【完結】ハリー・ポッターとワシ使いの傭兵   作:丹寺 錯視屋

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シリウス・ブラック

――1994年6月 ハグリッドの小屋

 

 ハリー達は日没後、透明マントを羽織ってハグリッドの小屋までやってきていた。だが、マントを脱いで姿を現して、ハグリッドを慰めることは出来なかった。ハグリッドの小屋に悲しそうな顔をしたカサンドラがいたからだ。

 

「残念だった……」

「おおう、おおう……」

 

 ハグリッドは泣いていた。カサンドラを抱きしめて、大声を上げて、ただただ泣いていた。カサンドラはその背中に手を回し、ぽんぽんとあやすように背中を叩く。

 

「お前は悪くない。精一杯やったさ」

 

 カサンドラは優しい口調で語りかける。

 

「俺が、俺が巨人のハーフだからか……! バックビークがヒッポグリフだからか……! カサンドラ、俺ぁ、俺ぁ悔しい……!」

「私もだ。だが……もうできることは少ない。バックビークに出来るだけ安らげる時間を作ってやろう」

「おう、おおう……。そうだな、カサンドラ……。なぁ、俺はあの子達になんて言えばいい? あの子らは優しい……今回の件でものすげぇ頑張ってくれた」

「ああ、そうだな」

「ハーマイオニーなんて、忙しいのにわざわざ俺のために時間を作ってくれて……それなのに俺ぁ言葉は()()()しすぐ忘れるしで、全然あの子の努力に見合った結果を出せなんだ……。あの子が俺にイラついてたのは知ってた。でもあの子は一度として俺を馬鹿にしたことはねぇんだ。優しい子なんだ……何であの子の努力が報われねぇんだ……あんまりだろう……」

 

 ハグリッドはさらに大泣きする。

 

「カサンドラ、あの子達にゃ来るなって言ってある。だけどよう、もし来ちまったてたら、穏便に返してやれねぇか? その、減点も罰則もなしで」

「わかったよ。お前らの友情に免じてな。さぁ、バックビークのところに行こう。寂しくさせたらかわいそうだからな……」

「ああ、ああ……。ありがとうカサンドラ……」

「気にするな」

 

 カサンドラとハグリッドはそう言って出て行った。透明マントから出た三人は、お互いに顔を見合わせた。

 

「どうしましょう……」

「やることは簡単だよ。多分大臣達が一度バックビークのことを確認しに来る。それから処刑されるまでの間にバックビークを逃す。これで行こう」

「……そうね」

 

 ハーマイオニーは頷いた。

 

 それから三人はハグリッドの小屋のそばで潜み続ける。大臣達がやってきて、バックビークの姿を確認する。そこにはドラコとルシウス、マルフォイ親子の姿もあった。

 

「な……。おいハグリッド、何で逃してないんだ……?」

「何を言っとるお前さん……! お前が! バックビークを殺す原因になったんだろうが!」

 

 ハグリッドがドラコに怒鳴る。だが、ルシウスはハグリッドを咎めようともしない。

 

「どんな気分だ、楽しいか、愉快か!? お前さんにはちょいとした苦労で生き物を殺したつもりだろうがな、殺される方は必死で抵抗したんだ! 呪われてしまえ!」

「ハグリッド、落ち着け」

 

 ハグリッドがカサンドラに言われ、ふー、と深呼吸した。

 

「――ミスター。大臣がお呼びだ。来ていただこう」

「……ああ、わかっちょる。カサンドラ、バックビークのこと、頼んだぞ」

「ああ、任せろ」

 

 ハグリッドはマルフォイ親子達とともに、バックビークの繋がれている庭から見えなくなった。

 

「――なあ、これもしかしてカサンドラ、ずっといるんじゃないのか?」

 

 ロンの言葉に、ハーマイオニーもそんな気がしてきた。どうすればいい。彼女は頭を必死で働かせる。ふと、胸元の逆転時計が目に入る。試験期間が始まり、カサンドラに返してもらったのだ。……試験に使うために。これは試験を受けるために、つまり勉強のために返してもらったものだ。なのに……。ハーマイオニーは、別の使い方を強く思い描いてしまう。

 

「――でも……ダメなの……」

「何を言って……え? ――スキャバーズ?」

 

 どうしようと悩んでいると、ふと、ロンがハグリッドの小屋のそばを走るネズミに向かって名前を呼んだ。

 

「何だって、ロン?」

「スキャバーズだ……! 生きてたんだ!」

 

