何もかもが遠い世界の出来事のようだった。死を目前にしたハリーは、想像していたよりもはるかに冷静に周囲を見回すことができた。
目の前のすべてが、まるで色鮮やかな夢のように見えた。何百何千という生徒が、何十人もの来賓が、教師が、ちっぽけなハリーを見下ろしている。彼らは皆一様に心配そうな顔をする。クィディッチアリーナのような試合会場の中央に課題の相手、ホーンテールがいた。囲い地の向こう端に、一胎の卵をしっかり抱えて伏せている。色は白色。よくよく目を凝らせば凶暴なドラゴンの周囲には様々な色の卵が点在しており、金色の卵を見つけるところから始めないといけないことがわかる。ただ、まぁ。ハリーはそれを知っても特に動揺はしなかった。ハリーの策が嵌れば、悠々と卵を選ぶ時間すらあるはずだった。
ホーンテールの大きさは5メートル前後。ダーズリー家の高さよりも高い。ドラゴンは両翼を半分開き、邪悪な黄色い目でハリーを睨み、鱗に覆われた黒いトカゲのような怪物は、棘だらけの尾を地面に激しく打ちつけ、硬い地面に、幅一メートルもの溝を削り込んでいた。観衆は大騒ぎしていた。なんと言っているか、ハリーには判別ができない。だが、声援なのだとなんとなく理解できた。ハリーはホグワーツの生徒を信じている。ここでブーイングをするような生徒などいないと。きっとマルフォイでさえ心配そうな顔をして自分を見ているだろう。真に悪辣な人間が学生にいるなんて、ハリーはほんの少しも思っていない。
ホーンテールが抱えていた卵をおろし、立ち上がる。見上げるような巨体だった。だがハリーのやるべきことは変わらない。
いまこそ、やるべきことをやるのだ……気持ちを集中させろ、全神経を完全に、たった一つの望みの綱に。ハリーは杖を上げた。
「『アクシオ――ファイアボルトよ来い!』」
魔法が発動した感覚はした。間違いなくうまく行ったはず。来い、来るんだ――早く!
来るはずだ。ロンがファイアボルトをアリーナのそばに置いてくれているはずなんだ。来い、来てくれ、僕の相棒よ!
ハリーの願いと魔法に応え、物凄い勢いで一本の箒が飛来した。多くの人間にとって、炎の雷は茶色の線だとしか認識出来なかった。人間の安全を考慮しない、本当の意味での最高速で箒はハリーの手へ向かう。だがハリーには飛来する雷をしっかりと視認できていた。
「よしっ! ――ありがとうロン!」
パシリ、とハリーは正確にその箒を目に捉え、ファイアボルトをしっかりと握った。箒に括り付けられた透明マントがたなびき、まるで旗のようにも見える。
「おおっと!? アレは――箒か!? ハリー・ポッターが箒を呼び寄せた! 素晴らしい機転! なんと――いや! それだけじゃないぞ! 箒に何かが括り付けられている!」
ドラゴンが一歩前に踏み出した。ズシンと驚異的な音がして、地面が震える。ハリーは透明マントを箒から外すと、翻す。箒に跨って、それからマントを被った。恐るべき『秘宝』はその効果をいかんなく発揮し、ハリーの姿を揺らめきすらも感じられないほど完全に透明にした。
「勇士が消えた! アレは透明マントだ! しかし肝心の箒が隠れていない! おおっと、そのまま飛び上がった! 勇士ハリー、自分だけ透明のまま空を飛んでいます! ハリーの姿は見えませんが――箒のせいでしっかりと位置が見えています!」
バグマンの実況解説が、その場にいるほぼ全員の考えた事だった。不規則に右に左にと飛び回る箒を、ドラゴンが睨みつける。離れたり、近寄ったり。だが、少しずつ確実に箒はアリーナから離れていく。ついにドラゴンは箒を追って歩き始めた。
「危ない! これは危険! 勇士ハリー、ドラゴンを卵から引き離すことには成功したものの、ドラゴンの脅威は依然、勇士ハリーに立ちはだかる! 脅威に怯え、ハリーは一切卵に近づけない!」
ハリーは驚くほどゆっくりと、一歩一歩慎重に歩く。透明になったからって安心するのは素人のする事だと、ハリーは1年の時に知った。危険な時ほど冷静にならないといけないと知ったのは2年の時だ。今、ほんのすぐそばにドラゴンの尻尾がある。焦って走り出せば踏んでしまっていたかも知れない。そうなったらおしまいだ。
勝利する最後まで気を抜いてはならないと、去年知った。――非常に癪だが、スネイプの去年度末の顛末は、ハリーに反面教師として息づいていた。勝利の寸前、一番気が緩むとき。その時に気を抜くか抜かないかが、最後のカギなのだ。
