——1995年 10月 魔法薬学教室
ホグワーツは教育令が施行されてからも、極々当たり前の日々が続いた。ハリーが聞くところによると今のところ上がってきた既存の学生組織の申請は全て——時間差はあれど——承認しているらしい。嫌がらせでグリフィンドールのクィディッチチームの承認はまだ時間がかかるなんて言われたらしいが、承認しないことはないとだけは確約されたらしい。拒絶されるとばかり思っていたハリーはひとまず胸を撫で下ろした。
何事も、些細なことから。
浸透するかのように、アンブリッジ最初の教育令はあっさりと受け入れられた。
かつての独裁者達も。
最初はこうした小さなことから民に支配されることを受け入れさせていったのだ。
ハリーはそこまで考えが及ばなかったにせよ、アンブリッジが受け入れられている現状が不満だった。もう少し反発があって然るべきだと考えているし、このままアンブリッジの好きにさせてたまるものか、と意気込み強く考えていた。
もやもやとするハリーの思考を晴らすように、魔法薬学の教室の扉が大きな音を立てて開いた。アンブリッジを引き連れたスネイプが入ってきた。ハリーは慌てて姿勢を正す。アンブリッジの前ではお行儀良くとアンジェリーナに強く言い含められているのだ。
「諸君。授業に入る前に、本日はお客人がいらっしゃっている。ドローレス・アンブリッジ高等尋問官殿だ」
不機嫌な顔を隠そうともせず、スネイプはアンブリッジを紹介した。同僚でなく、教師ですらなく。ハーマイオニーしか気付かなかったが、スネイプはどうやら校内政治に血道をあげるアンブリッジが酷くお気に召さないらしい。ハーマイオニーとハリー、おまけにネビルへの嫌がらせに余念がないスネイプだが、大多数の生徒にとってスネイプは厳しいが優秀な教師である。魔法薬学のレベルはかなり高く、ハーマイオニーですらついていくのがやっとである。ハーマイオニーはつくづく、そんな実力は確かな先生に恨まれていることが残念だった。
「本日は『強化薬』の調合の続きだ。先週実施してからかっきり1週間。もし諸君が正しく調合できていれば……次のステップに進めるはずだ。
例によって……説明は黒板に。材料は薬棚にある。取り掛かりたまえ」
ハリー含む生徒達は一斉に調合に取り掛かった。スネイプは教壇の椅子に腰掛け、その鋭い目で生徒達をつぶさに観察していく。
ハリーは何度も調合を間違えそうになるが、そのたびにハーマイオニーに止めてもらっていた。ネビルも同様だった。
「魔法薬学はこの学年にしてはかなり進んでいるのですわね」
スネイプは答えなかった。
「ェヘン、ェヘン」
「アンブリッジ高等尋問官殿。失礼ですが、貴殿の唾が生徒の鍋に入ると生徒達に『言い訳』を許すことになるゆえ、咳は控えていただきたい」
「そ、それは申し訳ありませんわ。スネイプ先生、わたくし、いえ、魔法省はこの薬を生徒達に教えることは推奨するべきでないと考えているのですが……」
「指導要綱にその旨は記載されていないようですが?」
スネイプはチクリと返すと、アンブリッジは唸って黙りこくった。
「……では、魔法省が定めたらそれに従うと?」
「無論」
「では、スネイプ先生は勤続何年ですか?」
「14年」
スネイプは立ち上がり、生徒達の大鍋を覗き込み始めた。その後ろをアンブリッジが続く。
「その、スネイプ先生は『闇の魔術に対する防衛術』の教授に毎年応募なさってますね?」
「左様」
「でも、うまくいっていない」
「ご覧の通り」
スネイプは淡々と、応える時間すら煩わしいと言ったふうに短く答える。
「ダンブルドアがなぜあなたを任命しないか、おわかりですか?」
「校長先生に直に聞きたまえ、高等尋問官殿」
明らかに不愉快そうにスネイプは返した。
「……これまでの全く意義が感じられない質問に何か意味が?」
「もちろんですわ。わたくし、先生方の事情を、背景までしっかり理解しておきたいのですわ」
