——1995年 9月 『闇の魔術に対する防衛術』教室
ハリーは擬人化されたガマガエルがピンク色のカーディガンを羽織っている光景を幻視した。いや、それは幻ではなく、現実に、教師としてガマガエルに似た容姿を持つ女性が教壇に立っている。
生徒達は物静かだった。この先生がどんな先生か全くわからないのだ。厳しいのか、甘いのか。レベルは低いのか、高いのか。アンブリッジは生徒全員が座るのを確認してから、猫撫で声で……まるで幼児に接しているかのように言った。
「さぁ、みなさんこんにちは!」
いきなりのことだったので、先生の挨拶に返事をしたのは数人だった。
「まぁまぁ! みなさん、それではいけませんよ! いいですか、元気よくご挨拶しましょうね! 『こんにちは、アンブリッジ先生』ですよ? ではもう一度行きますよ?
みなさんこんにちは!」
「こんにちは、アンブリッジ先生」
周りに合わせて挨拶を唱えながら、冗談だろとハリーは言いたくなった。
これをやるのがホグワーツ入りたての1年生相手でも子供扱いしすぎだというのに、ここにいるのは5年生、15歳なのだ。この扱いにみんなが納得していないのは、ハリーがいちいち顔を確認しなくてもよくわかった。
「はい! よくご挨拶できました! みなさんに点数を上げたいくらいですわ! では、早速授業を始めていきますわね。さぁさぁ、杖をしまって、羽ペンと、羊皮紙を取り出してくださいね。教科書も出してくださいね」
ハリーはため息をつきたくなった。杖をしまっての授業は殊更につまらない。まぁ最初だし、仕方ないか。そう思ったのがいけなかったのかもしれない。アンブリッジは驚くほどに短い杖を取り出した。ふっとアンブリッジが黒板に杖を向けると、文字が現れる。多くの生徒は杖の短さに嘲笑うような笑みを浮かべたが、ハリーだけは別の感想を抱いた。
——まるでアサシンみたいだ。
意図を隠し、着弾点を隠し、魔法の発動すらも隠せそうなほど短く小さな杖は、まるで暗殺者が持つ小さなナイフ。もっと言えば、カサンドラが常に携帯しているアサシンブレードを思わせた。
『闇の魔術に対する防衛術』
基本に返れ
そんな文字がデカデカと書かれている。
「さて……これまでのホグワーツのこの授業は、一年単位で先生が変わっていましたね?」
アンブリッジは正面を向いて、体の前で指を組んだ。
「先生はしょっちゅう変わるし、その先生も『まとも』に授業をしていないし……。とても不幸なことだと思います。特に、貴方達は2年生の時延々と演劇をやらされていたというではありませんか! 3年の時は半獣、4年の時は大半を恐るべき偽物が授業をしていた! あなた方は去年犯罪者に教えられていたと言うことを重々理解しなければなりません。もちろん、あなた達に責任はありません」
アンブリッジはいかにも生徒達を想っている風に嘆いてみせた。生徒達の何人かは、ここで苦々しい顔をしている。本物の闇の魔法使いが教師になっていたのだから、その時のことを思い出せばそんな顔になるのも無理はなかった。
「あなたたちの『闇の魔術に対する防衛術』のレベルは、学生に求めるOWLレベルをはるかに下回っています。——決してみなさんを責めているわけじゃないんですよ?
