霞ヶ丘昂輝は、氷川日菜に安息を見出した。紗夜の愛情という光を浴びて自分が無理に光にならなくても、日菜の星のような淡い闇の中に輝く光であればいいと学んだ。
──そして、それがどういう選択を示すのかということをわからないほど、昂輝も日菜も、そして紗夜も、子どもではなかった。
子どもではいられなかった。
「ただいま……って、紗夜?」
「おかえりなさい、昂輝」
季節はすっかり冬の装いをしていた。クリスマスを前にして色めき立つ街の中にある楽器店の中で、昂輝はまるで信じられないものを見るような顔をした。
ギターを背負っているアイスグリーンの髪、花咲川の制服を身にまとったスラリとした立ち姿は、まぎれもなく恋人の氷川紗夜のものだったからだ。
彼女は明度も色もまちまちな声を出した。混ざり合って、色が濁るくらいの複雑で雑味のある感情を前に、昂輝はゆっくりと紗夜、と彼女の名を呼んだ。
「どうしたの? 連絡なしなんて珍しいね?」
「……迷惑、だったかしら」
「そんなこと言ってないよ。紗夜のおかえりって言葉、俺は好きだから」
「そうね……私も、昂輝にただいまって言うの、幸せだわ」
日菜から連絡を受けて、その変化を知っていても昂輝は紗夜の色の危うさに驚きを隠せなかった。
はちみつ色、クリーム色から始まり、ほんのわずかな悲しみの藍色と、怒りの赤色がのぞいていた。凝視しないと気付かないくらいに僅かな違いだった。
「せっかくだからさ、ギター弾いてよ、紗夜」
「……え?」
だからこそ、昂輝はギターを手にした。一度は捨てたものを、昂輝を闇に包んだものを、拾い上げた。自分に縋ることを許さないように、紗夜を練習スタジオへと引き入れ、そしてギターを紗夜に手渡した。
──自分はまだ、このギターを弾くだけの覚悟がないから。紗夜の音を聞きたかった。
「そう……そうなのね」
「うん……俺は、紗夜の音楽が聴きたい」
同時にそれは紗夜との決別を意味するものであった。紗夜はギターを握るより昂輝と手を繋ぎたい。昂輝の首に腕を回し、愛を貪りたい。そんな感情が視えているにも関わらず、昂輝はそれを拒絶した。曖昧に、それでいてハッキリとした意思を持って。
「……ごめんなさい、私は……結局昂輝を理解することは、できないのね」
「そうみたいだね、俺の方こそ、ごめん」
音楽で繋いでいた関係は、音楽でしか繋ぎとめることはできない。霞ヶ丘昂輝は既にギタリストとして折れていた。故に、いつも上を目指し輝き続ける紗夜の傍にいることが苦痛になってきてしまっていた。だから、日菜という安息に逃げた。太陽の光を嫌った。
──全てが昂輝の自業自得だった。
「でも、俺は好きだった。紗夜のこと……それだけは血の色なんかにしない。ホントの色だ」
「ええ……私も、嫌いになんかならないわ」
血の色はない。いつもキラキラと明るい色を放つ紗夜に、昂輝は涙がこぼれそうになった。罪悪感で胸がいっぱいだった。それでも昂輝は紗夜のことをこれ以上愛することができなかった。
──これ以上愛するということは紗夜を血の色で染めるということに他ならないということが彼には耐えがたい苦痛でもあった。
「俺から……言うよ」
「……はい」
「……自分勝手で悪いけど、別れてください。これ以上大好きなヒトを、傷つけたくない」
「嫌」
「紗夜……」
「嫌よ、嫌に決まっているじゃない。私はいつまでも待つわ! いつまでも待って、また昂輝がギターを弾けるようになるまで、ずっと……!」
その言葉は真実だった。一片の嘘もない美しいまでの恋の詩に、昂輝はついに涙をあふれさせた。ぐしゃぐしゃに顔を歪めた昂輝は、首を何度も横に振る。それじゃあダメだと、紗夜を幸せにはできないと彼は子どものように泣きじゃくった。
「紗夜……幸せになって、俺の大好きな紗夜」
「嫌よ……私を置いて行かないで、私はまだ、昂輝のことを知れてないの」
幸せになってほしい。でも自分では幸せにできない。そんな矛盾と痛みを抱えた昂輝は、逃げるように店から飛び出した。待ってと追いすがろうとした紗夜は、置かれた自分のギターを前にして……立ち止まってしまった。その時点で既に答えが出ているようなものだと紗夜は自分の抱える矛盾にひたすらに泣きじゃくった。何度も愛おしい彼の名前を呼びながら、それでも追うことができなかった悲しみに、ギターを選んだ自分の後悔に、涙を流した。
「……おねーちゃん」
それを日菜は発見し、抱きしめた。抱きしめ、一緒に涙を零した。
引くつもりはなかった。昂輝を理解し、寄り添える。そして自分を理解してくれる人物でもある昂輝を紗夜に渡すつもりはなかった。だが、姉のことは彼女にとっても幸せになってほしいと思っていた。そんな姉が傷ついた姿に、日菜もまた涙を抑えきれなかった。
「日菜……日菜、おねがい……昂輝を、追いかけて」
「……え?」
だが、寄り添ってくれる日菜に対して紗夜は自分よりも昂輝の方を追いかけてと言った。彼女は知っていた。霞ヶ丘昂輝は優しすぎることを、昂輝は誰よりも紗夜を傷つけた自分が許せなくなることも、知っていた。
「……昂輝には私じゃダメだった……日菜、日菜じゃないと」
「あたしが……うん、わかった。おねーちゃんはここにいて!」
日菜は走り去って再び紗夜だけが取り残された。
紗夜はギターを膝に置き、涙に目を腫らしたまま苛烈に、激しく、ギターを弾き始めた。始まりのメロディー。彼と出会ったあの日の思い出を。
『ほら、これがこの曲の、そしてこのギター色……ああいや、本当の魅力だよ。このくらい楽しく弾かなきゃね』
──楽しく弾けるようになった。彼に出逢えて、彼の虹色の音を聞いて、鬱屈していたギターが前に進むようになった。あの日、彼に出逢わなければ音を楽しんで音楽ということすらも忘れていたかもしれない。
『確かにギターは才能が必要だよ。俺にはその耳に恵まれた。けどさ……だからなんなの? 未来を奪った? 勝手なことを言うね! 逃げる理由に他人を使って、楽しめないだって!? 力の差がどうこうだの、くっだらない理由で辞める理由を他人に押し付けて、仕方ない!? なら今すぐ
冷たく苛烈な彼の感情にも触れた。その後も喧嘩をたくさんした。喧嘩をするたびに彼のことをわかっていけた。
それも、彼が激情を見せてくれたからだった。
いつまでも、紗夜の瞳の裏では昂輝の笑顔が星のように瞬いていた。いつまでも紗夜にとっての導きの北極星のようだった。
「……さようなら、私の愛したヒト。さようなら、昂輝……」
別れの言葉は、自然と口に出ていた。これからは妹の想い人として、彼を応援していよう。そう考えた。そう考えて、また涙がこぼれた。
それでも日菜ならきっと、昂輝を幸せにしてくる。そう思うとまた、彼女の瞳からは星が零れ落ちていった。
──CHAPTER:B-3「零れる