——1995年9月 副校長室
ハリーは勧められるまま、木製のスツールに腰掛けた。テーブルを挟んで対面に座るマクゴナガルの顔は若干呆れ気味で、口元は真一文字だった。
「それで、最初の授業でアンブリッジ先生を怒鳴りつけたのは本当ですか?」
ハリーはポカンとした表情になった。
——怒鳴りつけた?
「本当です。でも僕は」
「おまちなさい。アンブリッジ先生があなたを嘘つき呼ばわりしたことは本当ですか?」
「はい! だから僕は」
「ポッター。『例のあの人』が帰ってきたと言ったのも、本当ですか?」
「はい! 本当のことをみんなに伝えないと……! ヴォルデモートは帰ってきたって! それなのになんで……」
「ポッター、ビスケットを食べなさい」
え? ハリーはテーブルの上にいつのまにか現れていたビスケット缶を見た。中にはまるで焼き立てのようなビスケットが山のように入っていた。
「さぁ、お食べなさい」
「……いただきます」
一つ手に取って、さくりと一口。強すぎず弱すぎず、絶妙な甘さ加減が舌に優しい。フレーバーとしてイチゴを使っているのか、ほんのりとイチゴの香りが鼻をくすぐった。
「ポッター、注意が必要です。あるいは、忍耐も」
ごくりとビスケットを飲み込むと、ハリーは不思議そうな顔をした。
「……注意?」
「はい。アンブリッジ先生は魔法省からの出向です。授業を疎かにするつもりはないようですが、同時に、魔法省の意向を伝えることも忘れていないようですね」
授業を疎かにしていないとマクゴナガルが判断したことに、ハリーはがっかりしたような、失望したような、そんな感覚を覚えた。
「アンブリッジ先生は、本を読み上げろとしか言わなかったんですよ? それが、授業を疎かにしていないって言うんですか?」
「授業のやり方は人それぞれです。アンブリッジ先生は生徒に読むように指示したあと、寝たり、授業には関係のない作業をしたりしましたか?」
ハリーは記憶を思い出す。——していない。あのガマガエルは嫌らしい笑みを浮かべながら、何の変化もない教室をずっと監視していた。
「いいえ」
「ならば、私から言うことはありません。しかし、あなたの意見はアンブリッジ先生にお伝えしておきましょう。通じるかどうかはわかりませんが。
——とにかく。ポッター。あなたはもう少し理性的に振る舞うべきです。いいですか、ポッター。あなたは常識を働かせるべきです」
「そんな……。でも」
言い募ろうとしたハリーに、マクゴナガルは絶望的な情報を言い渡した。
「あなたに今週から先1週間、毎晩罰則を課すと手紙にはありました」
「不当です!」
「そう言えるだけのものをあなたは示すことが出来ませんでした。罰の裁量は寮監と、そして科目の担当教授に権限があるのです」
「僕は嘘をついてない! ヴォルデモートは帰ってきたんだ!」
マクゴナガルは目を釣り上げた。
「これが嘘か真かの話だと思っているのならば、あなたの今年度の放課後は全て罰則になるでしょう。大事なのは授業中に大人しくしておくことだと理解してください」
「でも、そんな」
話はこれまでです。マクゴナガルは一方的にそう言って話を切った。
——先生に味方はいない。ハリーはそんな気さえしてきた。
——
結局のところ、ハリーがアンブリッジ最初の授業で『やり合った』ことは瞬く間にホグワーツ中の生徒が知ることになった。人から人へ、噂に噂を重ねた話が行き交うが、変わらない点が一つ、あった。
ハリーが例のあの人の復活を信じてるって言う話は本当である。
——まるで、狂人を見るような目で見られることも増えた。ハリーはそれでも自分の中の主張を曲げるつもりはなかった。
ハリーが白い目でみられるのも全て……そう、カサンドラのせいだ。
ハリーはグツグツと煮えたぎるような気持ちを抱いていた。あんなにもしっかりとヴォルデモート復活の場面を見たはずなのに。夏休みは騎士団に事務所まで貸してたくせに。それなのにカサンドラはまるでそのことが嘘だったかのように、消極的だった。
「——そうとも。ヤツがいるかどうかなんて気にするな。ホグワーツにいる限り、私が必ず守る」
「——カサンドラ!」
ハリーが遠くから呼びかけると、カサンドラが話していた下級生がまるで逃げるようにしてパタパタと駆け出していった。
「ハリーか。どうした?」