今年から、そのような不幸はもう起こりません。間違いは是正されます。——ホグワーツのいくつもの間違いもまとめて。——申し訳ありませんわ、脱線しましたわ。
『闇の魔術に対する防衛術』——と、言われれば、多くの学生はきっと、実践的な何かを教わるのだろうと期待するでしょう。わたくしにも覚えがありますわ。しかし、魔法省があなた達に求めるのは知識です。よって、本年度からは理論中心の、魔法省が定める指導要綱に沿った授業を行います。
さぁみなさん、黒板の文章を書き写してくださいね」
ポン、と軽くアンブリッジが机を叩くと、黒板の文字が変化した。
1.防衛術の基礎となる原理を理解すること
2.防衛術が合法的に行使される状況認識を学習すること 3.防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめること
数分間、黒板の文字を羊皮紙に書き写す音だけが響いた。全員の手が止まったことを確認したアンブリッジは、猫撫で声で続ける。
「よろしいですわ。それではみなさん、教科書の『防衛術の理論』を持っていますか?」
ボソボソと持っています、と言う者や、所持を主張するように軽く教科書を掲げる者、反応は多々別れた。それがアンブリッジにはお気に召さなかったらしい。
「よろしいですか、みなさん。わたくしが質問したら、お返事は『はい、アンブリッジ先生』もしくは『いいえ、アンブリッジ先生』ですよ。ではもう一度。みなさんは教科書を持っていますか?」
「はい、アンブリッジ先生」
唸り声のような声が多重に重なって聞こえた。教室中がうんざりしながらも同じ答えを返したことが嬉しいらしく、アンブリッジは何度も頷いていた。
「では、教科書を5ページから『第一章、初心者の基礎』を一章分黙読してください。おしゃべりはしないでくださいね。お友達の邪魔になりますからね」
アンブリッジは教壇のそばにある椅子に座り、鋭い目でクラスを見回した。簡単なタスクに対してどう反応するのか見定めようとしているのか、それともビンズやクィレルのように教科書を読むだけのスタイルなのか。生徒達にはまだ判断がつかなかった。
ハリーは渋々言われた通りに教科書を読み進める。
あくびが出るほどつまらなかった。理論や法律の話ばかりで実践的な基礎は全く出てこない。5ページも読む頃にはハリーの目は文頭だけ読んで読み飛ばす作業に変化していた。
何分か、沈黙だけが教室を支配していた。隣のロンを見ると半分寝ているのか、瞼が半開きのまま固定されており、手元の教科書は章タイトルのあるページから少しも進んでいない。
ハリーのもう片方の隣を見ると、ハリーは一気に目が覚めた。本を開いているロンより進捗が悪い。つまり、本を開いてすらいなかった。読めと言われた本を読まないなんて、ハリーが知る中でも初めてのことだった。ハーマイオニーは高々と手を挙げて、アンブリッジに主張している。最初、アンブリッジは彼女を無視していたが、教室中の視線がハーマイオニーとアンブリッジの二人に集中するようになると、流石に無視し続けるわけにはいかなかったらしい。
「何か質問があるのかしら?」
「はい、アンブリッジ先生」
ハーマイオニーは律儀にそう答えを返す。少なくともアンブリッジの不興を買うことはなかった。
「この授業の目的について不明な点があります」
「あらあら。答えてあげたいのですけれども、今は教科書を読む時間よ? 後でちゃんと時間を取りますからね、今はお友達のためにも、教科書に集中してくださいね」
「どうしてもお願いできませんか」
アンブリッジはわずかに眉を釣り上げた。
「……お名前は?」
「はい、アンブリッジ先生。ハーマイオニー・グレンジャーです」
「何がわからないのかしら?」
「この本には『闇の魔術に対する防衛術』の行使についての記載がありません。これでは授業目的の三つめは学習できないと思いますが、どのようにして学習するのでしょうか」
「……防衛術の、行使? ミス・グレンジャー、もう一度黒板の文章をよく読んでくださいね。『防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめること』。つまり、現実に使うとしたらこう言う場面でこのように使うのだと当てはめることを言います。この授業で実際に魔法を使うことはありませんわ」
ハーマイオニーは目をパチクリと瞬かせた。
「え? そうなんですか?」
「ええ。ミス・グレンジャー。まさかこの教室で、それからみなさんの生活環境の中で防衛術が必要になることがあると思いますか? 大人の世界で生きてきたわたくしから言わせていただきますと、あり得ません」
「マジで使わないの? ほんの少しも?」
ロンが口を挟んだ。その軽口のような言葉を、アンブリッジは許さなかった。
「わたくしの授業で発言する時は手を挙げてくださいね、えっと、ミスター……」
「ウィーズリー」
「ミスター・ウィーズリー」
ヤケクソとばかりにロン、ハリー、ハーマイオニーの手が挙がった。アンブリッジは真っ直ぐハーマイオニーの目を見て、彼女を指名した。
