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その命を守る為に
――1994年 7月 カサンドラ探偵事務所
目覚まし時計に起こされて目を覚ますと、カサンドラはあくびをしてベッドから降りた。裸体を惜しげもなく晒して伸びをする。新しい下着を身に着けると、スーツを着て、身支度をする。
「おい、いつまで寝てる」
ゆっくりと着替えたにもかかわらずまだ寝息を立てる裸の男に声をかけると、彼はん、と目を開けた。
「……もう、朝か……。おはよう、カサンドラ」
男はカサンドラと同じようにあくびをすると、しばらくぼんやりと微睡んで、それからのろのろと着替え始める。
「まったく、早く朝飯を作ってくれ。早くしないと昼飯になってしまうぞ? なぁ、シリウス」
「わかってる、わかってるよカサンドラ……。料理初心者に手厳しいな、全く」
髭を剃り、髪を整え、いくらか肉がついて健康的に見える美丈夫、絶賛逃亡中のシリウス・ブラックはやれやれと言った顔をしてキッチンに向かった。
――シリウス・ブラックがカサンドラ探偵事務所に転がり込んだのは、時間遡行までして行った大脱走から数日、実家の召使にバックビークを押し付けたシリウスは野良犬時代の記憶を頼りにカサンドラのところに顔を出したのだ。魔法省に突き出さないとダンブルドアに言った手前、土下座に近いほど頼みこむシリウスを突っぱねることもできず、シリウスの専業主夫としての生活が始まった。夫ではないが。
「それにしても、ようやく肉がついてきたな」
「……感謝してる」
シリウスはそう言いながらベーコンの焼き加減を見る。子供のころは名門のお坊ちゃまとして過ごし、学生時代はホグワーツと生活能力がほとんどなかったシリウスは、このひと月でずいぶんと生活能力が身についた。もし今マグルの世界に放り出されても、金さえあれば生活できるようにはなった。
「だが、カサンドラ。走り込みをする必要はあるのか?」
「お前の立場は脱走犯だ。逃げるとき、最後にモノを言うのは体力だ。それに、よく考えろ。毎日決まった時間に、トレーニングウェアを着てウォークマンで曲を聴きながらランニングをする好青年を脱走中の大量殺人鬼だと思う人間がいると思うか? 大事なのは溶け込むことだ。隠れることじゃない」
「ご高説ありがたいね」
ベーコンエッグを盛り付けて、カサンドラの前に配膳する。
「ありがとう、シリウス。……ハリーから手紙が来てるぞ」
「なんだって!?」
食事をしながら、朝の新聞と手紙をチェックする。シリウス宛ての手紙は滅多に来ないが、シリウスはその手紙をずっと心待ちにしていた。親友の息子と手紙のやり取りをするのがたまらなくうれしいらしい。カサンドラも手紙を見ていく。
「……ルーピンはまた面接に落ちたらしい。ノクターン横丁のかなりディープな酒場でもダメとなると、どこならいけるんだ……?」
「人狼は就職に不利だ。……カサンドラ、ハリーはダーズリー家で私の名前を出して家人を脅かしているようだが……止めるべきだと思うか?」
カサンドラはため息をついた。
「見せてもらってもいいか?」
「ああ」
カサンドラはシリウス宛ての手紙を読む。ダーズリー家が一家そろってダイエット作戦を始めたこと、そのあおりを食らって兵糧攻めにあっていること、友達からの差し入れで食いつないでいること、そう言った理不尽を悪化させないようにシリウスの名前を出していること……そんなどうしようもなく最悪な現状が書かれていた。
「気にするな。ダーズリー家にも問題がある」
「……どういう家なんだ?」
「お前みたいなのを毛嫌いする家だよ。それよりも、傷痕が痛んだ? 呪いの傷ってそこまで長続きするのか?」
カサンドラが聞くと、シリウスは生返事をした。どうやらダーズリー家についていろいろ考えを巡らせているらしい。この様子なら犬になって偵察するとか言いかねない。
「おい、シリウス」
「あ、ああ。すまない。それで、なんだったか」
「呪いの傷痕だよ。ハリーが痛むと手紙に書いてる」
「……誰もわからない」
「は?」
シリウスが言ったことが、カサンドラには信じられなかった。
「死の呪文を食らって生きているのは歴史上でハリーだけだ。さすがはジェームズの子だ」
「ハリーを持ち上げるのは結構だがな、ハリーが聞きたいのはそんな称賛じゃないだろう」
