氷川紗夜には己を預けられる程、信頼し愛しいと思える人物に出逢った。暗闇にいた自分に少し乱暴で、けれど確実に光を見せてくれた光明の彼。惹かれ合い、そして愛し合った、彼がいれば他に欲しいものは何もないと、もしもギターと彼、どちらかを手放さなければならなくなった時、迷わずギターを捨てる……そんな想いを持っていた紗夜は、まるで熱された恋に冷や水を浴びせられるような現場を目撃してしまった。
「……昂輝、日菜……」
妹である日菜の見たことのない表情。彼を求め、一緒にどこまでも堕ちていく、そんな暗く歪んだ感情を顔に貼り付ける彼女の相手は、紗夜が最も信頼し、依存していた彼……霞ヶ丘昂輝だった。彼は、まるで紗夜に見せているような熱に浮かされた表情で、日菜の唇を貪っていく。
──その光景に紗夜が疑問を抱いたのはほんの一瞬だった。すぐに二人は以前から男女として身体を重ねるような仲であったのだと、わかった。わかってしまう程には、彼女は聡明だった。
日菜が昂輝の家を訪ねたこと、内緒にしていて欲しいと日菜が昂輝に言ったこと、それらの会話の半分が嘘で半分が本当であること、即座に判断できてしまう冷静さが、紗夜の心を傷つけていた。
「……私たちは、間違えているのね……」
その事実が悲しいと思うのは間違えているというだけではなく、それに気付いてもどうすることもできないという確信があったからだった。もしも、紗夜が日菜に対して少しでも向き合って怒ることができれば、前に進めるのかも知れない。しかし、そうできない程、彼女は彼に執着していた。その客観的な目と彼への愛のギャップが、紗夜の頬に水滴となって伝っていた。
──昂輝との関係を断つことも、日菜から幸せを奪うことも選べないのならば……
「ねー、ヒナ? 最近紗夜となんかあった?」
「……おねーちゃんが? どうして?」
その素朴な疑問、といった様子の言葉が発されたのは紗夜の決意から少しだけ時が経ち、季節は秋からすっかり冬となっていた。冬休み中も、それ以前にも変わったことがなく、日常を過ごしていた日菜としてはそんな友人である今井リサの質問に「なにがあったのか」という返答ではなく、「なにがあってその質問をしたのか」という疑問で返していった。
「いや……なんかさ、最近イマイチ紗夜の集中がないんだよねー……なんかぼーっとしてるってゆーか……」
「
──まさか、そんなはずがない。信じられない。リサから見た日菜の顔はまさにそう物語っていた。ギターに全力で、己の全てを懸けている……そう言っても過言ではない
「──こーくんに訊いてみる」
「こ……えっと、紗夜のカレシ?」
「うん、おねーちゃんがおかしくなったの……原因はあたしかこーくんだから」
言い切り、そしてスマホを取り出して昂輝へと連絡をする日菜をリサは驚き半分に、そして同時に一つの確信に突き当たった。
──紗夜と昂輝だけでなく昂輝と日菜の間にも、何らかの友人や姉の恋人、恋人の妹、というだけでない「糸」を感じ取った。
「……ダメだ。こーくんも知らないって……」
「そっか……紗夜はさ……二人には絶対に知られたくなかったのかもね」
「あたしと、こーくんにも……?」
「うん。それがどーゆー意味なのか、ヒナはちょっとくらい、わかってきてるんじゃない?」
リサの優しく、そして残酷な一言。彼女が日菜と昂輝の関係に気付いて、その原因を、姉の恋人と関係を持っている経緯を詰問することも、そのまま悪いことをしていると詰ることもせず、ただ、いつも通りの「今井リサ」の顔を崩さなかった。
──恐らくは、紗夜も……悲しい、憎いという感情はあれど、二人を責めることができずに苦しんでいる。日菜は、自分が恋に溺れてから、いかに残酷な世界に身を置いていたのかを悟った。
「……はは、あははは、そっか、そっかぁ……そうだよね。あたしって、嘘とか、隠すとか、そーゆーの苦手だもんねぇ」
「ついでに言っとくと、紗夜のカレシ……えーと昂輝、だっけ? あの人も嘘とか隠し事とか向いてなさそーだけど?」
「うん、そーだね、ぜんっぜん向いてない」
自分の隠し事がすべて無意味だったことを知った日菜は──笑った。嘲るように、楽しそうに、恨むように、踊るように。
──歌うように。
「おねーちゃんと話してみる」
「い、いーの? 今の紗夜は……気付いていることに、気付いてほしくない、そー思ってるよ?」
「だからだよ。それでギターに集中しないおねーちゃんなんて……見ていたくないから」
「……ヒナ」
日菜の歪み。それは姉を追い続けた幼く、それ故に恐ろしい程純粋な憧憬そのものだった。いつもは日菜との才能の差に絶望し辞めてしまった多くのものの中で唯一、続けている「ギター」に、のめり込めない紗夜が、日菜の中ではあってはならない、許せないものだった。もしかしたら、昂輝に興味を持ってしまったきっかけも、ギターを高めるためではなく彼自身を求めるために紗夜が通っていたからだったのかも知れない。それは今となってはもう、誰にも分らない始点ではあるが。
「あ、リサちー」
「ん?」
「こーくんには内緒ね? おねーちゃんが気付いてる、なんて知ったら、弱いこーくんは……死んじゃうから」
「……りょーかい」
身震いするほどの笑顔に、リサはうなずいた。元より彼と連絡を取る手段はリサにはないのだが、バッタリ街で会った時、うっかりこの話をされてはいけない、と日菜は釘を刺したのだった。打算や、保身ではなく……霞ヶ丘昂輝を守るために。
──昂輝は、
「リサちーは、言わないの? 『二股なんてサイテーなやつ、止めときな』とかさ」
「ん、言わないよ?」
「どーして?」
「だって、それでヒナが幸せなら、紗夜が幸せなら、アタシが口を出すことじゃなくない?」
「……リサちーは、嘘が上手だね……固定観念なんていらない、って安心したいだけ、でしょ?」
「あはは、お褒めに預かり光栄だよ……ケド、言葉が多いよ、ヒナ?」
リサの目が細まり、これ以上蛇を出すのは止めておこうと日菜は「はぁーい」といつもと変わらない、いまいち覇気のない返事をする。
──恋は、時に人を修羅に変えることもある。紗夜も、日菜も、そしてリサもまたその一人であった。
「恋って、なんか……こう、るんっと来るものかなーって、身近な人を見て思ってたけど……違ったなぁ」
「じゃあ、どうなの?」
「るるるんって感じ? 思ったよりも苦しくて、それが……すっごく楽しい♪」
「ヒナ……ってさ、いや……やっぱなんでもない」
「えー、今の切り方は気になるよリサちー!」
恋を知った氷川日菜は、まるで深淵で……リサは分かる気がするとは思いながらも、糸が縺れあうようなことがなくてよかった、と心からそう思うのだった。
──CHAPTER:A-1「恋は、