訓練開始
——1996年 7月 ロンドン
また、憂鬱な夏がやってきた。ハリーはまたも陰鬱な気持ちで新学年までの月日をやり過ごすつもりだったが、そうは問屋が卸さなかった。ある日、ハリーが持っている携帯電話に連絡が入る。カサンドラからだった。
『ハリー、ダンブルドアが近々そっちに行く。そうしたら始めるぞ』
「始める……? 何を?」
ハリーは聞いた。聞いてしまった。当然のようにカサンドラは答えた。
『決まってる。訓練だ』
全身から血の気が引く感覚を、彼は味わった。一瞬で喉がカラカラになって、冷や汗が流れているような気がする。それほどまでに衝撃的な言葉だった。
カサンドラが、訓練をするだって? 誰に?
——僕に。
たかが訓練、されど訓練。スパルタという国がどのような訓練を施すのかということは『スパルタ教育』の言葉が示す通りである。厳しい。めちゃくちゃ厳しい。本場古代スパルタなら素手で狼を殺すとか、病気になったら殺されるとか、そんな物騒な話しか出てこないくらいである。
「え、あ……その」
『なんだ?』
「その、どうしても?」
『当たり前だ。色々考えたんだがな、今から戦士になるのは無理だ。遅すぎる。だから……まぁ、言葉は悪いがな、お前にはヤツ専門の暗殺者になってもらうことにした』
「……暗殺者? 僕が?」
『まぁ、悪くはないよ。それに訓練も現代風にアレンジするから安心しろ』
カサンドラの言葉に、ハリーは目に見えて安堵した。
「……わかった。必要なんだよね」
『ああ。——だが、私は子供が戦場に出ることは許せない。何があってもお前が成人する前に戦わせることはない』
カサンドラの言い方に、ハリーは少しムッとした。子供子供と。ハリーはカサンドラの『真似妖怪』を思い出す。血塗れで倒れ伏す小さな女の子。確かにあの子……ポイベーがカサンドラの考えの根底にあるのだろう。しかしハリーはもう、ポイベーのような小さな小さな女の子じゃない。修羅場だって潜り抜けたし、判断力も付いてきた。まぁ最近とんでもない大ポカをやらかしたところなので判断力についてはハリー自身、胸を張って主張するつもりはないが。
「……で、訓練の内容は? お子様用に調整してくれるんだよね?」
『まぁ……魔法的な訓練はダンブルドアが、他のことは私が教える。教育方針はある程度擦り合わせるからな。酷いことにはならんだろう』
「ならよかった」
そんな会話をしたのが数日前。約束の日にダンブルドアはいつものローブ姿でダーズリー家にやってくると、ぐいぐいと、半ば強引にハリーの訓練『合宿』を認めさせたのだ。
ハリーは今、ホグワーツの校長室にいた。ダンブルドアから姿現しで連れてきてもらったのだ。
「……ダンブルドア先生、その、ホグワーツでは城の魔力が干渉して、姿現しはできないってハーマイオニーが言ってたんですけど」
ハリーは困惑していた。確かに、よくよく思い返してみれば、ダンブルドアがどう考えても姿現しをしていたとしか思えないシーンはいくつかあった。だが、まさか本当にできるなんて思いもしなかった。
「ほっほっほ。守りとは『どうやって守っているのか』という秘密を守ることから始まるのじゃよ。どの情報が偽りで、何が真実か……。これは魔法使い同士の戦闘の本質でもあるのじゃ」
校長室は少しだけ様変わりしていた。いつもの風景だが、執務机の上はきれいに片付けられ、代わりにあの忌々しい水盆……憂いの篩が置いてあった。フォークスのそばの壁に、カサンドラがもたれかかって立っている。
「ハリー。まず私たちはお前に戦闘とは何か……もっといえば実際の戦闘とはどういうものかを知ってもらうべきだと考えた。DAだったか? 『闇の魔術に対する防衛術』の自習レベルで『戦うための力を付けている』と思ってもらうわけにはいかないからな」
カサンドラは厳しい表情で言った。訓練することすら乗り気ではない様子だった。だが、ハリーももう今年で16歳になる。ある程度は認めざるを得ないだろう。
「ダンブルドア先生、どうするんですか?」
「お主には記憶を見てもらう。カサンドラの記憶じゃ」
「え?」
カサンドラは肩をすくめる。
「安心しろ。憂いの篩は第三者目線で記憶を見る。流入現象は起こらない」
「いや僕が心配なのはそこじゃなくて、『どの』記憶を見るの?」
「あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこ、じゃよ」
ハリーの質問にダンブルドアが戯けて言った。だが、『上映』予定の記憶はそんなふうに笑って見られるようなものではないのだが。
「しかしのう、ワシがあらかじめ確認したのじゃが……お主にはショッキングかもしれん。それでも——」
「——ダンブルドア。見せるんだろ? 前置きはいい」
カサンドラは強引に話を区切った。ショックを受けて『戦いなんて嫌だ』と言わせたいかのような態度だった。ハリーはカサンドラがそう思っていることを感じ取り、負けるものかと気合を入れた。
「ダンブルドア先生、僕、記憶を見ます」
「——そうかの。よいか、にわかには信じられんかもしれん。じゃが彼らは、間違いなくマグルじゃよ」
「それは……そうでしょう? だって、カサンドラが魔法界に関わったのって、だいたい僕と同じタイミングですよね?」
「うむ……。まぁ、百聞は一見にしかずじゃ」
ダンブルドアは杖を取り出し、憂いの篩を起動する。水盆の中の銀色のモヤがぐるぐると回り、像を結んだ。
ハリーはごくりと喉を鳴らし、水盆に近づく。そしてダンブルドアも同じように水盆に近づいた。
「ワシは解説じゃよ。では行こうかの」
「はい、先生」
ハリーはダンブルドアと同じタイミングで、水盆に頭を入れた。
記憶に、引き込まれる。
——
ハリーは記憶に入った瞬間、そこが開けた場所であることしか認識できなかった。ハグリッドほどではないが筋骨隆々の男達が、赤と青に分かれて入り乱れるようにして戦っていたのだ。
「え……」
ハリーは呆然とする。そこかしこで死に溢れ、血が一面に広がり、地面に吸われている。金属同士がぶつかり合うと音、悲鳴、うめき声、怒号。まさしくそこは戦場だった。
「カサンドラが見た目通りの年齢だった頃の話じゃ。カサンドラが住まう土地、ギリシャは戦争の真っ只中じゃった」
「せ、戦争……? これが?」
ハリーは呆然としていた。これが戦争ならば、今魔法使いがしていることは一体なんだ? 今、どこにこんな光景が広がっているというのだろう。
「アテナイ……青の鎧を着た者たちと、スパルタ……赤の鎧を着た者たちが争っておった」
「ということは、カサンドラは赤の鎧を着ているんですね?」
ハリーは赤の鎧の中にカサンドラがいないか目を凝らして探す。
「——はてさて、どうじゃろうなぁ」
「え? どういうことですか?」
「ふむ……当時の傭兵というのは、その……非常にドライだったということじゃよ」
どういうことだろうか、と疑問に思う前にハリーの目の前に答えが現れた。
屈強な男だらけの中、今と全く容姿が変わらないカサンドラが、いつもの完全武装で現れた。その目は今よりずっと鋭くて、厳しかった。彼女はおもむろに背中から弓を取り出したかと思うと、8本もの矢をつがえ、一斉に矢を放つ。すると、放った矢と同じ本数だけ赤い鎧を着た男達が倒れ伏した。
「え!?」
ハリーの驚きをよそに、記憶は進む。カサンドラに槍を持った男が襲いかかるが、彼女は素早く弓をしまい、剣と『半ば折れた槍』の二刀流になって、槍の穂先を弾き返した。姿勢を崩された男はそのままカサンドラに斬られ、動かなくなった。
そこまではまだ、超人的とはいえハリーの理解の範囲内だった。しかし、次の瞬間から事態は様変わりする。カサンドラが剣と折れた槍を構えたかと思うと常識では考えられない速度と距離で突進し、何人もの男を吹き飛ばす。突進終わりにカサンドラに攻撃をしようと突撃していた男達は更なる衝撃を受ける。カサンドラが叫びながら剣で斬り払うような仕草をすると、何故かその場で凄まじい衝撃波が発生し、何十人もの男が吹き飛んだのだ。戦場にぽっかりと、カサンドラの周りだけ穴が空いたように錯覚するほどだった。
さらに、カサンドラは折れた槍を高く掲げたかと思うと、槍が金色に輝き、一本のエネルギーで出来た槍に変化した。
「え、ええ……? ダンブルドア先生、カサンドラってマグル……なんですよね?」
「うむ……素晴らしいの。ワシは常々疑問じゃったのだ」
「え?」
今ダンブルドアはなんと言った? この光景を見て『素晴らしい』?
