1996年1月 ホグワーツ
ハリー達は休暇が明けるまでシリウスの実家で過ごし、休暇明けには『夜の騎士』バスに乗ってホグワーツに登校した。バーンという大きな音と共に現れてとんでもなく乱暴な運転と、とんでもなくスピードが出るバスは、魔法使いにとって、『急ぎ』の旅をするのにうってつけだ。ハリーはみたことも聞いたこともない不思議な乗り物に興味津々で、ロンなんかは一度乗ってみたかったんだと乗り気だった。だがそれも走り出すまでの話である。
エチケット袋のお世話(迂遠な表現。魔法使いのバスにそんなものはない)になる人が続出するような運転は、乗客から気力やら何やらを根こそぎ奪っていった。気分が悪くなりながらも、ハリー達はホグワーツに無事、戻ってきたのだ。
それからも忙しない日々は続いていく。ちょっとはマシになるかとほんのちょっぴり期待した魔法薬学は、当然のようにいつも通りの厳しさと嫌らしさが健在だった。
ハリーとハーマイオニーにはかなりの生徒が次のDA会合はいつかと聞くので、その度に『いつもの方法で連絡するよ』と答えなければならなかった。
最初の月曜日の放課後がきて、約束の時間になりつつある。クィディッチの練習に出かけるグリフィンドールチームを尻目に、ハリーはコツコツと地下牢へと降りて、スネイプの部屋へと向かう。
重苦しい気持ちをなんとか振り払い、深呼吸してからハリーは部屋の扉をノックし、部屋に入る。
部屋は薄暗く、壁は一面薬棚になっており、そこには瓶詰めされた素材や魔法薬学びっちりと詰まっていた。他にも部屋を見渡せばジメジメしたものや魔法薬学に関するなにがしらが見て取れるが、ハリーの気を惹くには至らなかった。
ハリーが最も興味を抱いたのは、部屋の中央にある机の上に置かれた、無数のルーン文字が刻まれた水盆だった。『憂いの篩』、という魔法具をハリーは知らない。
ただ、強く興味を惹かれた。
「ポッター、扉を閉めたまえ」
油断していたところをいきなり声をかけられて、びくりと肩を跳ねさせる。反射的に指示に従い、大きな音を立てて扉を閉めた。
「さて」
スネイプは薄暗がりから、水盆のあるテーブルの方へと歩く。彼はテーブルの前に置いてある椅子を指さすと、その反対側の椅子に座った。ハリーは指定の椅子に座ると、スネイプからの言葉を待った。
「ここに来た理由は知っているとは思うが、改めて説明する。君には吾輩直々に『閉心術』を学んでもらう。願わくば、『魔法薬学』よりもマシな結果を残すことを期待するばかりである」
さて、とスネイプはさらに続ける。お小言のような前置きはいかにも普段通りのスネイプで、とてもではないがダンブルドアから特別な指令をこなしているようには見えない。
「この授業は普段とは違うが、教授である吾輩が校長先生の指示の元君に教えるのだ。つまり……本質は普段と変わらぬ。故にポッター。この授業の最中も、変わらず吾輩に『先生』を付けるように」
「はい先生」
この返事にももう慣れたものだった。アンブリッジの授業で役に立つものがあるなんて、ハリーにとってかなりの驚きだった。
「ではまず、閉心術を教えるにあたって……ポッター。そもそも『閉心術』は何を防ぐための技術だ?」
「わかりません、先生」
ハリーが答えると、スネイプは馬鹿にしたように嗤った。
「優秀な相談役がいなければこの通りのザマというわけだ。
