――カサンドラのことを、ハリーは誰かに言うつもりはなかった。あまりにも恐ろしく、そして、なによりも隠しておくべきだと思ったのだ。
恐ろしいし、正直言うとカサンドラから距離を置こうかと思うほど衝撃的な事実ではあったが、カサンドラのすることは、はっきり言うとハリーにとってメリットがある。カサンドラとダンブルドアが一人しかいないように、ヴォルデモートも一人しかいない。その手足となって動く『死喰い人』が減れば、ハリーやジニー、他の人たちに危険が及ぶ可能性は限りなく少なくなる。
――それでも、複雑な気持ちだった。カサンドラが急にわからなくなったような気がした。
「……ハリー、どうしたんだ? 顔暗いけど」
「え? ……ああ……その、ハグリッドはどうしたのかなって思ってさ」
取り繕うように、ハリーは先程の授業のことを話題に出した。今年度はなぜか森番もしていない様子の大きな友人。
「カサンドラに聞いたんだけど、50年分の有給休暇を消化してるって言ってたわ」
「なぁ、それどこまで本当なんだ? ハーマイオニー、もうカサンドラから聞くのやめろよ。何も言わないし、言ってもはぐらかされるだけだろ。僕去年のこと忘れてないからな」
ロンが不機嫌そうに言った。トライウィザードトーナメントのことを、カサンドラは間違いなく知っていたはずだ。にも関わらず、家庭内バーベキューの時にカサンドラは適当な、もっともらしいことを言ったのだ。
「う……確かにそうね。でも、正直な話、どの先生に聞いても同じような答えしか返ってこないの」
「……なら、仕方ないか」
ロンはハーマイオニーの言葉で納得したようだった。とにかく、いろんな事情があるのだろう。大事なことは、あの大きな友人は今ホグワーツにいないという事だった。一日の科目があらかた終わり、あとは夕食を大広間で食べるだけという頃になると、三人のそばを、一人の少女が通りかかった。どうやら何かを探していたようで、ローブの裾が埃で汚れていた。
「あ、ルーナ」
「ロン。元気? 私は……ウン、元気」
彼女、『ルーニー』ルーナ・ラブグッドは、ロンに声を掛けられると、くるりと振り返った。ど派手な、まるでクリスマスツリーのてっぺんに置くような大きな黄色の星のイヤリングを付けており、片手には『クィブラー』があった。
「でもナーグルはいなかった」
どうやら、ルーナはあいも変わらずナーグルという存在するかもどうかわからないあやふやな存在を探し回っているらしい。ルーナはじっとハリーを見る。
「私は信じてるよ」
「え?」
「『例のあの人』は帰ってきた。私は信じてるもん」
「あ、ありがとう」
ハリーは少し不思議そうにしながらもお礼を言った。今のハリーはそれがたとえ『ルーニー』からのものといえど、信じてくれると言う言葉が嬉しかった。
「……それだけ」
そう言ってルーナはどこかへと歩き去ってしまった。
「……あの子は、存在しない生き物を探すのが趣味なのよ。ナーグルや、しわしわ角のスノーカックとか、そういう伝説を探すのが」
「ハーマイオニー。魔法界にくる前にトロールとドラゴンが実在するって言われたら信じてた?」
ハリーが言うと、ハーマイオニーは唸った。
「それは確かに信じてなかったけど……」
「なら、もしかしたらルーナが探してる生き物も、まだ見つかってないだけで存在してるかもしれないじゃないか。僕を信じてくれる数少ない人を頭ごなしに否定するのはやめてくれないかな」
「浮気かハリー?」
「そんなんじゃないってば」
馬鹿な話をしながら大広間までの道を歩く。すると、ハリーはいきなりがしりと肩を掴まれた。
「誰? なんだって言うんだ!?」
「教えてあげましょうか」
低い、怨霊のような声だった。ハリーは顔を青くして、ぎぎぎとまるで錆びついたブリキのおもちゃのような風に後ろを見た。
「――金曜日の五時に罰則を喰らうなんて何考えてるの?」
「あ、アンジェリーナ」
グリフィンドールの新キャプテンがまるで怨敵を見るような目でハリーを見ていた。
「えっと」
「言い訳はいらないわ。話は聞いてる。つまり、君は。
大事な大事なキーパー選別をサボることを決めたわけだ。何度も念押ししたというのに。チームにうまくハマる選手を選びたいというキャプテンの意向をあっさり無視して」
「いや、僕が決めたんじゃないんだけど」
ハリーは理不尽な言い方に思わず反論した。
「アンブリッジの奴に罰則を喰らわせられたんだ。その、僕が『真実』を話したことで」
「言い訳は、いらないわ」
アンジェリーナの目は爛々と光っており、それでいて虚だった。この目をハリーを見たことがある。去年までのキャプテンがこう言う目をしていた。
「あなたがするべきなのは、どんな手段を使ってでも、自由を勝ち取ることよ。わかるでしょう? 暴力、詐術、脅迫、なんでも使って。それこそ、『例のあの人』のことは僕の妄想でしたと言ってでも。とにかく、来るんだ。何が何でも!」
アンジェリーナはばん、とハリーの肩を大きく叩いたあと、大股で嵐のように去った。