「話があるんだ」
「構わんが」
ハリーはカサンドラを厳しい目で睨んでいた。
——1995年9月 カサンドラの居室
さて、とカサンドラは武器を置くとソファに座った。ハリーにも座るよう勧めたので、ハリーも同じようにしてソファに座った。
「それで、話とはなんだ?」
「なんで、アンブリッジ先生に何も言わないの?」
「何を言うって言うんだ? 確かに評判はよくない。私も、教科書を読ませるだけの授業が正しい教育なのかと思うことはある」
「だったら」
「だがそれは教師の範疇だ。レベルの低い教師なんてホグワーツにはいくらでもいただろう? クィレル、ロックハート、それから……まぁ、トレローニーもそうだが、彼女に関しては私も偏見があるからな……まぁどちらにせよ、授業の質に関しては私がどうこうする権利はない。するべきではないしする気もない。要望を校長先生に伝えるくらいはやってもいいがな」
ハリーはそこで一度納得した。カサンドラがホグワーツの教師に一歩引いた意見を持っているのは前々から感じていたことだ。おそらくカサンドラはアンブリッジが本を読むだけの授業を一年続けたとしても、本人には小言一つ言う気はないのだろう。
「そ、それじゃあ、ヴォルデモートの復活に関してはなんで黙ってるの? 僕だけ騒いでバカみたいじゃないか」
「ああ……そのことか。ちょうどいい。言おうと思ってたことがある。ハリー。
その件を吹聴するのをやめろ」
カサンドラの鋭い口調に、ハリーは思わず目を見開いた。
「ど、どうしてさ。今は魔法界が警戒しないといけない時期なんだよ? それはわかってるよね?」
「当然だ。だがそれは子供にも適用されることじゃない。逆に言うが、もしお前の言うことをホグワーツ中が信じた時、なにが起こるか少しは考えたか?」
「何がって……当然だよ。みんながヴォルデモートや『死喰い人』に対して警戒して、例えば呪文の練習とか、戦う為の訓練とか」
ハリーがそう言うと、カサンドラは眉間に皺を寄せて、それから探るようにして一つ一つ質問していく。
「呪文の練習か。何をするのがいいと思う」
「『盾の呪文』と、それから『武装解除呪文』は当然でしょ? それから、攻撃魔法をいくつか、舌縛りとか腕縛りとかの呪いもあったら便利だと思う」
「つまり、お前は……ホグワーツの生徒が戦力になれるよう努力するべきだと言いたいんだな」
「うん。そうしないと魔法界はヴォルデモートと『死喰い人』に勝てないと思う」
カサンドラはしばらく黙った。それから、意を決するような表情になって、ばっさりと言った。
「ありがた迷惑だ、ハリー」
「なっ、なんで」
カサンドラはゆるゆると首を振った。それはまるで道理を理解していない子供に呆れる時のような仕草だった。
「ハリー、私が『闇の魔術に対する防衛術』の授業を少しだけしたのは覚えてるな? その時私が何を言ったのかも」
「もちろん。とにかく逃げろ、だよね」
「ああ。お前のしたいことを理解して、なおさら思ったよ。頼むからヴォルデモートが復活したことを言わないでくれ」
「どうして。僕は……僕はみんなのために」
「わかってる、わかってるよ、ハリー。お前が薄汚い欲望からそんなことしてるわけじゃないことは。だがな、ハリー。中途半端に戦闘技術を学んだ人間がどうしても勝てない存在と対峙した時にすることはな、逃走じゃなくて戦闘なんだ」
ハリーは頭が殴られたような衝撃を受けた。
「中途半端に力をつけるのが一番厄介なんだ。例え話で申し訳ないんだがな、もし、今のホグワーツ生がヴォルデモートに襲撃された時、ホグワーツの生徒は何人いようが間違いなく逃げようとするだろう。それができるかどうかは、さておいて。
だが、ハリーの言う通りのホグワーツになった場合、何人かは杖を抜いて戦おうとするだろう。逃げることすらできるか不明な相手に戦うことを選択するんだ。結果は見えてる。……たとえ可能性が低くとも、学生がするべきことは逃走一択だ」
「……そんな。でも僕、嘘をついてるわけじゃない」
「ああ、そうとも。先生たちはみんなわかってる。わかってて、アンブリッジの言うことが都合がいいから黙ってるんだ」
「……え?」
カサンドラはため息をついた。もしかしたらここまで言うつもりはなかったのかもしれない。
