――1994年 11月 カサンドラの居室
シリウスとの約束の日、巡回に出かけたカサンドラと入れ違いになるようにしてハリーはカサンドラの居室に入り、暖炉の火をつけた。
妙に穏やかな時間だった。パチパチと薪が小さく爆ぜる音が耳に心地よく、眠気を誘う。揺らめく炎は見ているだけならなんとも魅惑的だった。火に惹かれる虫の気持ちを、今のハリーなら理解できるだろう。
ハリーはシリウスがどうやって連絡を取ろうとするのかわからなかったが、まぁ、特に気にする必要はないだろう。シリウスなら上手くやってくれる。シリウスは学生時代優れた魔法使いだったらしいし、カサンドラから攻撃されても殺されなかった。実力を疑う必要はない。
ハリーはシリウスがやってくるまでの時間、幼い子供みたいな心境で過ごした。走馬灯のように、今までの記憶がよみがえってくる。ハーマイオニーとの記憶、ロンとの思い出、カサンドラとのやりとり。それらを何度も反芻する。ホグワーツに入学する前はともかく……総合すればきっと、幸せな人生だったと言えるだろう。
一年生の時、ダンブルドアは『死とは覚悟が出来ている者にとっては新たな旅路の出発点に過ぎない』と言った。今のハリーならその気持ちがよくわかる。嫌に気分が澄んでいる。
ふと、暖炉の火が揺らめいて、炎が人の像を結んだ。まるで、最先端の電話技術、テレビ電話みたいだ。マグルだとバカ高くて、一般にも流通していないようなものでも、魔法使いなら逃亡中の人間でも使える。やっぱり、魔法使いはすごいや。ハリーはぼんやりとそんなことを考える。
「シリウスおじさん。元気そうだね」
彼は随分様変わりしていた。ぼさぼさだった、腰まで届いていた脂ぎった髪を短く切って、こまめに髪を洗っているのか清潔そうだった。こけた頬にも肉がついて、きっとどんな女の子も振り向くであろう美貌を取り戻していた。年も10歳は若返っているように見える。バストアップまでしか見えていないが、きっちりと白のカッターシャツに赤色のネクタイ、黒のジャケットを着ている。今からディナー・パーティでも行くようなバッチリ決まった格好だ。浮浪者そのものの様相だった人がこうも変わるとは、ハリーにしてみれば意外だった。
「そういうハリーも……元気……なのか?」
対するシリウスはハリーのことがよくわからなかった。追い詰められて切羽詰まった表情しか知らないのもあるが、不思議なのは、なぜかハリーは菩薩のような穏やかな微笑みを浮かべていて、どんな聖人よりも浮世離れしているように見えた。死を悟りきった老人のような雰囲気である。
「元気だよ。でも……あと二日で元気じゃなくなる。最期に話せてよかった」
不穏な発言に、シリウスは慌てた。
「まて、何があったんだ? ダンブルドアもムーディもカサンドラもいるんだぞ?」
「
シリウスは頷いた。ハリーが400年ぶりに復活する三校交流試合に参加する羽目になったことは、新聞で読んで知っていた。ハリーの心情やらなにやらは書いている記者が記者なだけに信用がならなかったが、試合に参加することくらいは真実だろうと考えていた。そっちこそが捏造であってほしかったが、ハリーの口ぶりからすると一番嫌な事実が本当だったらしい。
「ああ。だがハリー、君はジェームズの子だ、必ず生き残――」
「――ドラゴンなんだ」
「……なんだって?」
シリウスが思わず聞き返した。
「僕、ハグリッドにこっそり教えてもらったんだ。本当はダメだけど、年齢が低いからハンデだって。――巣籠もり中のメスドラゴンをどうこうしなきゃいけないんだってさ。今年の
ははは、と乾いた笑みすら浮かぶ。ドラゴンだ。ドラゴンなんだぞ? しかもちっちゃなノーバートじゃない、成長した、大人のドラゴンだ。しかも巣籠もり中? 人間の母親でも気が立つ時期なのに、怒り狂うドラゴンを相手にしろって?