ハリーはダンブルドアをよく観察した。するとどういうわけだがカサンドラを子供のようなキラキラした目で見ていた。なんというか……子供の頃憧れていたヒーローが本当にいたことがわかった、そんな無邪気な顔だった。
「『鷲の傭兵』には、折れた槍を光に包んで復元して用いた、とあったが……こういうことじゃったとは。何度見ても素晴らしい」
カサンドラが持つ光の槍に触れた敵はまるで豆腐か何かのように切り裂かれ、地面に倒れる。頑丈そうな鎧も、分厚い筋肉も、光が持つ圧倒的なエネルギーの前には無力だった。カサンドラはひとしきり暴れると人一人分はゆうに飛び上がり、地面に向けて槍を投擲する。着弾地点に小さな爆発が起こり、またまた男達が何人も死ぬ。次の瞬間には投げたはずの槍は手元にあり、再びカサンドラは槍を振るう。
「撤退、撤退!!」
赤い鎧の指揮官がそう叫ぶまで、カサンドラは暴れに暴れ、殺しに殺した。その鎧に傷どころか、触れた者すら一人もいなかった。
——
記憶から戻ったハリーは、真っ先に近くにいたカサンドラを見た。
「あれ……いつの話なの?」
「ざっと2400年は前だな」
「まさかとは思うけど、あの時のカサンドラみたいになれとか言わないよね?」
そう言われたら諦めるしかない。今から卒業まで何もかもを投げ打ってひたすら訓練したとしてもあの領域に辿り着けるとは思えなかった。
それはカサンドラも同意見のようで、ハリーの言葉に叱責することもなく頷いた。
「もちろんだ。わざわざあの場面を見せたのは、あれこそが戦場だと私が思ったからだ」
「どういうこと?」
「戦場では強い奴が生き残る。そして、私みたいな奴がひょっこり現れて全てをぶち壊したとしても文句ひとつ言えないのが戦場ってやつだ。
例えばこの先、騎士団の誰かが『死喰い人』と戦ったとして、下っ端と戦ってるつもりがいきなりヴォルデモートと遭遇してあえなく全滅。そんなことだって普通にあり得る。だから——」
「——ワシが、お主に生き残るための術を教えよう」
「——そして私が、人殺しの仕方を教える」
ダンブルドアと、カサンドラ。
二人の英雄にじっと見つめられ、ハリーはそれでもコクリと頷いた。
——1996年 7月 『隠れ穴』
ウィーズリー家はここのところ毎年問題を抱えていると言っても過言ではなかった。去年はパーシーが政治的な対立から家を出てしまった。今年は、まぁ、見方によっては……いや、普通に考えて祝うべき出来事がある。
「……ジニー、膨れるのはやめろよな。色ボケは一人で十分だぞ」
ロンが自分の部屋でお菓子をつまみながら、不機嫌な妹に苦言を呈す。本人は全く改めようとしない。
「『色ボケ』は一人よ! あの、『ヌラー』だけよ」
全く! とジニーは腕を組んで唸っている。
「……彼女、ここで暮らすのかしら?」
「わけないし、私が許さないわよ、ハーマイオニー先輩。そもそもビルがここに住んでないのになんでヌラーがここで暮らすのよ」
「それもそうね」
はぁ、とハーマイオニーはため息をつく。半ば逃げるように家から出てきてしまったが、これでよかったのだろうか。
「……で、ハーマイオニー。君はなんでまた、そう憂鬱なんだ?」
ハーマイオニーが隠れ穴にやってきてからもう1週間になる。いい加減に埒が明かないのでロンがハーマイオニーに聞いた。
「——パパがまだ怒っててね」
「嘘だろ? もうあれから……えっと、一ヶ月は経ってないけど……それくらいは経ったぞ? 何をそんなに怒ることがあるんだよ?」
「『子供が、それも女の子が戦いの場に行くなんて何を考えてる』って言ってきかないのよ。その、思わず反論しちゃったからなおさらヒートアップしちゃって」
はぁ、とハーマイオニーはもう一度ため息をつく。1年生の時は『あのバカ真面目だったハーマイオニーが友達のために無茶をするなんて』と半ば喜んだ両親も、3年生のときのカサンドラに対する無茶では怒り、そして6月の魔法省突撃の件で、彼女は両親の信用を完全に無くしたと言っていい。今でもなお、ハーマイオニーが1日無茶をしていないかを『モリーに』報告してもらっているくらいなのだ。当のモリーは喜んでハーマイオニーの動向を報告することを引き受けたらしい。
『その気持ち、とってもよくわかりますわ! 私も、息子達がやんちゃで本当に心配なんですよ』
モリーのそのセリフが、ハーマイオニーの心を抉った。ハーマイオニーの両親にしてみれば、自分はロンと全く同じ感想なのだと知らされたようなものだ。