「それはわかっている。だが……傷が痛むだけでは何もわからないのも事実だ」
シリウスはそう言うといそいそと事務所にある羊皮紙を一枚手に取ると、返事を書き始める。
「なあ、カサンドラ、今日の予定はどうなってる?」
「今日は昼からダンブルドアが来る。事務所に転移してくるから、いったん寝室に隠れててくれ。あとで呼ぶ」
「ダンブルドア先生が……直接『姿現し』してくるのか? 毎年なのか?」
「いや、別件で依頼があると言っていた。ついでだ、お前のことを話しておこうと思ってな」
「……突き出されたりしないか?」
カサンドラはため息をついた。
「脱走はダンブルドアの協力なくしては成り立たなかったんだぞ。気にするな」
「……ならいい」
――
カサンドラがシリウスを寝室に押し込んで、お茶の用意が終わったあたりで、バシン、と音がしてダンブルドアが事務所に転移してきた。
「おお、こんにちはカサンドラ。今日もいつも通り凛々しいのう」
「世辞はよせ。顔合わせか?」
「いや、今日は違うよ。依頼したいことがあっての」
「ん……とりあえず、お茶にするか」
「それは名案じゃの」
カサンドラとダンブルドアはテーブルをはさんでソファに座った。
「今年……クィディッチのワールドカップがあるのは知ってるかの?」
「ロンとマクゴナガルから熱烈なラブコールがあったよ。ロンなんか私のためにチケットを取るなんて言ってくれたんだがな、断ったよ」
カサンドラが言うと、ダンブルドアは目を見開いた。信じれらないものを見るような目でだ。
「なんと……! なぜそんな暴挙を?」
「ダンブルドア、私はマグルだ。世界中の魔法使いが集まってくる場にいたら、すれ違いざまに忘却呪文が飛んでくるかもしれないんだぞ」
「うむ……そのことでマクゴナガル先生から相談を受けてのう。どうにか、カサンドラにワールドカップを観戦させることはできないものか、と」
カサンドラは頭を抱えた。
「なんでそんな必死になる? 魔法使いは全員漏れなくクィディッチの広報員なのか?」
「似たようなものかもしれんのう。ワシも、マクゴナガル先生と同意見なのじゃからのう」
勘弁してくれよ、とカサンドラは呆れたような声を上げた。
「実はの、各国に逃れた死喰い人がワールドカップにかこつけてイギリスに戻ってきておるようじゃ」
カサンドラは目を鋭くした。意識を切り替え、姿勢を正す。
「ヴォルデモートの配下か。世界各地にシンパがいるのか?」
「いや……彼奴はイギリス国外でほとんど影響力を持たぬ。じゃがの、前回の戦争で罰を逃れた者の一部は、国外へと逃れた。その数は……相当な数になる」
「そいつらが、これ幸いと舞い戻ってくるわけだ」
うむ、とダンブルドアは頷いた。
「そこで、じゃ。ここまで言えば半ば推測できておるのではないかの? お主にはワールドカップ終了後、会場周辺の警備に就いてほしいのじゃ」
「それは……いいんだがな」
カサンドラは言葉を濁す。
「……場所はホグワーツじゃないんだな?」
「そうじゃ。イギリス郊外にあるキャンプ場じゃ。周辺は森と林。お主の得意な場所だと思うがのう」
「なら……私の流儀でやることになるぞ? つまり……死喰い人を見つけ次第、永久に沈黙させることになる」
ダンブルドアは頷いた。それが、カサンドラには驚きだった。いつもは何かと理由を付けて殺すのを止めるのだが。
「手はずは整えておるよ。じゃがくれぐれも間違えてくれるな。もしお主が判断を誤れば、ワシとて庇うことはできぬ」
「いや……それでいい。だが、らしくないな。何かあったのか」
ダンブルドアはふむ、と煙に巻くように長い顎髭を撫でつけた。
「クィディッチの熱狂に便乗してマグルを殺されるわけにはいかないんじゃよ。世界に、もはや犯罪組織はイギリスで活動することはできんと、示す必要があるのじゃ」
「……わかった。引き受けよう」
カサンドラが言うと、ダンブルドアはやんわりとほほ笑んだ。
「報酬には期待してもらおうかの」
「ああ、話はこれで終わりか? それならこっちも伝えることがあるんだが」
カサンドラが切り出すと、ダンブルドアは興味深そうに眉を上げた。
「ほう? 珍しいの。用件はまだあるのじゃが……まあ、ただの伝達じゃ。カサンドラの用件はなんじゃ?」
「……ダンブルドア、一月前、私たちは共犯者だった。そうだな?」
「そうじゃのう」
「つまり、余計なことを余計なところに報告する気はないということだな? もちろん、今でも」