——『閉心術』は元来『開心術』の対抗技術だ。『開心術』が何かを解説することは容易い……しかし、現時点で君に必要なのは、『開心術』は闇の帝王が得意とされる技術なのだ、ということである」
「もしかして、人の心に入れる技術なんですか?」
「その表現は『開心術』の様相からは驚くほど遠い。人の心は——ポッターは違うやも知れぬが——いくつもの層が折り重なったように存在し、複雑怪奇で、重厚なものなのだ。心の内側に入り込んだり、書物のように心を読んだり、そう言う表現は、『開心術』の表層をほんの僅かに掠めた程度の理解しかしていない者の発言だと言わざるを得ない」
あからさまにバカにしたようなものいいに、ハリーはムッとなった。
「でも僕は確かに、蛇の中に入りました、先生」
「吾輩、それを否定するつもりはない。つまり……単純な理屈だ。心は複雑怪奇……ただし、ヒトに限る」
スネイプの言い方はいかにも嫌味ったらしくて不愉快だが、言いたいことは十分わかる。つまり蛇に入れたのは、蛇が人よりも遥かに単純な心をしているからに他ならないということだ。
「心は複雑怪奇であるが故に、浮かび上がってくる表層を読み取り、解釈するだけでも相当な技量を必要とする。闇の帝王は優れた開心術師だが、そんなお方でも『嘘を見抜く』以外のことは限り無く困難である。逆に言えば、闇の帝王の前で嘘は通用しない。闇の帝王の前で嘘をつく事が許されるのは、優れた閉心術師のみである」
当然、ヴォルデモートの懐に入り込んでスパイなんてやってるスネイプは『優れた閉心術師』ということになる。だが、ハリーにはどうにもヴォルデモートですら開心術を使ってできるのが嘘を見破るだけというのがいまいち信用できなかった。
「先生、例のあの人が今僕たちの思考を読んでるってことはありえないんですか?」
「無論、ありえない。ホグワーツの偉大なる歴史と積み重なった呪いと魔法は、中に住む者に身体的、および精神的な保護を提供する。それに……魔法では距離と時間が特に重要になる」
「——?
でも先生。それならどうして僕がその、閉心術を学ぶ必要があるんですか?」
そう、スネイプの説明が正しいとするなら、ハリーがわざわざ閉心術を覚えなくても心やら記憶やらが盗み見られる可能性は皆無ということになる。それなら閉心術を学ぶ必要はあるのか?
「なぜ、か。それは君が魔法界の常識より外れた存在だからである。現在は憶測の域を出ていないが、君へ例の人が影響を及ぼせるのは、かつて赤子の君を狙った『死の呪文』であることは想像に難くない。
その際に闇の帝王と君の間になんらかの繋がりができて……闇の帝王の復活に併せて、繋がりが活性化した。しかし案ずることはない」
スネイプは不機嫌そうな表情のまま続ける。本当に安心させる気があるのか怪しいものだ。
「現状、ホグワーツの強固な守りに加えて人間が本来備わっている精神的な防護を加えれば、ポッター、君の意識がある間、闇の帝王の影響に置かれる可能性は『皆無』だ」
「でも、僕は起きてすぐ……その、蛇みたいな気持ちになっていました」
「カサンドラから説明があったと聞いているが?」
スネイプが怪訝そうに聞くと、ハリーはハッと思い出した。
「流入現象?」
「と、呼ばれる現象がどうやら存在するらしい。では説明を続けるが、では、なぜ君に吾輩がわざわざつきっきりで教えを与えねばならんのか……それは、先ほども言ったように、君が闇の帝王からの干渉を防げるのはあくまで意識がある時だけだ。意識が消失し、心から油断している時……つまり、就寝時には干渉を受ける可能性も、ポッターが干渉してしまう可能性も、どちらも存在する」
