流入現象。ハリー達は最初、その言葉をおうむ返しに繰り返すことしかできなかった。カサンドラは古い記憶を思い出すかのように遠い目をしたり目を閉じたりしながら、説明を続けた。
「正確にハリーの身に起きたことがどうかはわからんが……。今から30年くらい前か。マグルのとある会社でとある計画……研究が開発された」
「マグル? ……カサンドラ、いいかい、マグルは夢を操作したり蛇になったりなんて、そんなことは絶対にできないんだよ」
ロンが子供に言い聞かせるような口調で言った。だがカサンドラは首を振った。
「その研究というのが……『遺伝子記憶』の探求だ」
「遺伝子……」
「記憶……?」
カサンドラは頷いて説明を始めた。
遺伝子記憶。
遺伝子には祖先が過ごしてきた軌跡や歴史、記憶がそっくりそのまま保存されているという仮説である。
「そのマグルの技術……『アニムス』は、遺伝子記憶を探求するための装置だ」
「で、そのマグルの道具を使えば何ができるの?」
「遺伝子に眠る記憶を『追体験』できる。私の場合だと、レオニダス王の偉業を追体験することができるだろう。
——大事なのは、『追体験』……つまり、本人視点で記憶を見るという点だ。奇妙なことなんだがな、記憶で訓練をしたり、経験を積めば追体験をやめてもある程度は訓練の成果や経験が残る……まるで、逆流したか、流れ込んできたかのように。
これが『流入現象』だ。ハリーは蛇になっていた。蛇の感情、感覚、それらが流れ込んできたんだろう。心配はないさ。私の記憶が確かなら、よっぽど繰り返さないと乗っ取られたりはしないはずだ」
流入現象のキモは、見た記憶の長さに比例して流れ込む物も大きくなっていくという点なのだ。夢での一幕レベルなら、ハリーの心がそっくりそのまま蛇になるなんてことはありえない。
「……ねぇ、マグルが本当にそんなことできるの? 私信じられないわ」
カサンドラの言葉を聞いたジニーが開口一番に言った。信じられない。遺伝子に記憶が宿ってるなんてトンデモ科学を本気で研究してる人たちがいて……それが、ある程度成果があるなんて。
「気持ちはわかる。だが……事実だ」
「でも、それならカサンドラはなんでそれを知ってるの? 普通……そういうのって、機密なんじゃないかしら」
まぁな、とカサンドラは答える。
「私はその機密を知る機会があった。とにかく、ハリーの夢は『なぜ』起こったのかは探る必要があるだろうが、夢の影響自体はそこまで気にする必要はない。ハリーが蛇語以外を使わなくなったり、クネクネと体をうねらせながら地面を這うような真似をすることはないってことだ」
カサンドラが締め括ると、ハリーはホッと胸を撫で下ろした。
「……ああ、わかったよ。ハリーが親父を噛んだんじゃないってことはな。でもそんなマグルの技術なんてどうでもいい! ハリー、親父は無事なのか!? 見たんだろう!?」
フレッドが立ち上がってハリーに詰め寄った。
「そ、そうよ! ハリー、パパは今どうなってるの?」
「ぼ、僕が知ってるのは噛むまでだよ!」
「そうだ、みんな! 聖マンゴに行こう! そうすれば一発だ!」
ロンの言葉に、ウィーズリーたちは頷いて部屋の外に出ようとする。部屋の扉の前に、シリウスが立ち上がった。
「シリウス?」
「すまない。今はまだ、君たちにはここにいてもらわなければならない。そうだな、カサンドラがなぜマグルのヘンテコな技術を知ることになったきっかけでも聞いて、時間を潰そう」
「なんで!! パパのピンチなんだぞ!」
ロンが叫ぶが、シリウスは無情にも首を振った。怒鳴られたり凄まれたりするくらいで退く気はないらしい。
「そうはいかない」
「説明をしてくれよ!」
「情報の速度が問題なのだ。絵画を通して伝えるのでギリギリなのだ。我々は……魔法界で最も情報伝達の速度が速い。だがその『速さ』は機密なんだ。『死喰い人』は当然、魔法省にもだ」
「機密なんてクソ喰らえ! 僕らが父親のところに行くのを邪魔する理由になると思うのか!」
フレッドが叫ぶが、シリウスは頷いた。
「もちろんさ。これでアーサーがまだ確保されていないなら、私は君の言葉に喜んで頷いただろう。なりふり構わずアーサーを助けに行くことになんの躊躇いがある?