「ふむ、なるほどのう」
ダンブルドアは納得したようにうなずいた。
「迂遠な物言いとはじつにやきもきさせられるのう」
「わかった、わかった。――おい、いいぞ!」
カサンドラが寝室に向かって叫ぶ。すると、寝室の扉が開いて、パリッとノリの利いたフォーマルスーツをしっかりと着込んだシリウス・ブラックが事務室に入ってきた。
「……なんと!」
ダンブルドアはこれ以上ないってくらいに目を見開いて立ち上がった。
「……お主、シリウスか? 見違えた……よもやお主が……なんと……こんなことがあるとは……」
「先生……。私は……。私は、選ぶべきでない人を、選んでしまった……」
後悔に満ちたシリウスの言葉に、ダンブルドアは目に涙を浮かべて首を振った。
「よい、よいのじゃ。ワシとて当時は騙された……。しかし、シリウス。お主、カサンドラのところにおったのじゃな……」
「はい、先生。今はカサンドラの元で花婿修業に明け暮れる日々です」
「ほっほっほ。それはそれは愉快じゃのう」
ダンブルドアはソファに座りなおした。シリウスはカサンドラのすぐ隣に座った。肩が触れそうな距離に、ダンブルドアがわずかに反応する。
「先生。お聞きしたいことが一つあります」
「うむ、何かな」
「なぜ、ダーズリー家にハリーを預けたのですか?」
シリウスの質問に、ダンブルドアは深い、深いため息をついた。
「……ワシとて、ハリーには健やかに育ってもらいたいと思っておる」
「しかし、事実は違っていました。私のような正体不明の脱走犯に共に暮らそうと言われて、ハリーは二つ返事で頷いたのです。それほどまでに追い詰められているのですよ」
「そうじゃろうなぁ。シリウス。『愛の魔法』は知っておるかの。古い……最も原初に近い魔法じゃ」
シリウスは首を傾げた。
「それは……一体?」
「強い愛情、死の危険。様々な条件が重なった時、特定の対象の攻撃から唯一無二の防御を得ることができる魔法じゃよ。母の愛とは慈愛に満ちていて、それでいて苛烈じゃ。害するものをけして許しはしない。ゆえに……ヴォルデモートはハリーを殺すことができないどころか、触れるだけで凄まじき反撃に遭う事じゃろう。ハリーは今でも、そんな母の愛に守られておる」
カサンドラはすぐにクィレル戦のことを思いだした。
「一昨年クィレルがハリーに触れた瞬間土くれになったのもそれが原因か」
「然り」
「いや、待ってくれカサンドラ。さっきの話の流れからするとつまり、クィレルってのがヴォルデモートの関係者なのか? なんで1年生でそんな奴とハリーが会ってる!?」
シリウスがわめくが、カサンドラは取り合わなかった。
「黙ってろ」
「だがな! 私はハリーの名付け親だぞ? 近況くらい知る権利はある!」
「後で教えてやる。今日の夜、じっくりとな」
シリウスの唇に人差し指を当ててカサンドラが言った。シリウスはそれでいったんは納得したらしく、憮然と腕を組んで黙った。
「よし、続きを話してくれ」
「……う、うむ。そうじゃの。本来……『愛の魔法』はそう長く続く魔法ではないのじゃ。持続する魔法なのじゃが……大抵は、魔法を使う人間が死んでしまうが故にの。じゃが、ワシはハリーが生き残った理由に気づき……ちょいと、『愛の魔法』に細工をしたのじゃ。詳しい理屈は長くなる故省略するがの、大事なのは現状じゃ。ハリーは母親の近親者が住まう家を『自分の家』だと思っていなければならぬ。ゆえに、ハリーはダーズリー家を離れることは叶わんのじゃ」
シリウスの顔は優れない。それも無理はないだろう。つまり、ハリーの命を守るためにハリーの心を見捨てろと、そう言われたに等しいのだ。
「もう、ハリーを狙うやつはいません。安全なはずです」
「いや……それはどうかな」
「カサンドラ? 何を言ってる。ハリーは子供だ。子供を狙う闇の魔法使いなんてそうそういるわけがない」
「1年生の時はヴォルデモート本人と対峙して、2年生の時はバジリスクと若かりし頃のヴォルデモートと。3年生の時は殺人鬼に付け狙われてた。……まあ、去年度は実際には違ったわけだが」
シリウスはめまいがしそうだった。ルーピンと友達付き合いをしている自分は歴代でも1、2を争う危険な学校生活を送っていると確信していたのだが、まさか易々と超えてくるとは思わなかった。
「……そんなことが」