 ロンは感極まって透明マントから出て、ネズミを――間違いない、スキャバーズだ――捕まえようとする。ところが、スキャバーズはどういうわけかロンの手から逃れようと走ってしまった。

 

「スキャバーズ!」

 

 ロンが囁くように小さく叫ぶ。それでもスキャバーズは逃げ出した。ロンはそのままネズミを追いかけて駆け出してしまった。

 

「ロンが! ハーマイオニー、どうしよう?」

「追いかけましょう」

 

 ハーマイオニーの顔は苦渋に満ちていた。

 

「でもバックビークが……!」

 

 ハーマイオニーは首を振った。普段なら、ロンを置いてバックビークのことだけを考えることができた。だがハーマイオニーはブラックがロンのベッドに襲撃をかけたことを忘れていなかった。実力のある庇護者がバックビークの件に掛かり切りになっている今、ロンを森のそばに一人にするなんてことはありえない。ここでバックビークを優先すれば、もう二度とロンの元気な顔を見ることができないかもしれない。

 

 ――究極の選択だ、ハーマイオニー。

 

 カサンドラの初回の授業での言葉が脳裏をよぎる。あの時は答えを出さなくてもよかった。だが、今は選ばなくてはいけなかった。

 

 ロンか。

 バックビークか。

 

 ……ハーマイオニーは、自分でも驚くほど冷静に、あっさりと、決断を下した。

 

「ハリー、今のホグワーツは危険なの。ブラックがうろつき回ってるのに一人にしちゃダメよ。バックビークは……。バックビークは……」

 

 ハーマイオニーはその先が言えなかった。どうしても認めたくなかった。

 

 諦める、なんて。

 

 その苦悩を汲み取ったハリーは、ハーマイオニーの手を握って言った。

 

「行こう、ハーマイオニー」

「え?」

「ロンを一人にはできないよ。……でしょ?」

 

 ハリーとハーマイオニーはお互い泣きそうになりながら頷きあい、マントを脱いで駆け出した。

 二人がしばらく走った後、斧が地面を叩く音がした。ずしゃりと、嫌な音が。

 

「やった……! やった!!」

 

 それからすぐに、嬉しそうなマルフォイの声が聞こえた。走りながらギリ、とハーマイオニーは歯を食いしばった。

 

「鳩尾にパンチをたたき込んでやるわ……!」

「僕が押さえつけるよ」

 

 二人はロンを追いかける。森が近くなり、さらに薄暗くなる。暴れ柳のすぐそばあたりで、ロンが嬉しそうにネズミを抱えていた。

 

「ロン……! ロン!」

 

 ハリーが呼び掛ける。

 

「ロン、もう戻りましょう。処刑は……終わったわ」

 

 ハーマイオニーが周囲を警戒しつつロンに声をかける。森が近い。危険度がかなり高い場所であることは間違いない。

 

「二人とも――まさか僕を追いかけてきたの!? なんで!」

「はぁ……、はあ……。なんでって……ロン、わかってる、だろ!? 今のホグワーツは、はぁ、危ないんだよ、ロン。はぁ……。とにかく、スキャバーズが無事なことがわかってよかった……」

 

 と、ハリーが言うか言わないか。いきなり森の木陰から真っ黒な犬が飛びかかってきて、ロンに襲い掛かった。

 

「う、わっ!? 犬!?」

「死神犬よ!」

 

 すかさずハーマイオニーが叫んだ。杖を引き抜き、呪文を唱えようとして……ロンに誤射する可能性が高いことに気付くと、猛然と駆け出した。ロンはバランスを崩してのし掛かられている。ネズミに食らいつこうとする犬から両手を使って庇っている。もし犬の標的がネズミからロンへと変われば彼は死ぬ。ハーマイオニーは自分を鼓舞するように叫んだ。

 

「やあああああああああああああああああッ!!」

 

 ハーマイオニーは助走をつけた勢いのまま、犬の胴体目掛けて思いっきり蹴りを叩き込む。

 

「きゃうんっ!」

 

 犬は地面を転がって、すぐさま体勢を立て直した。犬の凶悪な視線は未だにロンを向いている。ハーマイオニーは苦い思いをしながら悩む。『危険生物処理委員会』の人間と自分、一体何が違うのだろうと苦しみながら、使うべき魔法を選ぼうとする。

 

「息の根を止める魔法、何か、何か……死の呪文って動物に使っても大丈夫だったっけ!?」

 

 杖を取り出して、ハーマイオニーはあたふたとし始める。黒い大きな犬は威嚇するように姿勢を低くし、ぐるる、と唸る。

 