「ど、どらごん? 正気か? そんなの選手が成人してようがエサになるだけだぞ?」
「だと思うよ。だから、僕らは結局、仲良くドラゴンのディナーになる運命だったってことなんだよ」
「いや――まて、待てハリー、君ならできる」
「そんな慰めやめてよシリウスおじさん。せっかく覚悟決めてたのに……」
「
シリウスの言葉に、ハリーは訝し気な顔になる。
「杖以外持ち込み禁止だよ? 確かにあれがあれば生き残るだけならできそうだけど」
あれの速さをハリーはよく知っている。自分が風か雷にでもなったかのような素晴らしい感覚。確かにシリウスの言う通り、あの箒を使う事さえできれば、空を飛び回ってなんとか生き残り、やりようによっては課題を達成することも不可能ではないかもしれない。
「魔法使いの智慧とは、多くの場合無数にある魔法の法則の穴をつくことだ。唯々諾々とルールに縛られているようじゃ優秀な魔法使いとは言えない。ホグワーツはそう教えてはくれなかったか?」
「うーん、半々くらいかな」
ダンブルドアはまんまシリウスが言う通りの魔法使いだ。ダンブルドアが規則を理由にしたいことをしないなんて、そんな光景はあまり見たことがない。カサンドラは逆に、ルールの範囲なら好き勝手するけど、よほどのことがなければルールは守るタイプだ。でも、必要とあらば誰でも殺すと言っているあたり、カサンドラもルールなんて本当はどうでもいいと思っているのではないだろうか。マクゴナガルは間違いなくルールをかっちり守るタイプの人間だ。
ハリーはいろんな魔法使いを頭の中で思い浮かべるが、たしかにシリウスの言う通り、ルールを守って生きていますという人は少数派だった。
「だろう? いいか、『持ち込み禁止』ということは、『呼び寄せ禁止』と同じ意味じゃない」
「あー、なるほど」
ハリーは1年生の時を思い出す。ルール上箒をホグワーツ内に持ち込めなかったハリーにマクゴナガルがニンバス2000をプレゼントしてくれたのだ。プレゼントされたから合法、という具合に。それを思えばマクゴナガルすらルールの穴を突くのはアリという考えの人間のように思う。
「よし。ハリー、『呼び寄せ呪文』は使えるか?」
「ん……ごめん、シリウスおじさん。習ったんだけど上手くいかなくて」
「まぁ……難しい呪文だ。だが、これは空間把握能力の養成にはぴったりの呪文なんだ。どれだけこの呪文を深く理解しているかによって、『姿現し』の習得速度が変わる」
姿現し……ホグワーツの17歳以上の6年生以上の生徒が習得できる、試験を受けて初めて使えるようになる魔法だ。失敗すると
「わかった、ちょっと真剣に練習するよ」
「ああ。それで、『呼び寄せ呪文』でファイアボルトを呼び寄せれば……あとはわかるな?」
「うん。僕が箒に乗って、どうにでもできるってことでしょ?」
「賢い子だ」
ハリーは照れくさい気持ちになった。きっとハーマイオニーならもっと早くに答えを出していただろうに、それを知らないからハリーを賢いなんて言うのだろう。
「よし、よし。ハリー、君は最初の課題できっと生き残る。だから自分の命があと二日なんて考えちゃだめだ。もっと楽しい話をするか?」
「うん。ねえシリウス。僕、今……今好きな人がいるんだ」
ハリーは自分が考えるよりもするりとその言葉が出てきた。もっと躊躇うかと思っていたのに、どうしてだろうか。ハリーの言葉を聞いたシリウスは、ショックを受けたような、動揺したような表情をしたあと、慌てて表情を取り繕った。
「そ、そうか。どんな子なんだ?」
「一学年上のチョウ・チャンって子。レイブンクローの人で、とってもかわいいんだ」
「あのガリ勉共に惚れたのか?」
「シリウスおじさん?」
わずかに怒気を込めて名前を呼ぶと、シリウスはしまった、という顔をして謝った。
「悪い。その、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、ハリーなら同じ寮の子だと思ってたんだ」
