ハリーはなんのことだかさっぱりわからなかった。
「ロン、『闇の印』って?」
ハリーは隣のロンにコソコソと内緒話をする。
「ええ? なんで知らないんだよ? さっき打ちあがったシンボルマークは死喰い人が人を殺す時に打ち上げたものなんだ。死喰い人とか『例のあの人』が人を殺すときに打ち上げてたらしいよ。あの印を見たら、魔法使いはビビり散らすんだ」
その通りだよ、とロンとハリーのすぐそばにいた魔女が言った。誰だろうか。けれどハリーたちを見る目は優しげだ。
「当時、あの印が一つ上がれば一人、もしくはもっと死んでた。バーティも、ここにいる人間じゃないって気付いてくれればいいんだけどねぇ」
魔女は目をぎょろぎょろとさせてその場にいる面々を見回すクラウチを見る。魔女の表情は仕方ないものを見る目だった。
「――直前魔法ならわかるだろう。全員杖を出していただこう」
クラウチが言うと、ロンやハーマイオニーたちは次々に杖を出していく。そばにいる魔法省の魔法使いが杖に直前魔法をかけて、『闇の印』を打ち上げる魔法ではないことを確認していく。
そろそろハリーの番だった。彼はポケットをあさる。
「――!」
そして、一気に顔を青ざめさせた。ローブの中、別のポケット。とにかく色々漁る。無駄だった。
――杖がない。
ハリーは顔からさらに血の気を引かせ、真っ白になった。こんな状況で杖がない? どう思われるかなんてわかりきってる。
「さあ、ハリー、念のためだ、杖を見せておくれ」
優しげにアーサーが言うが、ハリーは首を振るしかできない。大人たちがざわめく。
「つ、杖が、ないんです」
「――なんだと?」
クラウチの目が鋭くなる。
「ぼ、僕さっき起きたところで。テントから出る時にきっと落としちゃったんだ」
「――都合が良すぎる」
「だったらなんだっていうんだ、バーティ」
ハリーたちを取り囲む魔法使いの一人が言った。
「よもや、ハリーが『闇の印』を打ち上げたというのか? こんなひどい冗談聞いたことないぞ! 『例のあの人』を倒したハリー・ポッターが『闇の印』だって?」
「それに、ポッターはマグルのところでずーっと過ごしてたのよ。さっきもお友達に『闇の印』のことを聞いてたわ。そんな子がアレを打ち上げた? 耄碌したのなら早く隠居なさったら?」
別の魔法使いが言った。クラウチは忌々しげに舌打ちした。
「やかましい! 可能性の問題を話しただけにすぎん! だがここにいる連中が怪しいのは事実だろう!」
「あの!」
ハーマイオニーが、怒鳴るクラウチに負けず劣らずの声量で言った。
「……なんだ、お嬢さん」
「さっき、『闇の印』が打ちあがった時、悲鳴が聞こえました! も、もしかしたら誰かがこ、ころ、殺されてる……かもしれません」
「ふむ……頼めるか、ディゴリー」
クラウチはハーマイオニー達を取り囲む魔法省の人間を一人、睨みつけた。
「わかってる、クラウチさん」
彼は『闇の印』が打ちあがった方向まで向かった。しばらくしたあと、魔法省の役人は一人の、小さな存在を抱きあげてやってきた。
「クラウチさん、これはよくない」
「……!」
クラウチは目を見開いた。小さな存在。長い耳をした子供のような大きさの、屋敷しもべ妖精。ウィンキーだった。気を失っているのか、目は閉ざされている。そしてその手には杖があった。
「なぜ……私の召使がここにいる!? ディゴリー、他に人は?」
「いたのはいた。喋ることはできなさそうだったが」
クラウチは顔を顰めた。ハリーはエイモス・ディゴリーに抱きかかえられているウィンキーを見る。目立った外傷はないように見える。だが、魔法界において怪我をしていないというだけでは命があるとは言い切れない。
「そんな、馬鹿な。いや……どうせ、黙らされた死喰い人がやったのだろう」
「いいや、クラウチさん、まだわからないぞ。この召使は杖を持っていた」
「……馬鹿な。なんていうことだ……この恥さらしが……」
その時、バシンと音がして誰かが『姿現し』をしてきた。クィディッチ・ユニフォームを着たルード・バグマンだった。彼は息を切らせて、目の前の人だかりに向かって叫んだ。その形相は必死だった。
「みんな! 急いで避難しないとここは危険だ! 死が、『死』が死喰い人を『消して』回ってる! いつ我々が襲われるかわかったもんじゃない! ――バーディ?」
