰い人』はびくりと震えただけで、悲鳴を上げることすらしなかった。
「許しとは、そう簡単に得られるものではない……そうだな、ワームテール」
ヴォルデモートは失った腕の痛みに泣き続けるピーターに話しかけた。他の『死喰い人』に話しかけるより、幾分が声色が優し気だった。
「お前が俺様の下に戻ったのは真の忠誠からではなく、恐怖からだ……そんな半端者、苦痛を与えられて当然……そうだな?」
「は、はい、ご主人様……ど、どうか、どうかお願いです……私は忠誠を示しました……」
ヴォルデモートは嫌味なくらい優し気に笑った。
「そうだ。その通り。内心どう思っているかはわからぬ。しかしお前は俺様に忠誠を示した。ここにいる誰よりもお前は忠義者だと言えるだろう……尤も、他があまりにも低い忠誠心しかない故だが……」
ヴォルデモートは杖をくるくると回した。すると、杖の軌跡に溶けて液体化した銀のようなものが現れる。それがぐにゃぐにゃとまるで粘土のように形を変えて人の手のようになり、いまだに血を滴らせるピーターの腕の切り口にぴったりと収まった。
「……え?」
ピーターは泣き止み、そして呆然と、まるで神を見るかのような目でヴォルデモートを見上げた。
「忠誠には報いる……当然だ。――家族だろう?」
ピーターは感極まったように目に涙を浮かべると、平伏してただただお礼を述べた。
「わが君……ご主人様……偉大なる御方……絶対なるご主人様――ありがとうございます」
「ワームテールよ。今こそお前は俺様に真の忠誠を誓ったと判断する……。その忠誠が二度と揺るがぬようにせよ」
「わが君……そんなことは決して……」
ピーターはいそいで立ち上がると、ローブの中から仮面を取り出して顔を付けた。そうすると、他の『死喰い人』と同じように輪に入ると、平伏した。
「ルシウス」
ヴォルデモートが『死喰い人』の中にいる人間を呼んだ。――ルシウス? ルシウス・マルフォイ? ハリーは少なからずショックを受けた。去年のワールドカップの言葉が全て演技だったと、そういうことだったと知らされたようなものだからだ。
「抜け目ない友よ」
ヴォルデモートは一人の『死喰い人』のところに向かって歩き出す。
「表の人間の信頼を勝ち取りながらも昔ながらのやり方を続けているらしいな。素晴らしい。素晴らしいが……お前は一度も俺様を探そうとしなかった。クィディッチ・ワールドカップの『バカ騒ぎ』も悪くはなかった。だが、その場ですら『死喰い人』であることを表明しなかったのはなぜだ? 保身、信頼。大いに結構。しかしその狡猾さはお前のご主人様を助ける方向に発揮した方がよかったのではないか?」
「我が君」
ルシウスの声だった。間違いなくそうだった。
「私は常に備えておりました。我が君。何も前に進むだけが忠誠ではないと私は考えました。率先して我が君を探す者、助けようと策を練るもの。それらを助けることができるのは、『死喰い人』全員を見回してもこの私、ルシウス・マルフォイを置いて他にはいないと、そう確信した故に魔法省で活動を続けておりました」
「ならば」
ヴォルデモートはまるでその理論の矛盾を指摘するように言った。
「妙だ。なぜおまえはあの忌々しいマグルの傭兵が警備することを止められなかった?」
「ご主人様。あの女はマグルです。事実、彼女は我々が騒ぎを起こすと同時に奥に引っ込みました」
「欺瞞だ」
ヴォルデモートは杖をルシウスに突き付けた。
「『死』が『死喰い人』を殺しまわった……。そんなものは欺瞞だ。くだらない嘘だ。知っているぞルシウス……。お前が、『ヴォルデモート卿は、マグルがそんな力を持つわけがないと判断するだろう』と考えていると知っている……」
ルシウスが黙った。しかし、ヴォルデモートは杖を振り上げることはしなかった。
「……お前には失望させられた。これから、俺様を唸らせてくれるんだろう?」
「もちろんでございます、我が君。当然です……。誰よりもよくお仕えして見せます……。――ご慈悲を感謝いたします、我が君」
ヴォルデモートは満足したように杖を下ろすと、再び『死喰い人』達の下へと戻った。
