——1996年9月 ホグワーツ
ハリーは自分のベッドの上で一冊の古ぼけた本を熱心に読んでいた。一見普通の教科書だが、その教科書には余白部分にびっちりとメモ書きがされている。ハリーがこの本を手にしたのは今年度はじめての魔法薬学の授業だった。本来ならスネイプが担当するはずだった魔法薬学など受けるつもりは全くなかったのだが、教師変更に伴って、融通を利かせる……つまり、新しい先生の魔法薬学を受けるか受けないかを選べる特別措置があると発表され、ハリーはホラスの授業を受けてみることにしたのだ。
教科書がなかったため、ホラスから教科書を借りたのだが……その借りた教科書が、今ハリーが手にしている本なのだ。
魔法薬調合の素晴らしい注釈と、筆者が開発したであろう全く新しい呪いの数々。その天才的な知識にハリーはすっかりと魅せられてしまった。奥付には『半純血のプリンス』と書かれていた。これは称号だろうか、人名だろうか。ハリーは半純血のプリンスに感謝するとともに、ありがたくその知識を使わせてもらうことにした。
その結果、魔法薬学がいきなり得意科目になってしまった。半純血のプリンス謹製の教科書に従うだけでハーマイオニーと成績でタメを張れると言えばその凄まじさがわかるだろう。
「……やめるべきよ」
ハーマイオニーはムスッとした表情で言った。このところ彼女は機嫌が良くない。ハリーが教科書に従うだけで自分に迫っているのも気に食わなければ、近くにいるロンがラベンダーといちゃついているのも気に食わない。
「でも……ただのメモ書きだよ。その、凄まじく優秀な」
「あのね。いくら優秀でも学生なの。間違いがあったらどうするのよ」
「それはそうかもしれないけどさ。僕には時間がないんだ」
ハリーはキッパリと言った。何もこの教科書を使えば自分は優秀で居られるなんてそんな思い上がったことを考えているわけではない。ハリーにとって大事なのは、勉強する時間を減らせると言うことだけだった。
「いい、ハリー。ダンブルドア先生の課題に全ての時間を費やすなって、先生そうおっしゃってたわよね?」
「あー、うん、そうだけど」
「だから、スラグホーン先生の魔法薬学を取ったのよね?」
ハリーは頷く。
そもそも、今年度、ハリーは出来る限りの時間をダンブルドアの課題達成に充てるつもりだったのだ。クィディッチすら擲つつもりだった。
だが、それに当のダンブルドアが待ったをかけたのだ。
「確かに……それが最も可能性が高いかもしれぬ。それは認めよう。しかしのう。お主は学生であることも忘れないでほしいのじゃよ」
そう師匠から言われては口答えすることもできやしない。周囲に溶け込みながら事を済ます訓練だとカサンドラに言われたので尚更である。しかし、事によっては食事中の大広間で『仕掛ける』こともあり得るのだから、コソコソする意味はあまりないと思うのだが。
とにかく、ハーマイオニーの言いたいことはわかる。
「なのに、なんであっさり楽な方に流されてるのよ? それ、ズルじゃないの?」
「あー……うん、でも、身になってるし」
「教科書なしで今日やった素晴らしい調合ができたら、その言葉を信用してあげてよくってよ」
ハーマイオニーは冷ややかだった。ハリーにひとしきり言い終わると、今度はいちゃつきながら食べさせ合いっこしているロンとラベンダーを睨んだ。特に予兆などがあったわけではない。突然2人は付き合い始めたのだ。
「ここ大広間なんだけどもしかして2人とも忘れてるのかしら」
「ハーマイオニー先輩、ロンはようやく来た春なのよ? 過去一番うざったいけど」
「……ええ、そうね。今までで一番うざったいわ」
ジニーはロンのことを呆れながらも理解を示す。まぁ人目がなければハリーとジニーも似たような事をやっている。だからこそ人目を気にしろと怒鳴りつけたいが。
「……とにかく。ハリー、課題はどうなの?」
「無理に決まってるでしょ?」
ハリーは当然のように答えると、手近にあったハムを食べる。
「諦めるの?」
「正攻法じゃ無理だね。昨日の夜、眠くなりそうな時間を狙って決闘したけどダメだった」
「一昨日は食事が終わってしばらくした後に仕掛けたのよね」
「食べた後はぼうっとするからね。まぁ軽くあしらわれたけど」
はぁ、とハリーはため息をつく。
「なんとか、ダンブルドアを出し抜いて一撃決めないとね……」