一人一人の顔を見て叫んでいたバグマンだが、クラウチの顔を見ると、彼は不思議そうな顔をした。
「一体、ずっとどこにいたんだ? バーディの屋敷しもべ妖精がずっと席を取っていたのに……なんで一度もクィディッチに顔を出さなかったんだ? ――おっと!? その屋敷しもべ妖精だよ! まさか、奴らに殺されたのか!?」
バグマンは慌ててディゴリーに寄ると、ウィンキーの息を確かめた。彼女が生きていることを確認したバグマンは安堵のため息をついた。彼は周囲に走った緊張に気づいていない。
「……クラウチさん、お聞きしますが、なぜ、クィディッチに顔を出さなかったのです?」
「忙しかったのですよ」
「妙なお話ですな」
ルシウスが思わず言った。
「各国魔法省の通訳も貴殿の仕事だったように記憶しているのですが……。記憶違いでしたかな?」
普段は鋭い目で見られるルシウスだったが、今だけは向けられる視線が柔らかかった。
「……マルフォイ氏の言う通りだ。一体どこで、何を?」
「これだけは言わせてもらうが、私一人ですべての業務を回すことができんほど忙しいのだ! 魔法省大臣の通訳と、マグルへの隠蔽、どちらが大事か考えてみろ!」
「それは……確かに難しい問題だ。だが」
ディゴリーは腕の中の屋敷しもべ妖精に視線を向ける。
「この召使に話を聞けばすべてがわかる」
「わかった、わかった……『リナベイト――目覚めよ!』」
クラウチが唱えると、ウィンキーはぱちくりと目を覚ました。呆然と周囲を見回し、最後に自分の主人の姿を見ると、ひゃあ! とディゴリーの腕の中から飛び上がった。そのまま彼女は地面に座ると、頭を地面にこすりつけるようにして土下座した。
「ウィンキー! 答えよ!」
「はい、もちろんでございます、ご主人様!」
ウィンキーの全身はかたかたと震えていた。今から物凄く恐ろしいことが起きる、そう確信している様子だった。
「今、『闇の印』が打ちあがった! 現場のすぐそばにお前がいた! 申し開きがあるなら述べよ!」
「あ、あた、あたしは、何も、何も
ウィンキーの弁明は悲鳴のような悲痛な大声だった。
「あたしはやり方を
「杖は! その杖を持っていたことをどう説明付ける!」
クラウチはディゴリーが拾った杖を指さしながら言った。ディゴリーが持っている杖に、ハリーは見覚えがあった。
「……そ、それ僕の、です」
その場の全員の視線がハリーに向く。
「――それは冗談か?」
ディゴリーが言った。
「い、いえ。僕の、杖です。落とした杖です」
「……冗談だろう?」
ディゴリーは慌てて自分の杖を持って、ハリーの杖に直前呪文をかける。すると、ふわふわと緑色の髑髏が浮かび上がった。
「ハリーには無理だ」
アーサーが慌てて弁明する。
「無理とは?」
「ハリーが起きてからここに来るまで、私が引率していた。息子も一緒だ。まさかエイモス、ハリーが『闇の印』を打ち上げ、我々一家がそれをただ眺めているような、そんな死喰い人だと言いたいのか?」
「――それもそうだな。ただ、ポッター。魔法使いなら自分の杖は
ディゴリーはあっさりと引き下がって杖をハリーに手渡した。ハリーはお礼を言うと杖を受け取り、しっかりとホルスターにしまった。
「つまり、だ」
クラウチの言葉は震えていた。
「お前は落ちていた杖を――お前が杖を持ってはならないと教えていたにも関わらず――拾い上げ、
「ご主人様! あたしは、あたしは魔法のまの字も
ウィンキーはほんの少しも頭を上げずに言った。むしろ、地面に額を強く押し付けている。
「あたしはそれを
ハーマイオニーは一歩進んで、大人たちにウィンキーの無実を主張しようとした。しようとして、うつむいた。ここで口を出すことが正しいことか、わからなかったのだ。
「事実は違うぞ、ウィンキー! お前が持っていた杖が最後に使った魔法は『闇の印』の魔法だ! わかるか? 証拠があるんだぞ!」
「あたしは違うのです、違います! ご主人様、あたしは杖の使い方も、やり方も、何一つ
「それが現行犯の言い訳か! ええ?」
吠えるクラウチの肩を、アーサーがつかんだ。
「なんだ?」
「落ち着いてください。あの呪文を知っている人間は一握りです。まず、普通の魔法使いの家の子は知らない。つまり、ここにいる子供たちは間違いなく容疑者から外れる」
クラウチの視線が一瞬だけドラコに向いた。だが、何も言う事はなく、頷いた。
「それで?」