「……レストレンジをはじめとする多くの、真に忠実なるものたちはアズカバンにいる。くだらない言い訳も、恐るべき欺瞞も使わず、俺様への忠誠を堂々と表明した見上げた同胞たちだ……。アズカバンは解放する。そして、『吸魂鬼』達やかつての忠実なる友たち、巨人たち、人狼たち……。全てが俺様の下に集い、全てが俺様に忠誠を誓う」
ヴォルデモートは空気を変えるようにハリーの方に向き直った。
「紹介しよう。諸君。忠実なる『死喰い人』二名がその命を賭してお迎え申し上げた賓客だ。その名前をハリー・ポッターという。わざわざ俺様の復活記念パーティーにご臨席賜っている」
ルシウスが、ピーターが、そして他の『死喰い人』たちが一斉にハリーを見た。
「俺様は成し遂げたのだ……。『死』の克服。その悲願を達成した。今日がその瞬間だ。今日ここに至るまで、並々ならぬ苦労があった。信じられないほどの絶望があった。苦痛があった。それらすべてはここにいるお前たちがあまりにも情けなく力がなく弱く愚かなせいなのだが……。まあ、もはや問うまい。そう、もはやどうでもよいのだ……」
ヴォルデモートはハリーに近づいた。額の傷が痛み始める。杖の先で、ヴォルデモートはハリーの顎を軽くなぞる。
「英雄……英雄? まぁいい。ハリー・ポッターはここにいる……もはや抵抗もできず、弱弱しい……ダンブルドアの協力も、母親の守りの加護も、そしてあの傭兵の助けもない。ハリー、4年前あのマグルの傭兵が気絶した魔法がどんなものか知りたいか? 知りたいだろう? 教えてやろう
『クルーシオ――苦しめ』」
痛い。
ハリーは叫びながら身をよじって震える。今まで経験したどんな痛みより、どんな苦しみよりも強い苦痛がハリーの全身を襲っている。全身の痛覚神経をやすりで削られているような、額の傷痕を中心に全身にひびが入っているかのような。そんな恐ろしい苦痛がハリーを襲う。こんな苦しみを受けるくらいな死んだ方がマシだ。早く殺してくれ。早く『死の呪文』を。
ふと、急激に痛みがなくなった。ぐったりと自分を縛る縄にもたれ、ぼんやりとヴォルデモートを見上げる。
――彼が恐れられる理由を、今ハリーは理解した。
「見たか? どうだ。これが真実だ。このガキがただの一度も俺様より強かったことなどありえない。愚かに等しい」
だが、とヴォルデモートは言って、杖をハリーの方へ向けた。ハリーはびくりと体をこわばらせる。しかし、想像していた痛みが来ることはなかった。ぶつりと音がしたかと思うと、いきなり自由の身になった。
「万全を期そう。もはや俺様が絶対なのだと、誰の目にも明らかにするとしよう……過去を清算するのだ。今ここにはただ一人のハリー・ポッターがいる。今ここで俺様がこいつを殺すことで、俺様を絶対の存在と証明することにしよう。
――さあハリー、ここまで言えばわかるな? 決闘だ」
「……」
ハリーは震えながら杖を手にする。もはや、状況は絶望だった。今年一年過酷な課題に挑戦してきたが、どんな課題よりも過酷な試練だった。そして、もはや頼みの綱は存在しない。誰もハリーの助けには来ない。もうおしまい。もし万が一ヴォルデモートに勝ったとしても、その次はここにいる『死喰い人』全員との戦闘だ。無理に決まってる。そもそもハリーは他者を殺傷する魔法を一つも覚えていないのだ。武器を取り上げるだけで、戦闘で勝てるのか。答えはノーだ。
つまり、ハリー・ポッターの人生は今日ここで、決闘が始まってすぐに終わる。
――なら。
ハリーはニッと笑った。ヴォルデモートが怪訝な顔をする。
そうだ、彼女の真似をしよう。ほとんどやけくそだった。どうせ死ぬならかっこよく、堂々と。思い出すのは、いつもそばにいてくれた警備員の姿だった。
「もちろんだよ、ヴォルデモート。今度こそあの世に送ってあげる。
――決闘だ」
ハリーは杖を構えた。
死を前にして、ハリーはそれでも武器を下ろしたりはしない。その武器がどれほど鈍らだろうと、戦うことをあきらめたりはしない。
カサンドラだってきっと、そうするだろうと思ったのだ。