「まぁ……反論はよくなかったな、ウン。僕もママが怒ってる時は素直に頷くぜ」
「……女の子は戦わないなんて時代が違うなんて、なんで言っちゃったのかしら」
ハーマイオニーがそう言うと、ハーマイオニーのパパは『ならその相手はちゃんとした倫理を持った訓練された軍人なんだろうね?』と聞いてきた。もはや詰みだった。ハーマイオニーが乗り込んだ先に待っているのは軍法と軍規に縛られた軍人などではなく、魔法界を震撼させた犯罪者集団なのだ。捕まったら殺されるだけで済めば、ラッキーだと言えるだろう。それくらいヤバい相手なのだ。
「……で、そんな相手と戦うために、ハリーは絶賛訓練中、と。ジニー、ハリーに会えないからって不貞腐れるなよ」
「不貞腐れてない!!」
ジニーは立ち上がってロンを怒鳴りつけた。ジニーももう15歳。彼女もまた、難しい年頃になりつつあった。
「何で私だけダメなわけ? 友達のカップルとかみんなもっと進んでるのに、私たちだけキス止まりよ?」
「それはまぁ、ハリーが結婚を考えてるからだろ? パパとママの機嫌は損ねられないだろ」
「……結婚、結婚かぁ……」
ジニーはそう呟くと、顔を赤くしてくねくねし始めた。この様子で『色ボケ』は『ヌラー』だけだと言い張るつもりらしい。
そうしていると、部屋の扉が開いて、一人の女性が入ってきた。
「皆さん、食事ができました」
「え、ええ。ありがとう、ミス・デラクール」
やけに丁寧な英語を話す女性。その女性に、ジニーは同じくらいバカ丁寧に返した。伝言を終えるとすぐに部屋から出て行ったその女性に、ロンとハーマイオニー、ジニーが会うのは2年ぶりだった。
フラー・デラクール。
ハリーが4年生の時にあったトライウィザードトーナメントのフランス……ボーバトン代表の勇士である。
花嫁修行などと言って、夏休み中彼女は隠れ穴に住んでいた。ちなみにもう片方の当事者であるビルは現在隠れ穴に不在である。割と理解が難しい状況だった。必死に覚えたのか、フラーの英語は随分と聞き取りやすく、丁寧に聞こえるまで上達したのを認め、モリーは家に居座るフランス女をなんとか受け入れている。ただ、ジニーはそこまで割り切れてはいなかったが。
「……それにしても、ハリーは羨ましいよなぁ? ダンブルドア先生直々に教えてもらってるんだろ? 僕もそうしてほしい」
「カサンドラの訓練もおまけでついてくるみたいよ」
「——やっぱいいや、うん。でもなんでハリーがわざわざ訓練しなきゃいけないんだろうな? 大人たちは今までずっとハリーに余計なことするなって言い続けてたじゃんか。なぁ、ジニー」
ロンが不満を言うと、ジニーが大いに同意する。
「そうよ! 去年までは思いっきりハリーを子供扱いしておいて、例のあの人の脅威がはっきりとしたら戦いに引っ張り込むなんて! 信じられないわ!」
「そうね。——もしかして、ハリーを鉄砲玉か何かにする気かしら? ハリーは私たちと違って『後腐れ』がないから……」
ジニーの憤慨に、ハーマイオニーも同調する。
「何言ってんだハーマイオニー! そんな真似カサンドラが許すわけないだろ!? ハリーを使い捨ての駒扱いなんて、そんなことしたら名前を言ってはいけないあの人の前にダンブルドア先生が消されるぞ!」
「……まぁそれもそうよね」
ハーマイオニーは頷いた。カサンドラは色々と謎の多い人だ。だが、ハリーたちのことを親身になって、味方になってくれる。悪いようにはしないだろう。
ハーマイオニーとロン、ジニーはそんなふうに楽観していた。
——
ハリーが床に倒れ伏している。杖は吹き飛ばされ、服には床の埃がついている。
ダンブルドアがなんとも言えない痛ましそうな表情で杖を突きつけている。カサンドラが倒れ伏すハリーに声をかけた。
「どうした? また失敗したな。何が悪かったかわかるか?」
「呪文の発動が……わからなかった……」
「その通り。しかしアレが実際の戦闘速度だ。アレに対応できなきゃお前は下っ端にすら殺される」
「……——でも、無言呪文で敵が使ってくる魔法なんてわからないよ」
ハリーはようやく痺れが取れ、ゆっくりと立ち上がる。
「だが、盾の呪文を張る余裕はあったはずだ。いいか、戦闘とは相手の手を読み、こちらの手を読ませないことにある。だが丁寧に一つ一つ目で見て、なんてやってたら日が暮れる……前に殺される。だから、そこは経験だ。経験を積むしかない」
「……わかった」
ハリーは立ち上がると、杖を拾って構える。
「お願いします、ダンブルドア先生」
ハリーの訓練は、始まったばかり。