「もちろん、屋敷しもべ妖精も、特別に教わらなければ使えない」
「――つまり」
クラウチが肩に置かれたアーサーの手を振り払って言った。
「私が常日頃『死喰い人』ごっこのやりかたを自分の召使に教えていたと、そう言いたいのか?」
「い、いえ。そこまでは。ただ、ウィンキーの交流はどうだったのかと、そう思っただけなんです」
「――実に奇妙だ。私が『例のあの人』、そして死喰い人をどれほど侮蔑し、嫌悪し、弾圧してきたか。それを忘れて、私が召使を死喰い人になるよう教育する? あり得ない」
「……私が思うに」
ディゴリーが申し訳なさそうに言った。
「その、言い出しにくかったんで言えなかったんだがな、ウィンキーのそばで黙らされていた死喰い人……そいつが『闇の印』を打ち上げたんじゃないかと思うんだが……」
「……順当に考えればそうだろうな。ウィンキー! 杖をどこで拾った!」
クラウチに言われて、ウィンキーは震えた様子で言った。
「そこ、すぐそこの木の陰でございます!」
「――決まりですね」
アーサーがほっとした風に言った。この中の誰も――マルフォイは未だにグレーだが――死喰い人でないとわかったのだ。
「では、何人か護衛を残して、我々は――『死』に捕まらないよう注意しながら、事態の収束に努めましょう」
「わかっている。先に行っていてくれ。私にはやるべきことが残っている……処分が」
クラウチはそれからここに残る人間を数人指示した。それ以外の人間は来た時と同じようにバシンと音を立てて消えてしまった。
「さて」
クラウチは油断なく周囲を見ながら言った。
「ウィンキー、もはや理由は問わん」
びくり、とウィンキーは震えた。その顔がどんな表情になっているのか、地に臥せたままなのでうかがうことはできない。
「ご主人様、ど、どうか」
「黙れ。お前は今夜、絶対にするべきでないことをした。私はお前に『テントの中にいろ』と命じた。――相違ないか?」
「は、はい! ご主人様は確かにあたしに『テントの中にいろ』とお命じになりました!」
「『危険だから』と理由も言った。だというのに、お前はテントから出て、それどころか杖を拾った。ウィンキー、杖に関して私は常日頃なんと言っていた」
「あ、あたしは『魔法生物』だから杖を持ってはならないとおっしゃっておられました……」
クラウチは頷いた。
「ならば、私がこれから何を言うかわかるだろう」
「どうか、どうか! ご主人様、どうかご慈悲を!」
「――重大な命令違反。これは『洋服』に値する」
「どうか! どうかご慈悲を、お願いします、どうか、どうか!」
ハリーはその光景を見て衝撃を受けた。彼女は支配から解放されるはずだ。ハリーだったら飛び上がって喜ぶだろう。ドビーだってそうだった。支配されるのは嫌だと、だから『洋服』を与えたのに。
――ウィンキーは、心の底から『洋服』が罰だと思っているようだった。
ハリーは思わず、ルシウスをちらりと見た。
「……不思議ですか、ポッターさん」
人の目があるからか、ルシウスはハリーの記憶にあるよりもはるかに丁寧な口調だった。
「い、いえ、そんな」
「――あの件は、もう気にしていませんよ。他の屋敷しもべ妖精から話を聞くに、相当に『変』な個体だったようですのでね。ただ、彼女が普通の屋敷しもべ妖精ですよ」
「……その、あの時は……ごめんなさい」
ハリーが謝ったことに、ドラコもルシウスも驚いたようだった。
――2年前。ドビーを解放するためにハリーは一計を案じた。だが……それは100%純な善意、ドビーを助けたいという気持ちだったかというと、そうではない。ドビーはハリーを助けようとしてくれた。気持ちは汲むが、不利益を被ったことの方が多い。怒らせるかもしれないのにわざわざ助けるほどではなかったのは確かである。あの時、ハリーはルシウスに意趣返しがしたかった。そんな気持ちがわずかにあった。ジニーがめちゃくちゃになる原因となった日記帳をジニーに渡した張本人に『してやられた』と思わせたかった。
そして、今、ルシウスがハリーの行動を許したからだろうか、ハリーの口から自然と謝罪の言葉が出ていた。
「……ええ、謝罪は受けましょう」
ルシウスはなんとも言えない顔をしていた。グリフィンドールの『英雄』から謝罪を受けることなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていたのだが。