「……なぁハリー、ウッドってどのチームに入ったんだっけ」
「パドルミア・ユナイテッド」
「死んでるかどうか確認しようぜ。魂が乗り移ってる」
「――そうだね」
ロンの馬鹿な話にそう返すハリーだったが、頭ではやはり、アンブリッジをどう説得するかを考えていた。
――どんな手段を使っても、どう考えてもアンブリッジが罰を手加減するとは思えなかった。
「でもハリー、あんまり遅くならないといいわよね。その、宿題も多いし」
「……そうだね」
それも無理そうだな、とハリーはうっすら予感していた。
こういう時の嫌な予感というのはいつだって当たるのだ。
――
ああ、やっぱりダメそう。
ハリーは『闇の魔術に対する防衛術』の教授の部屋に入った瞬間、どうやっても説得は不可能だと悟った。それくらい楽しそうな笑みをアンブリッジは浮かべていたのだ。
――『闇の魔術に対する防衛術』の教授の部屋は、割とかなりの頻度で模様替えされる。クィレルの時はニンニクが吊るされていたし、ロックハートの時は自画像で埋め尽くされていた。まともな教授っぽい部屋だったのはルーピンの時くらいだろうか。偽物のムーディの部屋には入ったことがなかった。
そして、今。ハリーは御伽噺の世界に迷い込んだのではないかと思うような部屋に足を踏み入れていた。
――ピンク色。
そして少女趣味。
壁や机にはゆったりと襞を取ったレースのカバーや布で覆われている。色は淡いピンク色。
ドライフラワーを生けた花瓶が部屋に数個。原色の赤いバラである。その花瓶敷も可愛らしいレースがあしらわれており、壁には可愛い服を着た可愛い猫が描かれた絵画が飾ってある。
ジニーの部屋がこんな風ならきっとドキドキしてたまらないだろうな。
ハリーは現実逃避した。ホグワーツ入りたての女の子か、死ぬほど好きな彼女の部屋でもない限り許されそうにない内装の部屋に、花柄模様のピンクのローブを着たミス・ガマガエルが鎮座しているのだ。そう思うのも無理はない。
「あー……。こんばんは、アンブリッジ先生。その、素敵なお部屋ですね」
しかし、今のハリーには為せねばならない使命があった。なんとかしてキーパー選別の日の午後の自由を勝ち取らねばならないのだ。
そのためにハリーは、プライドを切り売りすることに決めた。
「はい、こんばんは、ミスター・ポッター。まぁ、まぁ……」
アンブリッジは楽しそうだった。恍惚とした表情を浮かべていた。
「さあさあ、おすわりになって? わたくし……とても嬉しいのです。あれほどわたくしのいうことを聞いてもらえなかったお友達が、こんなにも大人しくしている。――わかっていますわ。お願い事があるのでしょう?」
ハリーは頷いた。示された椅子に座り、ハリーのために用意されたであろう羊皮紙が何枚も、何枚も、気が遠くなるような数用意されていた。
「はい。その、僕はグリフィンドールのクィディッチ選手で……その、新キーパーの選別を金曜の午後五時にやることになったんです。ですからその――」
「罰則を外してほしい?」
ハリーは頷いた。物凄く物分かりがいい様子に、嫌な予感がふつふつと湧いてくる。
「そうですわね。気持ちはわかりますわ。今年のキャプテンは新人さんですものね。チームを万全にしたいなら、選別にチーム全員がいることを望むでしょうね。――わたくし、正直に言いますとキーパーの選出にシーカーが参加する必要があるのでしょうか?」
ゾクリと、ハリーは全身が泡立つのを感じた。
知らないだろうと思っていた。ハリーがシーカーであることも、今年からグリフィンドールのキャプテンが変更になったことも、そして、新人のキャプテンが何を考えるかなんてことも。
あんな授業をやるんだ。どう考えても生徒のことに興味があるようになんて見えなかったのに。むしろ、入ったばかりの先生にしては、かなり頑張って生徒のことを考えているようにも見える。
――だが、今は……あるいは、ずっと。その情報は常に悪意を持って扱わられる。
「ええ、ですから、答えはもちろん『ダメ』ですわ。いいですか、ポッター。罰というのは、何をするかいつするかということは、罰を与える側が決めることであって、受ける側が選べるものではないのですよ」
幼児に言い聞かせるような甘い上擦った声でアンブリッジは言った。
「――ごめんなさい、アンブリッジ先生」
「素直でいい子です。でもそんなことで罰がなくなったりはしませんからね。明日も、明後日も、そして金曜日も、あなたはここで、罰を受けるのです」
アンブリッジは立ち上がった。
ハリーはギリ、と歯を食いしばった。何かを言いたかった。でも何も言い返せないし、言ってはならないとわかっていた。
「――ほうら、もう効果が出てきましたわね。『もう二度と罰則なんて受けたくない』そう思わないと罰の意味がありませんわ」
ああ、もう、何もかも失敗だ。ハリーはため息を吐きそうになりながらも、鞄から羽根ペンを取り出した。アンブリッジは満足そうな表情で、ハリーの対面側に座る。彼女の手には、万年筆のようなペンが握られていた。
――?
