——1995年 9月 職員室
職員にとってのアンブリッジは、目の上のたんこぶであると同時に、同じように生徒たちを教え導く同僚という非常に扱いにくいものだった。
だが、カサンドラの予想とは裏腹に、アンブリッジは初日にダンブルドアに対するネガティヴキャンペーンを始めた以降、そこまで露骨に校長への批判をすることはなくなっていた。まぁ、その1日目のせいで他の教員からはめちゃくちゃ嫌われてはいるが、ロックハートのように忌み嫌われているというほどでもない。
その嫌われ者のアンブリッジは、カサンドラの目には思ったよりも勤勉に映った。
よく先輩の話を聞くし、生徒たちのこともよく知ろうとしている。教科書を読むだけの授業や、殊更生徒たちをコントロールしたがる癖も指摘されてはいるが……どうやら、新任にはしばしば見られる傾向らしく、悪辣な意思のもと行われているとは思っていないらしい。
「——ですから、アンブリッジ先生。我々は権限を使って生徒たちを押さえ込むことはできます。しかし、それをしては生徒に嫌われてしまうでしょう」
「ええ、ええ、マクゴナガル先生」
にちゃりと嫌な笑みを浮かべて何が可笑しいのか顔に笑顔を貼り付けている。声も甘ったるい声でまるで年頃の乙女のよう。だが、それを殊更に指摘したりはしない。大人だからというのもあるが、前任者たちを思えばアンブリッジの言動はまだマシなのだ。
「質問してもよろしいですか、マクゴナガル先生」
「はいどうぞ、アンブリッジ先生。それから、私とあなたはもう先生と生徒ではないのです。学生時代のように振る舞わなくても結構ですよ」
「……ありがとうございます、マクゴナガル先生。ええっと、実は相談事があって」
チラリと、アンブリッジはカサンドラの方を見た。カサンドラは首を傾げつつも、手元にあるピーナッツを口に放り込み、噛み砕く。
「なんでしょうか」
「ミスター・ポッターのことです」
マクゴナガルとカサンドラ、二人の眉がピクリと動く。
「ポッターがどうかしましたか?」
「わたくし、彼に書き取りの罰を与えましたわ。ですが、その……彼は少々特殊な経験をしてきたでしょう? 罰の効果があるのかどうか、不安なのです。また授業中に『大騒ぎ』されてしまうのではないかと……」
「その件については、私からも強く言っておきます。……全く。もう少し大人になってほしいところですが」
「彼はその、『例のあの人』が復活したと信じているようなのです。心から。他のお友達のためにも否定しているのですが、それが返ってポッターを煽ってしまうようで……」
心底困り果てているという表情をアンブリッジはした。マクゴナガルはなんと言えばいいのか悩んでいるようだった。
「……そういえば」
アンブリッジは今思い付いたかのように、カサンドラの方を見た。
「ポッターはカサンドラのことも話していましたよ。一緒に『例のあの人』が復活したのを目にしたと」
カサンドラは肩をすくめた。
「まぁ、あいつの言うことはわざわざ否定するほどじゃないが……安心しろ、アンブリッジ。私はそれを言い触らすつもりはない。世紀の犯罪者、悪の大魔法使いが復活したなんて、学校で喧伝するようなことじゃない」
「まぁ……それは安心ですわ。でもカサンドラ。あなたもポッターと同じ意見だと言うことですか?」
カサンドラはじっとアンブリッジを見つめた。
「アンブリッジ。私がどう思っているか、何を信じているか。私の心をお前に話すかどうかは私の自由だ。そうだろう?