「ダメ、やっぱり殺すなんて……。とりあえず石にすれば――! ペトリフィカス・トタ――クルックシャンクス!」

 

 石化魔法を使おうとしたハーマイオニーに向かって、赤毛の潰れ顔の猫、クルックシャンクスが向かってきた。慌ててハーマイオニーは杖先を自分の猫から離し、突っ込んでくるクルックシャンクスを抱きとめた。

 

「どうしてあなたこんなところに!? 邪魔しないでちょうだい……――ロン!」

「ああ、うわああ! ハリー! ハーマイオニー! 助けて、助けて!」

 

 ロンが悲鳴を上げる。犬がロンの服の襟元に噛みついて、暴れ柳の根元にある洞窟まで引きずり込もうとしている。彼は激しくもがいて抵抗していたが、スキャバーズを守るために両手がふさがっていては、あまり効果はなかった。瞬く間にロンの姿が見えなくなる。

 

「助けなきゃ……!」

 

 ハリーが駆け出すが、暴れ柳の恐るべき一撃がハリーのすぐ前を通り過ぎる。慌てて、手に持った透明マントを手放してできるだけ身軽に動けるように備える。隙を窺おうと近づいたり離れたりを繰り返すが、圧倒的な大質量が繰り出す攻撃の脅威度が高く、前に進めない。厄介な樹が存在する限り、追うことはできない。

 

「なんとかしないと……!」

 

 ハーマイオニーが駆け出す。暴れ柳の横薙ぎの一撃をしゃがんで回避する。細かい枝が彼女の肩口を切り裂いた。

 

「痛っ……! でも、止まってられないの!」

 

 覚悟を決めて、ハーマイオニーは叫ぶ。そのとき、彼女の胸元にいるクルックシャンクスがぴょんと飛び降りて、颯爽と駆け出した。暴れ柳の根元にたどりつくと、幹にある節に体を摺り寄せた。すると、今まで大暴れしていたのがなんだったのかというほど、あっというまに暴れ柳はおとなしくなり、まるでただの木であるかのようにまっすぐになった。

 

「……ど、どういうこと?」

 

 ハーマイオニーが困惑していると、クルックシャンクスは二人を誘導するように根元にある洞窟へと姿を消した。

 

「わからないけど……」

 

 ハリーは厳しい表情で杖を引き抜いて、駆け出した。そう、わからないけれど、そんなこと、今はどうだっていい。

 

「そうね、急ぎましょう。あの犬がロンを殺す前に」

 

 二人は洞窟の中に入った。

 

――1994年 6月 『叫びの屋敷』

 

 二人はクルックシャンクスの先導で洞窟の中を進む。太い根っこが複雑に絡み合った通路を、這い進んだり、滑り降りたりして長い時間を移動に費やした。どれくらい歩いただろうか。時間の感覚があいまいになってきたころ、不安になったハーマイオニーがハリーに聞いた。

 

「ロン……無事かしら」

「信じよう。どこに続いているんだろう……」

「ハリー、あの地図には書いてなかったの?」

 

 ハーマイオニーが聞く。ホグワーツに存在するすべての通路と抜け道を記した『忍びの地図』の持ち主なら、この通路がなんの抜け道なのか、知っていそうなものなのだが。

 

「書いてたけど……フレッドもジョージも、僕も……危険すぎて誰も通ったことがないんだって。一応ホグワーツの外……ホグズミードに続いてるってことは覚えてるんだけど」

「――ホグズミード? なんてこと……」

 

 この道のりがかなり長いことに気づいたハーマイオニーはハリーを急かす。走ったり、長いこと歩いたり。息を切らしながら、ハリーは進む。マラソンをした後みたいに体が疲れている。ちらりと隣のハーマイオニーを見ると、まだ息も荒くなっていない。ハーマイオニーのペースに追いつこうと必死になっていると、やがてぼんやりとした明かりが見えた。古ぼけた扉の窓からわずかに光が漏れていた。

 

「行きましょう」

「ごめん、ハーマイオニー……ちょ、ちょっとだけ、ほんの少しでいいんだ、休ませて」

「……わかった」

 

 ハーマイオニーもほう、と息をついて体を小休止させる。ちらりと扉に張り付いて、窓から中をうかがう。古ぼけた、ほこりっぽい部屋だった。壁紙ははがれかけており、恐るべき爪痕が無数についている。床は赤茶けた染みだらけで、家具という家具は打ち壊しにでも遭ったかのようにボロボロだった。部屋にある窓は全て木の板で打ち付けられており、外の様子はうかがえない。