「でも、僕がアイツのことを探れるかも知れないんですよね? それなら」
「馬鹿者!」
ハリーの戯言を、スネイプは怒鳴りつけて切って捨てた。
「先ほども説明したはずだ。流入現象が存在すると。ポッター、二人目の闇の帝王になるつもりか? それに、闇の帝王の心に繋いで情報を得るなどという危険なことを校長先生がお許しになるかどうか、少しはその頭で考えてみたまえ」
「……ごめんなさい、先生」
ふん、とスネイプは不機嫌な表情を隠そうともしない。だが、ハリーはまだ納得できなかった。
「でも先生、役に立つならなんでも使うべきではないんですか?」
ハリーの言葉に、スネイプは眉を顰めた。なりふり構わずどんな汚い手段だとしても使う……それはまさしく、彼が監督するスリザリンの考えに非常に似通っていた。
「くどい。議論する気はない。——ともかく、闇の帝王は君との繋がりに気づいた可能性が非常に高い。『まとも』ではなかった時ならともかく……今、闇の帝王は健在だ。心に入り込んだ異物に気付かぬわけがない。故に、繋がりを利用されぬよう『閉心術』を学んでもらう」
スネイプはローブから杖を引き抜く。
ハリーは座ったままで身を固くした。しかし、スネイプは単に自分のこめかみまで杖を上げ、脂っこい髪の根元に杖先を押し当てただけで、ハリーにどうこうする気はないらしい。
杖を引き抜くと、こめかみから杖先まで何やら銀色のものが伸びていた。太い蜘蛛の糸のようなもので、杖を糸から引き離すと、それはテーブルの中心にある水盆、『憂いの篩』にふわりと落ち、気体とも液体ともつかない銀白色の渦を巻いた。さらに二度、スネイプはこめかみに杖を当て、銀色の物質を石の水盆に落とした。それから、一言も自分の行動を説明せず、スネイプは水盆を慎重に持ち上げて邪魔にならないように棚に片づけ、杖を構えてハリーと向き合った。
「立て。そして、構えよ」
「何をすればいいんですか?」
ハリーは立ち上がり、杖を引き抜く。杖の先をスネイプに向けると、意識がどんどんと鋭敏化していく。
「抵抗だ」
「?」
「武装解除、盾の呪文、その他思いつく好きな手段で抵抗するのだ。服従の呪文に抵抗したというその実力、吾輩に見せてみるがいい」
「……抵抗って……何からですか?」
「『これ』からだ。『レジリメンス——開心せよ!』」
ハリーが何の手立ても取れないまま、魔法が当たった。
部屋にいるはずなのに視界が切れ切れに変わる。
5歳の時、ダドリーが赤い車で出かけるのをただ見送った。誕生日の買い物にデパートに行くらしい。
9歳。ダドリーの犬に追われて、木の上に逃れた。ダドリーと取り巻きたちが笑ってる。
11歳。組分け帽子がスリザリンでも上手くやっていけると言っている。
12歳。小さな赤毛の女の子が床に横たわっている。
——トム・リドルが笑ってる。許せない。
血塗れのカサンドラが見える。
13歳。シリウスとルーピンが見たこともないような冷たい目をしてピーターを殺そうとしている。それを止めようとしている。
——ここで止めなきゃ、きっと……。
14歳。クリスマス。
だめだ。
ムーディの手を引っ掴んだカサンドラを尻目に、ジニーを連れ出した。
ダメだ! 秘密なんだ。絶対に見せるもんか。
隣に座る。彼女の温もり。言葉。鮮明に覚えてる。
見つめ合う。
——ダメだ!!