「ハリーならできるわ。そして、そうなれば魔法界最強の座はハリーのものよ!」
ジニーがウキウキした様子で言った。自分の彼氏が魔法界最強。こんなに心躍ることはない。ハリーも自己顕示欲などないつもりだったが……。『最強』の二文字は、どうしようも無く彼の闘争本能を刺激した。
「……頑張るよ、ジニー」
——
「実際……ボスとしてはどう思ってるんだ?」
ハリーたちの会話を聞いていたカサンドラが、隣のダンブルドアに聞く。別に盗み聞きしているつもりはなく、彼らの声が割と大きめなのだ。この様子では早々に『ハリーとダンブルドアの秘密の訓練』の内容は露見しそうだった。
——あるいは、それもダンブルドアの思惑通りなのかもしれない。
「最初ワシは……全く違う課題でお茶を濁すつもりじゃった」
「つまり全く期待してなかったってことだな?」
ダンブルドアは頷きも否定もしなかった。だが、ダンブルドアのハリーに対する態度を見ればそれはわかる。ハリーの勇気と愛の深さは評価するが、戦士としての評価はまた全く別。そういうことだ。
「じゃが、この夏でハリーはワシに証明してみせた。ワシの魔法を……見事防いだ」
「ありゃそんなにすごいのか?」
「無論じゃよ。だからこそワシは可能性があると考えておるよ」
ダンブルドアは眩しいものを見るような表情でハリーを見る。愛しい生徒。自分を超えるかもしれない逸材。
「……しかしのう……。カサンドラ。男というのは不可解なものじゃのう」
「ん? どうした」
「ワシは常々、英雄と呼ばれる事が負担に思っておるし、最強などと仰々しく呼ばれるのも苦手じゃ。そのはずなのじゃがなぁ。
いざ追って来る者が現れると、なんというかのう、『ただで渡してなるものか』と……そう思ってしまう」
ダンブルドアは杖を取り出して、自分の杖の節を撫でる。曰く付きの杖だ。ハリーが課題を達成したその瞬間に、ハリーの物になる杖。力には全く、ほんのかけらも興味がないはずだったのに。
「……ハリーが真にワシを超えるまで、この杖をやるわけにはいかんのう」
「何を言ってるダンブルドア。手加減して課題達成なんてふざけた事をやってみろ。本番で無様に殺されるだけだぞ。舐めた訓練を施せば腑抜けた兵士しか生まれん」
ダンブルドアとしては魔法界で最も過酷な課題を与えているつもりなのだが、カサンドラは厳しかった。
「もちろんじゃよ、カサンドラ。訓練で手を抜けば、死ぬのはハリーになってしまう」
「そうだ。ハリーとヤツ、どっちかしか生きられないなら死ぬべきヤツは決まってる」
過激なカサンドラの言葉に、ダンブルドアはしっかりと頷いた。
——カサンドラの視界の端、スリザリンのテーブルで。ドラコ・マルフォイがハリーたちを睨みつけていた。
膨大な量の宿題と、難しさを極めて行く各科目。ダンブルドアの襲撃計画は温められるだけ温められ、2週間ほど全く実行されることがなかった。クィディッチの新メンバー選抜や練習など、学生らしいことをしていたら時間なんてまるで足りない。しかし、不思議にもカサンドラとダンブルドアはそのことを責めたりしなかった。
——それがまるで、最後の学生生活を存分に楽しめと言われているようで、逆に不気味だった。
「……とにかく、一度説明するべきよ」
「説明? ハグリッドに? なんでさ」
ハーマイオニーが夕食の時にロンとハリーに切り出した。
話題は最近ちょっと気になってきた事柄……ついに3人とも、魔法生物飼育学を取らないようになってしまったのだ。それだけならまだしも、新学期が始まってこっち、ハグリッドとろくに話していなかった。今までこんなことなかっただけに、なんとなく気まずい。
「僕としては会うのも嫌だぞ。またぞろあのグロウプがどうのこうの言われるに決まってる。『お優しい』ハーマイオニーはまたできっこないのに引き受けるんだ」
「あれは、ハグリッドの詐術よ。約束をした『後に』お願いの内容を言ってきたの」
「詐術ってそんな言い方ないだろ?」
「なら、ハリーなら事前に言われてたら引き受けた? ハグリッドもそれをわかってたのよ」
ロンとハーマイオニーは頑なだった。ハグリッドは友達だ。そう言えるはずだ。だが、正直なところハリーも子供の頃のように会いたいかと言われれば少しだけ首を傾げてしまう。ハグリッドが『グロウプにも女友達が必要かもなぁ』なんて呟くのを耳にしたせいだろうか。もしかしてあの森が魔境であることの大半にハグリッドが関わっているんじゃないか? そう勘ぐってしまうハリーだった。