 

「よ、よし、ハーマイオニー、行こう」

「ええ」

 

 ハーマイオニーは扉を開けて、警戒しながら部屋に入る。部屋には誰もいない。ただ、入ってきた扉からすぐ右側にある扉が開けっ放しになっている。

 

「……ここ、『叫びの屋敷』だ」

 

 ハリーは部屋の窓に打ち付けられた木の板を見回しながら言った。

 

「……それなら……この部屋はゴーストが?」

 

 ハーマイオニーがそう言ったとき、ちょうど上の階で大きな物音がした。とたんに二人は黙って、お互いにうなずき合う。できるだけ忍び足で、開けっ放しになっている扉へと入る。叫びの屋敷のホールから、今にも崩れそうな階段を上る。どこもかしこもほこりだらけだったが、その階段と、二階の廊下は違った。何かを引きずったように、埃が拭き取られていた。二人は警戒しながら痕跡を追う。痕跡を追った果てには、わずかに開いた扉があった。二人は扉の前に立つと、物音を聞く。ごそごそと何かが動く音、ゴロゴロとなる太くて大きな声。

 ここが終点。ハリーとハーマイオニーはお互いに頷きあって、それから同時に扉を蹴り開けた。

 

「ロン!」

 

 奇妙な部屋だった。埃っぽいカーテンが掛かった豪奢な天蓋付きのベッドの上に、クルックシャンクスが丸まって寝ている。そして、同じようにベッドの上に縛られたロンがいた。二人は慌ててロンに駆け寄る。

 

「ロン、大丈夫? 犬は? いったい誰があなたを……」

「犬じゃない! 罠だ、逃げろ!」

 

 ロンが叫ぶと同時。バタンと音がして背後の扉が閉まった。二人が振り返ると、そこには。

 そこには、影の中に立つようにして、揺らめく髪を肘まで伸ばした幽鬼のような風体の男がいた。

 

「……あ……」

 

 ハリーは絶望したように声を上げた。

 汚れ切った長い髪の毛は顔の輪郭をも覆い隠しており、その風貌を正確に知ることはできない。だが、落ち窪んだ眼窩の奥、暗い瞳だけがギラギラと輝いており、その目はまっすぐにハリーを射抜いていた。髑髏のようにやせ細った顔が、ニヤリと嬉しそうに笑った。

 

「シリウス・ブラック」

 

 ハーマイオニーが恐る恐る言った。

 

「そうとも」

 

 ――見えなかった。

 

 ハリーはいつブラックが杖を抜いたのか、ほんのちらりとも知覚できなかった。意識の緩急を狙い、最も気が抜けた瞬間を狙って抜き放たれた杖から、武装解除呪文が無言で飛んでくる。ハーマイオニーの杖も、ハリーの杖も、抵抗すらできずに弾き飛ばされ、きれいにブラックの手元に収まった。

 

「友達は大事だ……」

 

 ブラックがふらりと、倒れ込むようにして一歩ハリーに近づいた。

 

「君の父親だって……こうしただろう」

 

 嬉しそうだった。心の底から、歓喜の笑みが浮かんでいた。

 

「勇敢で……優先すべきことを間違ったりしない……。――先生を呼ぶ時間すら惜しいと、わかっていたんだね……。その方が楽に済む……」

 

 眼光とは裏腹に、ブラックの声は優しげだった。ハリーにはそれが侮られているようにしか感じなかった。父親を殺した相手が……父親をほめそやす。酷い皮肉だ。とんでもない侮辱だった。ハリーは一刻も早く杖を取り戻したかった。守るために欲したんじゃない。

 

 殺すために、(ちから)を欲した。

 

 ハリーはブラックと同じくらい危険な色を目に宿らせて、一歩足を進めた。その腕を、ハーマイオニーが止める。

 

「ダメ……落ち着いて……」

 

 ハーマイオニーの声は震えていて、信じられないくらいか細かった。

 

「ブラック……! ハリーを殺すなら、僕らも殺すことになる! 罪が重くなるぞ!」

 

 ロンが立ち上がろうともがく。無駄だとわかっている。自分でもよくわからない理屈だ。でも言わずにはいられなかった。

 

「座っていてくれ……」

「僕たちは決してあきらめないぞ……!」

「心配しないでほしい……」

 

 ブラックはやさしく、ロンに話しかけた。

 

「今日殺すのは一人だけだ。たった一人だけ……そう、一人だけなんだ」

 

