霞ヶ丘昂輝が日菜を帰らせるために紗夜を呼び出してから三人の関係が、特に紗夜と昂輝の関係は劇的に変わっていった。
その変わったという言葉を紗夜が聞いたなら首を横に振るのだろうが。彼と彼女の関係は変わったというよりも相応しい言葉があった。
「んー」
「……なにかダメだったかしら」
「えーっとここの緑色が薄いなぁって」
「緑……は?」
「あーえっと……なんだっけ?」
「なんだっけじゃないわよ。わからないから色じゃなくて色に対応するものを言えって去年からずっと言ってるわよ?」
「そんな言わなくても紗夜ならわかるでしょ?」
「ええ私なら。けれどそれをバンドメンバーに言ってもわからないでしょう? そういうところを直しなさいって言ってるのよ」
──戻った、という言葉が適切だった。スタジオに籠って自主練習の度に衝突している光景はずっと見守ってきた店長からすると正に彼と彼女が恋人になる以前のものだった。花火の日から、二人は劇的に戻っていた。
「ここの緑はね、えっと……こう!」
「なるほど、少し力が入り過ぎているから自然に近づける……ようなイメージかしら?」
「多分」
それに伴って、昂輝の表情も昔の明るいものに戻っていった。
元恋人同士の二人きりの時間だというのに、そこにぎこちなさや未練や残響はなく、二人は遠回りをした二人としての完成形を保っていた。
「ふぅ……それじゃあ」
「送っていこうか?」
「いいわよ。日菜に悪いから」
紗夜は手を振り、ギターを背負って後にしていく。すっかり日が暮れている中を一人歩かせるのは心配だったものの、彼は日菜に悪い、という言葉に頷いて見送った。
言えなかったこと、本当はこうありたかったという願いが叶っている現状に、昂輝は満たされるような思いを感じていた。
「店長」
「ん?」
「俺は……最低かな」
「そうだねぇ。最低、なんだろうね」
だよね、と昂輝は曖昧にはにかんだ。日菜を選んで紗夜と別れた。その方が幸せだと思ったからそうした。その想いをまるで否定するような感情は、最低と名付ける他なかったが故に、昂輝にそんなことないと言いたい気持ちを抑えて本当の言葉をぶつけた。
「けれど日菜ちゃんも昂輝くんの未練を知って、いつもこうやってレッスンをしてることを知っているんだろう?」
「うん。日菜は仲直りできたねって笑ってくれる」
「それならなおさら、日菜ちゃんに恋人の実感を与えてあげないと」
実感、という言葉に彼は何も握っていない手を握り締めた。
──日菜は、昂輝の恋人としてわがままなくらいに愛を求めてきた彼女は、ある日から突然変わりだした。GWのデートから、二人で見つけたあの指輪をすごく大切にし出してから。それは、天体観測の時に黄昏を纏う教師から受けた言葉で、確信に変わっていた。
「日菜は……何を見てるんでしょう」
「なんだろうな。オレにはわかんねぇくれぇに来るかどうかもわからんもの……ってところだな」
「あ、曖昧な言い方ですね」
だが、その来るかどうかわからないものを見て、日菜が変わっていることを昂輝は知ることができた。
しかもそれは、まるで自分がいずれ消えてしまうのではないかというくらいに、まるで自分以外と幸せになるのかというくらいに、日菜は彼の背中を押していた。
「日菜」
「ん~?」
「どこにも行かないで。俺は日菜のこと、本気で愛してるんだから」
「……こーくん」
不安を吐露し、絆されてくれればいいと熱を与えていく。この瞬間は、この瞬間だけは常に、日菜は昂輝という一人の男に溺れるのだから。汗を滴らせ、昂輝の名前を呼び繋がりを愛おしいと思い続けていてくれるのだから。
「……あたしの願いは、こーくんが幸せになることだよ」
「俺は日菜と一緒で幸せだ」
「うん。だから、あたしはここにいる。こーくんが好きだから」
にっと笑う日菜は、少し前の遠くを見ていた日菜ではなかった。夏の終わり際に紗夜とまた再会した頃から、日菜はまた元通りの日菜に戻っていった。
──それはあたかも、あの感情がドロドロと煮詰まっていたあの日々こそが昂輝の日常だったように。紗夜と付き合いながらも日菜と関係を持ち続けていたあの日々を、なぞっているようだった。
「こーくん!」
「わ、日菜」
「こら日菜」
「紗夜も日菜も、いらっしゃい」