「運命なんて言葉は気に食わないが、安全策が必要だという考えは理解できる。……まあ、モリーにいろいろと誘われてるんだ、ついでにハリーの様子を見に行く」
「ありがとう、カサンドラ」
シリウスは縋りつくようにしてカサンドラに礼を言った。よっぽど心配らしい。
「さて……脱線したな。ダンブルドア、そっちの用件は?」
「おお! うむ、そうじゃな。お主、どれほど言語を喋れるかのう」
「マイナー言語じゃなければ大抵は。それがどうした?」
カサンドラが答えると、ダンブルドアは安心したような顔になった。
「うむ。今年度は他校の生徒がホグワーツで生活するゆえにな、できれば他の学校の生徒にも気を配ってやってほしいのじゃ」
「……は? 魔法学校って……滅多に交流しないんじゃないのか?」
その通り、とダンブルドアは言った。
「今年は
その言葉にしかめっ面をしたのは隣のシリウスだ。
「先生、そいつは私の記憶が確かなら、死人が大量に出たから中止になった『交流』のはずですが」
「安全面には十分気を使うと魔法省のルード・バグマンから通達があった故、問題はないと思っておるよ」
「ですが、今までしていなかったのにどうして今年になって?」
うむ、とダンブルドアは頷く。
「シリウスよ。魔法界は断絶にすぎるとは思わぬか?」
「……ええ」
シリウスは力なく答えた。カサンドラのところに転がり込んで、マグルとして生活して思ったのは、マグルは魔法なんて使えなくても問題ないくらい技術と文明を進歩させたのでは、ということだった。
「イギリス国内の魔法界にだけ目を向けていればそれでよい……。そんな時代は早々に終わりが来る。ゆえに、交流と融和の種を、ここで撒きたいのじゃ。『前例がないから』『今までそうじゃなかったから』そんな理由で足を止めるのは……実に愚かだとは思わんかね」
「……はい、先生」
カサンドラは頷いた。
「わかった。他校の人間がいるんだな。舐められないよう頑張るよ」
「頼もしい言葉じゃの。詳細は今年の顔合わせの時に通達するゆえ、今はワールドカップに集中しておくれ」
「わかった」
カサンドラは頷いた。
「では、ワシはこれで。……二人とも、籍は入れるのかの?」
「食い扶持も稼げないヤツと添い遂げる気はない。――それに、別れが来るのはわかってるんだぞ」
隣のシリウスは若干ショックを受けたような顔をしたが、カサンドラは特に気にしない。
「――少々、配慮に欠けておったの。では、また顔合わせの時に」
「ああ」
バシン、と音がして、ダンブルドアは事務所からいなくなった。
――1994年7月 プリベット通り ダーズリー家前
ワールドカップを一週間前に控えた日、かっちりとスーツを着込んだカサンドラは約束の時間である17時、ダーズリー家の玄関先にいた。
今日はハリーを迎えに来たウィーズリー家と一緒に軽くダーズリー家の様子を見る、とモリーと約束していたのだが、肝心のウィーズリー家が約束の時間の5分前になっても現れないのだ。モリーは息子から報告されるハリーの近況を不審に思い、夫と男連中、それからカサンドラを偵察にやることに決めたらしい。ダーズリー家でしばらくお茶をして、それからハリーを回収して『隠れ穴』へ行く。それだけの簡単な仕事なのだが、のっけから躓いている。遅刻して心証を悪くすることもないなとカサンドラはウィーズリー家を待たずにチャイムを鳴らした。すると、ほんの少しすらりとした様子のバーノンが出迎えに来た。
「な、き、貴様は」
「久しぶりだな、ミスター。今日はハリーを迎えにきた」
「……う、うむ。そうか。貴様は……その、他の連中と違って、『まとも』に見える」
カサンドラは苦笑した。そういえば、と彼女は手に持った鞄を開け、すぐに食べられるチョコレート・バーを差し出した。
「なんだこれは?」
「他意はない。お前には必要なんじゃないかと思ったんだが、いらなかったか?」
バーノンは執拗に後ろを確認して、それからチョコレート・バーをカサンドラから受け取り、すばやくポケットにしまった。ダイエットに強制的に付き合わされているのはなにもハリーだけではない。甘味は覿面に効いたらしく、カサンドラは内心ほくそ笑む。
「うむ、うむ。さあ、上がってくれ」
若干機嫌がよくなったバーノンに招かれ、カサンドラは扉をくぐった。
「悪いな、ありがとう」
カサンドラはダーズリー家に足を踏み入れた。魔法界の関係者で友好的にダーズリー家に招かれた、初の人間になったかもしれなかった。