週末の夜、ハリーは談話室で手元の携帯電話を見つめていた。
状況は悪くなっていっていた。
ハリーのではなく、騎士団の状況である。
ここ数日の新聞で、悪いことばかりが報じられる。シリウスがイギリスにいることが突き止められたし、騎士団のメンバーが一人、深夜の魔法省に侵入して捕まった。
シリウスはおそらく、今も飄々とカサンドラの事務所でぬくぬくとしているのだろうか。もしかしたら気取られかけていることに気付いていないのかもしれない。
——でも電話をかけていいのか?
ハリーにはわからなかった。これは緊急時にと持たされた物だ。しかし今は緊急時でもなんでもない。
しかし……。
ハリーは、シリウスがアズカバン送りにされる可能性を知らない事は十分に緊急時だと言い訳して、覚えさせられた電話番号を押した。
話したいことが山ほどある。
たくさん、言いたいことがあった。
手紙では言えないようなことを。
コール音がしばらくして、通話が繋がった。
「……ハリーか?」
「シリウスおじさん?」
電話越しでほんのわずかに声の印象が違うが、間違いなくシリウスの声だった。
「どうかしたのか?」
「話すことがあって。シリウスおじさん、新聞に出てたよ。ロンドンにいるって気取られてるよ」
「ハリー、あいつらはいつも適当に私の居場所をでっち上げるんだ。先週なんて私がフランスにいることになってたんだぞ?」
「違うよ! 僕の見送りの時に魔法省の人間に見られたんだ」
「私は犬の姿だった。私が変身出来ることを知っている人間など滅多に——」
シリウスは言葉を止めた。たしかに滅多にいない。いないが、いるにはいるのだ。
「……シリウスおじさん、ペティグリューが喋ったんじゃないかな。だから、あの場にいた『死喰い人』に知られたんだ」
「……忌々しい、クソッタレの、裏切り者め。まぁいい、ハリー。私は今滅多に外に出ていない。——だがお前も気をつけろ。魔法省は騎士団を、ひいてはダンブルドアを本気で貶める気だ。……スタージェスもパクられた」
「パク……えぇ?」
ハリーはその言葉の意味がわからなかった。
「捕まったってことだ。とにかく、魔法省は味方じゃないことを肝に銘じておいてくれ」
「魔法省……あっ、そうだ、アンブリッジ先生」
ハリーはアンブリッジのことをシリウスに報告した。嫌らしい笑みを浮かべていること、ハリーとダンブルドアを敵視していること、ハリーに罰則を課したこと、カサンドラはそこまで嫌っているようには見えないこと。
「……あの女か。だが、残念だろうがあの女は『死喰い人』ではないだろう」
「……そうなの?」
「世に悪人は『死喰い人』だけじゃない。ルーピンの前でそいつの名前を出すなよ。荒れるからな」
「ルーピン先生が? どうして?」
「反人狼法を起草したのはあの女だ。そのせいで就職先に困ることになった」
「人狼は……病気なんだよね? なんで病気の人をそんなに毛嫌いするの?」
ハリーが聞くと、電話越しのシリウスは驚いたように息を呑んだ。
「……誰にそう教わったんだ?」
「カサンドラだよ。エイズとかと一緒だって」
「……そうか。エイズが何かは知らないが、やはり彼女はいい教師になれる。本人にその気があればな……。おっと。アンブリッジが嫌ってるのはなにも人狼だけじゃない。半人間や人の形をしている人以外のもの全てを嫌っている。……怖いからだ」
ハリーには何が恐ろしいのかさっぱりわからなかった。ルーピンも、ハグリッドも、みんないい人なのに。
「それは……よく知らないからじゃないかな」
「逆だな。よく知ってるからこそ恐れる。魔法界にはアンブリッジの恐怖が全くもって正しい魔法生物が山ほどいる。だからこそ、彼女の意見は一定の支持を得る。真に的外れなら、誰にも支持されたりはしない」
「……そっか」
まただ。シリウスのことだから、どうせアンブリッジもこき下ろすのだろうと期待していたというのに。大人たちは皆、アンブリッジに一定の理解を示す。どうして? あんなに嫌らしくて悪辣な性悪ババアなのに。
「カサンドラはどうしてアンブリッジと仲が悪くないんだろう?」
「カサンドラはどちらかというとアンブリッジに近い」
「——え?」
ハリーは頭が殴られたような衝撃を受けた。カサンドラが……アンブリッジに近いだって?
「いくら伝説の傭兵でもさすがにベッドでは口が軽くなる……まだ早かったか? いや、そろそろこういう冗談でも笑える時期だな。彼女もできたしな。
ともかく。カサンドラは割とホグワーツの体制を良く思っていない」
「僕はジニーとは『まだ』なんだけど?
……ともかく、なんで? だって……カサンドラはホグワーツが好きだって言ってたのに」
どうして大して好き合ってるわけでもなさそうなシリウスとカサンドラが何度も肌を重ね合わせてるのに、大好き同士の僕達がまだなんだ。そんな世の中の不条理を嘆きつつ、ハリーはシリウスに聞き返す。
「まだ? なんだって? まだ?