だが、もうアーサーは聖マンゴにいる。安全なんだ。わかるか? アーサーにはモリーがついている。何も急ぐことはないんだぞ。時が来たらゆっくり見舞いに行けばいい。そしてその『時』もそう遠くない。魔法界最速の情報伝達と、ハリーの夢については秘匿するのが賢いやり方だ。そうだろ?」
「ぐっ……! でも、親父が! 死にかけてるんだぞ!」
「では君らが聖マンゴに行って何かやることがあるのか?」
あるわけがない。
「でも……」
「知らせが来るまでここでじっとしてるんだ。残念だがこれは決定事項だ。——安心しろ、知らせが来たらすぐにでも出発だ。
さぁカサンドラ、なぜマグルのヘンテコ技術を知ることになった?」
シリウスがカサンドラに話を振ると、カサンドラは肩をすくめた。
「まぁ……暇つぶしと気を紛らわすにはちょうどいいか……」
カサンドラは厨房の椅子に座ると、みんなにも椅子をすすめる。ヒートアップしていた双子達やロン、ジニー達もしぶしぶ、近くにある椅子に座った。ハリーとシリウスも椅子に座ると、カサンドラはかつてのことを話し始めた。
「と言ってもな……。まず……マグルが『研究』と言う時……そこに絶対必要な行程がある。マグル育ちのハリーならそれが何かわかるんじゃないか?」
「……え? でも僕よくわからないよ? それでもいいなら、正しいかどうか確認するんじゃないかな」
「ああ、そうだ。装置を使って得たものが正しいのか、検証が必要だ」
カサンドラが言うと、ハリーはうなずく。
「じゃあ、この場合どうすれば『正しい』のか? 歴史と一致するかどうか? いや、今回彼らが求める正しさというのはな、例えば……そうだな、私がここに着任したときになんと言ったか、とか。私がバジリスクを倒したときに使った武器は何で、どうやって止めを刺したか、とか。そういうかなり細かいところだ。会話の細部にもこだわりを求めていた。じゃあ、100年以上前の正しさを検証することは可能なのか?
答えはノーだった」
当然だ。細かい会話や出来事など、歴史書に残っていたり、歴史の証拠として残っているもの以外で歴史を検証することなどできやしない。
——はずだった。
「だが……色んな時代、色んな人間を何十、何百、何千と検証を続けていくうちに……あいつらは気付く。どんな時代にも『カサンドラ』を名乗り、ワシを連れ傭兵を自称する女がいることに。あとはわかるだろ? その傭兵は当然のように今の時代も生きていて、なんとロンドンで堂々と探偵事務所すら開いている。なら簡単だ。そいつに記憶で経験したことが正しいのか確認すればいい」
アニムスの研究者にとってカサンドラは正しさを検証できるほぼ唯一の存在だった。もちろん記憶違いや忘れたりという可能性はある。あるが、当時を生きていた人の証言に勝る証拠など存在しない。
「ということは……もしかして、カサンドラはその……『アニムス』を作った人たちのところで仕事したの?」
「そうだ。まず私が長生きしていることをなんとか証明して……証明の方法は本当にめんどくさかった。細かい記憶まで思い出さなきゃ行けなかったからな…….
証明が終わったら、次はあいつらの質問に答える。だいたい、この時期に誰と行動してたかとか、これこれこのときに誰がいたか、とか、この場面で何と言ったか、とかだな。基本的に会話だったな。とんでもない額だったから……足掛け、10年かそこらは研究に協力したな」
「……その、アニムスって誰が作ったの?」
「アブスターゴって会社だ」
「え? あ、アブスターゴ? ホントに?」
ハリーが驚いたような顔をした。
「知ってるの、ハリー?」
「うん。マグルで有名な会社だよ。イギリスでも結構色々やってるはず」
「イギリスでは歴史研究がメインのはずだ。まぁ、なんかあったら私に聞けばいいわけだし。アニムスを使わせてもらったこともある」
カサンドラが楽しそうに語る。その表情はまるで子供の頃憧れていたヒーローに会ったことを話すときのような、ワクワクと嬉しさが混じったような表情だった。
「私が爺さんに……レオニダスになったんだ。テルモピュライこそ経験できなかったが、女の身じゃとてもじゃないが経験できない過酷な訓練をみっちり楽しめたな」
それからもカサンドラはアブスターゴ社での研究のことを話していく。そうこうしているうちに、急にテーブルの上に炎がぼうっと巻き起こった。
「なんだ?」
「落ち着けカサンドラ。フォークスの通信だ。……知らせだ」
炎が収まったあとに残った羊皮紙をシリウスが掴むと、中身を読み上げる。
『お父さまはまだ生きています。母さんは聖マンゴに行くところです。じっとしているのですよ。できるだけ早く知らせを送ります』
「『まだ』生きてる……なんて」
まるで生死の境を彷徨っているような言い方に、一気に不安が募る。
「……とりあえず、一度休むか?」
カサンドラは言うが、全員、誰も頷こうとはしなかった。
「……わかった。じゃあ、私は飲み物を取ってくる。シリウス、子供達を頼む」
「ああ。食料庫にバタービールがたくさんあるはずだ。全部持ってきてくれ」
「了解だ」
バタービール。大好物のはずなのに。
それなのに、ハリーはちっとも嬉しくなかった。
カサンドラの話で少しは気が紛れたはずなのに。それなのに、一瞬で現実に引きもどされた。
——モリーがやってきて、聖マンゴへのお見舞いが許可されるまで、一夜まるまる必要だった。全員が、ベッドに入ることなく、薄暗い厨房でそれまでの時を過ごした。
……遺伝子に残る記憶を見られる装置。それがあれば、パパとママに会えるのかな。僕は蛇の記憶を見ていたんだろうか。そんなことをぼんやりとかんがえながら、ハリーはうつらうつらと、夜明けまで過ごした。