「その労力を生徒に向けたほうがよろしいかと。——いや、貴殿はあくまで魔法省の高等尋問官でしたな。これは失敬」
スネイプはそれきりアンブリッジの相手をすることはなかった。ハリーの大鍋に来た時、ハリーは思わず自分の鍋を見た。
スネイプとアンブリッジのやりとりに注目していて全然自分の鍋を見ていなかったのだ。案の定、鍋は酷いことになっていた。液体だったはずの魔法薬は完全に固形になっており、ゴムの焼ける酷い匂いがしていた。
「ここにも尋問官がいらっしゃるようで。——またしても0点だ、ポッター」
スネイプは杖を一振りすると、鍋の中身を消してしまった。
「——レポートを書いてくるがいい、ポッター。この薬の正しい調合と、何故失敗したのか。——もちろん、『よそ見』は理由としては認めん」
「……はい、先生」
ハリーは悔しい思いでいっぱいだったが……誰がどう見てもハリーが悪い。ただでさえ難しい調合をよそ見してやるなど舐めているのか言われても反論できない。
クィディッチの練習に加えて他の宿題、さらにこのレポート。宿題が目の前に山のように積み上がる様が幻視できるほどやることが多い。しばらく寝不足の日々が続きそうだった。
——
占い学をサボってその時間を課題に充てる計画は当然のようにハーマイオニーに却下され、なんで僕はこんなくだらない授業を受けてるんだと思いながらトレローニーの授業を受けていた。
——だが、トレローニーの様子が妙だった。
いつもはゆったりと神秘的な雰囲気を醸し出し幽霊みたいに掴みどころがないのに、今のトレローニーはまるでヒステリーを起こしたみたいにせかせかしていて、所作も乱雑だった。
「さぁ、やることはおわかりでしょう? それとも、私はあなた方に本の開き方を教えてないようなダメ教師だと言うのかしら!」
トレローニーは自分の椅子に座ると、目に涙を溜めながら生徒達を見回す。
どうやら、トレローニーは査察の結果を受け取ったらしい。……それも、かなり悪い成績だったようだ。
「……大丈夫ですか?」
見かねて、ラベンダーが心配そうに聞いた。
「ええ、ええ! こんなの、わかっていたことですわ! いつの世もわたくし達予言者は恐れられ、迫害されてきました! それが私たちの『さだめ』なのです!」
おいおいと泣き始めるトレローニーだったが、ハリーにはちょっと疑問に思うことがある。
予言者は王様より権力があった時期があるんじゃないのか?
だが、いくらハリーでもさめざめと泣くトレローニーに追い討ちをかけるような言葉を言うことはなかった。
——
その日の夜。ハリーたちクィディッチチームはアンジェリーナに談話室に集められた。その中にはロンの姿もある。
「……クィディッチの練習はしばらくなしだ」
チーム全員がハリーを見た。
「僕何も言ってない。アンブリッジの前で大人しくしてたよ」
「わかってる。わかってるよ。……それに、時間がかかってるのはウチだけじゃない。スリザリン以外みんなだ」
「なんでスリザリンだけそんなに早く承認されたの?」
ハリーが聞いた。理由はだいたいわかっていた。どうせ魔法省絡みだろう。
「スリザリンチームの申請に行ったのはマルフォイだった」
「やっぱり。マルフォイのお父さんとアンブリッジは魔法省で知り合いなんだ」
「……もう嫌になる」
そう言って、アンジェリーナは解散を命令した。
それからも談話室はずっと騒がしかった。特に『ズル休み・スナックボックス』を完成させたフレッド、ジョージの双子の実演販売に、子供達は沸いた。
「いいのかよ、監督生様?」
ロンが皮肉げに言うと、ハーマイオニーは憎々しげに双子を見ていた。何の変哲もないキャラメルキャンディを食べると、バケツにゲーゲーと吐き始める。ハーマイオニーは顔をしかめた。
「嘔吐を引き起こすなんて何考えてるのよ……脱水が起こったらどうする気なの?」