——君は奥手なんだな。
質問に答えるとだな。好きなのと、学校としていい悪いは別らしいぞ?
とにかく、マグルの学校と比較して粗が目立ちすぎると言っていたな。特に、教師の選出について」
「でも、ルーピン先生はいい先生だった」
「まぁ、そうなんだが。やはりいい先生じゃないと授業にすらならないというのは、省庁の介入が入って当然と受け止めている。
——気をつけろ。マグル生まれの親も同じことを考えている」
「……え?」
ハリーはまたまた愕然とした声を上げた。脳裏に、シェーマスとの喧嘩の時に仲裁に入ってくれたディーンのことが思い起こされる。ハーマイオニーの顔も浮かぶ。
「私には何を恐れているのかわからんのだが、逮捕やら消失やらの不祥事で毎年先生が変わることを不審に思っているらしい。私が学生の頃からそうだったというのに、何が疑問なんだ?」
「僕にも……正直よくわからないよ。ええ……? マグル生まれの親はホグワーツが魔法省に支配されてもいいっていうの?」
「らしい。最近はマグル生まれや片親がマグルの魔法使いも増えている。言動には注意した方がいいだろう」
「う、うん。でも、アンブリッジの授業まで『いい』なんて言わないでよね、シリウスおじさん。アンブリッジは僕達に全く魔法を使わせようとしないんだ」
ハリーがそう報告すると、電話の向こうでシリウスが悩んだように間が空いた。
「おそらく……君たち学生に力をつけさせたくないんだろう。ファッジは……魔法省は、ダンブルドアにある疑いをかけている。
『ダンブルドアはその職権を濫用して学生たちを私兵として育てている』という疑いだ」
「それをやってたのはカルカロフ校長だ! ダンブルドア校長はそんなことしないよ!」
「わかっている。ヤツはもう疑心暗鬼だ。カサンドラは『魔法界のスターリンになるようなら消す』とかなんとか言ってたが、ハリーはスターリンが誰か知ってるか?」
ハリーは知らないと答える。スターリン? 誰だ?
「ハーマイオニーなら知ってるかも」
「ああ。それからそいつがどんなヤツかも聞いておいてくれ。すぐにそうだと報告してやる」
「……それはいいんだけど。シリウスおじさん、気をつけてね。またアズカバンなんて嫌でしょ? 僕もおとなしくしてるから、お願い」
「……『僕もおとなしくしてるから』?」
シリウスの声のトーンが少し下がった。いくらなんでもバカにしてるように聞こえたか。ハリーは苦い思いをしていた。シリウスにはおとなしくしていて欲しい。そのためなら、アンブリッジと全校生徒の前で『私は今まで嘘をついていました』と宣誓したっていい。もう家族がいなくなるのは嫌だ。
「——ふむ。君は……そうだな、ハリー。君は皆が思うほど……そして私が思うほど、ジェームズに似ているわけではないようだ」
「は?」
「ジェームズなら、危険を面白がっただろうにな。——そろそろクリーチャーの相手をしなくては。もう切るぞ」
シリウスはそう言って通話を切ってしまった。ハリーは呆然と携帯電話を握りしめていた。
「……危険を面白がる? 何言ってるのさ……」
その危険の先にあるのが親しい人の死だっていうのに、何をどうすれば面白がれるんだ。
——まさか本当に?
ハリーは嫌な感じがした。
……きっと素晴らしい父親だっただろう。みんなが讃えるほど、善き人であるはずだ。クィディッチも上手くて、ママとも仲が良くて。きっと生きていたら毎日抱きしめてくれるはずだ。
——そんな理想の父親像にヒビが入ったような、そんな音が聞こえた気がした。
——1995年10月 ホグワーツ
翌日、ハリーは鬱々とした気持ちをかかえたまま大広間に繋がる玄関ホールに来ていた。人だかりができている。どうやら何か貼り紙がしてあるらしい。
……また何かあるのか?
ハリーが人混みに紛れて貼り紙を見ようとするが、人混みが多すぎて出来なかった。
「ハリー!」
輪の外で人が捌けるのを待っていたところに、ロン、ハーマイオニー、ジニーの三人がハリーに声をかけた。
「おはよう、三人とも」
「おはよう。いよいよよ」
ハーマイオニーは強い口調で言った。
「……何が?」
これ、とハーマイオニーは羊皮紙をハリーに手渡した。
「写したの。読んでみて」
ハリーは言われた通り、ハーマイオニーが書き写した羊皮紙を見る。そして、驚愕に目を見開いた。
「……ホグワーツ……高等尋問官? なにそれ?」
「秘密警察……いえ、SS……あるいは、KGBかしら? とにかく、魔法省が強力にホグワーツに介入するっていう宣言で、魔法省がそれを承認したってことよ。貼り紙ってことは校長先生も認めたってこと。怒涛の介入が始まるわ。
……——計画を早めないと」
ハーマイオニーは最後の方にぽそりと言った。ハリーにはなんと言ったのか、聞こえなかった。
……高等尋問官。そんな大層な肩書きでなにをするのか。ハリーはこれから起こる恐ろしい出来事を予感して、小さく身震いした。