ガツンと、膝に痛みが走った。床に這いつくばるようにしている自分に気がついた。ハリーは呆然とスネイプを見上げる。彼は赤く腫れた手首をさすっていた。
「『針刺しの呪い』か?」
「いえ……違います」
「であろうな。残念だがかなり『入り込めた』。あれで防いだとはとても言えん」
「先生は」
答えを聞きたくないような気持ちだったが、聞かないわけにもいかなかった。
「あれを全部見たんですか?」
「断片的にだが。あれは誰だ?」
「ダドリーです。僕の……いとこで、住んでる家の……一人息子」
「なるほどな」
スネイプはそう言ったきり、何も言わなかった。もっと酷い罵声の一つでも飛んでくるのだと思っていたのだが、そうではないらしい。
「まぁ、初めてにしては悪くなかった。この様子なら、服従の呪文を弾けるというのも真実なのだろう……。しかし、不完全だ」
スネイプは杖をハリーに向けた。
「もう一度だ」
「……はい先生」
ハリーは立ち上がり、杖を向ける。
「杖はいわば補助だ。術が成った暁には不要になる。頭だけで術を弾くのだ。
——服従の呪文とは全く違う心構えが必要だ。
心を空にするのだ。
感情を棄てろ。
行くぞ。『レジリメンス——開心せよ!』」
再び、魔法が発射された。ハリーは言われた通りにしようとする。スネイプは今のところ教えることに忠実だ。逆らう理由なんてない。
なのに、感情が消えない。スネイプに対するグツグツとした気持ちがなくならない。
そうこうしているうちに、また入られた。
巨大な黒いドラゴンがハリーの前にいる。隣には、余裕の表情でドラゴンに向かって歩くカサンドラがいる。
墓地にいる。全ての儀式を終えた『死喰い人』たちを、カサンドラとムーディが殺して回っている。
カサンドラが斧を振るうたびに飛ぶ首。噴水のように噴き出す血液。
血の海になる墓地。
撃ち殺される人々。
「ああああああああああああああああああああああっ!」
またしてもハリーは膝をついていた。
「……た、立て! やる気がないぞ、努力も足りない! 気が抜けている! 吾輩に侵入を許している!」
「僕は! 努力してる! 何が足りない!」
ハリーは怒鳴り返した。もういっぱいいっぱいだった。心を見られるのが、記憶を曝け出すのがこんなにも辛いなんて思いもしなかった。
「足りないのではない! 多すぎるのだ! 感情を無にしろ! 何も考えるな! 自らの心を完全に制御するのだ!」
「それができたら——!」
「次に見るのはどんな記憶だ? 今度こそあの赤毛のガールフレンドかもしれんぞ! それが嫌なら、真に自らを支配するのだ! 行くぞ!
『レジリメンス——開心せよ!』」
今年の記憶だ。
ハリーはアーサーと魔法省を移動していた。石段を降りる。見覚えがある廊下だった。この時アーサーは何と言っていた?
「——に繋がる廊下だよ」
わかったぞ!!
ハリーの意識が急激に現実に引き戻された。なぜかスネイプが術の行使をやめたらしい。——きっと、スネイプも気づいたのだ。そして、『この記憶をハリーに見せてはならない』と判断したから、術をやめたのだ。
「わかった……」
「ポッター、何があった?」
「思い出したぞ……あそこだったんだ」
「何を言っている? 質問に答えたまえ!」
ハリーはにやりと笑いながら立ち上がった。
ずっと引っかかっていた。アーサーがどこにいたのかずっと気になっていたし、よく夢に見る廊下と扉の場所がどこかも気になっていた。ずっと忘れていた。そして今、思い出した。
「『神秘部』には何があるんですか?」
「——なぜ今それを聞く」
「神秘部に繋がる廊下こそ、僕がずっと夢で見てきた廊下なんです。神秘部に何があるんですか? ヤツが狙うだけの何かがあるはずなんです」
スネイプはしばらく何も答えなかった。徐に彼は杖をしまい、ハリーに背を向けた。
「今日はここまでだ。次の補習は水曜日に行う。誰かに何かを聞かれたら、『強化薬』の補習だといいたまえ。では、解散」
「先生! 答えてください、神秘部には」
「いいか、神秘部には様々なものがある。君や私が理解できるものなどほとんどないし、当然、今回の件に関わっている物など何もない。これで満足かね。とっとと帰りたまえ!」
スネイプがさらに言い募ると、ハリーは慌てて部屋を出た。
——ロンとハーマイオニー、ジニーに会いたくてたまらなかった。
確かに、閉心術の習得はしんどくて辛い。だが、今回の授業でハリーは大事なことを知れた。
少なくとも起きている間は、ハリーの心はハリーだけのものだとわかったのだ。
ハリーはそのことやその他わかったことを3人に話したくて、歩き出した。
みんなはどこにいるだろうか?
きっと、ハーマイオニーなら図書室だろう。とりあえず、彼女に話をしよう。きっといい知恵を出してくれる。