大事なことは、お前がこの学校で私にされたくないと思っていることを、私がするかどうかだろう?」
カサンドラがそう言うと、アンブリッジは若干悔しそうな表情をする。そのあと、貼り付けたような笑顔になって言った。
「ええ! おっしゃる通りですわ。物の道理をわかっている方が警備員さんだと、わたくしも安心ですわ」
「ならいいが」
それきり、カサンドラは黙った。アンブリッジがハリーに罰則を与えた事は知っているだろうに、アンブリッジにどんな罰則を課したのか聞こうとすらしない。アンブリッジは教職の権限のうちは、決してその刃を振るう事はないのだと半ば確信しつつあった。
「——不安が解消したなら何よりです。ポッターは頑固です。そしてその、あまり理論的な考えができるほうでもありません。問答をすれば余計に拗れるでしょう。淡々と対処することをお勧めします。あとそれから、できればポッターを含む生徒たちの興味を惹くような授業にすれば尚のこと良しです」
「ありがとうございます、マクゴナガル先生。——でもわたくし、今は生徒たちのことをよく観察したいんですの」
「——まぁ、指導要綱には沿っているようなので、強く言うつもりはありませんが。ですがアンブリッジ先生。指導要綱はあくまで最低限であることをよく自覚なさってくださいね。絶対の基準ではないのですよ」
マクゴナガルの言葉に、アンブリッジは何かを言おうとした。したが。
——今はただの教員であることを、アンブリッジは忘れはしなかった。
「ええ、肝に銘じておきますわ」
今のところは。
そんな言葉を、彼女は腹の奥に飲み込んだ。
——
時間が、時間が足りない。
ハリーにとって罰則付きの一週間とはまるで、地獄のような有様だった。
夕方5時から夜遅くまでの時間をクソババアこと『ミス・ガマガエル』アンブリッジと顔を突き合わせて書き取り罰だ。書いては消し書いては消しの書き取り罰はハリーの心を削ったが、そもそも全く無意味な作業をやらされる物だと思えばそこまで言うほど辛くはなかった。ハリーは割と……かなりタフだった。特に精神的な重圧は慣れっこだった。
——ただ、時間を奪われるのが辛かった。
ふくろう試験対策に先生方はありがたくも恐ろしいほどの量を宿題に出す。質も量も多い。とてもではないが夕方5時から書き取りをやっていたら全く時間が足りない。
結局眠い目を擦りながら深夜まで宿題をやるハメになり、ハーマイオニーも寝ているために彼女を頼れない。ハリーの宿題の出来は凄惨の一言で片付けられるほどになった。
魔法薬学の宿題なんて特に酷く、スネイプなら罰則を課しかねないほどのものだった。それでも出さないよりかは遥かにマシだった。
罰則最後の日。今日はキーパー選出の日だった。アンジェリーナはハリーに対して物凄い怒りを抱いており、そして今もそれは治っていない。結局、ハリーは一度も練習に参加できていないのだ。一年のブランクがあることを思えば、選手としてどれだけレベルが下がっているかと思うと、今すぐにでも頭を掻きむしりたくなる。
「……はい、結構ですよ」
ほんのわずか、レースのカバーで縁取られた窓から、グリフィンドールの制服を着た生徒たちが箒で飛ぶをの見ていた。どうやらロンの姿もチラリと見えた。彼もキーパーに立候補したらしい。ハリーはロンと一緒にクィディッチができるなら、そんな最高な事はないと考えていた。きっと素晴らしい選手だろうと勝手に期待を膨らませていた。
「はい、アンブリッジ先生」
「ええ、ええ。わたくしが言いたかったことが、よくよくあなたに理解していただけたと思っています。帰ってよろしい。もうこんな日々を過ごしたくないなら、口には気をつけてくださいね」
「はい、アンブリッジ先生」
ハリーはそう言うと部屋を出て、駆け出した。自由だ。もう自由なんだ。
グリフィンドールの談話室に入ると、クィディッチユニフォームを着たロンが、箒を持ってハリーを待っていた。よく見ると、談話室には結構な人がいた。だいたいがグリフィンドールのクィディッチ選手で、他にはキーパー候補生がちらほらいた。
「ロン!」
「ハリー! 『お務め』ご苦労様! シャバの空気はどう?」
「最高! もしかしてロン、クィディッチチームに入ったの?」
ハリーが聞くと、ロンは嬉しそうに頷いた。
「ああ! これからグリフィンドールのキーパーは僕だ! 上手くいけるかどうかはわからないけどね」
「いいや、ロンなら上手くやるよ!」
ハリーは我が事のように喜んだ。友達と一緒にクィディッチなんて!