――『死』か。
ルシウスは内心で思う。もし『彼女』が警備に就くと知らなかったら、おそらくルシウスはアーサーと合流しようなどとはかけらも思わなかっただろう。ひょっとしたらそこらの死喰い人と同じように仮面をかぶることすら考えていたかもしれない。
「あ、あの、クラウチさん」
「何かな、お嬢さん」
ルシウスとハリーが奇妙な状況になっているよそに、ハーマイオニーはついに勇気を出した。
「その、ウィンキーは無実だったと、思うん、ですけど……それでも、処罰するんですか?」
「……ああ、すまない。少し刺激が強かったか……。確かに、『闇の印』の件は無実だ。それは間違いない。だがね、お嬢さん。ウィンキーは私の命令に従わなかった。召使として失格だ」
「ウィンキーは……高いところを怖がっていたんです。きっと、死喰い人達が人を宙に浮かせてるのを見て……怖くなったんだと思います」
クラウチはハーマイオニーの言葉に考えるようなそぶりを見せた。腐った汚物を見るような目でウィンキーを見ていたクラウチは、打って変わって優し気な表情になって、ハーマイオニーを見た。
「優しいお嬢さんだ。お嬢さんのような人がいるとなると、魔法界の未来は明るい。だが、残念だがその気持ちを裏切ることになる」
「……」
ハーマイオニーは黙った。
「怖いから、恐ろしくてたまらないから……。もっともらしい言い訳だ。ではお嬢さん。先ほど『姿現し』して消えていった魔法省の役人は、今回の件の事態収束において、恐怖がないと思うかね」
「……思いません」
「そうだろう。私も恐ろしいよ。お嬢さんだって恐ろしいだろう。その気持ちを大人たちだって感じてる。恐怖に負けて勝手な行動をすることを許せば、我々の社会は立ち行かなくなる。そして、私は今回の件で学習した。私の召使は非常事態に勝手な行動をすると。まだ正義の意思があるのなら、救いようもある。だが、ウィンキーはただの逃避だ。指示に従えない召使に、用はない」
クラウチはウィンキーに立つように命じた。
「この場は任せる。これ以上こいつを子供たちに見せるのは悪影響かもしれないのでな。では失礼」
「ご主人様、どうか、どうか……」
「黙れ」
クラウチはウィンキーの腕を引っ張って、森の奥へと消えていった。
「……モリーさん、ウィンキーはこれからどうなるの?」
「ハーマイオニー、屋敷しもべ妖精はお屋敷を転々とするのよ。新しい屋敷しもべ妖精を迎える家があるっていうことは、『洋服』にされた彼らにも次があるっていうことよ」
「――あんな扱い、ひどすぎます。人にする扱いじゃないわ」
近くで聞いていたロンが、口を開いた。
「そりゃ……人じゃないからな」
「ロン! あなたは女の子が落ち込んでいるのにそんなことしか言えないんですか!」
「いや、だってさ、ママ。あんなの普通だろ?」
「人じゃないことと、意思と感情がないように扱うのは別よ。魔法界はいつまで奴隷制を続ける気なのよ」
「私もそう思うよ」
アーサーが杖をしまいながら言った。
「ただ、今は議論をしている場合じゃない……ここは身を隠す場所が多すぎる。『死』が出てるって言うし、開けた場所……テント場の近くに移動しよう」
アーサーの先導で、一行は最も開けた場所に移動する。たくさんのテントが張られていたテント場は、たくさんの魔女、魔法使いが集まっていた。アーサーと同じことを考えた人間が多数いたらしい。怯えた顔をする者、不思議そうな顔をするもの、表情は様々だ。
だが、ハリーは人々が時々『死』という化け物について話していることに気づいた。
アーサー一行がやってくると、何人もの魔法使いたちが集まってきた。
「何があったんだ? 『例のあの人』か?」
「いや、違う。おそらくは残党だ」
「なら、『死』は我々を襲わないのか? なぜ『死』は連中ばかりを狙うんだ?」
「それは『死』に聞くべきことだろう?」
アーサーはそれから夜が明けるまで、モリーと一緒に番をすると言った。子供たちには新しいテントを立てて、そこで寝るように言った。
「……ねえロン、『死』ってなに?」
「おとぎ話の怪物さ。一体何が起きてるのか……さっぱりだよ」
ロンはそう言うと寝袋にくるまって早々に寝てしまった。ハリーも事態が全く飲み込めていなかったが、急にたたき起こされたのもあって、まだ眠い。同じように眠りについた。