生き残るために手段を選んではいけないというのは、今年、ホグワーツに教えてもらった。たくさんの生徒がハリーに『策』を授けてくれた。参考になりそうなものから、まったく役に立ちそうにないものまで千差万別だった。フレッドの『ずる休みスナックボックス』をフル使用して病欠なんてのは最高に可笑しかった。ハリーには思いつかないような卑怯な手段、脇道、ずるい方法。ホグワーツのほとんど全員が、そういうことをしてでもハリーに生きていてほしいと願っている。
ハリーはかっこつけるつもりなんてなかった。無様でも、不格好でも、生き残るためになんでもするつもりだった。かっこつけることなんて、いつだってできる。過酷で――でも学びに溢れた学生生活を送ってきたハリーが、何を優先してどちらを選ぶかを、こんな土壇場で間違うようなことはない。
――たとえファイアボルトがドラゴンに噛み砕かれることになっても、ハリーはマントを被り続けるだろう。恐るべき胆力と土壇場の度胸は、クィディッチのおかげだった。シーカーというポジションは孤独なものだ。彼我の点数差以外、チームメイトに協力できることがない。どんなにチームが苦境に立たされようと、シーカーだけは動揺せずにスニッチを見つけて、追わなければならない。たとえ、すぐ隣のチェイサーがブラッジャーにやられたとしても。
そんなシーカーとしても優秀だから、ハリーは名付け親からの大事なプレゼントだとしても、ベットできるのだ。
ドラゴンの巣にたどり着いた。金色の卵は探すまでもなく、そこら中に転がっていた。ハリーはにんまりと笑って、そのうちの一つをそっと掴み上げた。
「おおっと、ドラゴンがついにブレスでハリーを焼こうとしている! 炎を口に蓄えている! しかしハリー、全く動揺を――え? た、卵が宙に浮いている!?」
バグマンの動揺をよそに、ハリーは透明マントを脱いだ。ハリーは成功した。やり遂げた。ともすれば余裕とも思えるような足取りで音もなく金の卵に忍び寄り、誰もが予想だにしない方法で卵を盗み出した。
「す、素晴らしい! ハリー・ポッターが金の卵を奪取しました! これにて課題は終了! 終了です!」
ハリーはほっと息をついた。これで課題を生き残った。
――だが、ハリーは忘れていた。
「ハリー! 危ない逃げろ!」
バグマンの絶叫のような声がアリーナ中に響いた。ハリーが思わず振り向くと、そこには真実を知ったドラゴンが、顔を怒りで染めてハリーを睨んでいた。口の端から炎がぼう、ぼうとちらついている。
「そんな――!?」
透明マントを脱ぐべきじゃなかった。でも脱がなきゃ勝利の証明はできない。致命的なジレンマだった。あるいは、すぐにマントを被りなおすべきだったかもしれない。――ハリーは『勝って兜の緒を締めよ』という言葉を思い出した。もう、遅かったが。
――だが、もはや課題終了の宣言はなされた。もはや遠慮する必要も、我慢する必要もなかった。
ドラゴンがハリーに向かって大口を開けて、ブレスで焼き払おうとしたその瞬間、ドラゴンの口元が金色の爆発に包まれて、ドラゴンの頭が遥か後方にのけぞった。
「え?」
次の瞬間には、同じように金色に輝く爆発が、ドラゴンの右腕を吹き飛ばした。ちぎれ飛んだ右腕が、真っ赤な血液を吹き出しながらアリーナに転がる。
「さて」
冷静な声が、ハリーの耳に届く。声のした方を振り向くと、そこにはいつもの鎧姿に弓を構えたカサンドラがいた。いまだにぎゃあぎゃあとドラゴンが何かをわめいている。だが、ハリーはもう何も心配していなかった。にっこりとほほ笑むと、カサンドラに語り掛ける。
「また飛び降りたの?」
「またお前が原因でな。さあ、勇士よ。早く逃げろ。あとは私に任せろ」
「うん。いつもありがとう、カサンドラ」
「これが仕事だ」
いつもの返答に、ハリーは笑みを深くする。なんとか噛み砕かれず、燃やされることもなかったファイアボルトがハリーの手の中へ飛んでくる。ハリーは今度こそ箒に飛び乗ると、凄まじい速さでアリーナの外の空まで飛びあがった。さっきは小さな箒にも気を払うほどだったのに、ドラゴンは今カサンドラにしか見ていないようだった。
「――ドラゴンキーパーよ早く! マグルの警備員が一体何ができるって――は?」