「……とにかく。会えないのは嫌だけど時間がないのも事実だ。ねぇハーマイオニー、応募が山のように来てたんだけどプレイする方のクィディッチってこんなに人気だったっけ?」
ハリーは疲れ果てたように言った。今もハリーのベッドには目も通していない応募用紙がうず高く積もっている。去年までそんなに応募があるわけじゃなかったのに、不可解だった。
「ハリー、あなた目当てよ。『生き残った男の子』……いえ、『選ばれし者』だって呼ばれてることが大いに関係あるし、この夏で30センチも背が伸びたことも関係あるかもね」
「選ばれし者……ねぇ」
ハリーはため息をついた。この夏でハリーの立場は一変した。何かの拍子で生き残り、例のあの人を倒した『生き残った男の子』ではなく、予言に記されたヴォルデモートを倒す英雄として『選ばれし者』というふうに変化したのだ。ヴォルデモートもダンブルドアも知っている部分の予言は公開され、それが大いに報道されたのだ。結果、ハリーは再び有名人になってしまった。魔法界の英雄ダンブルドアと、古代の英雄カサンドラから秘密の訓練を受けていると知られたらまたぞろ騒がしくなるだろう。
「とにかく……そういうミーハーなヤツははじかないとね」
「頑張れよ、キャプテン」
「——うん」
ロンの激励に、ハリーは答える。そう、キャプテン。
ハリーは順当に実力と繰り上がりで、キャプテンとなったのだ。
ハリーが今度の選手選抜に思いを馳せていると、フクロウ便の時間がやってきていた。ハリーのところにもルーピンやシリウスから手紙がやってきている。中身を見ると……当たり障りが無さすぎてつまらなかった。フクロウ便はもはや信用ならない通信手段のため仕方がないのだが。
季節の挨拶が九割を占めるような手紙を丁寧に折り畳むと、ぐちゃぐちゃにならないよう丁寧にポケットにしまう。
ハーマイオニーは『日刊予言者新聞』を広げて隅から隅まで読んでいた。ひとしきり読み終わると、彼女は苦い顔をしてグリフィンドールのテーブルをキョロキョロと見回した。
「……リアーナはどこ?」
「え? ……そういや昨日から見てないな」
ハーマイオニーはグリフィンドールの一年生の名前を言うと、ロンが答えた。
「……そう。じゃあ、実家に帰ったのね」
「はぁ? リアーナが実家に帰る? どうしたんだよ?」
「リアーナのご両親が……奴らに」
ハリーは目を見開いた。
「な、なんだって? あいつらはカサンドラが……その、頭数減らしてくれたんじゃないの?」
「復興したのよ。それに、もう隠れて行動する必要もない」
「復興だって!? 去年カサンドラが何人消したと——」
ハリーはそこまで言うと、慌てて口を噤む。
「……とにかく、もう連中はかなり減らされたはずだ」
「だから、復興したのよ。ダンブルドアとカサンドラを同時に相手取って生き残る……それだけの実力を『例のあの人』は示してしまった。だから……力に惹かれる無法者が集結してるのよ」
「——そんな」
ハリーは頭を殴られたような衝撃を受けた。奴らの動きが鈍いと思っていたから、こんなふうに呑気に訓練できると思っていたのに。事態はとっくの昔に進んでいたのだ。最悪な方向に。
「そして、カサンドラも、ダンブルドアも、1人しかいないわ。何十人もの『死喰い人』が同時に行動したら……どうしたって守り漏れが出るわ」
ハリーは思わずダンブルドアを見た。カサンドラも見る。2人はいつも通りに食事をしている。
——もはや自分に学生生活など不要だ。一刻でも早く、ヴォルデモートを倒さないといけない。ハリーは決意を新たにした。それがどれほど無謀でも、やらねばならないことなのだ。それがハリーの使命なのだから。
「ハーマイオニー、ロン、僕ダンブルドア先生とカサンドラと話して来る」
ハリーは立ち上がると、ダンブルドアのところまで歩く。ハリーが近づくにつれ、ダンブルドアは警戒を露わにした。——食事中を狙っても無駄みたいだ。
「ダンブルドア先生、カサンドラ。話があるんです」
ハリーがそう言うと、2人は顔を見合わせた。
「……ふむ、深刻そうじゃな」
「私はかまわん。ボスはどうだ?」
「ワシもじゃよ。ワシの部屋にいこう。ついてきなさい、ハリー」
2人は立ち上がると、ハリーを連れて大広間を出た。
校長室までの道のりが、今のハリーにとって果てしなく遠く思えた。