――1994年11月 第一の課題、会場
その日、ハリーは朝起きてカサンドラに呼び出された。ふわふわした気持ちだった。自分がいつ身支度をしたのか、朝食を食べたのか、さっぱり覚えていなかった。あともうしばらくすれば平和な時間は終わり、悪夢のような対ドラゴン戦が待っている。消し炭にされるのか、踏みつぶされるのか、バラバラに引き裂かれるのか。嫌な想像はたくさんできる。だが、ハリーは絶望するギリギリのところで踏みとどまっていた。親友がくれた策と、今までの経験が『きっとできる』と勇気を与えてくれていた。
「こういうことを言うのは非常に心苦しいが……ハリー、遺書を書いておけ」
「遺書?」
カサンドラの居室に連れてこられたハリーは、机の上に置かれた羊皮紙を前に固まっていた。遺書? 死んだときの為の備えをどうして僕が……ああ、そっか。
「僕が死ぬと思ってるの?」
「万が一もある。セドリックにも書くように言ったし、デラクールとクラムにも言った。戦士の務めだと思って書くんだ」
「……わかった」
カサンドラが出て行って、ハリーはそれから黙々と遺書を書いた。ロン宛に、ハーマイオニー宛に、カサンドラに、シリウスに、ダンブルドアに、ジニーに。そして、物凄く気が進まなかったが……ダーズリー家に。あらかた遺書を書き終わるころには、すっかり課題の時間が迫っていた。
「ハリー、書けたか?」
「うん。これ、預かってて」
何枚もの丸めた羊皮紙をカサンドラに預けると、カサンドラは驚くほど丁寧に遺書を扱った。
「ああ。――生還を祈っている」
「うん」
カサンドラの居室を出ると、外にはマクゴナガルが不安そうな顔をして立っていた。いつもきりりとした表情を崩さない先生にしては、珍しい表情だった。
「ポッター。準備は終わりましたか」
「はい先生」
ではついてきなさい、とマクゴナガルは会場に向かって歩き始める。
「いいですか、今回の課題は非常に恐ろしいです。しかし冷静に。落ち着いていれば、きっと生き残ることができるでしょう。大切なのは、よく見せようとしないことです。どれほど無様でも、笑われるような結果になったとしても、あなたの命が何よりも大事なのだと、そう肝に銘じなさい」
ハリーは頷く。
「はい、先生」
「よろしい」
マクゴナガルは禁じられた森の縁を回り、今回の課題の為に特別に設えられた会場についた。遠目で見た感じでは、簡易的なクィディッチ・アリーナだろうか。全校生徒が座る観客席に、来賓や教員たちが座る観客塔があり、すでに席はいっぱいだった。ハリーたち勇士が上手く課題をこなすところを――あるいは、勇士たちが無残に死ぬ姿を、目に焼き付けようとたくさんの人が集まっている。あの中にいるうちの誰かが、ハリーの死を願っている。だが、ハリーはそのことを考えてもそこまで動揺しなかった。命を狙われるのはもう慣れていた。
「いいですか、ここで他の勇士たちと共に自分の番を待ちなさい。バグマン氏が中にいらっしゃいます。説明を受けるのですよ。――頑張りなさい。課題が終わった後も、こうして話ができることを、期待しています」
「はい、先生」
マクゴナガルがハリーを案内したのは、アリーナの外に用意された大きめのテントだった。10人くらいは優には入れそうな大きなテントで、中に入ると他の勇士たちと、それから魔法省の役人、ルード・バクマンがいた。彼はハリーが入ってきたのを見ると、にこやかに笑って出迎えた。
「やあ、やあ! ハリー、よく来たね! さあ、楽にしたまえ!」
そうは言うが、ハリーはちっとも楽にはできそうになかった。
他の勇士たちに目を向けると、ハリーと同じか、もしかしたらそれ以上に緊張と恐怖を感じているようだった。デラクールはテントの片隅にある椅子に座っている。普段の堂々とした妖艶な雰囲気はなりを顰め、顔を真っ青にして冷汗をかいていた。肩に視線を向けると、わずかに震えているようだった。
クラムはいつもよりもはるかに厳格そうな表情で、一言も話す気配がない。視線は鋭く、まるで周囲の勇士全員と今から戦うのだと言わんばかりの気迫だった。不安を敵意に変換するタイプなのだろうとハリーは思った。
