氷川日菜は天才である。天才であるが故に、いつでも彼女は退屈と戦っていた。唯一の楽しみが姉を追いかけることだった。無自覚に、姉を踏みにじることだった。
学業も、運動も、芸術も、姉の真似をして、姉をあっさりと越え、そして姉がやめれば飽きてやめる。万能の天才はこうして、常に姉を殺して、愉しみを得ていた。無自覚に、無遠慮に。
「はぁ……んっ、ね、こーくん、もう……あたし」
「ひな……っ」
そんな日菜はまた別の方面で姉を追いかけた。
──恋をすること。いつの間にか彼女はギターのように彼女自身の道を歩み始めていたのだが、それでも、彼女が恋をしたのは姉の恋人だった。
ただの片想いで終わるなら、日菜の物語はそこで途切れていた。日菜が焦がれた男、霞ヶ丘昂輝はそんな日菜の想いを、物語を途切れさせることなく、生まれたままの彼女を抱いていた。
「どうして、あたしのことを受け入れてくれるの?」
不思議そうに、心から不思議そうに日菜は昂輝の腕枕の中で訊ねた。
確かに迫って、半ば無理やり彼に処女を捧げた。だがそれだったとしても、愛おしそうに名前を呼んでくれることが、日菜には不思議で仕方がなかった。
「なんで? 嫌だった?」
「ううん……嬉しい、けど……」
けれど自分はあくまで昂輝の浮気相手であり、彼にとっての恋人は姉である氷川紗夜ただ一人。それは日菜にもわかり始めていた。
迷いの色を見せた日菜を、昂輝は抱き寄せ、その髪に指を通した。こーくん、と声が甘く、熱を帯びていく日菜に昂輝はそれだよ、と息を吐いた。
「日菜の色は……暗いんだ」
「暗い……?」
「うん、今もピンク色とはちみつ色が暗いなかに、ちょっとだけ光る感じなんだ」
その言葉に日菜はそっか、と呟く。日菜には見えない……誰も見ることができない世界を言葉にしていく。
暗いってなんかやだなと口を尖らせた日菜だったが、昂輝は苦笑いをしながらそれがいいんだよと彼女の唇にそっと星を降らせた。
「その色がまるで星みたいで、それがあまりに寂しそうで、独りぼっちで……それは」
それは俺もだったから、と昂輝は日菜の体温を感じながら小さな声で呟いた。音に色が見える
──彼は、日菜と同じだった。同じ傷をなめ合うように、二人の吐息が、舌が、交じり合っていく。
「……ね、日菜」
「ん……なぁに?」
「もう一回……いい?」
「……うん、あたしも……シたい」
まるで恋人のように、昂輝と日菜は求め合っていく。自分の半身を見つけたような安堵感と、背徳感に身を任せて。
「あは、こーくん! こっちこっち!」
「ま、待ってよ……日菜!」
そんな二人は現在、普段生活している場所とは離れた温泉街へとやってきていた。
発案したのは日菜だった。アイドル活動がオフの日に一泊二日の旅行に行きたいと言い出した。丁度、紗夜は合宿中だったために起こり得た奇跡のような、日菜にとっては天の導きとでも言いたいほどの偶然が重なった結果だった。
「まるっきり不倫旅行じゃん……」
「なんか言ったー?」
「なんでもない」
秋も終わりに近づいたこのごろ、昂輝の腕を取り、日菜は昂輝以外には明るいと感じられる笑顔でスマホのナビを活用して道案内をしていた。
そんな天使のような笑顔も、真っ暗闇に突き落とされた昂輝にはまるで地獄への水先案内人のように感じられてしまうのだが。
「ふたりきり! デートだけじゃなくて旅行! もう夢みたい!」
「なにそのテンション」
「だって今なら死んでもいいくらいだもん!」
さらりと嘘のない、血の色もない血の池のような感情に沈められて、昂輝は早くも窒息寸前になる。
好意という重りを手足に嵌められ、昂輝は彼女の愛情という底のない沼に沈んでいく。
「日菜はホント……こう俺からじゃないと怖いよね」
「そう?」
「うん、こんな感情のヒト、初めて見た」
日菜の狂気を回避する唯一の方法が昂輝から愛を伝えることだった。愛を発する時はまるで鋭利な刃物で突き刺すように、愛を受け取るときにはまるで星空のように優しく、そんなギャップと色が昂輝の心を掴み、こうして手を繋いで歩くことにも抵抗を感じなくしていた。
「わー、広い部屋だねぇ」
「よくこんな部屋予約できたね?」
中居にごゆっくりどうぞと通され、日菜が目を輝かせた。
決してチープではなさそうな旅館の一室に通された昂輝は、その豪奢な和室に驚きの声を漏らした。
「値段は見てないなー、なんかるんってくるところを選んだんだー」
「……そう」
大雑把で実に日菜らしい感性に身を任せた選び方に、昂輝は苦笑しながら荷物を脇に置いた。
二人分の宿泊道具などが入っているキャリーバッグを手放し、ギターを背中から下ろしたことで両手が自由になった昂輝は、窓から海を眺めている日菜を抱き寄せた。
「……んー?」
「息がつまりそうだから」
「えー、ダメだよ死んじゃ」
「じゃあ死にたくなるくらい愛するのをやめて」
「うーん、むり」
あっさりと、昂輝を崖に突き落とすような言葉を放った日菜は、けど~、と悪戯な笑みを見せた。
ニィと口許に赤い三日月を浮かべたその顔は以前にも見たことがあるなと昂輝は背中に走る寒気とともに海を見た。
「ちゅーしてくれたら……考えてあげよっかな~」
「悪魔みたいなこと言うね……日菜は」
「あは、悪魔、いいね♪」
そのまま、二人は爛れた関係そのままに、日菜と昂輝は誰も留めることがないという状況で抑えが効くはずもなく。昂輝はようやく地獄の沼から這い上がり、天国へと上り詰めた。
汗をかく二人は息を上げたままどちらからというわけでもなく、呟いた。
「温泉入ろ」
「うん」
──これは、氷川紗夜に優しい音色を届けた世界を否定するものでもある。
太陽の光のような輝きを得た努力の天才が、天才を理解し天才と呼ばれるようになった陰で、闇夜のように静かに彼女たちを見守った天才、氷川日菜。
そんな闇夜を駆け抜けた氷川日菜に優しい音色を届ける世界である。
「ここってさ……混浴貸し切りもあるんだって」
「……はいはい、入りますよ」
「あは、ありがとっ、そーゆーとこ、だいすき!」
嘘を塗り固めて本物になった恋物語に幸せな色を添える。多くの傷と涙を払った、その先の物語である。
それは、霞ヶ丘昂輝の唯一の理解者となる氷川日菜が、彼の傷を癒すための、まるで湯治のような始まりだった。
──CHAPTER:B-1「