 ハリーはぞっとした。一人を殺すと語るブラックの表情は、まるでハリーがファイアボルトをプレゼントされた時のような、この上なく幸せで嬉しいという表情だったのだ。自分を殺すことが、そんなにもうれしいのか。

 

「なんで……?」

 

 ハリーは思わず聞いた。

 

「どうしたのかな、ハリー」

「僕の名を――呼ぶな!」

 

 ハリーが怒鳴ると、ブラックは顔を顰めた。

 

「……それで、なにかな――ポッター」

「なぜ、一人だけなんだ。何を気にしてる? もう13人殺したんだ。今更……数を気にするとは思えない。それとも」

 

 ハリーは嘲笑うかのように挑発する。

 

「アズカバンで腑抜けになったの?」

「ハリー、ダメ!」

 

 ハーマイオニーが哀願する。

 

「殺される前に、言ってやれるだけ言ってやる! 父さんと母さんを殺した悪魔に!」

「な――」

 

 ハリーはブラックの動揺を敏感に感じ取った。なぜ動揺したのかは知らない。だが、今がチャンスなのだ。ハリーはハーマイオニーの腕を振り払って踏み込み、ブラックにとびかかった。

 

「!!」

 

 ブラックが杖を振り上げるが、そのころにはもうハリーは懐に潜り込んでいた。ハリーとハーマイオニーの杖を持っている手の手首をひねり上げるようにして掴むと、痩せこけた頬に向かって握りこぶしを叩き込んだ。ハリーとブラックは縺れ込むようにして倒れた。

 杖が暴発し、三本の杖からそれぞれ目もくらむような閃光が放たれる。その間もハリーは攻撃を加える。自分がどう攻撃しているのか、どこに攻撃しているのか。それすらもわからないままただ拳を振るう。

 

「――ああ」

 

 だが、そのすべてはただ無意味だった。あっさりと混乱から立ち戻ったブラックがハリーの首を掴み、ギリギリと締めあげた。

 

「もう――待てない」

「ハリー!」

 

 ハーマイオニーが気合の絶叫と共に、ブラックに蹴りをお見舞いした。胴体を思いっきり蹴り飛ばされたブラックは思わずハリーを手放し、壁に叩きつけられた。

 

「ぐ……」

 

 先ほどまでの攻防で、ブラックの手から杖が三本、零れ落ちた。ハリーは駆け出して杖を拾おうとする。だが、どういうわけか飛び起きたクルックシャンクスがハリーに向かってとびかかってきた。

 

「やめろ!」

 

 ハリーはクルックシャンクスを手で打ち据えて迎撃する。素早くしゃがんで、自分の杖を回収する。ハーマイオニーは自分の猫に気を配っている余裕はなかった。自分の杖ともう一本、ブラックが使っていたロンの杖をひったくると、ロンのすぐそばまで退避した。

 ブラックは顔を青ざめさせていた。やせた胸を上下させ、ハリーの動きを信じられないものでも見ているような目で見ていた。

 ハリーは杖の先をブラックの顔から、心臓のところにゆっくりと、見せつけるようにして動かした。

 

「僕が死の呪文を知らないと思ってるなら……それは違う」

 

 ブラックは驚愕に目を見開いた。

 

「ハリー……私を殺すのか?」

「名前を、呼ぶな」

 

 ブラックは黙った。

 

「両親の仇だ。殺してやる……殺してやるんだ……!」

 

 ハリーの声は震えていた。だが、杖腕はピクリともしない。ブラックは落ち窪んだ眼窩の奥、爛々と光る眼をわずかに揺れさせて、ハリーを見上げた。

 

「仇か……。否定はしない。だが、聞いてくれ、それは全てじゃないんだ……」

「全て? お前は、裏切者。これ以上知るべきことがあるとは、思えないよ。それ以上は知りたくもない!」

「聞いてくれ」

 

 ブラックの声に緊張が含まれてくる。ハリーの目が本気だと、ようやく悟ったらしい。

 

「お願いだ……私を殺すのは、真実を知ってからでも遅くはない」

「いいや。僕がなんにも知らないと思ってるの? 僕のことをあまり馬鹿にしすぎだ……」

 

 ハリーは今までの人生を思う。

 

「僕がダーズリーの家で暮らさなきゃいけないのも、父さんと母さんが殺されたのも、全部全部お前のせいだ! お前が裏切ったから! ……その報いを、受けろ!」

 