「誰かを好きになるのに、寮なんて関係あるの?」
「いや……将来的な話をするとだな」
ハリーはクスリと笑った。
「将来って。最初の恋人と結婚するなんてそんなことってあるの?」
「ジェームズとリリーがそうだった。それにしても、もうハリーも恋人か……」
「まだ両想いじゃないよ。何かアドバイスはないかな?」
シリウスは返す言葉が見つからなかった。何せシリウスはその美貌と雰囲気、上手い口車で相当遊んできたのだ。女の誘い方など熟知している。カサンドラのところにあっさり転がり込むところからもその腕は陰りを見せていない。だが、本気の恋で、そしてそれが初恋なら、できるアドバイスなど限られている。
「そうだな、今時男らしくとか女らしくとか、そういうのは流行らないかもしれないが、恋愛においては別だ。男らしくいけ」
シリウスの助言はうれしい。うれしいが、残念ながら今ハリーが取っている戦略とは微妙に噛み合わない。今ハリーは悲劇の勇士として有名で、しかも記事でセンチメンタリズムなところが強調されていることすら利用する、『年下』のメリットを最大限利用する戦略なのだ。
「ありがとうシリウス。でも僕、今年下っていうのを上手く使いたいんだ」
「……し、したたかだな」
恋は戦争、とはよく言ったものだが、まさか初恋でここまでいろいろ考えられるとは、さしものシリウスも思わなかった。度重なる命の危機がハリーの心を強くしたのだろうか。それとも、才能だろうか。もしかしたらこういう、ともすれば狡猾と言えるような性質が、スリザリンに向いていると言われるゆえんなのかもしれなかった。
「だが……そう言った方向性なら、私がアドバイスできることはほとんどないな。すまない」
「いいよ。シリウスおじさん、パパとママはずっと仲が良かったの?」
ハリーが聞くと、シリウスは苦い顔をして首を振った。
「いいや。正直、二人が付き合うなんて最初は少しも思っていなかった。だが、そうだな、高学年になったあたりで付き合い初めて……それからはラブラブのカップルだった」
「へー……。僕も、そういう相手ができたらいいな」
「ハリーならできるさ。何せジェームズの子だ」
それはどんな理屈だろう、とハリーは可笑しくなった。
「シリウスおじさんは好きな人はいないの?」
「ん? ああ、いることにはいるんだがな、つれないんだ」
「シリウスおじさんでも? 物凄くかっこいいのに」
シリウスは苦笑する。
「顔でも、テクニックでも落ちてくれない女性でな」
「テクニックって……ええ? それ、もう付き合ってるんじゃないの?」
シリウスは冷汗を額に流した。まさか意味が分かるとは思っていなかったのだ。あー、とかうー、とか意味のない言葉をしばらく続けて、それから観念したようにうなずいた。
「そうだ。だが違う。大人には色々あるんだ」
「えー……? それはつまりあれ? その、体だけの関係、ってやつ?」
ハリーはわずかにシリウスに幻滅する。だがよく考えれば学生時代はよく遊んでいたと聞く。それなら、大人になって今でもそういう相手がいてもおかしくはない。もしかしたら今もその相手の家に転がり込んでいるのかな、と漠然と思う。
「……俺はそのつもりじゃなかったんだがな」
シリウスは気落ちしたように言った。
「お、俺のことはいいだろう。それよりも、少し真剣な話に戻ろう。警告するべきことがある」
「警告?」
その言葉にハリーはあからさまな嫌悪を抱いた。毎年毎年警告されて、それが杞憂だった試しがない。死ぬかもしれない試練に加えて、まだ何かあるのか? ハリーはうんざりしそうだった。
「ダームストラングの校長、カルカロフには気を付けろ」
「気を付けろって……校長先生だよ?」
ああ、とシリウスは頷いた。
「確かにそうだが、奴は『死喰い人』だ。疑惑でも、服従の呪文の影響にあったわけでもない。その意味がわかるね?」
「――え」
ハリーは驚いた。あの人が、死喰い人? ヴォルデモートの配下?