「ロン、こっちに来て。オリバーのお下がりだけど、ユニフォームが合うか見てみるわ」
同じチームのケイティがロンを呼んだ。ハリーは浮かれた様子で、キャプテンの方へと歩く。
「——余計なこと言って罰が増えたなんて報告ならいらないわ」
「違うよ、アンジェリーナ。ごめん、僕……」
頭を下げるハリーに、アンジェリーナはため息をついて手にしたゴブレットをテーブルの上に置いた。
「私こそ、ちょっと大人気なかった。短気を起こしてた。結果論だけど、わざわざチーム全員で見る必要があったかどうかわからないような感じだったし。
……キャプテンって、ストレス溜まるのね。去年まで私、オリバーに強く当たってたかも」
「そ、そうなんだ」
刺激しないよう、ハリーは無難な返答をする。アンジェリーナはゴブレットを手に取り、遠くでユニフォームを試着しているロンを見つめる。その目は若干否定的だった。
「選出直後にこんなこと言うのはアレだけど。ポッター、君の友達が選出されたのは消去法だってことを知っておいてほしい」
「……どういうこと?」
「素晴らしいプレイヤーだったから選ばれたわけじゃないってことさ。もちろん、候補者の中じゃトップだった。だけど、箒に乗って飛んで、降りるだけでも一苦労なヤツが立候補していたって言ったら、どんなレベルの選出会だったかわかると思う」
それは……著しく低いのでは? ハリーはロンのことがいきなり不安になってきた。
「まぁ……これから鍛えていけばいいだけのことだよ。……ハリー、今度からは練習に来てよ。それから、ロンを助けてやってね」
「うん」
アンジェリーナはハリーの返答に満足したのか、ゴブレットを飲み干すと他のチームメイトのところへ歩いて行った。
ハリーは今度、ハーマイオニーのところに行った。
「あら、ハリー。罰則は終わったの?」
「うん、まぁ、終わってみれば軽かったよ」
「軽かった罰則に随分苦しめられていらっしゃるみたいですけど? 主に、宿題とか」
ハーマイオニーはちくりと言った。ハリーは苦笑する。
「まぁ、うん、苦しめられたと言えば苦しめられたけど」
ハリーは強がりを言った。何せやらされた事は単に書き取りの罰だけだ。きっとハーマイオニーなら鼻歌を歌いながらでもやり遂げるだろう。
「ハーマイオニーはこんな時間まで何してたの?」
「え? ああ、今年のSPEW活動の計画を練ってたの。と言っても、屋敷しもべ妖精に実際に交流してもらう機会を作れたらなって思うんだけど……ちょっと手が足りなくて」
「手を貸そうか?」
ハーマイオニーは首を振った。
「いいえ、ハリーはクィディッチに集中して。それに……その、手が足りないのは何も、SPEW活動だけじゃないの」
「どういうこと?」
「……ちょっとした計画があるの。……その、多分ヤバめな計画が」
今のセリフは本当にハーマイオニーが言ったんだろうか。秩序の守護者、ハーマイオニー・グレンジャーが躊躇うほどの『ヤバめな計画』?
ハリーはいつぞや彼女が言った極端な例え話を思い出していた。
『二人はもし私が酒とタバコを嗜むようになってドラッグに溺れてギャンブルにハマって、その金を体売って稼ぐようになっても——』
真面目な女子生徒の不良化、とかそんな柄にもなく頭の良さそうなことを考えるが、はっきり言って見当違いも甚だしい。
「ハーマイオニー、お酒もタバコもドラッグもダメだよ」
「当然でしょ? ——なに? もしかして私が不良になるための計画を立ててるとでも思ったの?」
ハリーはコクリと頷いた。
「……まぁ、いいわ。でも違うわ。ヤバさ加減はどっちの方が上なのか……正直わからないけど。まぁいいわ。私もう寝るわ。計画立てるのに時間費やして、もう眠いったらないわ……」
ハーマイオニーはそう言うと、立ち上がって女子寮の方へと戻ってしまった。
酒とタバコとドラッグに溺れるのと同じくらいヤバいこと? 一体ハーマイオニーは何をしようって言うんだ?
ハリーは顔を青くして、ハーマイオニーが去った方向をずっと見つめていた。