 ハリーは杖を振り上げた。彼が使う呪文は、その場にいる誰もが予想できた。

 

「ハリー、ダメ!」

 

 ハーマイオニーの悲鳴のような制止の声に、思わずハリーの手が止まった。

 

「ハーマイオニー! 仇が目の前にいるんだ!父さんと母さんをヴォルデモートに売った奴が、目の前にいる! 殺せるんだ!」

「ハリー、僕の友達は! 僕の友達は、復讐なんてしない!」

 

 ロンの言葉に、ハリーの決意はさらに鈍る。

 

「そうよ! ハリーはそんなことしないわ!」

「黙っててくれ、二人とも……!」

 

 ハリーは再びブラックを見る。今がチャンス。今なら誰にもバレずに殺せる。仇を取れ。そうだ、復讐を成し遂げるんだ。

 

 ――そう叫ぶ内心とは裏腹に、ハリーの口はいつまでたっても『アバダ・ケダブラ』と言わなかった。杖を振り上げなかった。じっと杖先をブラックに向けて、鋭くにらんで。そこから先へ、進めない。

 誰もが沈黙していた。

 痛いほどの静寂が流れる。

 

 その時、扉のすぐ外で階段を上る音が聞こえた。

 

「助けて!」

 

 ハーマイオニーがすかさず叫んだ。

 

「助けて! シリウス・ブラックがいるわ!」

 

 足音がバタバタと早まった。誰かが来る……これが最後のチャンス。今を逃せば永遠に機会は失われてしまう。やれ、早く!

 

 しかし、ハリーの腕は動かない。口も、動かない。

 

 ドアが吹っ飛ぶような強い勢いで開いて、カサンドラとルーピンが部屋に駆け込んできた。ルーピンは杖を、カサンドラは短剣とレオニダスの槍を持っている。

 

「『エクスペリアームス――武器よ去れ!』」

 

 ルーピンは部屋の状況をさっと確認すると、ハリーに武装解除呪文を放った。ハリーの手から杖が取り上げられ、ハーマイオニーの持っていた杖も同じように取り上げられた。ルーピンは器用に杖を掴むと、ブラックを見つめたままハリーのそばへと歩いていく。カサンドラはロンに近寄ると、その状態を確認する。

 

「今からロープを切るぞ。動くなよ」

 

 手にした短剣で手早く戒めを切り裂くと、ルーピンのほうへと向いた。

 

「ハリー、どいてくれ」

「え、ええ、先生」

 

 ハリーはうなだれた様子で指示に従った。――できなかった。仇を取れなかった。最後の最後で弱気になってしまった。どうせこれから吸魂鬼に引き渡されて、死ぬって言うのに。

 ルーピンは感極まったように、震えた声でブラックに話しかけた。

 

「シリウス。()()()()()()()()

「ルーピン、何を言っている?」

 

 カサンドラの疑問は、ハリーも抱いた。どういうことだ? ルーピン先生は何を言っているんだ? 意味が分からない質問だった。だが、ブラックには意味が通じているらしい。表情を殺したまま、ブラックはゆっくりと腕を上げ、ロンを指さした。

 その場にいる全員が首を傾げた。指さされた当人も困惑した様子だった。

 

「……なぜだ。なぜ今まで正体を隠していた?」

 

 その時、ルーピンはハッと、何かに気づいたような表情になって叫んだ。

 

「逆か。逆なのか、シリウス!」

 

 ブラックはゆっくりと、目に涙を浮かべて頷いた。

 

「何を言っている、ルーピン。いいからそいつを早く始末するか吸魂鬼に引き渡――」

 

 カサンドラの言葉は最後まで続かなかった。カサンドラは素早くベッドから降りると、警戒をあらわにする。

 ハリーはその光景が信じられなかった。

 ルーピンが構えていた杖を下ろした。

 まるで親友にするみたいに、ルーピンはブラックのほうに手を差し出して、助け起こした。それから、ゆっくりと、兄弟のようにお互いを抱きしめたのだ。

 

 ――え?

 

「そんな!」

 

 ハーマイオニーが叫んだ。ルーピンはブラックから離れ、振り返り、ハーマイオニーを見た。困ったような顔は、ハリーがよく知るルーピンのものだ。だが、ブラックと隣り合っているというだけで、その顔が邪悪に染まったかのように錯覚してしまう。

 

「先生は……うそでしょ……先生……」

 

 ハーマイオニーはわなわなと震えながら、叫んだ。

 

「ブラックとグルなんだわ!」

 

 その恐ろしい事実を、声高に。


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