「奴は逮捕された。アズカバンで一緒になったことがある。だが……司法取引で奴は大量の同胞を売って刑を免れた」
「……仲間を裏切ったってこと?」
シリウスは頷いた。
「いいか、ハリー。奴らに『忠誠』とか『誠実』とかそういう言葉は通じないと思うんだ。とにかく、ダンブルドアがわざわざ引退した『闇祓い』をホグワーツに引き込んだのもそれが理由だろう。自分をアズカバンに叩き込んだ張本人がいれば、大きな動きはできないと踏んでいるらしい」
ハリーは不思議だった。
「でも……本当に校長先生、そこまで考えてるかな? だって、生徒の命を守りたいんだったら、カルカロフ校長より先になんとかしないといけないことがあるじゃないか。具体的には、ドラゴンとか」
「その気持ちはわかる。だが、成人した生徒が命の危険を承知で試練に臨むのと、理不尽な被害に遭うのとは別のことだ。ハリー、ダームストラングは『闇の魔術』を授業で教えている。ダームストラングの選手にも気を付けろ」
「うん、わかった……。でも、カルカロフが僕の名前をゴブレットに入れたのかな? ずいぶん怒っていた様子だけど」
「奴は役者だ。それを忘れるな」
ハリーは頷いた。悪人は演技が上手いものだ。クィレルなんかはずーっと頭のヴォルデモートを隠していたし、ロックハートなんてあんな陽気な性格で誰よりも残酷に闇の魔法使いとして活動していた。
「でも……どうして死喰い人は行動するようになったの? だって……えっと、最後は……僕が1年生の時だ」
「確かに、妙と言えば妙だ。だが、魔法省の女性職員が一人行方不明になっていることが関係しているかもしれない。その事件からこっち、死喰い人関係の事件が激増している。先週だけで2件」
「……ずいぶん詳しいね」
ハリーが思わず聞いた。まるで探偵みたいな物言いだった。ハリーの質問に、シリウスは目に見えて慌てた。
「そ、それはだな、情報とは手に入れようと思えばいくらでも手に入るものなんだ。たとえば、その女性職員はバーサ・ジョーキンズというんだが、そいつは俺の1年上で、頭が空っぽの女だった。そいつは今回の試合に関わってる。で、そいつが消えた」
「ジョーキンズさんから情報を仕入れたってこと? ヴォルデモートが?」
「おそらくは。いいか、ハリー、今回の
うん、と頷いたあたりで、部屋の扉が開いてカサンドラが帰ってきた。
「あ、カサンドラ」
「ハリーか。そろそろ門限だ。――シリウス・ブラックか。逃亡中だというのに、ずいぶん余裕があるんだな」
カサンドラが挑発的に聞くと、シリウスは肩を竦めた。
「いい宿が見つかってね。キレイで、落ち着いていて、時々愛し合うこともできる素敵な宿だ。宿の主が振り向いてくれればもっと素敵なんだが」
「奇特な奴だな、そいつは。お得意の話術で聞いてみたらどうなんだ」
「聞いてみたんだがな、脈ナシだった。だがそれが本心かどうかはわからないんだ」
「その女が本心を隠すタイプかどうかによるだろうな」
カサンドラはソファに座ると、ハリーの方を見た。
「もう行け。早くしないと、私は寮監に報告しなきゃいけなくなる」
「う、うん。じゃあね、カサンドラ。おやすみ」
「ああ、おやすみ、ハリー」
ハリーは大人っぽい会話をもう少しだけ聞いていたかったが、時間がそれを許してはくれなかった。ハリーのいなくなった居室で、カサンドラとシリウスが会話を続ける。
「どうだった、親友の息子との語らいは」
「ずいぶんと成長していたみたいだった。全く、驚いたよ。年下の魅力を使って女を落とそうとするなんて。お前の入れ知恵か?」
「半分は。いやあ、上手くやるぞ。なにせ、恋に敗れても死にはしない。それだけであいつはある程度落ち着ける。恋愛において冷静さってのは意外と重要だ」
シリウスは笑う。
「全身全霊で燃えなかったらなんのための恋愛なんだかわからないと思わないか? 私はお前に全力なんだが」
「残念だが、私はそこまで熱くなれないんでな」
それからも、カサンドラとシリウスの会話は夜遅くまで続いた。