日菜の放った言葉は、紗夜に狼狽と、昂輝に重い沈黙を与えた。紗夜がどうなろうと、彼は頓着しない。信じられない言葉で、紗夜はすぐさまそれを日菜の妄言だと否定しようとした。想い人との逢瀬に、邪魔者である自分を排除しようとする揺さぶりである、と。しかし、彼の沈黙は雄弁で……日菜の言葉に、肯定の意を示しているのだとわかった。
「昂輝……そう、そうなのね……」
「……だからって、紗夜のことを想ってないわけじゃないよ。それは本当だ」
「でも、こーくんにとってのおねーちゃんは、ギターを弾いてるおねーちゃんなんでしょ?」
──時折、霞ヶ丘昂輝は本音を、感情をどこかに置き去りにしたように何も感じない時があった。その正体こそが、日菜が語る彼の心であり、絞り出したような昂輝の言葉に籠められた心の……その二つの心の矛盾だった。
紗夜を誰よりも求め、愛している。独占したいと思う程に、深く、強く……しかし、そんな彼が光を感じる紗夜はいつも、ギターを手にしていた。向き合って、ギターを弾く紗夜に、言葉を掛け、その語彙力の乏しさに彼女が呆れ、最後は彼自身もギターを持ち、語り合う。日菜がやってくる前……更に、恋人になる以前は当たり前にあった時間が、彼にとっての特別な時間だった。
「それ、じゃあ……昂輝は……」
「うん……ずっと、紗夜に嘘を吐いてた。ギターを無くしても、好きだなんて、傍にいるだなんて……俺には出来そうにもないのに」
昂輝の言葉に、紗夜は涙を溢れさせた。無邪気に信じた彼の「永遠」は、無邪気なままの、子どもが見る虹色に輝く夢だった。好きだと伝えあった時に、独りではないと思っていたのに、結局彼女は、独りのままだった。
──けれど、それは昂輝も同じで……気付かないうちに、二人は離れて歩いていたと、ただそれだけだった。
「ねぇ、おねーちゃん? こーくんに最近、ギターを褒められてばっかりだと、思わない?」
「……え」
「前はもっと、言葉を選んでほしいとすら思うくらいに批判してたのに、今は手放しで褒めてくれることに、変だな、とか思わなかった?」
「た、確かに……いつも昂輝は、『良い』としか……」
「日菜……もう、いい」
日菜は首を横に振る。昂輝は嘘が嫌いだと言いながら、紗夜や日菜に対してずっと嘘を吐き続けていたことを、もう隠すことはさせないのだと、緩やかで優しい、むせ返るような夢を、終わらせるのだと、日菜の言葉は続いていく。
「こーくんは、確かに音楽の神様に恵まれてるけど……もう、ギタリストは辞めてるんだよ。おねーちゃんとあたしが手に入れたものが、原因で」
「……私と、日菜が?」
「おねーちゃんにとってのRoselia、あたしにとってのパスパレ……ギタリストとしての居場所を、こーくんは見つけられずに、ギターを辞めてる。だからもう、努力し続けてるおねーちゃんの方がずっと、こーくんよりもギタリストとして一流なんだ」
「だから……私にアドバイスをしなかった……できなかった」
繋がった、と日菜の顔を見た紗夜に、日菜はほんの少しだけ悲しそうな顔で、「うん」と肯定した。
──それこそが、二人を引き離した原因。ギタリストとして歩む紗夜と、
「……うん。俺は、紗夜にギターを棄てて欲しかった。独占したかったんだ」
「昂輝……っ」
「だって、前に言ったでしょ? 紗夜はいつか、俺を必要とせずにギターを弾く時が来るって……それは、紗夜といられなくなって……あの日常が、無くなるってことだから」
紗夜のギターが繋いだ、二人の縁は、ギタリストであることを止めた昂輝を徐々に歪ませていた。憧れと独占欲が混ぜこぜになり、矛盾した心が軋む程、霞ヶ丘昂輝という存在を、いつの間にか、薄れさせていた。
「あたしを受け入れたのだって、こーくんが、おねーちゃんにギターを手放してでも、自分を求めて欲しかった……んだよね?」
「そうだね……でも、結局、ギターを棄てた紗夜は、受け入れられなかった。俺が一番好きな紗夜は、ギターを手に、音楽を奏でる紗夜だったから」
もしも昂輝をギタリストとして受け入れてくれるバンドがあったのなら、彼は歪まなかったのかも知れない。けれど、受け入れられなかったからこそ、あの夏の日に、紗夜は彼と出逢った。彼がまだギタリストとして諦めきれないという心を持っていたから、二人は恋に落ちた。理不尽とも言うべき運命に、紗夜は駄々をこねる子どものように、首を横に振り、泣きじゃくる。選択ではなく……出逢いから間違えている、そんな現実から、彼女は必死に目を逸らして、泣いていた。