セドリックは全く落ち着いておらず、テントの中を行ったり来たりしている。顔を俯かせたまま、緊張に全身をこわばらせている。緊張のあまり、ハリーがテントに入ってきたことにすら気が付いていないようだった。
「よし、よーし。全員そろったな! うん、実にうれしい……ついに勇士たちに課題を話せるときが来た!」
勇士全員が死にそうなくらいの緊張に包まれている中で、主催者のバグマンだけが嫌にご機嫌な様子だった。にこにこと朗らかな笑顔が浮かんでいる。丸い体に少しだけきつめのクィディッチ・ユニフォームを着ている。
「今から、諸君一人一人にこの袋を渡す」
バグマンは絹でできた小さな袋をポケットから取り出してよく見えるように掲げた。
「この中から、諸君らは一つの模型を選び取るんだ。それが、諸君らの課題の相手となる」
何が面白いのか、バグマンは終始にこにことした笑顔を絶やさない。
「では、ついに発表しよう。第一の課題の内容を! アリーナには今、地面にいくつかの卵が置かれている。その中にいくつか、『金色に輝く卵』がある。諸君らの課題は、それをどうにかして取ることだ!」
何も反応がなかった。セドリックは一瞬だけ、『課題の相手』を思い出したのかさらに顔を青ざめさせてテントの中を右往左往する。デラクールもクラムも今にも処刑をまつ罪人のような表情で一言も話さなかった。あの陽気なデラクールがそんな様子というだけで、ハリーは不安になる。ハリーは親友の策があるから大丈夫……とはさすがにいかなかった。今にも吐き出してしまいそうなほどの緊張と、遮二無二に逃げ出したい衝動に駆られる。どうして僕がこんな目に。そんな思いがふつふつとこみあげてくる。
「では、もう観客たちは集まっている……さあ、レディファーストだ」
バグマンは楽しそうにデラクールへと袋を差し出した。
「い、いまどき……そんなの、ナンセンスでーす……」
かろうじて振り絞ったのがそんな今にも消え入りそうな声だった。カタカタと震えながら袋の中に手を入れ、ドラゴンの小さな模型を取り出した。ウェールズ・グリーン普通種だ。首の周りに2と書かれたアクセサリを付けていた。デラクールは脱力して椅子に座り込んでしまった。ポロリとデラクールの手の中から模型が落ちる。その表情は驚愕ではなく、『やっぱり』という表情であった。課題がドラゴンであるということはすでに知れ渡っていたらしい。ちらりとクラムの方を見ると、彼もそこまで驚愕はしていない。本当に秘密のことなんて、そうそうあるもんじゃない。
それからクラムも同じように袋からドラゴンの模型を取り出した。真っ赤なドラゴンだった。首に3の文字がついていた。クラムは瞬き一つせず、一言も言わず、ただ地面を見つめる。
セドリックが袋に手を入れ、首に1の文字を付けた青みがかったグレーのドラゴン、スウェーデン・ショートスナウト種を取り出す。セドリックは真っ青になった顔で手の中の模型をじっと見つめていた。
最後にハリーが袋に手を入れてドラゴンの模型を取り出した。ハンガリー・ホーンテール種。最も凶悪な種だと図鑑に記載されていた。つまりハリーがディナーになる確率が遥かに上がったということだ。
「これでよし! うんうん、そのドラゴンが諸君らの課題の相手だ。首の番号は対決の順番だ。つまり、ディゴリー君、最初に試合に臨むのは君だ。いいかね、ホイッスルが聞こえたら、まっすぐアリーナの中に入り給え。
さて、ハリー、少しだけ話がある。外に出よう」
「はい」
バグマンに連れられ、ハリーはテントの外に出た。
「――大丈夫かね」
バグマンは父親のような慈愛に満ちた表情をハリーに向けていた。
「大丈夫です」
「そうか。何か手伝ってほしいことはあるかね」
「え?」
「誰にもバレやしないよ。作戦がないのなら、ヒント……いや、答えをあげたっていい。君はそれだけ不利な立場にある。心配することはない。大人たちは君が生き残るためにどんな手段を使おうと、責めるような真似はしないよ」
ハリーは首を振った。
「もう全部、大丈夫です。だから、お手伝いはいらないです」
ハリーはきっぱりと言った。正直言うと、試合にそもそも出なくて済むようにしてほしかったが、そんなことができるならハリーはこの場にいない。つまり、バグマンに期待することなんて何一つないのだ。
