今井リサとの話をした日の放課後、日菜はHRが終わった途端に、あっという間に荷物を纏めて、あっという間に友人に声を掛けつつ、帰路に着いていった。彼女の姉は今日、部活もバンドの練習もないことを知っていることもあり、自室に入られ話しかけにくくなるその前に、声を掛けなければ……その時の日菜は正に光の速さだった、とリサは後にこれを笑い話にするのだった。
「ただいま! ……あれ、いないや……」
──しかし、帰路までの道中にも、自宅にも、紗夜はいなかった。彼女と同じ花咲川女学園に通う日菜の知り合いに連絡をしていたものの、紗夜について「まっすぐ帰った」という情報以外は得られなかった。誰にも知られないところへ寄り道をしたのだろうけれど、いくら日菜でもいくつかの候補はあるものの、姉の行先が正確に把握できるはずもなく、日菜は情報を整理するためにいつも食事を摂る際に座っている席に腰を下ろした。
「ファストフード、スタジオ……うーん、しらみつぶしじゃすれ違っちゃうし……ん? あれ、今朝のおねーちゃんって、確か……」
紗夜が行きそうなところを頭に浮かべていく中で、日菜は今朝の紗夜におかしなところがあったことを思い出した。それが特に今まで気にも留めなかった理由は、それがおかしくない、普段通りの紗夜だったからこそ、日菜は何も感じなかった。
──風紀委員の仕事があるの、と日菜が朝食を摂っているところで出掛けていく紗夜。その背には、いつも通り
「間違いなく、あそこ……かな。
日常で、癖で必要もないのにギターを背負う程、紗夜は抜けた性格をしているわけではない。ならば彼女の行先は、たった一つに絞ることができる、即ち、霞ヶ丘昂輝の家であり、小さな練習スタジオのある楽器ショップ。紗夜は恋人である彼に会いに行っているのだと、日菜は確信した。
──それが、昂輝を巻き込みたくはなかった日菜は笑顔を貼り付けるしかない程に悲しく、そして急がなければならないことだった。
「ただいま……って、紗夜?」
「おかえりなさい、昂輝」
そんな日菜が再び光の速さで駆ける少し前に時は遡り……霞ヶ丘昂輝はギターを首に掛け、そしてスタジオの扉に手を掛ける氷川紗夜に驚きの表情をした。いつも彼女が来る時は事前に連絡を入れていたのに、という驚きと、そしてそんな紗夜の声には少し雑味のある……明度がまちまちな違和感のある色をしていたことへの驚きだった。色そのものは柔らかな、幸せの混じるクリーム色だっただけに、昂輝はいつもの紗夜とは決定的に何かが違うことを悟った。
「……どうしたの? 今までは一度も連絡ナシでは来なかったのに」
「そうね……迷惑だったかしら?」
「全然、紗夜に『おかえり』なんて言ってもらえたんだもん、むしろ幸せだよ」
「……私も」
はちみつ色を隠すことのない紗夜の同意は、何故か弱々しく、また昂輝の質問に嘘の回答ではない、回答になっていない回答をしていたことで、昂輝は益々、彼女がいつもとは違う、と感じていた。日菜から連絡を貰って、それまで気付かなかった自分を責めてしまうくらいに、劇的に。
──そんな昂輝に向かって、紗夜はギターを置き、彼に抱き着き……否、縋り付いた。スタジオであるがその両手はギターを持つわけでなく、彼の首に巻き付き、弦を震わせるのではなく、唇と舌で、吐息を震わせ、奏でていく。
「は……ん、こうき……もっと、ほしい……」
「紗夜……」
求められるまま、唇を重ねる中で昂輝は、彼女が今、ギターを弾くことを忘れてまで、昂輝への愛に、溺れて、求めているのだと……連絡もなく突如としてやってきた理由は、
「……俺は、紗夜に、大切なヒトに……守れない約束をしたんだね」
「──こう、き?」
「バカだね、俺は……それが紗夜を追い詰めて、こんな風にしたなら、俺の約束がなければ……
心が圧し潰されていく。記憶がフラッシュバックしていく。いつから変わってしまったのだろう。いつから、紗夜を苦しめる選択をしてしまったのだろう。昂輝が何よりも辛く苦しい気持ちで自分の心を傷つけていたのは、全てを知って尚、紗夜は違和感があれど、彼の顔を見て、血の色を、嘘を一切吐かず、幸せを滲ませていたこと。その奥底では何を考えていたのか、どんな色を隠していたのか……そう考えては、昂輝は紗夜の隣で呑気に笑い、紗夜との時間を過ごしている
「──だからって、
「ひ、日菜……どうしてここが」
「……日菜、来ちゃったんだね……」
最愛の人に縋り付く紗夜は、驚きに満ちた表情をする。最愛の人のために最善だと思う行動を起こそうとした昂輝が哀しそうな顔をする。血を吐くような彼の闇に溶ける悔恨を真っ向から否定してみせたのは、荒く早い呼吸を繰り返し、冬であるにも拘らず額の汗を拭う氷川日菜だった。その声は常に暗闇を思わせていた普段の彼女とは思えない程……こちらの方が姉ではないか、と疑う程に澄んだ──
最悪の人物の登場に、災厄とも言える人物の登場に、昂輝はそれでも、哀を浮かべていた。彼女もまた、自分が紗夜と守れもしない約束をしてしまったことで、ここに立っているのだと。
──しかし、それすらも日菜は否定していく。怒りで、愛で、自身と……なにより姉が愛したヒトを、生かすために。
「こーくんはウソつきだね。下手なウソをついて……おねーちゃんを悲しませるんだ。それもそーだよね? だって、
日菜は語る。霞ヶ丘昂輝という人物が歪んでしまっていることを。その原因を作り出し、間違えたのは、他でもない、昂輝と……そして紗夜であると。それは紛れもなく、三人の恋という甘い夢を打ち砕く、言葉である。
──CHAPTER:A-2「