「ミス・グレンジャー。まだ質問があるのですか?」
「はい、アンブリッジ先生。『闇の魔術に対する防衛術』の授業目的は間違いなく防御呪文の習得と実践にあると思いますが」
「間違いなく? ——ミス・グレンジャー、あなたは専門家ですか? もしくは、教師になるべく専門の教育を受けたとか?」
「いいえ、アンブリッジ先生」
アンブリッジは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、それから宣言するようにして、大きな声で言った。
「それならば、あなたに『真の目的』とやらを定める資格はありませんわ。それから、ミス・グレンジャー。あなたの主張が授業内容を歪めてしまったとして。そうした場合に発生する影響について責任を取ることができますか?」
「……いいえ。アンブリッジ先生」
「ならば、そう言うお話は先生と二人きりの時にしましょうね。
いいですか、みなさん。指導要綱は長年軽視され続けてきましたが、指導要綱それ自体はみなさんよりもずっと経験のある、ずっと賢い魔法使い達がみなさんにより良い未来と実力、経験と知識を与えるべく定められたものです。あなた達が学ぶ上で重要な、安全で危険のない——」
「それが何の役に立つって言うんだ!」
たまらなくなってハリーは叫んだ。くだらない。あまりにも現実離れしすぎている。思えば去年の授業は最高だった。禁じられた呪文に対抗するだけの実力を身につけられた。それなのに、この授業が終わっても、呪文一つ覚えている気がしなかった。
「挙手! ミスター・ポッター!」
「これでいいんだろ!? こんなやり方で一体何が——」
アンブリッジはハリーを無視して、ハリー以外に挙がっている手を指名した。
「——そこのあなた、お名前は?」
「——ディーン・トーマス」
ハリーは舌打ちして黙った。トーマスがアンブリッジに何を聞くのか知りたかった。だが、ハリーは未だ立ったままだった。
「ではミスター・トーマス。何か?」
「僕もハリーと同意見なんです。この授業じゃ襲われた時対処できない」
「まぁ、まぁ……」
アンブリッジは教室を見回した。どうも、ディーンの意見が多数派を占めることを悟ったらしい。諦めて方針変換するかと思ったハリーだったが、アンブリッジは頑なだった。
「みなさん」
笑顔だった。見る者全てを不安にさせ、不快感を与える笑顔だった。
アンブリッジは続ける。
「このクラスで——いえ、ホグワーツで襲われることがあると思いますか?」
返事はなかったが、『いいえ、アンブリッジ先生』と言う声もなかった。
「……そうではないのだと、言ってもみなさんにはきっと理解できないでしょう。悔しいことに、あなた方がそう思うに足るだけのものを、大人達は示してしまった。特にあなた方の学年はそれが顕著です。
2年生の時に教わっていた闇の魔法使いに記憶を消されかけた生徒もいますし、恐るべき化け物がホグワーツ中を恐怖に包み込みました。
3年生の時は目にするだけでも恐ろしい半獣が我が物顔でホグワーツを闊歩していました」
「——リーマス先生のことを言ってるなら相手になるぞアンブリッジ先生! リーマス先生はいい先生だった!」
「挙手を! ミスター・トーマス!」
熱くなっていく教室で、アンブリッジがェヘン、ェヘン! と咳払いした。
「……しかし、その『いい先生』は2年も続かなかったようですね、ミスター・トーマス」
「……それは……」
「——4年生の時は『死喰い人』が教師に成り代わって授業をしていたのです。恐るべき、不適切な魔法を不適切な方法で生徒に教えました」
「僕とハーマイオニーは『服従の呪文』を防げるようになった!」
「挙手してくださいと何度言えばよろしいのですか、ミスター・ポッター! では他の生徒はどうなのですか、ミスター・ポッター。ただ徒らに生徒へ恐怖を刷り込んだ結果に終わったということを忘れてはいませんか?」
「……それは」
ハリーは何も言えなかった。
「魔法省は、みなさんを怖がらせたいわけではないんです。しっかりと理論を学べば、試験にはしっかりと合格できます。みなさんが欲してやまない実践的な訓練は、大人になって就職してからでも十分、間に合います。では、あなたのお名前は?」
すかさず挙がった手を指で指すと、指名された女子生徒は嫌味なくらいはっきりと『はい、アンブリッジ先生』と言った。
「パーバディ・パチルです。アンブリッジ先生の言うことが本当なら、フクロウ試験に実技はないんですか?」
「あります。ですが、理論をしっかりと習得していれば、完璧に整えられた環境で、成果が出せないと言うことはあり得ません」
その理論にはクラス中が呆れたような顔をした。そんなことができたら練習など不要なのだ。
「それで、完璧に整えられた環境で呪文が使えてどんな役に立つっていうんですか? 僕は実戦じゃフィニートの魔法を使うのだって精一杯だった!」
「挙手! ミスター・ポッター、ここは学校ですよ?」
「僕がその実戦をやったのも学校だ!」
ハリーの反論に、アンブリッジは感心したような表情を作った。