「いいのかね?」
「はい。僕には信頼できる友達がいます」
「――うらやましいよ。信頼、信頼か。大人の魔法使いからは失われてしまった言葉だ。子供たちが友達と信頼関係を築いているということを、私はうれしく思うよ」
――遠くで、ホイッスルが鳴った。
「おっと、もう行かなければ。私は解説があるのでね」
「はい」
バグマンはそう言うと、慌てて駆け出した。ハリーもゆっくりとテントの中に戻った。中に戻ると、セドリックはもういなかった。
それから、課題が始まってからもハリーの精神はどんどんと疲弊する。観客が悲鳴をあげたり、息を飲んだり、大声で叫んだりするのだ。甲高い悲鳴が上がるたびにデラクールは肩を跳ねさせて怯え、クラムはわずかに眉をしかめた。
バグマンの解説もこの上なく恐怖を煽った。聞いているだけで恐怖でどうにかなりそうな解説だ。
「おっと、ディゴリー選手危機一髪! あれは危なかったです。もう5センチズレていたら頭がブラッジャーのように吹き飛んでいたでしょう!」
「これは危険な賭けです! これが失敗すればディゴリー選手は――」
「これは! なかなか上手い動きでした! ハイリスク、ハイリターン。失敗すれば命はない。しかし上手くやれば――あっ!? い、いえ、ギリギリ無事です!」
そんな実況と解説が15分も続くのだ。緊張でどうにかなりそうだった。デラクールは緊張に耐えかねて、さっきまでのセドリックのようにテントの中を行ったり来たり右往左往している。顔は真っ青で、いつもの余裕はほんの少しもない。
ふと、ハリーの耳を劈くような大歓声が聞こえた。間違いない。これはセドリックがやり遂げたことを示す歓声だ。
「すばらしい! ホグワーツの勇士、セドリック・ディゴリーが成し遂げました!」
バグマンが嬉しそうに叫んでいる。
「さて、審査員の点数です!」
バグマンは点数まで読み上げなかった。正直、ハリーにはどうでもよかった。点数なんてどうでもいい。人が死ななければそれで、セドリックが死ななければ、ホグワーツがドベだってかまいやしない。もしそうなったときにセドリックを責めるやつがいたら、ハリーは決闘をしかけることすら厭わないだろう。
さらにもうしばらくして、二度目のホイッスルが鳴った。デラクールの番だった。頭の先から足のてっぺんまで震えていたデラクールだったが、杖を引き抜き、テントの出入り口の前に立つ頃には、震えも収まり、その表情もいつものクールなものへと変わっていた。強い女性だ。ハリーはデラクールを見送った。
それから、デラクール、そしてクラムと、課題に臨み、そして成功した。テントにはもうハリーしか残っていない。
ホイッスルが鳴った。
「では、最後に! 悲劇の勇士、ハリー・ポッター! 重ね重ね説明いたしますと、ポッター選手がどれほど素晴らしい試合をしようと、点数は1、1で固定です!」
バグマンの説明もハリーの耳にはほとんど入っていなかった。杖を引き抜き、テントの幕に手をかける。
死ぬか、生き残るのか。
もうすぐはっきりする。
ハリーはアリーナの中に入った。
「ハリー! 頑張って!」
「頑張れ! 死ぬな!」
――みんながハリーを応援していた。ホグワーツも、ボーバトンも、ダームストラングも、みんながハリーの無事を願い、生還を望んでいた。ハリーは観客たちを見回した。中にはハリーに否定的な人間もいるだろうに、ずいぶんと真剣に声援が聞こえる。
それもそうだろう。今までの過酷極まる勇士たちの試合を見て、それでもなお14歳の少年を応援できない人間など、よほどの人格破綻者か――
――ハリーの死を望む死喰い人だけだ。
ハリーは厳しい表情で周囲を見回すが、教員席に至っても誰一人ハリーを憎々し気に見ている人間はいない。スネイプでさえ心配そうな表情でハリーを見ている。普段は憎い仇でもみるような顔をしてるくせに、そういうところは先生みたいだ。ハリーはほんの少しだけ可笑しくなった。
ハリーはアリーナの中央に佇む一匹のドラゴンを見る。
――あいつを、出し抜く。失敗すれば死ぬ。
ハリーはごくりと息を飲んだ。……やって見せる。