ハリーは若干、そのペンに対して怖気のようなものを感じた。
「……本当は『これ』を使いたかったんですけれど。素晴らしいですわね。生徒を外傷から守る最強の警備員さんに守られているホグワーツで学べるあなたは、とても幸福なことなのですよ」
『血の万年筆』と呼ばれる闇の魔術の品がある。見た目はただの万年筆。しかしインク壺にペン先を浸しても文字は書けない。
何もつけず、ただ書くだけで文字を書くことができる魔法のアイテムだ。
ただし、文字を書く際には使用者の血液をインクとして消費する。使用者の体には、書いた文字と同一の、まるで刺青を入れたような傷跡が出来るという。
アンブリッジが手にするペンはそんな恐ろしいものだった。アンブリッジはこれを使って生徒を責め苛む日が楽しみで仕方なかった。
――のだが、ホグワーツの就任前、マルフォイに強く警告されたのだ。
『生徒を物理的に傷つける真似は絶対に避けろ』と。
ホグワーツに来てから、その忠告が正しいことを知った。故に、アンブリッジは方針を転換することにしたのだ。
――何も、責め苛むのにわざわざ傷をつける必要などないのだ。
「さぁ、今日は……5枚にしましょうか」
「5枚?」
ええ、とアンブリッジは言った。
「いいですか、ミスター・ポッター。『僕は嘘をついてはいけない』と、羊皮紙5枚がいっぱいになるまで書き続けるのですよ。それを何回も繰り返します。わたくしがいいと言うまで、ですわ。もちろん、罰則が重くなるに値する言動をすれば、書く分量が増えますからね。
できそうですか? できそうにないなら、別の罰を考えましょう」
その程度か。なら大丈夫だ。ハリーはそう判断した。その別の罰が今より簡単な保証もない。今が一番楽なパターンだろうな。ハリーはそう思って、頷いた。
「はい、アンブリッジ先生」
「そうですか。それなら、早速始めてくださいね」
ハリーは間抜けにもそんなことを考えていた。
何の意味もない作業を延々とやらされる。それがどれほど心に重くのしかかるか、ハリーは全く、かけらも想像していなかった。
『僕は嘘をついてはいけない』
羊皮紙いっぱいになるまで書く。3枚超えたあたりでしんどくなってくる。もう文字を書くのも辛い。だがもう少し終わる。
4枚を過ぎたあとで、ちょっとした達成感のようなものすら湧いてくる。しんどいけど、もうちょっとで終わる。
5枚書き切った。ふう、とハリーは息をつく。
「終わりました。アンブリッジ先生」
「はい、よくできました、ミスター・ポッター」
アンブリッジは羊皮紙にちらりとも視線をやらずに、こう言った。
「では消してください」
「え?」
「今書いた羊皮紙の文字を、キレイに消してください。消し終わったら、また5枚、同じ文字を書くんですよ?」
ズン、とハリーの心に疲労と徒労感がドッと押し寄せた。
――
3回ほど、書いては消し書いては消しを繰り返して、日を跨ぐか跨がないかのところで解放された。
想像以上に辛かった。どうせ消すとわかっているものを書き続ける苦痛。
アンブリッジは文字自体を見ようともしない。無駄なことをしているのだと理解させられる苦痛。
そして、ただひたすらに時間を浪費するように組まれた罰則を、これから1週間を受け続けなければならないのだという絶望。
ハリーは一日だけなのに、疲弊度合いが極限に達しそうになっていた。こんな様子では日々の勉強すらおぼつかないかもしれない。
しかも嫌らしいことに、アンブリッジは何も違法なことをしていない。闇の魔術の品をチラつかせはしたが使いはしなかった。あの品だって授業の資料が何かだろう。
カサンドラには頼れない。カサンドラは教師が与える罰則にはノータッチだ。むしろ早く行けと急かしさえするだろう。
つまり、ハリーが罰から……あの絶望的な無駄な作業から逃れる術はないのだ。
ハリーはたまらなくなって、ホグワーツの廊下を駆け出した。辛い気持ちが、苦しい気持ちが、頭の中から消えてくれるよう願いながら。
血のインクの羽根ペンは、本作では使用されません。使うと警備員さんに消されるからね。