姉妹二人で店にやってくることも多くなった。三人でギターを持ち寄って思いを音に乗せていった。それは、まぎれもなく以前にはない時間だった。
日菜が昂輝にじゃれつき、それを紗夜がため息交じりに見守る。そんな時間が待っていた。
「日菜は相変わらず無重力だよね」
「でしょー!」
「褒めているの?」
「ううん」
「え?」
時には店員代わりのように紗夜と昂輝が二人で言葉を交わしながらガールズバンドをやっているという少女の話を聴く、ということもした。その中でも二人が口を揃えて印象に残ったのは、昂輝が彼女の色は薄くて消えてしまいそう、と語った少女だった。
「自分に自信がない、かぁ」
「努力あるのみです」
「うわ……紗夜らしいけど」
自分が特別になりたい、でも特別にはなれない普通だという言葉に紗夜は厳しいようでありながら優しい声でそう言った。
それと同時にあなたにしかないものを探してみたらいいと紗夜は更に言葉を重ねた。
「見つからない?」
それでも探したけどまだ見つかってない、と少女はかぶりを振った。バンドメンバーはみんなが特別で自分だけ何もない。それが悔しくて、なんとか自分を変えたくてやってきたけど迷子になってしまっていることを少女はぽつりぽつりと二人に話した。
──真昼の星、そんな世界を目指している彼女の悩みに反応したのは昂輝だった。
「真昼の星……なるほど」
変ですかね、とおどおどと伺うように顔を上げた彼女の青色の瞳の中に何か別の色を視た昂輝が、興味深そうに見つめ返す。
やがて見つめ合っていることに気付き、純白の色を持つ少女が目を逸らした頃、彼はふっと笑みを浮かべるのだった。
「キミは……俺と同じなんだね」
「え……?」
「他人には見えないものが見える。音が、カタチを持って見えるんだから」
「それは、彼女が昂輝と同じような
紗夜の驚きに昂輝は頷いた。一方の少女は
しばらく、紗夜がスマホを使いながら共感覚の簡単な説明をしているのを昂輝はギターを触りながら聴いていた。
「……私もそんなものを」
「ええ、昂輝は声まで色にできるようだけど、あなたは音楽や曖昧なものを景色に変換できるようね」
「た、確かに……時折そういうことに集中しちゃったりするんですけど」
その少女はちょっとしたこと集中してしまうというものと音楽や物を景色として視ることのできるというものの二つを持っている、と昂輝は見抜いていた。
──弱点だとすら思っていた自分の特徴に対する思わぬ評価にとまどう少女に二人は声を掛けた。
「集中しちゃうってやつは日常の中じゃ時々煩わしいかもしれないけどね」
「そ、そうですね……話を聴けてなかったりとかあるので」
「でもそれだって音楽で活かせれば十分武器だよ、ね紗夜?」
「確かに、集中した状態であればあるほど、音楽はより完成度を増しますから」
そんな二人の言葉に何かすっきりしたように少女は頭を下げて帰っていく。その足取りと最後にありがとうございましたという声はもう、消えそうな白色ではなく、まるで蝶の翼のように美しいライトブルーだったと昂輝は見送りながらコメントした。
「随分あの子を気にかけるわね」
「ふふ、まさか自分と同じような景色を見てるなんて思わなかったから……つい」
「……羨ましいわ」
「ん?」
「私はずっと、いっそ自分が昂輝と全く同じ
意外な言葉に、昂輝はそうだったんだと紗夜の手を握った。日菜のためを思えば手を振り払うべきだと思いながらも、自分が真に願っていたものを吐露してしまった以上、もうその手を払うどころか、握り返してしまうほどに、自分の気持ちをしまってはおけなくなっていた。
「……昂輝の景色が視れるのなら、昂輝の痛みもわかってあげられたのにとずっと後悔していたわ」
「紗夜……ううん、俺は大丈夫」
「本当に? 私は、今でも……っ」
今でも昂輝の傍でその痛みを共有したい。視えてしまうものを隠さず伝えて、それで本当にまた繋がりたい。そんな想いが紗夜からあふれ出した。
涙になってしまった想いを昂輝は彼女を抱きしめて受け止める。そんな二人の未来がまた一つ確定したことを、日菜は知っていた。二人の間にいるもう一人の小さな存在が明確になっていくのを知った日菜は、笑みを浮かべたのだった。
──CHAPTER:C‐7 END