氷川日菜が合格を辞退し、そしてパスパレを急遽引退することが決まった。
惜しむ声があげられるなか、昂輝のスマホに一通の電話が鳴った。相手である氷川紗夜は、霞ヶ丘昂輝に向けて、涙ながらに告げたのだった。
「……日菜が、旅に出ますって」
「旅って……」
「色んな世界の星を見る旅に出ます……こころちゃんも一緒だから気にしなくていいよ、とそれだけ」
「そんなめちゃくちゃな」
そんなめちゃくちゃをする子よ、と紗夜に告げられ、昂輝は脱力するしかなかった。本当に、氷川日菜は、彼が愛した二人目の女性は、こうして昂輝には何も告げることがないまま、自分の幸せを持ち逃げしたまま、姿を消した。それから日菜に会うことはたった一度もなく。
「昂輝……私は」
「紗夜」
「……なに?」
「わがままでいいよ、紗夜は。俺は、それを利用するから」
大切なものを失った二人は、罪悪感がありながらも、足らないものを埋めるように恋人同士になった。
日菜が間を取り持ってくれたのなら再び、そして今度こそすれ違うことなく、悲しむことなく、そんな想いを届けるために紗夜と昂輝は真に愛し合うことを決めた。
「ずっと、欲しいと思っていたの……やっと、ギタリストのあなたから愛してもらえるのね」
「うん……やっと、ここまで来たよ、紗夜」
──そうして、日菜から託された指輪を紗夜は身につけ、二人は二人の世界を唯一理解できるもの同士として、優しい音色を届けるために、幸せの虹色を奏でていくのだった。
繋ぐことのなかった二人の幸せを繋ぐ架け橋のように、静かに。
「ん~、風が気持ち~!」
「本当ね、いい気持ちだわ!」
氷川日菜は、船に揺られていた。豪華客船に乗ってクルージングを楽しんでいるところに、金色の風を靡かせているこころが隣にやってくる。
既に日菜が紗夜と昂輝の前から消えてから数ヶ月が経過していた。リサや千聖と連絡を取り合ってはいた。そこで二人の状況などを知っていた。今日もリサからの連絡で二人がケンカをしていたというメッセージを見た日菜は、顔を綻ばせた。
「……そっか、イチャイチャしてるんだねぇ」
「大丈夫?」
「うん、嬉しい」
日菜の本心だった。それが嘘ではないことは、こころにもわかった。だからこそこうして日菜の当てのない旅に付き合っている。逃げているのではなく向き合っているから、こころは友人の傍に寄り添っているのだった。
「それにしてもこころちゃんこそ彰吾くん置いてって平気だった?」
「平気よ! ちゃんと日菜を満足させるまで帰ってこなくていいよ、って言われたくらいだわ」
「ぷっ、あはは、前だったらゼッタイ文句言ってたのに、面白い!」
フィアンセの言葉に嬉しそうに破顔したこころの横顔を眺めながら、日菜は伸びをした。潮風を受けて、これからのことに想いを馳せる。
次はどんな旅をしたいのか、そんなことを考えているところで、日菜はスマホにかかってきた電話に即座に答えた。
「もっしもーしカズくん!」
『なんだ、めちゃくちゃ元気そうじゃねぇか』
「そりゃもう! 今ねー、クルージング中だよ~」
『同乗してるパツキンお嬢様から聞いた』
「そっか、それで~?」
わざわざ元顧問の清瀬一成が日菜に電話をしてきたことの意図を図るように声を出すと、一成は溜息交じりに、一応天文部として言っておこうと思ってな、と今年は一人新入生が入ったことを伝えた。
『澤田はぜんっぜん心開いちゃくれねぇけどな』
「あはは、カズくんだし」
『なんだそれ』
──そこで、日菜はもう何ヶ月も日本から離れていることに今更ながら思い至った。
向こうはもう夏なこと。新しい日々を皆が過ごしていること。そして、何より紗夜と昂輝の二人が安定した日々を過ごしていること。それが、日菜の瞳に一滴の涙となって落ちた。
「……日菜?」
「変なの……あは、あはは……あたし」