カサンドラは背中のハンマーをしっかりと握ると、ドラゴンに向かって走り出した。
「何考えてるんだ!?」
バグマンの絶叫が響く。怒り狂ったドラゴンがブレスを吐こうと口を開けた。
「
カサンドラは間合いにたどり着くと、目の前にあるドラゴンの足の膝に向けてハンマーをフルスイングした。ぐしゃり、と音がしてドラゴンの膝が砕けた。劈くような悲鳴を上げて、ドラゴンが姿勢を崩す。カサンドラのすぐ目の前にドラゴンの頭がある。喉の奥には業火が見えている。だがカサンドラは冷静だった。振り切った体勢から、体をひねってそのまま振りかぶった体勢になると、ドラゴンの横っ面を野球のスイングのように振り切った。
「!!?」
さすが、頑丈なドラゴンだけあってそれで死ぬようなことはなかったが、脳を激しく揺さぶられたドラゴンは炎を吐くことも忘れてよろめいた。それは、カサンドラにとって明確な隙だった。カサンドラは薬瓶を取り出して何やら毒々しい色の液体を一滴、ハンマーの頭に垂らす。カサンドラに流れるイスの力によってその液体はハンマー全体に広がり、鉄色のハンマーが緑色に染まる。カサンドラは吹き飛んだまま鮮血を垂れ流しっぱなしの右腕の傷口に向かってハンマーを振るった。
ぐしゃりと水が弾けるような音がしたが、ダメージ自体はそこまで大きいものではなかった。膝を砕いた時のような力強さはなく、正確に当てようとよく狙ったような動きだった。ドラゴンは一瞬だけ衝撃の弱さに不思議そうな顔をしたが、すぐに大人しくなった。眠るように体を横たえ、そのまま静かになった。
ドラゴンが死んだと、そう観衆が理解したのは、ドラゴンキーパーがやってきてからだった。
「大丈夫ですか、警備員さん。でも、どうして急に眠ったりなんか……? とにかく、我々が檻に戻しますので、警備員さんは早く下がってください」
「ん? ……魔法使いってドラゴン程度なら蘇生できるのか?」
「……は?」
「いや、そいつはもう死んでるんだが。生き返らせて檻に戻すんだろ?」
カサンドラに言われたドラゴンキーパーは、何を言われたのか理解できなかった。
「……死んでる? いや、そんな。ドラゴンなんて一人でどうやって殺すって言うんです」
「見てただろ? 腕を吹っ飛ばして足を砕いて、頭を張り飛ばして、傷口に毒を注ぎ込む。一昨年のバジリスクの方がはるかに厄介だったな」
顎が外れそうなくらいぽかんと口を開けて、ドラゴンキーパーは驚愕していた。
「え、ええ? 毒? 毒って言いました? ドラゴンに効く毒なんてそうそうあるもんじゃないですよ?」
「ああ。だろうと思った。バジリスクの毒で正解だったみたいだな」
「ば、ばじりすくの毒? なんでそんなものをマグルが……ああ、一昨年倒したって」
「そういうこった。じゃあ、死体は任せる」
カサンドラは悠々とアリーナの外へと歩き出した。
「な、なんと!? ほ、ホグワーツの警備員がなんと! ドラゴンキーパーが到着する前にドラゴンを討伐した!? 恐るべき実力です! 凄まじい力です!」
バグマンの実況が、アリーナに響く。ホグワーツ生は慣れたものだから無邪気に歓声なんて上げているが、ボーバトンとダームストラングの生徒にとってしてみれば、マグルだと思っていた人間がドラゴンをたった一人で倒せる化け物以上の存在だと知らされたようなものだ。歓声を上げるどころではなかった。
カサンドラがアリーナの外に出ると、出口にリータ・スキーターが待っていた。興奮した面持ちで、カサンドラに近づいてくる。
「す、素晴らしいざんす! ま、まさかドラゴンをたった一人で倒すなんて!」
「楽な仕事だ。その人間が警備員をしている学校がホグワーツだ。いいか、スキーター。ホグワーツに仇なすものを私は必ず亡き者にする。それがたとえペン相手でもな」
カサンドラの脅しに、スキーターは冷汗を流した。
「も、もちろんわかっているざんす。しかし、その、ペンを暴力によって脅かすのは褒められた行為ではないとは思わないざんすか?」
「極力避けたいとは思ってる。わかるな? 生徒相手の中傷は許さないと言ってるんだ」
「わ、わかりました。で、では、最後になにか一言をもらってもいいざんすか? ドラゴンはどうだったざんすか?」
もちろんだ、とカサンドラはにっこりと笑った。
「雑魚だったよ」
一言だけ言って、カサンドラは教員席に向かって歩き出した。