「止めないんだ?」
「自分の体は自分の好きにしていいのよ。もちろんドラッグとか犯罪はダメだけど……。アレを使うこと自体は犯罪じゃないわ」
「アレを売り出すのは?」
ハーマイオニーはさらに顔をしかめた。
「魔法界の法律をひっくり返してみても、アレを売り出すことを犯罪だとする根拠は見つからなかった……」
吐き続けていたフレッドだが、別のお菓子を口に含むとぴたりと嘔吐が止まった。どうやら完璧に『症状』を制御できているらしい。
その様子を見た下級生達はやんややんやと大騒ぎだ。よほどズル休みできる悪戯グッズがお気に召したらしい。
「発熱、嘔吐、下痢、咳……。みーんな、程度が過ぎれば死に繋がるわ」
「でも便利そうだな」
「ロン? あなた、監督生なの忘れてないでしょうね?」
「アー、ウン、モチロンダヨ」
白々しいことこの上ない。
「でも、楽しそうだよ、二人とも。——ロン、ハーマイオニー、来て」
ハリーは急に、ハッとなって二人を寮から連れ出し、人気のないところに引っ張っていった。
「な、なに? なんだよハリー!」
「引っ張らないで、服が伸びちゃう!」
「ごめん! でもし……スナッフルズからだ」
ハリーが取り出した携帯電話が、ブルブルと震えていた。ハリーは電話を取ると、スピーカーモードにして聞こえるようにした。
「スナッフルズ?」
「やぁ、ハリー」
ノイズが大きいが聞こえなくはない。久々のシリウスの声に、ハリーは喜色満面である。
「どうしたの?」
「なに、様子が気になってね。最近のホグワーツはどうだい?」
「まあまあ悪いかな。グリフィンドールのクィディッチチームが解散させられそうになってるんだ」
「おや、それだけかな。例えば……『闇の魔術に対する防衛術』の自習組織の結成がいよいよ違法扱いになった、とか?」
三人が顔を見合わせた。
「……なんで知ってるの?」
ハリーが恐る恐る聞いた。
「本当に秘密のことなんて一体どれだけあると思う? それに君たち本気で隠す気があったのか? あんな場所に学生が山ほど集まって、怪しまれないとでも?」
「うっ……。それは……」
「でも、『3本の箒』よりかはマシよ」
ハーマイオニーがブスッとした様子で言った。自分が完璧だと思った集会場所にケチをつけられたのが気に食わないらしい。珍しい反応だった。その反応は、それとも、もしかしたら指摘したのがシリウスだからなのかもしれない。
「その声はハーマイオニーか? ははは。君もまだまだ、ダーティなことは勉強不足だな。騒がしいところの方が盗み聞きはし辛いのさ。ダンブルドアがカサンドラと秘密の会話を外でする時、どこでするか知ってるかい? キングスクロス駅だよ」
あんな人通りが多いところで? 三人は驚愕した。
「カサンドラに言わせれば、人は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く。ああ、心がどうこうじゃなくて、体の機能がそうなってるらしい。だからこそ、無数にある雑音の一つになれば、バレることはない。らしい。詳しいことは知らないが」
「そんな。……でも誰が?」
ハリーが聞くと、シリウスはバカにするように笑った。
「マンダンガスさ。あいつはカサンドラほどではないがコソコソしたことは得意でね」
「……もしかして僕、まだ護衛が?」
「当然。ああ、そうだ。今回は伝言があったんだ。ロンに伝えてくれないかな」
「僕もここにいるよ」
「ならちょうどいい。『『闇の魔術に対する防衛術』の自習をしようとする意気込みは買うが今は避けろ。来年でも再来年でもチャンスはある。とにかく今は目立ったことをするな』だそうだ。アンブリッジに目をつけられたら将来がめちゃくちゃになるとモリーは考えているようだな」
ロンは顔をしかめた。そんな、政府の犬みたいな真似をしろと母が言うなんて半ば信じられなかった。だが、アンブリッジが『ヤバい』のは肌で感じている。