日菜の願いは、約束の銀色が叶えようとした願いは、とある未来の姿だった。指輪を嵌めた瞬間、日菜はその未来を見た。自分がこのまま思う通りに過ごせば起こる未来を、日菜は見てしまった。
「それは、どんな未来だったの?」
「あたしがね、ギターを弾いて歌うんだ」
「ギター?」
「うん、パパもママもまだ帰ってこないから~って、赤ちゃんにね、パスパレの曲を聴かせてあげる未来、おねーちゃんと、こーくんの子どもに」
「……それが?」
「だからあたしは安心したんだ。ちゃんと二人は幸せになるんだって、子どもができるくらい、幸せでラブラブな日々が待ってるんだって」
もしかしたら自分の行動が良かれと思っていても、昂輝と紗夜には迷惑かもしれない。本当は二人はまた崩壊してしまうのかもしれない。そんな漠然とした不安があった日菜の迷いを消したのはその未来視だった。
それは同時に、日菜の心からの願いでもあった。自分はもう、昂輝に選ばれ愛されたことで十分に満たされていた。だから、自分がいたことで別れてしまった二人が幸せでいてほしいという願い。指輪はそのための迷いを見事に打ち消してみせたのだった。
「その不思議な指輪は?」
「今はおねーちゃんが嵌めてるみたい。そしたらおねーちゃんまで
共感覚が遺伝、または伝染するとは今は考えられていない。そもそも病原菌や外的要因ではなく脳機能の変化によって生じるものであるため、当然のことなのだが、紗夜の願いだった、真の意味で霞ヶ丘昂輝の見ている世界を理解したいという想いを、指輪は叶えてみせたのだった。
「そうしたら……日菜はここにいる場合じゃないわ」
「でも、帰ったらおねーちゃんとこーくんに迷惑が」
「大丈夫よ! ほら、そうと決まったらすぐに帰るわよ!」
「え、ちょっとこころちゃん!」
こころは満面の笑みで日菜を引っ張り、彰吾に電話をしてヘリを用意させ、日菜を押し込み、乗り込んだ。
誰かが欠けてはいけないとこころはそう考えていた。氷川紗夜に優しい音色を届けるだけでは、その子どもに、そしてそんな幸せな二人が日菜に優しい音色を届けるために、日菜はここにいてはいけないとこころは直感していた。
「え?」
「どうしたの昂輝?」
「日菜が……」
「日菜?」
「日菜が帰ってくるって」
こころから連絡を受けた昂輝は驚き喜ぶ紗夜を抱きしめた。言いたかったこと、言えなかったこと、言いたいこと、募る言葉は沢山あった。
けれどもやはり最初に言うべき言葉は昂輝も紗夜も同じものに決まっていた。最初から、氷川日菜も家族なのだから。
「あ、おねーちゃん……こーくん」
「日菜、おかえり」
「おかえり」
「……うんっ! ただいま!」
何が正解か、何が正しい行動なのか、そんなものは誰にもわからないと日菜は羽丘の屋上で教わった。未来の色は黒で覆われているのだから。けれど、それはつまり
塗りつぶされた黒ではなく、様々な色が混ざり合った故の黒ではないのかと。そこに少しの光を加えることができれば、未来は虹色に輝くのではないのかと。指輪はそのことを日菜に教えてくれていたのだった。
「二人とも、大好き!」
だから日菜は今が幸せだと感じていた。指輪が見せた未来は、日菜が抱いた決意は、こうして氷川日菜を幸せにしていた。
紗夜と昂輝と、一緒に。
──CHAPTER:B-10「
「あー! 日菜ちゃんおかえりー!」
「お、おかえりなさい……」
「たっだいまー! あはは、
「えー、あたしもおっきくなった!」
「うんうん、
「わー! えへへ、ねーねー、またお歌聞かせて!」
「いーよ! それじゃあ今日はパパとママが出会った時の曲ね」
「それって──」
──氷川紗夜に優しい音色を届けるまで、ルートB……END
これは、氷川日菜に優しい音色を届けるための、物語。
絡まった糸は断ち切るだけではなく、解くこともできる。それには時間がかかったとしても、彼女たちは成し遂げることができるのだから。