「それは……魔法省の人間として言わせてもらいますね。本当に申し訳ありません。あなたが安全安心に学生生活を送れるよう配慮するべきだったのですが……。しかし、もはや脅威は存在しません」
「外の世界の脅威にはどう対抗すればいいんです」
「外の世界は危険地帯でも無法地帯でもありません。大丈夫ですよ、ミスター・ポッター。誰もあなたを殺そうとしたり、襲ったりしませんわ」
「本当に?」
ハリーはもはや限界に近かった。そして、思ったよりあっさりと限界を超えた。
「ヴォルデモートとかが襲ってくると思うんですけど」
ロンが息を呑んだ。
ラベンダー・ブラウンは短い小さな悲鳴を上げた。ネビルは恐怖のあまり椅子からずり落ちる。
だが、アンブリッジの目はほんの少しも揺るがなかった。いい悪いはともかく、ヴォルデモートの名前を聞いてほんの僅かも動揺しない大人を、ハリーは久々に目にした。
「グリフィンドール、10点減点です。ミスター・ポッター。お友達を脅かしてはいけません。その名前は、あなたはよくても、お友達にとってしてみれば、とてつもない恐怖を呼び起こすものです。——お友達のことを、もう少しよく考えてあげてくださいね」
あっさりと、あまりにも自然に流したアンブリッジに、教室中の視線が集まる。
「——いくつかはっきりさせておきます。みなさん。死んだ人間は生き返りません」
「でも蘇った! ヴォ……あいつは復活したんだ!」
「ミスター・ポッター、恐怖を煽るような真似は控えてください。これ以上自分の立場を悪くしないよう振る舞うことをお勧めしますわ」
それから、アンブリッジは張り付くような笑顔を浮かべたまま、見解を述べた。
「言いかけましたが……死んだ人間は決して生き返りません。それができるのは神様だけです。では、時おり聞こえるその噂話の正体はなんでしょうか? 答えは簡単です。全て嘘です。あるいは、勘違いです」
「嘘じゃない! 勘違いでもない! 僕は見た! カサンドラもムーディ先生も見た! 3人で——それに、『死』もいたんだ! みんなであいつと戦った!」
「ミスター・ポッター。再三の注意も聞いてはもらえませんでしたね。罰則です! 明日の夕方5時、わたくしの部屋においでなさい!」
アンブリッジは勝ち誇ったような顔をした。それから、さらに彼女は教室の生徒達に続ける。
「何度でも言います。魔法省が保証します。あなた方は安全だと。どこにも危険などありません。例の魔法使いの復活など嘘です。大丈夫ですよ、わたくしはいつでも相談に乗ります。何でも話してくださいね。わたくしはみなさんを助けるために、魔法省からやってきたのです。ですから、安心して、相談してくださいね。わたくしはみなさんのお友達なのですから。
——では改めて。『初心者の基礎』を読みましょう。5ページからですよ」
ハリーはまだ立ったままだった。怒りの形相でアンブリッジを睨みつけている。ハーマイオニーが裾を引いた。
「だめよハリー、抑えて」
その手を振り払って、ハリーはさらに叫んだ。
「なら、カサンドラも嘘をついてるって言うのか? ムーディ先生は昔からダンブルドア先生と仲が良かったからグルっていうのならわかる。でもカサンドラまでそんなくだらない嘘に付き合うって言うのですか?」
カサンドラの名前を出した瞬間、アンブリッジは笑みを深くした。ハリーは怪訝な表情をする。
「カサンドラはそんな主張をわたくしの前でしたりしませんでした。可能性はあるとおっしゃっていましたが、それはマグルの警備員として当然だとおっしゃっていましたね。
——ミスター・ポッター。いい子です、どうかこちらにおいでなさいな」
甘ったるい猫撫で声に触発されて、ハリーはズンズンと教壇のそばまで歩く。ここで鞭打ちでもする気だろうか。受けて立つ。そんな気概で教壇まで来たハリーだったが、アンブリッジは後ろを向いて羊皮紙に何かを書き連ねていく。しばらく羊皮紙に何かを書いたと思ったら、それをくるくると巻いて封印を施した。
「ミスター・ポッター。今から寮監のマクゴナガル先生のところに行ってこれを見せてきてくださいね」
「これは……」
「渡せば、わかりますわ」
ハリーはそれ以上何も言わず、荷物をまとめて出て行った。出て行けと言うことなのだろうと思ったからだ。上等だ、出て行ってやる。
ハリーは怒りが収まりきらないうちに、マクゴナガルのいる寮監室にたどり着いた。寮監室と書かれている札の下に、副校長室との表記もある。ハリーがノックすると、程なくしてマクゴナガルが扉を開けて出てきた。
「おやポッター。どうしたのですか? 授業は?」
「はい、これを持っていくように言われました」
押し付けるようにしてアンブリッジの書いた羊皮紙を手渡すと、羊皮紙の封印がひとりでに解放された。マクゴナガルは羊皮紙の内容を見ると、厳しい表情になった。
「お入りなさい」
「……はい先生」
これから説教だ。ハリーは憂鬱な気持ちになった。ハリーが寮監室に入ると、背中にあった扉がパタンとしまり、カチリと鍵がかかった。
——どんな事実よりも、カサンドラがヴォルデモート復活をホグワーツ生に警告していないことが、酷くショックだった。