「それから、ハリー、ハーマイオニー。二人へは忠告だ。まぁ、親ではないからアドバイス程度に聞いてくれとのことだ。
『今進めていることを中止すること』だとさ。露見したら色んな人の将来が歪む。そういうのは学生のうちにやることじゃないそうだ。
……ロン、また時間が空いたら君のお母さんに忠告を聞いた事を報告をしてくれ。何分、私は信用がないのでね」
シリウスが電話の向こうで肩をすくめた気がした。ハリーは随分と気落ちした様子で、シリウスに聞く。
「シリウスおじさんは……僕が『闇の魔術に対する防衛術』の組織を作らない方がいいって思ってるの?」
「私が? まさか! むしろドンドンやるべきだと思う。よく考えろハリー。私や、君のお父さんがアンブリッジのババアに屈したりするか? いいや、そんなことはない。今回のことで、君はお父さんと違って虎視眈々と隙を窺うタイプなんだと知ったよ。だが……お父さんと同じで、自分は貫き通す。やるといい。私は応援してる」
ではな、とシリウスは電話を切った。
「よし、ハーマイオニー。シリウスおじさんはやれって言ってるし、計画を進めよう!」
ハリーは最初渋っていたのがなんだったのかと言うほど乗り気だった。そんな様子を見て、ハーマイオニーは考え込む。
「どうしたの、ハーマイオニー」
「——このまま進んでいいのかしら」
「何言ってるんだよ! シリウスおじさんは行けって言ってたろ? というか君が始めたことだろう?」
「まぁそうなんだけど。……正直、あの人が大賛成することが本当に正しいのかどうか……」
ハーマイオニーはあんまりなことを言う。だが、ハリーにとってはシリウスのお墨付きを得たと言うことはつまり、行くべきなのだ。
「でも、僕はシリウスおじさんを信じてるよ」
「あの人、また言ったわ」
「何が?」
ハリーはだんだんイラついた様子になっていく。
「——『お父さんと同じ』って」
「それの、何が……問題なんだ?」
「ねぇハリー、あの人ホントにハリーのこと見てるの? ハリーを通して自分の友達見てるだけじゃないの?」
「ハーマイオニー」
ハリーは剣呑な目をしてハーマイオニーを呼ぶ。ハーマイオニーもハーマイオニーで、引き下がる気はなかった。
「シリウスおじさんは、僕の保護者だ。馬鹿にするのは、辞めてくれるかな」
「私は、あの人があなたをお父さんそっくりに育てたいんじゃないかと思ってるだけよ」
「それの何がダメなんだ!」
「ハリー! あなたはあなたよ、あなたのお父さんじゃない!」
「ハーマイオニー! 僕の家族に口出しするな!」
ハリーが怒鳴ると、ハーマイオニーはぐ、っと黙った。
「……ええ、そうね。ごめんなさい。言いすぎたわ。でもハリー、私、あなたのことが心配なのよ」
「——僕も。怒鳴ってごめん。でも、考えは変わらないから。君が辞めても、僕一人でやる」
はぁ、とハーマイオニーはため息をついた。それから、天井を少し見上げる。
「……ええ! 辞めたりなんかしないわよ。……ちょっと不安になっただけ。やるわ。私が始めたことなんですもの」
ハーマイオニーはハリーと並んで寮へと戻る。
「……大丈夫だよな?」
ロンは不安そうに二人を見てつぶやいた。
さっきのやりとりは……そう、いつもの喧嘩よりかは遥かに小さいものだった。でも……最も、二人の、特にハリーの奥底に触れたものだったようにも思えた。
ハリーを通してジェームズを見る。
……ロンは自分に当て嵌めて考えてみた。
ママがロンを通して、ロンとパパの共通点を見つける度に大はしゃぎするのだ。
『ロン、あなたそう言うところがお父さんそっくりよ』と。
言いようのない悪寒がロンを襲った。
それは、はたしてロンを愛していると言えるのだろうか。ロンにはとてもではないが、その状態は子供として愛しているとは言えないような、そんな気がした。