「ねぇ、紗夜……」
「嫌……そんなの……私は、わたしはっ、あなたを──」
──その言葉の続きは、空気を震わせ、日菜の耳朶を打つことはなかった。誰にも聴かれることのないように、自分の中で、その輝きと悲しみを永遠とするために、昂輝は彼女の唇を塞いで
「ごめん……俺はもう、紗夜のことを、愛せない」
「……っ」
「さよなら、紗夜」
スタジオから出て、彼は独りの世界へと還っていく。未練に後ろ髪をひかれないように、振り返ることなく。
こうして、霞ヶ丘昂輝と氷川紗夜の恋は終わりを告げた。僅かに残る、
「……優しいね、こーくんは」
きっと、以前の昂輝ならば、そんな優しい言葉をかけることすら出来なかっただろう。彼は嘘を憎んでいた。けれど、紗夜と、日菜と、閉じ籠った世界の外と関わっていく中で、人間は真実だけでは生きていけないことを知った。そんな彼の不器用で優しい嘘。夢から醒めるために、彼が用意した、鐘の音だった。
──寒々しい風が吹き抜け、紗夜が涙を拭い、日菜と手を繋ぎ歩き出す頃にはもう、街はすっかりと黒色に染まっていた。そんな暗闇を、街灯を頼りに歩く。前を向いて、上を向いて。悲しみは背中にのしかかるけれど、その重みに負けないように、彼女は歩き出した。寒々しい風はいつしか桜色を纏い、うだるような暑さの中の青色の涼風となり、木枯らしを巻く赤色となり、そして……また白色へと還ってくる。目許から涙の跡は消え、いつしか彼を求める声も枯れ、指は彼と繋がるためではなく、至高の音楽を奏でるために傷つけられていく。
「……昂輝」
──今のギターを聴いたら、彼はなんと褒めてくれるのだろうか。彼が語った虹色に、少しでも近づけているのだろうか。優しい別れから一年が経った今でも、紗夜は音楽に無邪気に幸せを感じていた彼との時間を、乗せていた。
……STORY END……?
「……紗夜」
ポツリと、名前を呼ぶ。その彼の目線の先には、TV番組で特集されていた、ガールズバンド・Roseliaのギタリストが映し出されていた。
──そんな独り言に、ピックを眺めていた男性が「ん?」と反応した。
「なにお前、紗夜さんと知り合いなのか?」
「……知り合い、知り合いかぁ……一時期
店番を任せられている彼は
──ギターは自分と、ボーカルを兼任しているもう一人の担当で、この男はベースだったと思うのだが……と彼は一歩カウンターから離れた。
「マジか! 役得だな、やっぱり美人だった?」
「それはもう」
「いいなぁ! またこねーかなぁ、俺も生紗夜さんに会ってみてー!」
「ふふ、それは無理……でもないか、この辺に住んでるし、案外、何処かですれ違ってるんじゃない? ほら、ファストフードとかファミレスとか」
そんな軽い言葉に男は目をしばたたかせ、それからフ、と鼻で笑った。まるで「お前は紗夜さんのことを何にもわかってねぇなぁ」という顔と
「……なにその顔」
「いやいや、あの麗しい紗夜さんがファストフードにファミレス? バカも休み休み言いやがれ……あんな厳格なギターを弾くあの人はきっと、『そんな身体に悪いものなんて口にしたこともないわ』とか言うにきまってんだろ!?」
「……うん、そっかー、ごめんごめん」
和やかな会話の中で男は、ほんの僅かに、彼の瞳が憂いを帯びたように感じた。寂寥、残滓、後悔、未練……そんな言葉が似合いそうな、彼を知らなければ気づかない程、少しの表情の変化。まるで別れた恋人の活躍を遠くから眺めているようだ、と思い浮かべて、またいつもの軽い口を叩く。
「んでもまぁ、ホントに一度くらい生の紗夜さんを拝んどきたかったぜ」
「あはは、いつかはあるんじゃない? こうして、同じ音楽の世界に生きてるんだからさ」
「そうだな、イイこと言うな、昂輝」
「心にもないこと……じゃないから、ホントに飽きないよ、
「褒めんなよ、照れるじゃねぇか」
「そんな調子に乗ってるとヒロに怒られるよ?」
仲間との時間、
「もしもし? うん、久しぶり……うん、あのさ、ごめん、ちょっとだけ、頼まれてくれる? え、お礼? どーせ禄でもないこと、頼むつもりでしょ?」
──CHAPTER:A-3「