「ハリー、私がヴォルデモート復活の件を黙ってろと言うには他に理由がある。もしホグワーツ中がヴォルデモートの復活を信じたら、全員が杖を手に訓練に励むと予想したようだが、私の意見は違う。
スリザリン生へのリンチが始まるだろう。
この小さな城の中で、『死喰い人』狩りが始まるんだ。上級生の中には『真実薬』や『禁じられた呪文』を使おうとする者も現れるだろう。なにせ、相手が『死喰い人』だと『自供』すれば、闇の魔術の使用は合法だからな。
——私はここが、バカバカしくも暖かいホグワーツが気に入ってる。魔女狩り時代みたいな、そんなホグワーツにはなってほしくない。そのためならハリー。私はヤツの復活すら否定する」
「そんなことになるわけない!」
震える声で、掠れた様子でそう主張するハリーを、カサンドラはじっと見つめた。ハリー本人でもカサンドラの言葉を否定しきれていないのは明白だった。
「スリザリンの継承者だと騒がれた時のことを思い出せ。お前は半純血で、しかもグリフィンドールだ。だが、みんながそう思っているからという理由で、他にもあった細々としたほんの僅かな理由で、大多数がお前のことを継承者だと考えた。そんな状況でヤツの信奉者を山ほど出した寮に敵意が行かないと思うのか?」
「……それは……」
口籠るハリーに、カサンドラは深く、深いため息をついた。
「——気持ちはわかるよ。私だって、みんなが理性的に判断できるなら、アンブリッジと堂々やり合って……もちろん口でだが……ヤツの復活を喧伝してもよかった。だが現実はそうじゃないんだ。重ね重ね言うが、アンブリッジについては黙って耐えろ。授業は退屈かも知らんが……。まぁ、勉強ってのは楽しい面白いだけじゃない」
「カサンドラはアンブリッジ先生にホグワーツの介入を許してもいいの?」
カサンドラは苦い顔をした。明らかに納得がいっていないような顔だった。
「お前に言うことじゃ、ないんだろうけどな。私は……正直言うと、教育機関として評価したホグワーツは、そこまで点数が高いものじゃないと思ってる。特に、ハグリッドや……『闇の魔術に対する防衛術』の教師関連はな。介入しに来た奴があいつなのは気に食わないし出来れば大人しくしてて欲しいが、介入自体を止める気はない」
「なんで!? カサンドラはホグワーツが好きなんじゃないの?」
カサンドラは頷いた。
「もちろん好きだ。だが、私の感情と、客観的な事実は違う。なぁハリー。お前、自分の子供にロックハートが教えるかもしれない授業がある学校をどう思う?
50年前に杖を折られて退学になって、その上危険な魔法生物を生み出すことすら躊躇わない魔法生物飼育学の教師は本当に教師として存在してもいいのか?
変わらなければならないのは、魔法省や魔法界だけじゃないぞ、ハリー。ホグワーツも、いつか必ず変わらなければならない」
ハリーは何も言えなかった。去年なら、ロクに考えもせずもちろん通わせられると答えただろう。しかし、今のハリーには将来を考える彼女がいる。ジニーとの子供。きっと可愛いだろう。最上の未来を用意してやりたい。
——ホグワーツはそれに相応しいのか?
毎年トラブルが起きて命の危機が起こるような学校が?
ハリーは慌てて頭を振って嫌な想像を打ち消した。
「僕は……でも……」
「いいか、何度も言うがな、力のないものが中途半端に力をつけるのが一番困る。お前だって例外じゃない。いいか、ハリー。私や、そしてホグワーツはお前が楽しく……まぁしんどいこともあるだろうが、学生らしく過ごすことを望んでいる。決して、戦いの先頭に立って欲しいわけでも、殺しの技術を学んで欲しいわけでもないんだ。
——話はもういいか?」
「……うん」
ハリーは小さな声でそう言うと、とぼとぼとカサンドラの居室から出た。
——自分は間違っていたのか?
少年の悩みは尽きない。
アンブリッジの評判は最悪だ。
——だがそれは、教師にとったら、大人にしてみれば全然我慢できることで、むしろアンブリッジの言葉にはメリットすらあるのかもしれない。
——大人って、なんだか……汚いなぁ。
多くの学生が思ってきただろう言葉を、ハリーは胸中に思い浮かべた。
——そう、アンブリッジは多少悪意が見え隠れするが、今はまだ、はちゃめちゃでちゃらんぽらんなホグワーツを危惧した魔法省からの出向員にしか見えない。
——今はまだ。